第9話

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「あー、こほん。名前ってのはさ、確かに愛着の証でもあるし、個人を区別するための固有名称だ。だけど名前というのはただの区別以上に、裏側に言葉以上の意味を持っている。名前をつけるということは相手を縛ることであり、相手に縛られることでもある。君に名前を与えなかったのは、君自身の自由、つまり君という存在を束縛しないためだったんじゃないかな」

「ええっと……ごめん、意味がわかんない」

「君が育ての親を『おじーさん』と呼んでいたように、彼にとっても君はミコという言葉以上の必要がないくらいそこにあって当然の存在だったんだ。君が世界を『おじーさんとそれ以外の人間』に分けるのであればわざわざ固有の名称なんて用意しないし、彼にとってもミコというのは君だけを指す言葉だったというお話さ。初めから特別なものに改めて特別な意味をもたせる必要はないからね」

 その意味するところは理解できる。彼女にとってこの世界において他の存在など有象無象でしかない。……なかった。


「名前ってのは必要な時に、必要な人が付けるだけのものさ。だから名前がないから愛されてないとか、そんな短絡的な考えはしてほしくないってこと」

「は、はぁ」

 肩の荷が下りたかと言われるとそんなことはない。ただの気休めにしか聞こえない言葉だが、それでも少女の気持ちを落ち着かせるだけの効果はあった。

<――ミコよ>

「はい?」

<ああ、違う。君ではなく、そちらの巫師ミコだ>

「名前が必要なのは今かもね」

 ミコと呼ばれた少年は苦笑しながらそう言った。

 僕はカミ様の使い、カミの声を届ける巫師だから、と。カミ様にとっての、特別。

「そんなわけで、カミ様に代わって最後の問いの答えを伝えるよ」

 少年の顔からあどけなさが消え、まるで本当に別人格が乗り移ったように表情が変わっていく。波紋一つない水面のように静かで張り詰めていて、動かない一枚絵でも見ているかのよう。

 いつの間にか逃げ出したいという気持ちは消えていた。覚悟ができたからではない。逃げ出して、何も知らないままでいることの方が恐ろしいのだと気付いてしまったのだ。

ミコはどこから来たのか? どうして存在するのか? ――そして君は、どこへ行くのか?」

 少女は巫師ミコの言葉を待った。

 しかし次に聞こえたのは、耳の穴を塞ぐまで注ぎ込まれるような怪妄迂僻な戯言。


「それはもちろん――我々の研究所に他なりませんなァ。個体識別番号00285854番」



 振り向くよりも先に脚が動いていた。あの不快な声を聞きたくない、姿を見たくないと無意識に体が動く。

瓶詰帆船ボトルシップを持って!」

 少年の声に体を捻らせ、台座へ向かい瓶詰帆船を握りしめる。なぜそうしたのか自分でもわからない。それでも、何故かそうしなければならないのだと本能が告げていた。

 踵を返して少女は再び正反対の方向へ駆けていく。かつての県道を東へとひた走る。

「おいっ、いいのか追わなくて」

 大男が白衣の男を見る。夜の闇さえ食らい付くしてしまいそうに不気味に微笑む男の顔があった。

「なァに、夜は長いのです。それにこの先は行き止まり、彼女に逃げ場など無いのですよ」



<ミコ、ちょっといいかな>

「だーかーらー、どっちを呼んでるのかわからないって、言ってるでしょっ」

 息を切らしながらカミ様へ苦言を呈す。

 整備されていない道路は枯れ枝も取り除かれていないし草木も伸び放題だ。誰も来ない道路を整備する公共機関など存在しない。言われなければかつては海岸線を走るドライブウェイだったとは気付かない。

「じゃあさ、君が付けてくれよ。僕の名前」

「……はい?」

 少女は思わず立ち止まる。

「僕にも名前がないんだ。あるのはカミ様の声を届けるミコという役目だけ。そして、僕を見つけてくれた君を助けるための道具でしか無い。君が名前を、僕に役割を与えてくれるなら、君の征く道を示す標となって目指すべき場所へ君を導こう」

「目指すべき場所って、何」

 少女が眉をひそめながら尋ねると、少年は上を指差した。

「ここさ」

「ここって、どこ。空なんか指差して」

「そのままの意味だよ。カミ様の住むところ、通称『高天原たかまがはら』。遥か、はるか、高く遠い空の果て。この世界の果ては高天原に通じているんだ」

「たかま……がはら……?」

 それは少女の知らない単語だった。はるか昔の遠い過去の出来事、日本神話に記された伝説の地名。


「国生み神話の物語は知ってる? 伊邪那美命イザナギノミコト伊邪那岐命イザナミノミコトの両神様が渾沌とした大地をかき混ぜて日本の島々を生み出したんだ。その時に使われたのが天沼矛あめのぬぼこで、その正体は天逆鉾あめのさかほこだ。天逆鉾は高千穂に祀られていると言われていけれど、それはいわば分け御霊で実は本体そのものは未だに別の場所に存在している。それがかつてキンキの地、ヒョーゴと呼ばれていたこの場所なんだ」

「ええっと、待って。一気に色々と言わないでよ。その何とかのミコトって人とかアメノ……っていう道具も知らないけど、それって……おとぎ話でしょ?」

「人じゃなくて神様だし、道具じゃなくて神器だよ。でも、そうだね、君のように信仰に篤くない人はもちろん、信心深い人でも日本神話の信憑性は否定して当然だ。だけど」

 少年は少女の手を握りしめ、しっかりとその目を見据える。暗闇の中に差した一筋の光のように、少女の瞳は吸い込まれていく。

「僕を信じてくれ。天逆鉾を引き抜けば高天原へと行けるだろう。それこそがミコが向かうべき場所。地上で生きられない君たちを受け入れる安住の地。さぁ、名付けてくれ。どうか君を導く船となり、澪標となりて世界の果てを目指す旅路の始まりを」

 少女の手には瓶詰帆船、その上から握る少年の手は一回りも小さい。

 強い決意に満ちた言葉に負けないくらい握られた手にも力が入る。しかし、よく見るとその手は震えていた。


 そうか、そうなのだと少女は察した。

 この少年にとってそれこそが生きる意味であり、今ここでこの手を振りほどけば彼は全てを失う。それがどれほど辛いことか、生きる意味を失ったばかりの彼女には痛いほどわかっている。

「……どうして、それが私なの」

「だって、僕を見つけてくれたのは君じゃないか」

 両手で抱えている瓶詰帆船を見つめる。それを包む少年の手のひらの温もり。

「わかった。だけど一つ条件がある」

「なんだい?」

「私にも名前を付けて。名付けることは相手を縛ることって言ったじゃない。一方的な責任の押しつけなんてイヤ。ちゃんとあなたも責任をとって」

 一瞬面食らったような顔をして、すぐにふっと微笑む。

「いいよ。君が望むのなら名付けよう。それが神子ミコを導く巫師ミコの務めだ。だけどその前に――」

 再び少年の表情が厳しくなる。

 ふと視線を上げると、闇夜に響く足音二つ。ふらりふらりと影が揺れる。

「そろそろ鬼ごっこも終いにしましょうか。もはやあなたに逃げ場はありません」

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