第10話

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<あーあー、どちらのミコにも伝えるけど、この先は行き止まりだ。県道は真っ二つに分断され、向こう側にはジャンプしても届かないくらいの距離がある>

「はぁ!? なんでそんな重要なこともっと早く言わないのよ」

<だって、言おうとしたら君が止めたじゃないか>

「カミ様が言い訳するなっての!」

 物怖じしない彼女を見てすごいと思う反面、下手に逆らわないようにしようと胸に誓う。

 少年は少女を守るように矢面に立つ。しかし相手の男は少年など目もくれず、少女だけを見据える。


「ふむ……一人で騒ぎ立てて一種の錯乱状態に陥ったのでしょうか。まァ仕方ありません。その程度なら正常な範疇でしょう。研究に支障はなし」

 どうあっても男は冷静で、冷酷であった。冷笑を浮かべゆっくりと歩みを進める。

 にじり寄る男から逃れるように一歩、また一歩後退するも、カミ様に呼びかけられて振り返るともう足場は残されていない。崖下は黒い海が待ち受け、波が岩肌にぶつかっては荒々しく音を立てる。少女にとっては見慣れた日本海だが、今はひどく恐ろしい存在に見えた。

「そう怯えてはいけませんよ。勘違いしてはいけない。我々はあなた方を救いに来たのですよ。何故か平均寿命の低いとされるジーンリッチの生体を解明し、あなたがより長く生きられるように手助けする。これは未来のための偉大な研究です。あなたは礎としてその功績が後世まで讃えられるでしょう」

 男の声は闇に蠢く虫のざわめきのように空間を侵食していく。この闇に飲まれてはいけないとわかっていても、体が強張ってうまく足が動かない。どこへ逃げればいいか、一つもわからない。既に捕獲されたも同然だ。


「……つまりそれって、どこかの研究所で閉じ込められて自由もなく、死ぬまでそこに縛り付けられるってことでしょ?」

 少女の問いに男は「んんー」とくぐもった息を漏らす。蜘蛛の糸のように相手を捕食する準備だ。

「もちろん身の安全は保証いたしますよ。大切な検体に危害を加えることもない。生きていただくことが我々の望みですから」

 答えをはぐらかすように男は笑う。

「それが私の役割ってこと」

「まァ、そう言えますねぇ」

「だったら」

 少女は糸を払いのけるように大きく息を吐く。

 次に取る行動は決まっている。

 ことだ。


「残念だけど、その役割はお断り。私には遠い空の向こうに行かなくちゃいけない役目があるの。だからこんなところで捕まっちゃうくらいなら、死んだほうがマシ」

 そう言って振り返り、対岸を見つめる。何も見えないけれど、それはつまり相手にとっても同じこと。

「何を、自殺志願者のようなことを」

 男が呟く。動揺したその隙を見逃さなかった。

「飛び降りるよ! ミコ、私に掴まって!」

「なっ!?」

 その言葉に身じろぎしたのは少年も同じ。その場に居た誰もが耳を疑った。

 しかし少年にそれを止める権利はない。むしろ彼女が選んだ選択肢だ。尊重こそすれ、反対する理由はない。

「……っ、約束は守ってもらうぞ! 僕も、ミコなんて名前じゃない!」

 差し出された右手をしっかりと掴む。

 少女は笑っていた。その微笑みは決意の現れ。ここで死んでやるものか、そう言っていた。ああ、大丈夫だと根拠もなく少年は確信した。

「もっちろん。ていうかもう決めてあるし。あなたの名前は、そう――」

 少女の声はそこで途切れ、二人は谷底まで真っ逆さま。彼女の左手に握られた瓶詰帆船だけが逃避行の始終を見ていた。


「――――なっ」

 躊躇なく二人は飛び降りる。空を裂く風の音が静かにこだまして、波音か衝突音かわからない鈍い音が響き、暗闇を静寂が包む。

「くそっ、何も見えん。あの二人は落ちたのか。海の上か地面にぶつかったかもわからん。どうする、下に降りるか」

 大男が駆け寄り二人の痕跡を見る。そのまま吸い込まれそうな闇に慄くように身体をそむける。

「……いえ、流石に危険でしょう。死体の確認なら朝を待ってから別部隊と合流して行うべきです。いつの時代も若者というのは命を粗末に扱いますねぇ」

 先ほどまでの執着が嘘のように男は落ち着き払っていた。捕まえようと思っていた虫に逃げられ、仕方がないので別の虫を追いかけようとする子どものよう。仮に生きていたとしても研究対象としては価値がない。ならば関心が向かないというのも致し方ないのだろう。



 それからどれくらいの時間が経ったのだろう。

 夜が明ける――ことはなく、ただ明るい夜がくる。人はそれを朝と呼び、昼と名付けた。

 時折波しぶきが襲いかかってくる岸壁の隙間に二人は倒れ込んでいた。眠る少女に寄り添うように、少年はただじっと彼女の目覚めを待つ。


「……ん、……ここは」

「おはよう」

「あれ、おじーちゃん、じゃない。ミコ……私、たか……何とかに着いちゃった?」

「残念だけど高天原たかまがはらじゃない。質問したいのはこっちの方だよ、ミコ」

 少年が少女を膝枕するような格好で、見上げる彼女と視線が合う。

「ああ、そうそう。あなたの名前はソラ。私が目指すべき場所。これなら何があっても忘れないでしょ。名前をつけるのって偉い人になったみたいで面白いのね。まるで神様みたい」

 にいっと白い歯をのぞかせて笑った。ソラを指さして。

「ソラ……」

「うん。どう? 気に入ってくれると嬉しいんだけど」

 少年は深く目を瞑り、自分の名前を刻み込む。

「……ああ。気に入った。ソラか。うん、いい名前だ」

 少年――ソラが見上げる先には何もない真っ白な世界が広がっている。相変わらずの景色も、この時ばかりは特別な景色に変わる。


「って、そうじゃなくて。僕が聞きたかったのはそっちじゃなくて! いや名前も気になってたからもう少し余韻に浸っていたんだけど、聞きたいのは君がやってみせた特殊能力だよ。何が起きたんだ、あんなの人間業じゃない!」

「うう~、寝起きにはつらい大声だよぉ」

 少女は両手で耳をふさぐ。ソラは昨夜の出来事を思い返していた。



 二人が勢いよく道路から飛び降りると深淵へ向かって一直線にダイブ――することはなく、途中からまるで風に舞う木の葉のようにゆらりゆらりと空を舞う。パラシュートのように緩やかに落下して、対岸に出来たうろ穴へと着地する。

 ソラが状況を理解できないでいると、少女は「ごめん、もう無理」と呟いて意識をなくす。ソラが呼びかけているとそのまま寝息を立てて眠ってしまう。そのまま動けず、たとえ見つかったとしても簡単には辿り着けないだろうと考えてそのまま居座ることにした。

 そして、暗い夜が明ける。


「あー、私ね、の。と言っても軽くすることしか出来ないけど。だから釣りをする時も糸の先だけに意識を集中して重力を無くさせる感じ。この瓶詰帆船ボトルシップもそうやって釣り上げたんだから」

「……あの時の不思議な感覚はそういうことか」

 ソラは瓶詰帆船自分が釣り上げられた時のことを思い出す。

「だけど自分自身を軽くするのは結構体力を使うっていうか、疲れる感じでしばらく動けなくなっちゃうんだー。だから普段は使わないようにしてる。ソラには出来ないの?」

「なるほど。それが遺伝子ジーン……いや、神子ミコとしての能力なんだな。僕は神子じゃないから」

「ふーん、そっか」

 彼女にとってはそれが当たり前の力だが、幸か不幸かそれが当たり前ではないと気付く環境が与えられていなかった。


「ねぇ、そろそろ聞いていい?」

「?」

「私の名前。付けてくれるって言ったでしょう」

「あ、あー……」

「その反応は何よ。まさか断るとか言わないでしょうね」

 むくりと起き上がってソラと向かい合う。

 少女の方が少しだけソラより背丈が高く、二人の視線が逆転する。


「本当に僕が決めていいのか」

「もー、良いって言ってるでしょ。あなたが私にとっての特別なら、私もあなたにとっての特別が良いの。お互いが澪標身を尽くしの存在でいいじゃない」

「……わかった。可愛くないから嫌だとか言ったり、しないでよ」

「んー、それはわかんないけど」

「んにゃっ!?」

「ソラが私のために考えてくれた名前なら、なんだって受け入れるよ」

 少女の微笑みの向こうに、上がるはずのない太陽を見た。後光が指してくるようなまばゆさを。


「えっと、じゃあ僕たちが出会った場所を覚えてる?」

香住天文館とうだいのこと?」

「灯台……? いやまあ、今は灯台の役割を果たしているけど。あの施設には古い地名が使われているんだ。ここはかつて香美カミの町と呼ばれていた」

「カミの……町」

「そして君と出会ったのは香住カスミという地名で、意味は文字通り『神様の住む場所』なんだ。だから君は香美カミ神子ミコで、僕にとっての世界の中心部となるカスミっていう名前……は、どう、かな」

 勢いよく語る様子も次第に語気が弱まり、最後は上目遣いで祈るように少女を見つめる。少女は無表情のまましばらく黙っていたが、やがて視線を定めソラを見つめ、にいっと笑った。

「イイ、良いよ! すごくしっくりくるっていうか、初めから私の名前はカスミだったんじゃないかってくらい馴染みがある。そっかー、カミノミコかー。私はカミノミコ、カスミ。いいね、自己紹介としてすごく格好いいじゃん」

「えっと、気に入ってくれた……」

「気に入ったに決まってるじゃーん!」

「わわっ」

 カスミがソラに抱きついて、押し倒されるようになだれ込む。まるで大型犬にじゃれつかれているような光景だった。

「……うん。これなら大丈夫」

 まだ、生きていける。

 カスミの腕により一層力が入ったのを認識しながら、ソラは静かにカスミを見つめていた。



「……さて、それじゃこれからどうしようか」

「もう一回重力を操るとかは無しだからね。危険すぎる」

「ええー……ふふっ」

「な、何がおかしいのさ」

「だってこんな絶体絶命のピンチの連続なんてさ、笑っちゃうくらい面白いじゃん。こんな世界があること、私知らなかった。ここでずっと暮らしてたら味わえなかったんだろうなって思ったら楽しくなっちゃって」

「前向きなのは良いけど、それは解決策が見つかってからにしてくれ!」



 山の向こうは何もないが広がっている。名も無き少女はそう思っていた。

 それはただの思い込みで、ここは世界のほんの小さな片隅で、自分で決めつけた世界の果てに過ぎない。

 本当の世界の果てはこの空のように何も見えず、今にも崩れ去りそうな見るも無残な姿をしているのかもしれない。

 それでもガラクタに価値を見出す者がいるように、この滅びゆく世界を素晴らしいと思う少女がいても良いはずだ。


 彼女は新しい世界が見たいのだ。

 もっと美しいものが知りたいのだ。

 さあ、旅せよみこと

 神の巫師と。

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カミノミコ いずも @tizumo

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