押原さんは地味な図書委員の俺を推している

くれは

押原さんの推しの押尾くん


 高校に入学して約一年、片道約三十分の徒歩通学にもだいぶ慣れてきた。大きな川が流れるのを横目に見ながら大きな橋を渡る。俺と同じ紺のブレザーの制服を着た生徒が同じように歩いている。


 橋を渡り終えたところで、同じ制服姿の彼女を見るのもいつもの通り。彼女は電車通学で駅は学校の向こう側だから、いつももっと早い時間の電車でやってきてわざわざ学校を通り過ぎてここで待っているらしい。「出待ち」なのだと前に言っていた。

 出待ちって出て来るのを待つことじゃないんだろうか。橋を渡ってるだけで出待ちと言うんだろうか。というのは気になったけど、それ以上のことはまだ聞けないままだ。

 彼女は通行人の邪魔にならないように橋のたもとにある街灯とベンチの脇に姿勢良く立っていた。髪の毛はきっちりおさげにされていて、胸の赤いリボンも曲がらずきりっと着けられている。


 押原おしはらさん、というのが彼女の名前だ。下の名前は結子ゆうこ。じっと静かに佇む彼女の視線が、俺の姿を捉えて追いかけてくる、今日も。

 少しの居心地の悪さもいつもと同じ。それでも軽く右手をあげて、いつものように彼女に向かって小さく手を振った。彼女はぱああっと音がしそうなくらいに感激したような表情で、口元の前で両手を組んだ。


 朝の挨拶はこれで終了。彼女の前を通り過ぎる。

 近くを歩いている同じ制服の生徒たちも慣れたもので、もう騒ぎ立てることもしない。これはもうそのくらい、飽きるくらいに毎日続いていることだった。


 彼女の意図はいまだによくわからない。俺は困惑し続けている。


 最初の頃は「俺に何か用?」とか「何か話でもある?」とか声をかけたりしたのだけど、その度に「わたしは見てるだけなので」「同じ空気を吸えるだけで充分です」「推したいだけで一緒に何かしたいわけでは」などと言って逃げられた。


 そもそも彼女は俺のことを見詰めてくるのに、俺が話しかけにいくと目を合わせてくれないのだ。それでもしつこく話しかけていたら「押尾おしおくんは何もしなくて良いんです。わたしのことは、いないものとして扱ってください」と言われた。それはあんまりだと言ったら、今度は「じゃあ、軽く手を振ってください」と言われた。


「軽くで良いんです。遠くからあーなんかいるなーみたいな感じで軽くこう。わたし個人を認識する必要は全然ないので。あくまでファンサービスの一環というか」

「いや、ファンサービスって、別に俺、芸能人とかでもないし、ただの高校生なんだけど」

「わたしにとってはそれよりも価値があるんです。こう存在自体が尊いというか押尾おしおくんが生きているという事実だけで元気がもらえるというか眺めているだけで充実できるっていうか」


 どうやら彼女は俺を見たいだけで、俺と話がしたいわけではないらしい。というのは、この一年でなんとなくわかってきたことだ。

 結局、俺が彼女とまともに会話したのはその一回きりだ。




 押原おしはらさんのこの妙な行動のきっかけも、俺には全然わからない。


 これがクラスのイケメン枠とかならわかるけど、残念ながら俺はそういう存在ではない。ただの地味な図書委員だ。かといって眼鏡もかけてないので、本が似合う知的眼鏡男子枠でもない。成績だって悪い方じゃないけど良い方でもない。だから優等生枠でもない。本当に、中途半端で地味な一般的な高校生だと思うのだけど。

 押尾と押原で名簿が前後してたから、入学したばかりの時は席が近かった。その時に何かあったのかもしれない。俺には思い出せない。


 話を聞こうにも、彼女は俺とまともに会話してくれない。誰かが間に立ってくれたら、一応は会話らしきものにはなる。それで、この一年間で押原おしはらさんの言動にすっかり慣れてしまったらしいクラスメートは、押原おしはらさんと俺の会話に協力してくれるようになった。

 それは助かってはいる。いるのだけれど、事態はあまり改善していないように思う。


 押原おしはらさんの言動の理由もわからないし、俺は押原おしはらさんと直接は話せないし、押原おしはらさんから俺がどう見えているのかも、わからないままなのだ。




 図書委員の当番の日、押原おしはらさんは必ず図書室にやって来る。それで、図書室で本を開いて読書をしたり、ノートを開いて勉強したりしている。それが振りだけなのか、実際その行為をしているのかは俺からはわからない。


 図書委員の仕事の大半はカウンターでの受付業務で、その時間の大半は暇な時間だ。そういう時に俺が本を読んだりしていると、押原おしはらさんは俺を見てくる。その視線が落ち着かないので押原おしはらさんを見返すと、彼女はさっと顔を伏せる。そういう一連のやりとりが、いつものことだった。


 それで俺は本を読むのをやめることにした。最近はずっと、押原おしはらさんを観察していた。俺が押原おしはらさんを見ていると、押原おしはらさんは俺を見ない。その方が落ち着くことができた。

 そうやって、彼女のうつむき加減の顔だとか、時々そっとこちらの様子を伺う目だとか、それを縁取る長い睫毛だとか、きっちり三つ編みにされた艶やかな黒髪だとか、おさげ髪の中から覗く小さい耳だとか、ふっくらした唇だとか、そういうものを観察していた。


 だからここしばらくは図書委員の業務も楽しかったのだけど、今日の押原おしはらさんは普段は図書室になんか来ないようなギャル系メイクの相田さんと一緒にやってきた。相田さんには、これまでも押原おしはらさんと話すときに何度かお世話になっていた。押原おしはらさんとは幼稚園の頃からの友達らしい。なかなか面倒見が良い人だ。


「ゆーこちゃんはさ、押尾に認識されたくないんだって」

「認識されたくないってどういうこと?」

「押尾に見られたくないってことでしょ。だよね、ゆーこちゃん」

「そう。わたしはただ押尾おしおくんを眺めているだけで良くて押尾おしおくんがわたしを見たりわたしに話しかけたりそういうのは必要ないっていうか。それにわたしを認識して見てくる押尾おしおくんもわたしと親しくお話をする押尾おしおくんもちょっと解釈違いっていうか」

「ごめん、ちょっとよくわからないんだけど」


 それまで早口でまくし立てていた押原おしはらさんだけど、俺が声を上げたらぴたりと口を閉じてしまった。


「あたしもわかんないんだけどさ。とにかく押尾はゆーこちゃんのこと見ないであげて」

「そう言われても……別に広くもない図書室で、カウンターから見える位置にいるのに見ないとか、不可能だと思うけど」

「て言ってるけど、どーする、ゆーこちゃん?」


 相田さんの問いかけに、押原おしはらさんはしばらく考え込んでから口を開いた。


「じゃあ押尾おしおくんから見えないように」

「いや、待って」


 俺は慌てて押原おしはらさんの言葉を遮った。そのまま放っておいたら、押原おしはらさんが何をし出すのかわからない。だったらまだ、見える範囲にいてくれた方が良いような気がする。


「わかった、図書委員の仕事の間は押原おしはらさんを見ないようにする。だから、図書室で今まで通りに過ごして欲しい」

「って押尾が言ってるけど、どーよ、ゆーこちゃん」


 そんなやりとりがあって、結局俺は押原おしはらさんを見ないようにすると約束することになった。押原おしはらさんが何を考えているのかは、やっぱりわからない。




 図書室が閉室した後、返却本を書棚に戻して活動日誌を提出してから正面玄関を出る。


 一足先に図書室を出ていた押原おしはらさんが出待ちをしていた。この場合は出てくるのを待っているから正しく「出待ち」と言って良さそうだ、なんて考えている自分は、だいぶ押原おしはらさんに慣れてしまっている気がする。

 いつもみたいに、彼女が望むように軽く手を振ろうと右手を持ち上げる。ふと、立ち止まる。解釈違いってなんだろうな、と押原おしはらさんを見る。


 俺がじっと押原おしはらさんを見ているせいか、押原おしはらさんは不安そうな顔になって、急に視線を逸らして早足で歩き出した。俺はそれを追いかけて、校門を出る手前で追いついて、彼女に向かって振る予定だった右手で彼女の手を掴む。

 周囲の生徒は俺たちをちらりと見て、なんだいつもの二人かみたいな表情で通り過ぎていった。


 彼女は俺を見ないまま、声を上げた。


「は、離してください。そういうのは求めてないんで」


 俺は彼女の手を掴んで離さないまま、彼女に返事をする。


「俺は求めてるんだけど」

「そ、そういうの、か、解釈違いですから」

「一度聞きたかったんだけど、解釈ってどういうこと?」


 そこでようやく押原おしはらさんは俺を見上げた。唇が中途半端に開いたり閉じたりしている。頬が赤い。頬だけじゃない、耳まで赤い。いつもきっちりと編み込まれている三つ編みが少し乱れて、その赤い頰に黒い髪が何本かほつれかかっている。

 彼女の白い肌が赤くなっているのと、ほつれた黒い髪の対比が綺麗だなと思って、俺は彼女の手を離さないように強く握った。手のひらを合わせて、なんなら指も絡めた。びくりと逃げようとする彼女の手を逆に引き寄せた。


「だ、だめ、それ以上はだめ!」


 彼女は反対の手で俺の胸を押す。その抵抗とも言えないようなふにゃふにゃとした力を感じて、なんかもう俺は駄目になったんだと思う。

 彼女の手を引いて歩き出した。


「わたしは押尾おしおくんを推せたらそれで良いんです。押尾おしおくんの元気な姿を見て勝手に幸せになるので押尾おしおくんはわたしに関わらずに生きてください」

「ここまで関わっておいてそれは無理じゃない?」

「そういうの求めてないんで、解釈違いなんで」

「うん、だから、その解釈ってのを教えて」


 真っ赤な顔でまだ何かあれこれ言っている押原おしはらさんの手を引いて歩きながら、なんださっさとこうすれば良かったんだって、俺は思ったのだった。




 チェーンのファーストフード店でドリンクを買うときも彼女の手を離さないまま。電子マネーでの支払いは片手でもできるので便利だ。


 そのまま彼女を奥の席に座らせて、二人でいろいろと話してはみたけれど、やっぱりなかなか会話にはならなかった。

 押原おしはらさんの考えていることは、やっぱりまだよくわからない。彼女の「解釈」というのも、俺にはやっぱりわからない。


 でも、俺が「押原おしはらさんの推しの押尾おしおくん」でいる代わりに、一日に一時間だけ「推しじゃない押尾おしおくん」の時間をもらえることになった。なったというか、した。最後には彼女も頷いていたので、これは合意の上だ。

 だから、あとはお互いに少しずつ知っていくこともできると思う。それでいずれは彼女の中の「解釈」も改められる、はずだ、きっと。


 それまではまだ、俺は「押原おしはらさんの推しの押尾おしおくん」でいる必要がありそうだけれど。




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