花子さんは、もういない
榊野岬
第1話
花子さんは、もういない
わたしの通う高校には、「トイレの花子さん」がいた。
学校の片隅に、「櫻成館」という小さな建物がある。特別棟の東、グラウンド側にやや張り出すように存在している二階建ての歴史ある木造建築で、かつては部活動や授業などに使われていたそうだが、老朽化が進み現在では滅多に人が立ち入らず、近いうちに取り壊されることになっている。
その櫻成館一階の女子トイレに「トイレの花子さん」が出るという。興味を持ったわたしは、夜になって生徒がいなくなるのを待って建物に入り込んだ。もちろん、本当に「花子さん」がいるなどとは欠片も信じていなかったものだから、恐れることなく女子トイレに足を踏み入れた。しかし、そこでわたしが目にしたのは、暗闇の中、月明かりに照らされて宙に浮かんでいる少女だった。
雷に打たれたような衝撃だった。わたしは言葉を発するのも忘れて立ちすくむ。少女はわたしと同じくらいの年齢に見える。腰まで伸びた黒髪に白いワンピース。白く細い足にはなにも履いていなかった。
彼女はトイレの床に降り立ち、わたしを見つめる。感情の読み取れない双眸はまるで澄んだ冬の夜空を閉じ込めたようで、場違いにも、綺麗だ、と感じた。
無表情のまま、少女が口を開いた。
「人間に会うのは久しぶりね」
透明な声だった。
「――あなたは、誰?」
絞り出すように問いを発する。
「私はあなたたちが『トイレの花子さん』と呼んでいるもの。端的に言うなら『妖怪』かしら」
トイレの花子さん。突拍子もない名乗りだけど、目の前で宙に浮く姿を見せられては信じるしかなかった。だいたい、夜の櫻成館の女子トイレなんかに普通の人間がいるとは思えない。それに、少女のまとう非人間的な雰囲気に「妖怪」という単語はあまりにも似つかわしかった。
少女――花子さんは右手で髪をかき上げると、わずかに首をかしげた。
「どうしてここにきたの? もう何年も人の姿なんかなかったのに」
「『トイレの花子さん』が出るって噂を聞いて、気になったから」
花子さんの口元がわずかに吊り上がった。声にからかうような色が混じる。
「物見高いのね」
その表現にむっとしたが、客観的に見てわたしが怪しい噂に乗せられた野次馬なのは事実なので言い返せなかった。教師に見つかったら間違いなく叱責される行為だ。
「あなた、名前は?」
「……小泉明乃」
反射的に答えてから不安になる。果たして妖怪に名前を教えてよかったのだろうか。
わたしの脳裏に、子どもの頃に本で読んだ「学校の怪談」の内容が蘇る。トイレの花子さんの項には、便器の中に引きずり込まれる、「なにして遊ぶ?」という質問に「おままごと」と答えると包丁で突き刺される、などという物騒な記述もあったはず。櫻成館の花子さんの怪談に血なまぐさい要素はないものの、安心はできない。いざとなったらここから逃げなくては。
「ねえ、私に話をしなさい」
「え?」
意外な台詞に、身構えていたわたしは虚を突かれて間抜けな声を出してしまった。花子さんは続けて、
「長いこと一人でいたから退屈していたの。面白い話があれば聞かせて」
彼女の口調は淡々としていたが、有無を言わさぬ圧力を伴っていた。
「……断ったら?」
「あなたを呪い殺すわ」
こともなげに言い放つ。これが人間なら逃走できたかもしれないけど、相手は本物の怪異だ。命令に従わなければ息をするより簡単に命を奪うだろう。わたしは怪談なんかに興味を持って櫻成館に入った数分前の自分を恨んでいた。好奇心は猫をも殺すというがまさか自身が命の危機にさらされるなんて。飛んで火にいる夏の虫とはこのことだ。
ともかく、花子さんは面白い話をご所望らしい。まさか落語や漫才をやれというわけではないだろうが、わたしの日常を語っても愉快なものになるとは思えない。わたしは一介の高校生で、漫画の主人公のような特異な体験などしたことがないのだ。
「なにを黙っているの」
「だって、いきなり面白い話をしろなんて言われても困るよ」
「壮大な物語なんて求めてないわ。私は刺激に飢えているの。あなたにとって取るに足らない話題でも、私には甘露になるかもしれない」
花子さんはふわりと浮き上がり、その場で一回転してみせた。怪異に物理法則は適用されないらしく、長い髪もワンピースの裾も上を向いたままだった。
ふと浮かんだ記憶があった。まだ真新しい、今日の放課後の出来事。事件というにはあまりに些細だが、心の中で引っかかっている一件があった。
「あの、言っておくけど、面白いかどうかはわからないからね」
「構わないわ。話して」
花子さんに促され、わたしは放課後にあったことを語りはじめた。
「ネタがない!」
新聞部の部室で、部長の高良さんが叫んだ。
わが新聞部の主な活動は、月に一度の校内新聞の発行。「常に独創性を追求せよ」が伝統的な方針で、無難に学校行事の様子を載せるだけのようなありきたりな紙面を良しとせず、一面は特にインパクトのある記事を持ってくるようにしている。そのおかげか校内新聞の割には毎月楽しみにしている生徒が多いようだけど、その分記事を作る側の苦労も小さくない。
「そういえば、今日の廊下荒らし、俺のクラスでポルターガイストの仕業じゃないかって言ってる奴がいたんですよ。これ、記事にしませんか」
部員の三宅が口にした「廊下荒らし」なる単語は知っていた。今日の朝、特別棟一階の廊下が何者かによって荒らされていた事件だ。わたしも現場を見たが、吹奏楽部のポスターが真ん中で裂かれ、窓際に置かれた植木鉢が床に落ちて割れ、美術部の石膏像は二体横倒しになっていた。夜のうちに不審者が侵入したのではないかと特別棟を拠点にする部活がざわめいたが、なにも盗まれた様子はなく、犯人がなにをしたかったのかまったく不明である。
「ポルターガイスト、ねえ。うちの新聞はオカルト雑誌じゃないんだけど」
部長は胡散臭そうな反応を隠さない。
「うちの高校には『櫻成館の花子さん』って怪談もありますし、『真渡間高校七不思議』特集とか、面白いと思いません?」
「それって、『櫻成館の女子トイレに花子さんが出る』ってだけの地味なやつでしょ」
わたしも小耳にはさんだことがあるけど、怪談としても怖くもなんともない。高校に「トイレの花子さん」の噂が存在すること自体物珍しいとは思うけど、知名度は高くない。
「七不思議って、あと五つはなんなのよ」
部長に問われた途端、三宅は「えーっと」と言葉に詰まった。
「あー、一般棟より特別棟のほうが高い屋上のフェンス、毎年一本だけ咲かない桜の木、櫻成館の手前で中途半端に途切れてる白ツツジの植え込み、いつ行っても売り切れてる購買のババロアシュークリーム、あと体育倉庫裏の変な音がする排水溝」
「もう怪談でもなんでもないじゃん」とわたし。
「記事にはなりそうにないね。ボツ」と部長。
「やっぱりダメっすか」
もともと本気ではなかったのだろう、三宅は半笑いであっさり引き下がった。
「んじゃ、俺は廊下荒らしについて取材してきますね。一面ではなくても、記事のネタにはなりそうなんで」
三宅が部屋を出ていくのに続いて、わたしも立ち上がる。
「小泉ちゃんは取材だっけ」
「はい、写真部の」
本音を言えば、わたしも廊下荒らしの取材をしたかった。犯人が人間ならミステリ、ポルターガイストならホラー。どちらに転んでも好みの展開だ。しかし写真部へのインタビューは前々から決まっているので仕方がない。
代わりというわけではないけれど、帰る前に櫻成館の女子トイレを訪れてみようか。噂を聞いたときから気になってはいたのだ。花子さんが実在するなんて考えちゃいないけど、せっかく怪談があるんだからこの目で現場を見てみたい。
この軽い思いつきのせいで本物の花子さんに出会う羽目になるとも知らず、わたしは呑気に部室を出た。
写真部の部室は特別棟の一階に位置している。小型ながらストーブが効いていた部室と比べると、廊下はさすがに冷える。普段は合唱部や吹奏楽部の練習する音が聞こえてくるのだが、今日はどちらも休みなのか静まり返っている。ひとけのないがらんとした空間が、学校指定のカーディガンを羽織っていてもなお身震いする肌寒さを加速させるようだ。
特別棟が静かな分、グラウンドからはサッカー部のかけ声や野球部の打撃音が響いている。真渡間高校はどちらかというと進学校に分類され、スポーツにはさほど力を入れていないが、だからといって活気がないわけではない。今朝方破られているのが発見されたポスターは、野球部総説六十周年を記念して、県外のチームを迎えて来春行われる記念試合を告知するのものだった。
今回の取材は、毎月順番に各部活の活動内容を取り上げる校内新聞の連載企画のためだ。個性を重視する気風とはいえ、中にはごく一般的な、よく言えば堅実な記事も載せている。次号で扱う写真部は部員が五人という小規模な部で、しかもほとんどが幽霊部員のために実質的な部員は部長の桑原さんのみ。文化祭ではほぼ一人で作品展示を行っていたし、悪い人ではないと思うけど、うちの学校には珍しく、髪を染めたり制服を着崩していたりしてよく注意されている問題児寄りの生徒で、常に機嫌が悪そうな雰囲気と相まって、個人的にはやや苦手だったりする。
写真部の部室に到着した。入口の扉を軽く二階ノックする。
……返事がない。
もう一度ノックしたが、やはり反応がない。席を外しているのだろうか。
「新聞部です。取材に来ましたー」
呼びかけてみたけれど結果は同じ。出直そうか。いや、中で居眠りでもしている可能性もある。
ドアに手をかけて横に引くと、固い手ごたえ。どうやら鍵がかかっているらしい。困るなあ、前もって日時を伝えてあるのに。
諦めて引き返す前にもう一度声をかけようとしたとき、不意に内側からドアが開かれた。
「ごめん、音楽聞いてた」
写真部部長の桑原さんが、いつもながらの気だるげな瞳で現れた。スカートの丈が間違いなく生徒指導の先生に注意される短さなのも通常営業。
「新聞部の小泉です。以前お願いしたとおり、来月号に掲載する写真部の紹介記事のためのインタビューに伺いました」
「あれ、今日だったんだ」
桑原さんは眉根を寄せ、首の後ろに手をやった。どこか焦ったように、
「完っ全に日にち勘違いしてた。悪いけど、取材は明日にしてくれない?」
「そんなにお時間はとらせないので、大丈夫ですよ」
言いながら、わたしは部室の中に足を踏み入れた。廊下の寒さに耐えかねたのに加えて、できるなら今日の内にインタビューを済ませてしまいたかった。わたしがいま担当している記事は写真部の紹介以外にも二本あり、冬休みが始まる前には目途をつけておかなければならない。
「取材の用意は明日までにやればいいかと思ってたんだよね。だからさ……」
気乗りしない様子の桑原さんだが、台詞の歯切れが悪い。心ここにあらず、といった風だ。
室内に入ると、屋外にいるかのような冷たい風が吹きつけてきた。思わず身震いする。見れば冬なのに窓が全部開け放たれている。寒がりの身からすると信じられない暴挙だ。桑原さんも首をすくめている。
写真部の部室は普通の教室の半分ほどの大きさで、もとは資料室だったらしい。右側の壁のボードには部員が撮影した写真が隙間なく貼られている。床の段ボール箱に収められているのは新入生勧誘のビラや文化祭の宣伝ポスター。ホワイトボードは長らく使用されていないのか、なにか文字が書かれているがかすれて読めなくなっている。部屋の真ん中には長机が二つ並んでおり、筆箱と卓上カレンダー、一眼レフカメラが置かれていた。
「あんまりうろうろしないでほしいんだけど」
「あ、すみません」
謝りながら、わたしは桑原さんの態度に不自然なものを感じていた。物言いがぶっきらぼうなのはいつものことだけど、今日はなんだか落ち着きがない。後ろ暗い秘密を隠そうと躍起になる子供に似た、他人を拒絶する言葉。部室を訪れたわたしを警戒しているように見える。
彼女の態度の理由を探ろうと、目だけで室内を見回す。足を踏み入れた時から、どこかで聞いたことのあるクラシック音楽が流れているのが気になっている。どうやら、一つだけ机から離れた場所にあるパイプ椅子の上のスマホが発信源だった。訪問者に気づいて慌ててイヤホンを抜いたのかもしれないけど、止めればいいのに。椅子の背にはカーディガンが掛かっている。その後ろにあるのは上半分がガラス張り、下半分が木製の引き戸になっている収納棚だった。
桑原さんがわたしの前に立った。彼女の表情には、苛立ちと焦燥がありありと浮かんでいる。
「あのさ、取材の準備なにもできてないから、今日は帰ってって言ってるの。忘れてたのはあたしのミスだけどさ、いつまでここにいるつもり」
「……わかりました」
正直、失念していたのは向こうなのにも関わらず、やたらと邪見に扱う口ぶりに不満はあった。だけどここで喧嘩しても仕方がない。先方に意思がないのに食い下がっても徒労に終わるだけだろう。
「じゃあ、明日の放課後、同じ時刻にもう一度伺うので、よろしくお願いします」
軽く一礼して立ち去ろうとした瞬間、ふと柑橘系の香りが鼻をついた。消臭スプレーだろうか。運動部でもないのに、なんの匂いに気を遣うのだろう。不思議に思いつつ、わたしは写真部をあとにした。
「――とまあ、これが今日の放課後にあったこと」
話をしている間、花子さんは始終床から一メートルくらいのところに浮かんで無表情に話を聞いていた。果たしてわたしの話は彼女の退屈を紛らわすに足るものだったのだろうか。いや、満足しなければ十六年の人生に終止符が打たれてしまうから、なんとしてでも満足してもらわないと困るのだけど。
「ひとつ聞きたいのだけど」花子さんが口を開いた。わたしは緊張して次の言葉を待つ。「スマホって、なに?」
「……そこ?」
身構えて損した。
「音楽が流れるということは、レコードの一種なのかしら」
「スマホっていうのは、ええと、テレビとレコードと電話とその他いろんなものを一つにまとめた機械で……」すっかり身体の一部のようになっているだけに、改めて説明するのがかえって難しい。「つまりこういうもの」
百聞は一見に如かず、とポケットからスマホを取り出して見せる。画面を操作して写真やメールを表示すると、花子さんはちょっと目を見開いた。
「最近の機械ってたいしたものね」
彼女の神秘的な雰囲気にそぐわないしみじみとした感想に、わたしはつい笑ってしまった。
「うちのおばあちゃんみたい」
「だって、私はこの場所の外に出たこともなければ最近誰かに会うこともなかったもの。ここ十年余りのうちに生まれたものについての知識はまったくないと思っていいわ」
「堂々と言うことではないでしょ」
「もう一つだけ質問があるの」花子さんは推理ドラマの刑事の口癖みたいなことを言った。「その部屋のカーテンはどうなっていた?」
予想だにしない問いにわたしは戸惑う。必死に記憶を掘り下げて答えた。
「たぶん、全部束ねてあったはずだけど……」
「そう」
頷くと、花子さんはふわりと地面に着地する。わたしが質問の意図を問いただすより先に、
「座ったらどうかしら」
そこでわたしは、ずっと立ったまま会話を続けていたことに気がついた。しかし長らく誰も使っていない女子トイレは悪臭こそしないものの埃っぽく、腰を下ろすのは躊躇われる。妥協案として、つま先と膝だけを床につけた体勢でしゃがむことにした。
「あのさ、どうだった、わたしの話」
思い切ってこちらから尋ねる。花子さんは夜空のような深い漆黒をたたえた目を細め、鮮やかな朱の口元を吊り上げた。それは初めて見る、彼女の楽しげな微笑みだった。
「それなりに面白かったわ。なかなか細かいところまで観察しているのね」
「それはどうも」
「つまり、あなたは今日一日で二つのミステリに遭遇したというわけね。動機が不明な廊下荒らしと、不審な態度をとる女生徒」
「スマホは知らないのに、ミステリは知ってるんだ」
いや、別に新しい単語ではないのだけれど。
「あなたは二つの謎についてどう考えているの?」
花子さんが尋ねる。
「廊下荒らしは情報が少なすぎるけど、写真部のほうは思いついたことがあるの」
新聞部に戻って作業をしながらも、桑原さんの奇妙な様子がずっと引っかかって推測を巡らせていたのだ。おかげで原稿はちっとも進まなかった。
「どんなことかしら」
「まず、桑原さんの行動には不自然な点がいくつもあった。部屋の鍵をかけていたのにはじまって、冬なのに窓を開けて風を入れていたり、消臭剤の匂いをさせていたり。わたしに対する態度も明らかに早く帰らせようとしていた」
きょろきょろと室内を見回すわたしを咎めた口ぶりからして、そもそも部室に入れたくもなかったのだろう。
「そうね、やましいことがあったのは間違いないでしょう」
「で、特に疑問なのは桑原さんがカーディガンを脱いでいた点。窓を開けていたのは換気をしたかったからだとしても、上着を脱ぐ必要はないでしょ。事実寒そうにしていたし。人に会うのにカーディガンを着ていたらまずい理由があったと考えるべき」
換気、消臭剤、カーディガン。この三つから導き出される可能性は、
「隠れて煙草を吸っていた。つまりそう言いたいのね」
わたしは頷く。いくら桑原さんが校則違反を気にしない人とはいえ、さすがに喫煙の露見は避けたいはず。
「これは推測だけど、桑原さんは取材の日を勘違いして煙草を吸っていた。でもわたしが訪問したから慌ててにおいを消すために窓を開け放ち、消臭剤をかけた。カーディガンを脱いだのは、においが移ってしまったかもしれないから。部室の収納棚には煙草や灰皿が隠されていたんじゃないかな」
「ふうん。悪くない推理ね」
花子さんは悠然と腕組みをしながら、含むところがありそうな評価を下した。
「あなたの意見は違うの?」
「状況から考えて、彼女がにおいを隠そうとしていたのは間違いないでしょう。だけどそれを喫煙に結び付けたのは、普段の素行に引っ張られているのではないかしら」
花子さんの指摘は鋭いところを突いていた。たしかにわたしは桑原さんにあまり良いイメージを抱いていない。服装や髪の色に過剰な目くじらを立てるほど厳格ではないけれど、用もないのに近づきたいタイプではない。例えば相手が高良部長だったら、わたしは同じように考えただろうか。
「煙草を吸っていたとしたら、腑に落ちない点が二つあるわ」
「どういうこと?」
「昔はここで隠れて煙草を吸う女生徒が時々いたから知っているのだけど、煙草というのはとてもにおいが強いものよね。ドアをノックしてから開けるまでのわずかな時間で、他人が気付けないほどの完全な消臭が果たして可能なのかしら」
「……言われてみればそうかも。うちのお父さんが禁煙中に我慢できずに吸ってしまったとき、部屋のにおいですぐにわかったもの」
それに、喫煙直後の人は口内にもにおいがはっきりと残るものだ。しかし桑原さんと会話しても煙草の独特の香りは感じられなかったし、もちろんにおいを消すガムや飴を口に入れている様子もなかった。
「もう一つ、やましい行為をする者は徹底して視線を警戒するはず。特別棟の位置からして、室内の様子を容易に見ることのできる相手がいるでしょう」
「そっか、グラウンドの運動部」
「そう。鍵をかけて不測の来訪者を警戒したところで、窓の外の人間に発見されたら意味がないから、喫煙をするならばカーテンを隙間なく閉めていたと考えられる。だけどカーテンは綺麗に束ねられていたそう。急いで訪問者に対応しなければならない差し迫った状況に、わざわざそこまで気を配るかしら」
わたしは理路整然と矛盾を説明する花子さんに感心していた。話を聞いてすぐにカーテンの様子を尋ねたことといい、頭の回転が速い。
「じゃあ、桑原さんはなにを隠そうとしたんだろう」
「謎を解く鍵は、部室にあったスマホという機械にあるわ」
大昔からタイムスリップしてきた人みたいなことを言う花子さん。時代的には実際大昔の人なのかもしれないけど。
「普通、訪問者がいるのに音楽を流しっぱなしにはしない。スマホのように簡単に操作できるならなおさらのことね。そうしなかったということは、聞かれたくない音があったからと考えるのが順当でしょう」
「聞かれたくない音って?」
「おそらく、桑原という女生徒は部室でひそかに猫を飼っていたのではないかしら」
「ねこぉ?」
思わず素っ頓狂な声を発してしまった。校内で黙って動物を飼うなんて、さすがに想像の埒外だ。
「あるいは小型の犬かもしれないわね」
「いや、動物の種類はどうでもいいから」
ハムスターだろうがカメレオンだろうがそこは大した問題ではない。
「新聞部の取材を翌日だと勘違いしていた女生徒は、鍵をかけて猫と接していた。そこにあなたがやってきて、彼女は慌てたでしょうね。猫の匂いを消すために窓を開け消臭剤を散布し、猫の毛がついているかもしれない上着を脱いだ。猫は収納棚の中に隠したけど、話している間に鳴き声を上げてしまうのを恐れて不自然を承知で音楽をかけた――こんなところかしら」
花子さんはまるで見てきたように滔々と述べる。わたしは放課後の特別棟を思い出していた。ひとけがなくグラウンドの音が響くほどの静寂。もしクラシック音楽がなかったら、鳴き声どころか爪で扉をひっかく音すら聞こえていたかもしれない。
「なるほどね。たしかに筋は通ってる。だけどちょっと飛躍が過ぎるんじゃない?」
言葉では反駁したが、内心ではすでに納得していたのだ。素直に認められなかったのは、いとも簡単に自分以上の推理を披露してみせた花子さんに対する若干の悔しさがあったのかもしれない。
「そうね、私は現場を見ていないし、正しさを裏付ける証拠はなにもない」花子さんはあっさりと肯定した。「でも、動物がいたと仮定すると、もう一つの謎も解けるのよ」
「廊下荒らしのこと?」
「例えば、昨日女生徒が部室を出るのに鍵をかけ忘れて帰ってしまい、夜の間に猫が廊下に出たとしたら。意図の読めない中途半端な被害は猫の仕業だとしたら理解できない?」
犯人は外から侵入したのではなく、最初から中にいた――。
「あなたって本当にトイレの花子さんなんだよね? どこかの名探偵の霊とかじゃなくて」
思わずわたしは尋ねていた。彼女は一瞬眉を動かし、皮肉げな笑みを浮かべた。
「そうだったらどんなに良かったかしらね。こんな場所にずっと一人でいなくて済んだのに」
自嘲混じりのつぶやきに、会話しているうちに慣れていたけれど、やはり彼女は人ならざるものなのだと再確認する。
「――ところで、さっき『面白かった』って言ってたけど、呪い殺すのはやめてもらえるんでしょうか……?」
わたしはおそるおそる尋ねた。スマホの時刻は午後七時半。ずいぶん長居してしまったけど、無事帰宅できるかは花子さんの気分にかかっているのだ。
「ああ、あれは嘘よ」
「へ」
あっさりと放たれた一言にぽかんとする。
「だって、ああして脅さないと逃げてしまいそうだったもの」
「じゃ、じゃあ最初から殺す気なんかなかった……ってこと⁉」
「ええ」
激しく脱力。なんだそれは。命の危機に瀕したと恐怖していたのはなんだったのか。わたしの心配を返せ。
「そもそも私に人を殺す力なんかないのよ」
「妖怪なのに?」
「妖怪がみんな人に危害を加えるわけではないでしょう」
たしかに座敷童子は家に幸福をもたらすし、ぬりかべは道を塞ぐだけだ。むしろ出会ったら死を覚悟しなければならない妖怪のほうが少数派かもしれない。だけど、
「花子さんって、呼びだした子供を包丁で刺したり首を絞めたりすることもあるって、昔読んだ本に書いてあった覚えがあるんだけど」
「そういう花子さんもいる。でも私にはそんな設定が付与されていない」
「設定?」
首をかしげる。まるで作られたキャラクターであるかのような表現ではないか。
「妖怪とは」花子さんは髪をかき上げた。「人間の想像から生み出されるものなの」
そうして彼女は自らの、そして妖怪の成り立ちについて語り始めた。
「昔から人間は、理解できない不思議や恐怖の正体を、この世にないものに求めてきた。それら『妖怪』が人口に膾炙し、多くの人が名前や属性、姿といった情報を共有するようになる。やがて、情報は共通認識として一定の形に収斂され――実体となって世界に顕現する。妖怪は因果が反転した存在なの。元になる存在があるのではなく、想像が現実に作用して生まれてくる。だから妖怪は語られる情報、設定どおりにしか行動できない」
にわかには信じがたい話だった。妖怪は人間の頭の中で創られたものだという。そんなことがありえるのだろうか。しかし現に虚構の存在だと思っていた怪談「トイレの花子さん」はここにいる。
「つまり、あなたの場合は『櫻成館一階の女子トイレに現れる』以上の情報がないから」
「ここ以外には出られないし、現れてもそれ以上の現象を起こすこともできない。もう何十年になるかしら、退屈で死にそうだったわ」
最初から生きてないけどね、と花子さんはリアクションに困る冗談を飛ばした。そのおかげでわたしの命は助かったわけだけど。
「じゃあ、この世界にはこれまで語られてきた数だけ妖怪が存在しているってわけ」
「どうかしらね。時代が進むにつれ非科学的なものの信憑性は低下の一途をたどっている。私たちは本来実体がないゆえに、自己を人間の意識に依存している。早い話が、人間に信じられなくなったら終わりということね。私の場合は語りの舞台であるこの学校の構成員、すなわち生徒や教師が『花子さんは存在しない』と考えたら最後、消滅して二度と現れることはできないでしょうね」
自身の存否に関わる重大な問題を、彼女は口元に笑みを浮かべながらさらりと述べた。顔のない無数の他人の意識に在り方を規定され、自らの意志では消えてなくなることすらできない数十年は、彼女にとってどのような時間だったのだろう。
――待った。
「あのさ、この建物ってもうすぐ取り壊される予定なんだけど」
「あら、そうなの」
無感動な相槌を打つ花子さん。
「花子さんはこのトイレにしか出られないんでしょう? 櫻成館がなくなったら、どうなるの」
「消えるでしょうね」
あくまで淡々と、彼女は答えた。
「消えるって、そんな簡単に……まだそうと決まったわけじゃないでしょ」
「この学校の『花子さん』に、学内の他のトイレに出るという設定はない。櫻成館の女子トイレという特定の場所に紐ついた妖怪が、場がなくなってからも現れると考える人がいるかしら。仮に他のトイレで花子さんの噂が発生し実体を得たとして、それは名前が同じだけで記憶や人格の連続性はない別人でしょうね」
「そんな……」
わたしを呪い殺すと脅したときのように、嘘をついているわけではない。だって彼女にメリットがないのだから。それでもわたしは信じたくなかった。
「花子さんはそれでいいの?」
「私は元々忘れられかけていたのよ。建物がなくならなくても、近いうちに消えていたわ。誰も来ない場所で一人過ごすのにも飽き飽きしていたし、むしろ長く顕現しすぎたくらい」
花子さんの口ぶりはどこまでも飄然としている。だがわたしには受け入れられなかった。
「わたしは嫌だよ。このままいなくなるなんて」
立ち上がり、拳を握り締めて詰め寄る。花子さんは困ったように眉を下げ、
「さっき会ったばかりで大して話してもいないのに、なぜそんなに嫌がるの」
「時間なんて関係ない。あなたがあっさり謎を解いたとき、すごく感動したんだから。楽しかったんだよ。せっかく会えたのに、これからもっと色々話ができるかもしれないのに、いなくなって欲しくないよ!」
自分でも、どうしてここまで別れを拒絶するのか明確に説明できない。ただ胸の内で「嫌だ」という単純な感情がとめどなく湧き上がってくるのを抑えられない。
子供のように嫌だ、と繰り返すわたしにたじろいだように、花子さんは軽く後ろに下がり。首を振った。ふう、と小さくため息。
「どのみち私はいなくなる。留まる方法もないのに、入れ込んだらかえって辛くなるだけでしょう。だったらもう会わないほうがいい。まだ取り壊しには猶予があるけれど、もうあなたの前には現れないことにするわ」
一方的に告げて、花子さんはわたしの手が届かないところまで浮き上がった。その身体が次第に透明になっていく。
「待って!」
「久しぶりに人と会えて楽しかったわ。正直、もう少し話したかった気持ちもあるけど――」
こちらを振り向いた彼女の微笑みは、今までの人生で見たどんな表情よりも儚くて――そして綺麗だった。
「さよなら、明乃」
最後にわたしの名を呼んで、花子さんの姿は見えなくなった。
一人暗闇に取り残されて、わたしはしばらく呆然としていた。ぺたんとその場にしゃがみ込む。スカートが汚れるのも気にならなかった。全部嘘で、今にも再び空中に姿を現すんじゃないか。あり得ないと理解していて、期待を捨てられない。
「……ズルいよ」
未練なんてない、みたいに平然と振舞いながら、消える間際に「もう少し話したかった」なんて。どうせ嘘をつくなら、最後までうまく騙してよ。わたし、さよならすら言えなかった。
こうして、花子さんはわたしの前からいなくなった。
花子さんと出会った日から二か月あまりが経った。期末テスト後はほとんど授業もなく、、終業式こそ行われていないものの、実質的に春休みのような期間だ。今年度の校内新聞は全て発行済み、集まる予定もない。にもかかわらず、わたしは毎日夕方になると特別棟を訪れ、一階の廊下をぶらぶらするのが最近の日課になっていた。
十二月と比べたらいくらか日が落ちるのも遅くなったけど、六時を過ぎると一気に夜が駆けてくる。少し前まで部活の生徒がまばらに歩いていた特別棟もすっかり静まり返った。
「――今日もダメ、か」
廊下の端まで歩いて立ち止まり、ひとり呟いて踵を返した刹那。
目の前に、人が浮いていた。
「……花子さん」
腰まで伸びた濡羽色の髪、白磁のような肌、吸い込まれそうな深い瞳。着ているのがワンピースからうちの学校の制服になっているけれど、間違いなく花子さんだ。
「久しぶりね」
「うん。おかえり――っていうのは変か。でも、また会えて良かった」
素直な思いを口にする。花子さんは言うべき言葉を探すように視線を中空にさまよわせ、
「どうやったの? 櫻成館がなくなれば私は消滅するはず。それが消えなかったばかりか、特別棟に顕現できるようになるなんてありえない。あなた、なにか細工をしたでしょう」
種明かしを求める花子さんに、わたしの頬がちょっと緩む。あの日とは逆の構図で、こちらが解説する側にいるのがなんだか嬉しい。
わたしは階段に移動し、腰を下ろした。
「妖怪は人間の考える設定に影響されるんでしょ。だからみんなの認識を変えただけだよ」
花子さんが櫻成館以外の場所に出られるようにするには、特別棟や一般棟のトイレにも花子さんが現れるという噂を流せばいい。しかしこれまでの噂における出現場所は櫻成館限定だったのに、いきなり他のトイレにも出ると聞かされても信じる人は少ないだろう。だが新たに怪談をでっちあげても実体化するのは花子さんではない別の怪異だ。だったら今までの「花子さん」と連続性を保ちつつ設定を改変してしまえばいい。
校内新聞の一月号に、わたしは「櫻成館トイレの花子さんは、実は特別棟の屋上から転落死した女生徒の霊だった」という内容の記事を書いた。さすがに突飛な主張であるので、論旨を補強するために次のような根拠を文中で提示することにした。
『別棟の屋上のフェンスが一般棟のものより高いのは、かつて特別棟の屋上で転落事故があったためではないか』
『特別棟の南側にあるツツジの植え込みは、なぜか櫻成館の手前で途切れている。これは事故現場を避けたからではないか』
『もともとは事故現場の付近に女生徒の幽霊が現れると噂されていたのが、時が経つにつれ目の前にある櫻成館の女子トイレと結びつき、いつの間にか『トイレの花子さん』へと変化してしまった可能性がある』
『先日の廊下荒らし事件について、ポルターガイストの仕業ではないかという噂が流れている。櫻成館の花子さんが実はもともと『トイレの花子さん』でなかったとすれば、特別棟に現れるのは十分に考えられる』
今思い出しても、妄想を憶測で包んで詭弁で焼き上げた不格好なトンデモ記事と評するほかはない。趣味で読んでいたオカルト雑誌が参考になった。ネタが枯渇していなければ、高良部長はGOサインを出してくれなかっただろう。
「女生徒の霊ってことになったから、服が制服に変わったのね」
呆れた様子で、しかし面白そうに花子さんは笑った。
「よくもまあ、そんなでっち上げをやってのけたものね。学校の設備が一部だけ改修されるのは不思議でもなんでもないし、植え込みが途切れているのはもともと櫻成館の前に銀木犀の樹が植えられていたから。牽強付会もいいところじゃない」
「でも、こうして成功したでしょ」
花子さんの指摘通り、わたしの記事はこじつけ以外の何物でもない。なんなら生徒の事故死なんて過去になかったことも調査済みなので、完全に捏造記事である。それでも一定数の生徒が信じたのは、それが既存の知識を覆すものだったからだろう。「意外な真実」はたとえ根拠が薄弱でも人の耳目を集め、そして他人に話したくなる。怪しい言説の流布を助長する、あまり好ましくない心性だけど、今回は存分に利用させてもらった。
「まあ、おかげで校舎の中なら自由に動き回れるようになったし、少なくとも明乃が卒業するまでは退屈しなさそうね」
「それじゃあ二年もしたら終わりじゃない。卒業するまでに、学校の外に出られるような設定を作って広めてあげる。そのためのアイデアももうあるんだから」
「そこまでいくと、もはや学校の怪談の域を超えるわね」
「こうしてトイレを離れた時点で、もう『トイレの花子さん』じゃなくなってんだから今さらでしょ」
彼女を花子さんと呼ぶのも現況には即していないのかもしれない。しかし存在しない被害者の名前を勝手につけるわけにはいかなかったので、「女生徒の幽霊」は現在名無しである。本人が呼称を気にしている様子もないので、これまで通り花子さんと呼ぶことにする。
「それで、会わなかった間になにか面白い話はあったの?」
「もちろん。今日一日では語りきれないくらい、ね」
花子さんの問いにわたしは意気込んで答える。再会したときのため、話の種はたくさん集めてあるのだ。
「どれから聞きたい? いつも窓際に放置されている図書館の蔵書、ひとり多い野球部の一年生、五十円玉五十枚の謎……」
夜の帳が下りた特別棟にふたりきり。踊り場の窓からは、出会った時と同じように月の光が差し込んでいた。
この学校に、トイレの花子さんはもういない。
花子さんは、もういない 榊野岬 @1293yox
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