16 Moe

 歌舞伎町の東の外れ。

 細い路地を歩くわたしの顔を撫でながら、風が西へ、駅の方角へと緩く流れていく。

 あの広場でマーブルを象る前の、ゆらりと僅かに波打つ風。

 そう。

 マーブルの断片。

 その流れに抗うように、わたしは風上に向けて歩みを進める。

 わたしの少し後ろを歩くミユは、妙に怯えた雰囲気を纏っている。

 無理もない。

 マーキュリーの連中に殴られたという頬の赤黒い痣は、まだくっきりと残っている。

 「いいか、ラン。無闇に暴れんなよ。あっちには人質がいる。ジンがいろいろ仕掛けてるから、計画通りに、な」

 わたしの右を歩くチェンが、左を歩くランに釘を刺す。

 チェンジンランの目付役にとわたしたちに付き添わせた、線の細い男だった。正直なところ、この男がランの暴走を止められるとは到底思えない。体型もそうだが、立ち振舞いの何もかもに、やけにびくついた空気感を携えさせている。

 「大丈夫だ。俺は冷静だ。任せとけ」

 そう返すランの声は、言葉とは裏腹に明らか高揚している。それがことさらに、チェンの頼りなさを際立たせた。

 じゃあわたしに余裕があるかと言えば、そんなもの、これっぽっちだってない。

 アイコが拉致られてもう、一日が経過した。

 無事だなんて保証は、なんにもない。

 


 『助けてモエ。エルメスが急にアタシたちを襲ってきた』

 あの、得体の知れない誰かがわたしの中に入ってきた朝、呆然としていたあたしとタクヤとジンの間に横たわった静寂を掻き消すように、電話が鳴った。アイコだった。切羽詰まった声色だった。何かに怯えて、そして誰かから隠れているのか、逃げているのか、潜ませた声でもあった。

 『どこにいるの? “たち”って、アイコの他に誰のこと?』

 思わず上擦って、わたしは聞き返した。

 『アタシと、ミユとあと何人か、エルメスを慕ってたコたち。ワケわかんないんだけど。何なのコレ』

 電話の向こうのアイコの声もまた、誰かから隠れているからなのか、静かに抑えられながらも、上擦っていた。

 『アイコ落ち着いて。今どこ?』

 『わかんないよ。必死に逃げてたから。歌舞伎町のどっかの細い路地』

 『他のコたちは?』

 『ミユは駅の方に逃げた。昨日の夜、モエたち池袋の中国人連れてきたんでしょ? そのことでエルメスたちが何か騒いでて、ミユは多分、モエを追って池袋に向かったと思う。どうしようアタシ。どうしたらいい?』

 後半は、鳴き声になって上手く聞き取れなかった。

 まずわたしが落ち着かなきゃいけない。わたしは、深く深呼吸する。

 『わかった。アイコも何とか池袋まで来て。北口出たとこで待ってるから』

 『うん、わかっ・・・』

 そこで急に、短いアイコの悲鳴と雑音で、会話が途切れた。

 『アイコ? どうしたの?』

 呼び掛けに答えはない。ただごそごそとした雑音と、輪郭のはっきりしない慌ただしい声だけが、耳にまとわりつく。

 『アイコ? ねえ、アイコ!』

 『心配か? アイコが』

 不意に、聞き覚えのある男の声がスマホから漏れた。

 『エルメス、アイコを出して』

 間違いない。電話の向こうにいるのは、エルメス。

 『それは無理だ』

 『なんで? 昨日の事ならアイコは関係ないから』昨日の夜の宣戦布告が頭を過る。『そもそもあんたたちはアイコみたいなコたちを守りたいんじゃないの? それなのに襲うって何? アイコたちが何をしたの?』

 早口に、捲し立てるように言った。それに答えるように、スマホ越しにまず返ってきたのは、乾いた溜め息だった。

 『その通りだよ、モエ。俺はな、どんなことをしてもここを守りたいんだよ。だからお前らと五山幇ウーシァンバンの連中を、何とかしなきゃならない。アイコに何かあれば、お前はほっとけないだろ? どちらかと言えば俺らの側だったミユたちまで襲われれば、気になって仕方ないだろ? お前はそういうヤツだ。俺には判ってる。こうなればお前はここに戻ってくる。 ジンランを連れて。なあ、そうだろ?』

 そう言われて、返す言葉が見つけられない。

 その通りだ。

 胸の奥の方が、ざわざわする。

 ここで黙って、じっとしていられない。

 エルメスにいいように操られているような感覚。それが悔しくて、でも、どうにも制御できない。

 『どうすればいい? どうすればアイコを解放してくれるの?』

 冷静さを装って返す。でも、少し語尾が震えた気がする。

 『パイシーズにいる。アイコに会いたきゃ、来い』

 そこで、電話が切れた。

 パイシーズ。歌舞伎町の東の端にあるホストクラブ。確かマーキュリーの何人かが、そこのホストだ。

 『何があった?』

 通話が切れたのに、呆然とスマホを耳に当てていたわたしに、ジンが問いかけた。

 『あの界隈の何人かが、マーキュリーに襲われた。多分、昨日の報復のつもりなんだと思う。で、わたしの仲のいいコが、拐われたみたい』言って、わたしはタクヤを見た。『ミユの連絡先、わかる?』

 ミユに嫌われていたわたしは、彼女の連絡先を知らない。タクヤは黙って頷いた。

 『池袋に向かってるみたいだから、ミユに北口まで来るように伝えて。迎えにいく』

 タクヤは頷くと、スマホをいじりだした。

 『で、やつらは何と?』

 ジンが問いかけてくる。

 『パイシーズってホストクラブに来いって。あいつらの屯してるとこ』

 そう伝えると、ジンは困った風に天井を仰いだ。

 『知ってる。一翁会がケツモチしてる店だ』

 言って、ジンは大きく溜め息を吐く。

 『なんだって関係ない。わたしは行くから』

 わたしはジンを見据える。ジンは、それをしばらくのあいだ正面から受けて、それから、負けた、という感じで、目線を反らして苦笑を漏らした。

 『わかった。でも一日待て。真正面から突っ込んでもやつらの思うつぼだ。こっちもちょっと仕掛けを張る』

 『そんなの、待ってらんない。その間にアイコに何かあったらどうするの?』

 気が急く。だから、ジンに向けた声が八つ当たりみたいに荒くなる。

 『落ち着け。俺らの老板ボスは一翁会の会長トップにでかい貸しがある。その線で何とか奴らの介入だけは抑えてみる』

 そう言い残して、ジンは部屋を出ていった。



 手は打った。一扇会が邪魔をすることはない。が、厄介な奴がしがらみから解き放たれた。

 昨日の深夜、池袋のあの店に戻るなり、ジンはそう言った。

 厄介な奴。

 マーキュリーに宣戦布告した夜にあの場に現れた、小柄な、長髪の男。

 特異な雰囲気を醸し出す男だった。あのリョウが、萎縮するほどに。

 『でもあいつ、一扇会のヤツでしょ? 邪魔しないんじゃないの?』

 わたしの問いに、ジンはため息を吐きながら首を横に振った。

 そして一言、今は違う、と。

 正直、どうでもいい。

 何があっても、誰が立ちはだかっても、関係ない。

 あの場所を取り戻す。

 それは、その誓いは、変わりようがない。

 そのためには、アイコを無事に解放させる必要がある。こんな暴挙を許していては、あの場所は戻ってこない。

 ラブホの立ち並ぶ細い路地を抜けて、目的地が視界に入る。

 派手な看板の下に、ぽっかりと口を開けるように、雑居ビルの地下へと続く

 店の入り口。

 パイシーズ。

 ここに、アイコがいる。

 わたしの歩調は、無意識に早くなる。

 「ちょっと待てって。焦んなよ」

 わたしの腕をチェンが引いて止める。

 「ちんたらしてらんないの。離して」

 チェンを振り向かずに言ったが、チェンは腕を離してくれない。

 「待てって。ちょっと面倒な事になってる」

 怖じけた声で、チェンが言う。

 「わたしたちが店の前であいつらの気を引くってのが作戦なんでしょ? だったら面倒とか何とか関係ない。さっさと行かせてよ」

 言い返してチェンの手を振り払おうとしたが、チェンは手に力を込めて、それを許してはくれない。華奢なわりにその掌に込められた力が強くて、わたしは少し驚く。

 「駄目だって。店の前にいる連中、あれは刀影幇ダォエイバンの連中だ」

 言って、チェンは目線だけで店の入り口前に屯す男たちを指す。3人の男。中でも他の2人より一回り大柄の、側頭部を刈り上げ、残した長い髪を後頭部でひっつめた男が、何故か目を引いた。

 「あいつらが絡んでるなんて想定外だ。一度、ジンに連絡して・・・」

 そのチェンの言葉を遮るようにわたしたちを押し退けて、突然、ランが足早にその男たちに向かっていった。

 「ラン、待てって!」

 チェンが止めようとするが、ランは振り向かず、どんどん男たちに向かっていく。

 「エン!」

 ランが叫ぶ。

 同時に男たち、正確には、大柄な男に向かって走り出す。走りながら右腕を振りかざし、そのまま拳を走らせた。

 大柄の男は、僅かに後方へ後ずさりながら、上体を仰け反らせ、ランの拳を交わす。

 拳が空を切ったランの身体が斜めに傾く。が、その勢いのまま回転しつつ、今度は後ろ向きで左脚を振る。

 みぞおちに向かってきたそれを、男は咄嗟に身体の前で腕を交差させて、受ける。それでも勢いまでは止めきれず、背後に飛ばされた。

 男は数歩後ろへしりもちをつくような形になったが、すぐさま後方へ一回転して立ち上がり、ランに向かって身構えた。

 「卑怯な不意打ちでないと向かってこれないのは相変わらずか? ラン

 「不意打ちなら殴る前に呼び掛けるなんてしねえだろ、エン

 ふたりはそう言い合って、その距離感のまま、お互いに睨みあった。

 「待て待て」その二人の間に、チェンが割って入る。「今ここで刀影幇ダォエイバンと揉めるのはまずいよ、ランエン、それはお前も同じだろ?」

 エン、と呼ばれる大柄の男に言いながら、チェンは背中でランを押して、引き下がらせようとする。

 一連の騒ぎで、パイシーズの入り口から、男たちが何人か飛び出してくる。どれも見覚えのある顔。マーキュリーの連中。

 「お前らが池袋に籠ってれば手は出せねえが、歌舞伎町ここに来るなら話は別だ」

 言って、エンはじりっと一歩、足を踏み出す。

 「上等じゃねえか」

 それに応戦するように、ランも前のめりになり、チェンを押し退けようとする。が、次の瞬間、ぐるりと身体が縦に回転し、地に背を着けたのはランだった。

 一瞬のことで何が起こったのか理解できなかった。

 チェンランを投げ飛ばした?

 わからない。

 けど、今の体勢を見るからに、そうとしか捉えられない。

 「ちょっと静かにしててくれ、ラン

 足元に倒れるランを見下ろしながら、それでも変わらない怖じける声で、チェンが言った。そして改めて、エンと向き合う。

 「俺たちはお前らと揉める気はないよ」チェンは振り向かないまま、後ろにたっていたわたしを親指で指す。「その子の仲間がそこのマーキュリーの連中に拉致られた。俺たちはその子を解放してほしいだけだ。解放してくれたら、また池袋に引っ込むよ」

 チェンの言葉で、エンはわたしをちらりと一瞥して、すぐにまた、視線をチェンに戻す。かと思うと、何かを思い出したかのように、今度は少し困惑したような表情を浮かべて、わたしをまじまじと見据えた。

 「―――雨桐ユィートン

 また、その名前。

 その名前が今度は、エンの口から漏れる。

 そしてそこで、わたしの意識は白く、淡く、飛んだ。

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ストレイ・ガールズ・フィロソフィー/High-School Girls' Universe Final 北溜 @northpoint

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