藤原仲麻呂の最後

結城藍人

藤原仲麻呂の最後

「最後に聞かせて欲しい。上皇よ、いや帝よ、余の何が悪かったというのだ? いや、道鏡の何が良かったというのだ?」


 敗残の身を厳しく戒められた惨めな姿ではあったが、恵美押勝えみのおしかつこと藤原仲麻呂ふじわらのなかまろは孝謙上皇、いや既に称徳天皇として重祚ちょうそすることが決まっている女帝に、毅然として尋ねた。


 平城京大極殿の一室、その小部屋は人払いされていて、仲麻呂を捕らえた坂上石楯さかのうえのいしだても、勝利した将軍である吉備真備きびのまきびも、仲麻呂に代わって女帝の寵愛を一身に受けているとされる仏僧、弓削道鏡ゆげのどうきょうの姿も無い。


 もとより、完全に二人きりということはあり得ない。女帝が一声上げれば部屋の外に待機している衛士が駆けつけるであろう。だから、仲麻呂とて無駄な抵抗をする気は無かった。このあと斬られることも確定している。最後の機会。だからこそ、仲麻呂は女帝の真意を知りたかった。


 女帝もそれは分かっているのだろう。だからこそ、あえて捕らわれた仲麻呂と二人きりになったのだ。仲麻呂の問いに少し思案した女帝は、おもむろに口を開いた。


「そなたではのですよ、押勝」


「足りぬ、とは?」


「そなたはよくやってくれました。我が父君、聖武のみかどの遺志を継いで、唐の国にすら無いような大仏を開眼させ、古き律令を唐の新しき政を参考に改め、いにしえ大王おおきみに漢風の諡号を贈った。あなたの功績により、我が国は大唐にも劣らぬ進んだ国となりました。いえ、唐が安禄山あんろくざんの謀反で大いに乱れた今、我が国こそが最も進んだ国となる絶好の機会なのです」


「なればこそ、余は唐が乱れているこの機会に新羅しらぎを討伐し、任那みまな失陥以来の悲願である日本府再興を……」


 言いつのろうとした仲麻呂を、女帝は遮った。


「それでは唐を超えることはできません。古の大王ですらできたこと。わたくしはそれでは満足できぬのです。唐の国、いえ中華王朝歴代の天子ですらできなかったことを、この手で成し遂げることこそが、我が望み。それには、そなたでは足りぬのです」


「それは何なのですか? 余ではなく、あの坊主にしかできぬというのですか!?」


 叫んだ仲麻呂に、女帝は微笑みながら答えた。


「ええ。なぜなら、道鏡がだからです」


「……は?」


 理解しがたいという顔になった仲麻呂に、女帝は噛んで含めるように言う。


「道鏡は戒律を守り、女犯を一切断っている高徳の僧です。つまり、子はいません。わたくしが帝の位を道鏡に禅譲しても、それを子に伝えることはできません。ですので、道鏡からは再びに禅譲を重ねることができます」


「……は!?」


 まったく理解しがたいという様子を更に深める仲麻呂に、女帝は呆れたように溜息をついて説明を続ける。


「よいですか、歴代の中華王朝でさえも、王位、帝位を親から子への世襲を避けて禅譲したという例は、伝説の聖王であるぎょうしゅんしかなく、舜から禅譲を受けたは己の子に王位を世襲させてしまいました。漢の献帝から魏の文帝への禅譲以降も、一度たりとて連続して高徳の者へ禅譲されたことは無いのです。もし、我が国がそれを成したとすれば、我が国はもはや唐を、いえ歴代の中華王朝をも超えて、真の文明国となったと言えるでしょう」


「な、何と……」


 己の予想もつかなかった理由を聞かされて絶句する仲麻呂に、女帝は再び優しく微笑んで言った。


「押勝、そなたは確かにまつりごとを成すには有能な為政者でした。だから、わたくしは母君、光明子の太后が推していたそなたを、そのまま推したのです。我が国が唐の国、中華の大国に匹敵するほどに文明化するのに、そなたは大いに力になってくれた」


 そこで一度言葉を切った女帝は、少し顔をくもらせながら言葉を続ける。


「でも、そなたにできたのは、そこまででした。せっかく文明国になったというのに、戦で他国から領土を奪おうなどという野蛮で徳の無いことを目論んだ。今こそ安禄山や史思明ししめいの謀反で混乱している唐であっても、それが治まれば再び強大な力をもって新羅を助け、我が国に矛を向けるでしょう。再び白村江はくすきのえのような悲劇を繰り返してはならないのです」


「……」


 もはや言葉も無い仲麻呂に、再び微笑みかけながら女帝は最後の言葉をかけた。


「道鏡なら女犯戒だけでなく殺生戒も守り、戦などせずに徳のある政をすることでしょう。わたくしの遺志を継ぎ、高徳の者、子に帝の位を継がせることなど考えぬ僧に禅譲し、我が国を真の文明国にしてくれることでしょう。だから、わたくしはそなたを推すことをやめ、道鏡を推すことにしたのです」


 がっくりとうなだれた仲麻呂。それを哀れむような目で見た女帝は、手を打って人を呼ぶ。


 部屋に入ってきた吉備真備に、女帝は仲麻呂に対したときの優しげな口調ではなく、ごく事務的な口調でそっけなく指示を伝えた。


「この者の遺体を葬るように。史書には坂上石楯が戦場いくさばで斬って、わたくしの元には首級だけ持参したと記しなさい。くれぐれも、道鏡禅師が処刑に関わったなどという風評が立たないように、戦場で死んだことにするのですよ」


 もはや捨てた弊履へいりに対するほどの視線も投げずに部屋を出て行く女帝。そして、推し変えをされた哀れな男は、この世との別れを告げる場へ衛士によって引き立てられていくのであった。


※称徳天皇と道鏡の関係については、井沢元彦『逆説の日本史』で提唱された説を参考にしました。

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