推しの行く先

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

推しへの「義務について」

 KAC第二回のテーマは「推し活」ということであったが、先週末はニコ動の料理タグがその色に染まった。

 「漫画飯再現料理祭」という企画にて、様々な投稿者が愛する作品に出てくる料理を作り、思いの丈をぶつけ合ったのである。

 かくいう私もその一員であり、以前に別のエッセイで紹介した「今日どこさん行くと?」内のお弁当の再現に挑戦した。

 もう少し絵面をどうにかできなかったかという後悔こそ残ったものの、これを機に本作を読んでみようとおっしゃって下さった方もいらして、既に満ち足りている。

 そのせいで執筆の方は「けつかっちん」であるが、人参入りのエナジードリンクでもいただきながらどうにも締まらない顔で頑張りたい。



 私の「推し」というものについては、拙作「つるさきのひとりごと」にて紹介している通りである。

 それぞれに私を形作るものになっており、それぞれに私が誰かに紹介したいものとなっている。

 では、そもそも「推し」というのは何を指すのか。

 「推す」という言葉を手許の辞書で紐解いてみると、次のように紹介されていた。


①(後ろから力を加えて)前進させる。

②適当な人としてある地位につかせようとすすめる。

③よい物としてすすめる。

④(既知の事柄を根拠に)他の事柄へ考えを進める。


 「推し活」と言った際に④の意味は流石に含まないだろうが、それ以外はすべて含んで、自らの愛する対象に入れ込むように推察される。

 もちろん、より単純なものであれば①の意味が強いのだろうが、メディアへの露出増を求めたり他者に紹介したりすればそれだけでたちまちその範囲が広がっていく。

 今回の料理祭も、私は少なくともそうであったのだが、他人に勧めるという思いを持って挑んだ方もいらっしゃるのではなかろうか。

 少なくとも自分の好きなものを言語化して他者に伝えるというのは、そうした側面を持っている。



 あまりに考える範囲を広く取り過ぎてしまった。

 ここで一度、その範囲を狭めて好きな人物なりキャラクターなりに話を絞ることにすると、今の私が推すのはオグリキャップであろう。

 ウマ娘を始めてからの偶然の出会いであるのだが、その生真面目さと天然の白銀比は、久しぶりに私を大きく振れさせた。

 熱狂的なという割に支出は多くないのだが、少なくともクリスマスに大鍋でどて煮を作るほどには行動に表れてしまっている。

 今後のグッズ展開やアニメ次第でどのように転ぶかは分からぬものの、いい大人なのだから自重しようという賢さは持ち合わせていない。

 アイドルを熱狂的に支えるファンに、驚嘆を以って対することもあったのだが、私も同じ穴のムジナである。


 このひとつ前に入れ込んでいたといえば、艦隊これくしょんの北上であるのだが、ゲーム自体からはそれなりに距離を置いてしまっている。

 イベントで彼女の活躍の幅が大きく制限されたことでやる気を維持できなくなったためであるが、未だに細々と活動はしている。

 その一方で、佐世保でイベントがあろうものなら狂気に近いやる気で参加するつもりであり、実際、二度のイベントでは深夜にデミオで向かった。

 仕事柄仕方のないこととは言え、長距離運転の末に車中泊となることが多く、身体にこたえる。

 若さゆえにできていた無理もきかなくなりつつあると感じながらの行動であるため、何とも狂気に満ちていよう。

 コロナ禍が明けて再びとなれば、意地でも少女を拝みに行くつもりだ。


 いずれにせよ何かしら自分の持つもの投げうつ情熱が前提として存在し、それによって考えるよりも先に身体が動くのが「推し活」の特徴であるのかもしれない。

 打算に満ちているのであれば、それを自らの成長なり投資なりに向けてしまう。

 向けられぬからこそ困ったものなのであるが、同時にそれが深ければ深いほど打算のなさに感動を深めてしまうからタチが悪い。

 原稿を書いている今現在、冷静さを以って呆然としているが、それをどこかへ追いやってしまうものの強さ、貴さには驚くしかない。



 今の私の「推し活」には熊本や長崎といった九州が一つ含まれている。

 全てにおいて素晴らしいと考え無心に推しているわけではないのだが、少なくともいいものとして味わい、このまま骨を埋めたいと思っている。

 元々私は長崎を発展性がなく、閉鎖的でどうしようもない土地と、今にして思えば酷い形容を以って対していたように思う。

 それが今では、「唯一無二の歴史」を持ち、己が技量を以って「書き残す」べき土地であるとしているのだから面白い。

 九州を離れ、広島というこれまた心地の良い土地から改めて見直したことでその良さに気付いたのか、それとも加齢により故郷の思い出が美化されたのか。

 いずれにせよ私を形作るものの一つとして、今後も九州を、長崎を折に触れて描き続けるつもりである。


 とはいえ、私に愛国者的な側面があるかと言えば、首を傾げざるを得ない。

 斜陽の差す故郷を離れたということは厳然たる事実であるし、命を懸けるとなると恐らく尻込みするであろう。



 今、ウクライナで祖国を枕に戦っている方々がいる。

 私からすれば何よりも命が大切であると思ってしまうのだが、そして矮小化し過ぎであると批判されるかもしれないが、これもある種の「推し活」が発展したものであるのかもしれない。

 これに対して、私は分かる部分とまねできる部分とがないまぜになり上手く飲み下せないでいたが、少なくとも貶めるような言説をするつもりはない。

 そして、塩野七海氏の「ローマ人の物語」にある一節を思い出し、何か心に沁みていくものがあるように感じた。

 元老院主導の共和制ローマを護ろうとして命を落とした老キケロの言葉を、平和に呆けた私のようなものの言葉ではなく、少し長いが引用する。



「あらゆる人間愛の中でも、最も重要で最も大きな喜びを与えてくれるのは、祖国に対する愛である。

 父母への愛の大切さは言うもまたないくらいに当然であり、息子や娘たち、親族兄弟、そして友人たちへの愛も、親愛の情を恵んでくれることで、人間にとって大切な愛であることは誰でも知っている。


 だが、これらすべての愛ですらも、祖国への愛にふくみこまれるものだ。

 祖国が必要とするならば、そしてそのためにきみにってほしいと求めるならば、祖国に一命をささげることに迷う市民はいないであろう」

――『義務についてデ・オフィチス

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