15 Neutral -Yuya-

 新宿中央公園の西側、十二社通り沿いの脇道を更に西へ入った住宅街の一角に、その蕎麦屋はあった。

 正午から夜間にかけて、近隣のオフィスに詰めるビジネスマン達で賑わうこの店も、閉店時間を過ぎた深夜零時には、客足と共にそれまで店内を満たしていた喧騒は掻き消えて、静寂に包まれる。その静けさの中で、厨房の奥から聞こえてくる包丁がまな板を叩く小気味良い音が、みね佑哉ゆうやは昔から好きだった。三十数年前から耳に染みるこの音だけが、血生臭い日々を生き抜いてきた峰を、和ませることのできる唯一の拠り所だった。

 初めてこの音を耳にした頃はまだ、何の権力も財力も無い、歌舞伎町の底辺を這いずり回るただのチンピラだった。何も無かった。とはいえ今よりもある意味では、いた。

 その頃は、瞬間的に沸き立つ衝動をただただ垂れ流す事ができた。衝動に従ってさえいればよかった。自分の中でカチリと音にならない音がして、後はもうその音と共に溢れ出す衝動に駆られるまま、身体が動いた。正気に戻った時には必ず、目の前に血にまみれた相手が横たわっていた。

 壊したい。何もかも。モノであれ、ヒトであれ。

 そのカチリという音と共に全身を走る熱に身を委ねることで、峰は、他の何にも代え難い快感を得ていた。

 何がその音のトリガーになっているのかなんてことは、判らない。判っていたのは、その破壊衝動こそが峰の行動原理の全てで、存在意義の全てだった。

 今は違う。一翁会という組織の会長トップの座に上り詰めた今は、そんな衝動に何もかもを委ねる訳にはいかない。打算が必要だ。それが幾ばくかもどかしい。だから峰は今、どこか部分的に満たされてない靄のようなものをいつも、胸の中に抱えていた。

 とはいえ、だ。

 それと引き換えに得た“刺激”もある。

 歌舞伎町の暗部で、複雑怪奇に絡み合う覇権と利権。一見御し難く見えるそれらを、自分の意のままにコントロールする事で得られる、また別の種の快楽。それを得ることは容易ではない。闇の中に引かれたか細いロープの上を目隠しをして渡っていくような、命を賭した駆け引きからのみ得られる狂気染みた刺激。得難いからこそそれは、麻薬に似た中毒性があった。峰は今、その中毒性にどっぷりと浸かっている。

 歌舞伎町で一番影響力を持つ韮澤組。彼らをその地位から引き摺り降ろすための下地が、整いつつある。そこに至るまでに直面してきた修羅場をすり抜けてこられたのは、奇跡に近い。だが奇跡に近いからこそ、確信できることもある。

 ―――俺は歌舞伎町この街に選ばれた人間だ。

 まるで始めからそう決められていたような奇跡。運命と言ってもいいかもしれない。新宿駅を挟んで今いるこの店の反対側に広がる歌舞伎町を、その暗部の全てを手に入れるのは自分だという確信が、峰の中に在った。

 「はいよ」

 物思いに耽っていた峰のテーブルに、厨房から出てきた白髪の店主が無造作に、刻まれた葱をたっぷりと乗せた揚げ出し豆腐を置いた。

 「何度嗅いでもたまんねえな、この店のこれは」

 皿から沸き立つ葱の鼻を突く青臭さと、それにいい具合に混じる出し汁の香りに、峰は鼻をひくつかせる。

 「そんなことよりちゃんと営業中に来い。年寄りに夜中まで働かせんなっていつも言ってんだろうが」

 店主の悪態を聞きながら、峰は割り箸を割る。

 「他の客が居るときにヤクザが入ってきたら、おっちゃん困るだろうよ」

 「困んねえよ。それで寄り付かなくなる客なんぞここに来なきゃいい」

 舌打ち混じりに言って、店主はまた厨房に消えた。

 このやり取りも、もう何年も続けている。

 峰は思う。それは店主の本音だろう。そういう人間だということは、三十年来の付き合いだからよく判る。良くも悪くも不器用な人間なのだ。それが判っているから、峰はこれまでもこの先も、営業時間中にこの店の敷居を跨ぐことはない。

 もう温くなり始めていた瓶ビールをグラスに注いで一息に飲んでから、揚げ出しに箸をつけようとした時だった。背後で店の引き戸が開く音がした。

 「会長オヤジ、客です」

 振り向かずとも判る。舎弟頭、大薮の声だった。

 「この店に居るときは邪魔するなってのは、何度も言ってきたよな?」

 揚げ出しを一口頬張り、振り向かないまま言った。そんなつもりはなかったが、声色に少し怒気が混じった。

 「申し訳ないです。ただ、会長オヤジにとっちゃ無下にできない相手だったんで」

 大薮に言われて気付く。背後に、大薮以外にもうひとり、気配を感じる。

 それは独特な気配だった。

 刺すようでいて、ねっとりとまとわりつくようでもある、どこか何か矛盾した、得体の知れない気配。

 そんな気配を背負うことのできる人間を、峰はひとりしか知らない。

 振り向くと大薮のすぐ後ろに、久しく見ていなかった顔があった。まさにその、峰がひとりしか知らない人間、本人だった。

 郭芳グゥオファン

 10年前まで、歌舞伎町の中国人マフィア、いわゆる黒社会ヘイシャーホェイ界隈では、最も勢力のあった五山幇ウーシァンバン老板トップ

 最後に会った時の、だらりと垂れ流した白髪まじりの長髪をばっさりと切り落として坊主頭にしていたから、当時と随分印象が変わってしまっていた。が、額の左側から右頬にかけて斜めに走る刀傷は変わらない。それが紛れもなく、男が郭芳グゥオファンであることを象徴していた。

 「どうしたよ、兄弟。久しいな。いきなり俺に会いにくるなんてよ」

 言いながら峰は、対面の席を促した。郭芳グゥオファンは素直に従って、目の前に腰かける。

 「そろそろ十年前の貸しを返してもらおうと思ってな」

 郭芳グゥオファンはおもむろに峰の目の前にあったグラスを手に取ると、瓶の中に僅かに残っていたビールを注ぎきり、それを一息に飲んでから、温いな、とひとりごちて顔を顰めた。

 確かに峰は、郭芳グゥオファンに大きな借りがあった。歌舞伎町の底辺にいたチンピラが、韮澤組と歌舞伎町の覇権を競いあうほどに成り上がれたのは、郭芳グゥオファンへの借りがあったからこそだった。

 「俺にできることなら、まあ何でも言ってくれ」

 峰は厨房の奥に向けて、空になったビール瓶を降って追加を注文した。

 店主がもうひとつのグラスと、栓を抜いたビールを持ってくる。郭芳グゥオファンがそれを受け取って、新しいグラスにビールを注いで峰の前に差し出すと、自分はそれまで峰が使っていたグラスに手酌して、それをまた、一息に飲み干した。

 「これからウチの身内が、ちょっと歌舞伎ではしゃぐことになる。それに目を瞑って欲しくてな」

 言いながら郭芳グゥオファンはビールを注ぎ直し、それをまた、グラス半分くらいまで飲み下した。

 「はしゃぐってのは?」

 訪ねると、郭芳グゥオファンは小さく、少し苦味を含ませながら笑んだ。

 「まあ、末端の連中のちょっとした揉め事なんだがな。ウチの身内の連中が例えば、そこの男の周りで目につくような事があっても、見過ごして欲しいんだわ」

 峰の背後に立つ大薮を指差して、郭芳グゥオファンが答えた。峰の右側の眉が、無意識にぴくりと小さく震える。

 ―――きな臭い、な。

 韮澤組を今の地位から引き摺り降ろすための下地。それはまさに、大薮が仕切って組み上げてきた諸々のだ。それを一斉に動かそうとしているこのタイミングで、郭芳グゥオファンが10年ぶりに現れ、その大薮の動きを制限しようとしている。

 何かある。直感した。

 に気付いている?

 それは、十分にあり得る。

 中国にルーツを持つ黒幇ヘイバン達は、民族性からなのか、“耳”も“目”も“鼻”もよく効く。つまり、暗部のあらゆる情報に精通している。

 だとすると狙いは?

 韮澤組と通じている?

 いや、それはないだろう。

 郭芳グゥオファンに借りを作ることになった10年前の“事件”。郭芳グゥオファンのその時の立ち回りは、韮澤組を激怒させ、結果この男とその取り巻きは、歌舞伎町を出ていかなくてはならなくなった。だからさすがにそこは、繋がりようがない。

 何か狙いがあるのは確実だ。が、それが何なのか、峰には読めなかった。

 ただ、捉え方によっては、峰にとって都合のいい要求でもある。

 を動かす前に、峰にはやっておかなければならないことがあった。だからこの郭芳グゥオファンの要求は、上手く利用できる。

 「他でもない兄弟の頼みだ。無下にはできねえよ―――大薮」

 振り向かないまま、大薮を呼ぶ。

 「はい」

 大薮はすぐに、峰と郭芳グゥオファンの座るテーブルの脇に立った。

 「お前、破門だ。エンコ落としてけ」

 峰は郭芳グゥオファンを見据えたまま、言った。

 郭芳グゥオファンの眉根に、皺が寄る。

 刹那、今度はその郭芳グゥオファンの頬に、小さく弾けた血飛沫が張り付いた。

 大藪の血だった。

 大薮は躊躇なく自身の左手の小指を、懐から取り出したドスで切り落としていた。そして峰に一礼すると、痛みを微塵も表情に出さないまま、薄く笑みすら浮かべて、店を出ていった。

 「どういうことだ?」

 郭芳グゥオファンがテーブルに転がった大薮の小指を一瞥してから、尋ねた。眉根に皺は寄ったままだった。

 「これからアイツがやることは、あくまでアイツの独断で、暴走だ。は、あんたらの身内には手を出さない。そういう意思表示だよ」

 唇の片側だけを吊り上げで、峰は歪に笑んで見せた。小さく溜め息をついてから、眉根を緩め、郭芳グゥオファンも同じような笑みを浮かべる。

 「なるほどな。韮澤組に仕掛けるにあたって、お前はそもそもあの男を切り離すつもりでいたってことか。自然な形でそうなるような手口を考えてる矢先、まんまと俺ら五山幇ウーシァンバンがその大義名分をくれてやった、と」

 数度小さく頷いてから、郭芳グゥオファンは立ち上がった。

 「ただな、あの男に一翁会の後ろ楯がないならこっちも手加減はしない。全てお前の思惑通り、あの男が立ち回れると思わんほうがいい」

 そう言い残して、郭芳グゥオファンは店を出ていった。

 ―――あんたも大薮を見くびらんほうがいいよ、兄弟。

 口のなかでひとりごちてから、峰は血飛沫が張り付いたグラスを手に取り、一息に飲み干した。

 少し血の混じったそれは、まだ衝動に駆られていただけの頃によく味わった鉄臭い後味を、峰の口の中に残していった。

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