14 Miyu

 初夏の朝の湿気が、ほんのりと冷気を帯びてる。

 徐々に強くなっていく日差しがその冷気をちりちりと消し去って、広場を満たす薄く白い靄を少しずつ晴らしていく。

 早朝の歌舞伎町。

 あちこちの雑居ビルから漏れ出してくる夜の住人たちが、濁流みたいになって新宿駅へ向かっていく。この広場はまるで、その流れから取り残された蟠りだ。時折、濁った人波から何人かが広場に漏れだし、夜通しはしゃいだせいでほんの少ししか残っていない最後のエネルギーを、無理やり絞り出すようにもうひとはしゃぎして、また流れに戻っていく。

 こんな時間の、そんな広場にワタシを呼び出したのは、アイコだった。

 昨日の夜は3時頃までここでみんなとはしゃいでて、それからネカフェに入ってシャワーを浴びて、まさに寝入ろうとしたタイミングだったから、正直ちょっとイラついた。

 ワタシが嫌いなモエにべったりのアイコだから、別にその呼び出しに付き合う義理なんてなかったけど、エルメスもいるからと言われたら、行くしかない。

 広場にいたのはアイコとエルメスとリョウ。他の、マーキュリーの何人か。そして少し距離を置いたところで、小柄な長髪の男がタバコを吹かしていた。昨日の夜、モエが歌舞伎町に連れてきた連中と揉めそうになった、小柄なくせに妙に厳つい体つきの、どこか不気味さを漂わせる男。

 ワタシは以前からその男を、何度かこの界隈で見かけたことがあった。いつもは半グレっぽい下っ端を何人か引き連れて歌舞伎町を練り歩き、道端に立つキャッチやスカウトや、いかにも夜の商売をしてそうなお姉さんたちが、男に妙にへこへこしていたのを覚えてる。確か、大薮とか呼ばれている男。いわゆる、ヤクザ、なんだろう。ワタシが嫌う、この歌舞伎町の大人の象徴みたいな存在。正直、あまり関わりたくない。

 「ごめんね、ミユ。寝てたんでしょ」

 歩み寄っていったワタシを見つけると、アイコはそう言って笑った。

 その表情に、なんだか凄く違和感を感じた。悪寒、といってもいいかもしれない。今まで見たことのない、感じたことの無い、アイコの纏う雰囲気。どこがそんなに違うのか注意深く見てみて、気づく。

 目だ。

 正確には、目の上を薄く覆うような、淀みだ。

 それがアイコの、なんだろう、本性みたいなもの? それを霞ませて、まるでそこに確かにいるはずのアイコの存在そのものを、ゆらゆらと揺らがせているような、アイコの姿形の輪郭全体をぼやけさせているような、すごく、なんだか、不快な雰囲気を沸き立たせている。

 それに似た淀みを、ワタシはどこかで見たことがある気がする。でも、はっきりどこでだったか、思い出せない。

 頭の裏側の、ずっとずっと奥の方から、なんだか甲高い音がする。それはただの音だったけれど、明確にワタシに、ある意思を伝えてくる。

 ―――警戒した方がいい。

 直感みたいなものなのかもしれない。

 本能が反応した、とか、なんだか、そんな感じ。

 とにかくワタシは反射的にその感覚に従って、アイコに向かって少し身構えた。

 「どうしたの? ミユ。なんか変だよ?」

 言ってアイコは笑みを深くする。

 いや、変なのはワタシじゃなくて、アンタだよ、アイコ。

 ワタシは半歩、後ずさる。

 「ミユ、お願いがあるんだ」そんなワタシを庇うように、人影がすっとワタシとアイコの間に差し入ってきた。エルメスだった。ワタシの前に歩み出て、肩をぽんと叩く。「タクヤとモエに、取り入って欲しいんだ」

 「え? どういうこと?」

 一瞬、ほんの僅かに、エルメスのまなざしがぎらつく。

 「昨日、アイツらが連れてた男ふたり、覚えてる?」

 覚えてる。

 背が高いくせにやけにはすっこい坊主頭と、銀髪のロン毛。ワタシはこくりと頷く。

 「アイツらは昔、この界隈に屯してた中国人でさ、タクヤたちとツルんで、俺らのこの広場のコミュニティを潰そうとしてるみたいなんだ」

 広場。

 潰す。

 このふたつの言葉に、ワタシの身体はぴくりと反応する。

 やっと見つけたワタシの居場所。

 誰にも壊させない。

 中国人?

 そんなの関係ない。

 誰だろうと。

 「許さない、そんなの」

 はっきりと言い切ると、エルメスは嬉しそうに薄く笑んで、小さく何度か頷いた。でもそれをすぐに消し去って、入れ替わりに、力の抜けるような溜め息を漏らす。

 「とは言え、厄介な連中なんだ」

 言って、ジーパンのポケットに捩じ込んでいたタバコを取り出すと、エルメスはそれに火を点け、まだ薄く靄のかかった広場の空に向けて、煙を吐き出した。

 「アイツらには、いざとなれば逃げ帰れる場所くにがある。だから色んな意味で過激で、容赦がない」

 エルメスはすっと視線を下げ、広場の対角線を見やる。

 その視線の先に、こちらに近づいてくる大柄の男がいた。

 「だから、あいつらの相手は同類にやってもらう」

 遠目にその男は、顔中に黒い墨のようなものを塗りたくっているように見えた。近くに来て判る。タトゥーだ。無数のいばらが絡み合うようなタトゥーが、顔と、剃り上げられた側頭部を埋め尽くしていた。ほとんどモヒカンみたいに残された真ん中の髪の毛は相当な長さで、頭の後ろでひっつめられている。

 その風貌の厳つさもあるかもしれない。けど、それ以上に、男から滲み出てくるような空気感に、なんだか凄く圧を感じた。対峙する相手をじんわりと包み込んで、ゆっくり締め付けてくるような、隙間も逃げ場もない圧。多分コイツはヤバいヤツだ。何となく、そんなことを察する。

 「朝早くに呼び出して悪いね、エン

 言ってエルメスは軽く握った拳を突き出す。エンと呼ばれた男はそれに応えるように、とはいえ気怠そうに、こつんと自分の拳を当て返した。

 「ジンラン歌舞伎ここに戻ったってのは本当か?」

 エンの発したその言葉はかなり流暢だったかけど、ほんの僅かに、イントネーションに違和感があった。エルメスが同類と言った意味。エンという名前もそうだけど、この男も中国人ってことだ。

 「俺がこの広場を仕切ってる事に反抗的な連中がいてね。そいつらが昨日の夜、ここにジンランを連れてきたらしい。昨日はそのまま帰ったみたいだけど、そん時の様子を聞く限りだと、多分また来るね」

 「そうか」

 エルメスの言葉に男は短く、そっけなく返す。そっけなくはあったけど、その瞬間、音もなくその男の圧の密度が、じりじりと増したような気がした。

 「そうなるとお前もほっとけないだろ? なあ、エン、あいつらが二度とここに近寄れないように、蹴散らすのを手伝ってくれないか?」

 少し挑発染みた笑みを浮かべて、エルメスがエンを煽る。エンはそれに、動じるような素振りはこれっぽっちも見せない。ただ、発する圧は重いままだ。

 「マサヤ、ランはともかく、ジンをあまり舐めないほうがいい。アイツは賢い。馬鹿正直に真っ向からぶつかると、やられる」

 静かな声だった。

 静かだけどその言葉にも、圧が籠っていた。

 でも、エルメスも怯まない。

 「それは、この子が探ってくれる。なあ?」言って、エルメスはワタシの肩をぽんと叩いた。そしてそのまま、ワタシを見据える。「俺らと揉めて、タクヤとモエの仲間になるってことにして欲しいんだ。で、アイツらとつるんで、アイツらの動きを探って俺らに教えてほしい」

 仲間になる?

 ワタシとモエが?

 ありえない。

 ワタシは首を何度も横に降る。

 「ワタシがモエのことメチャクチャ嫌いなの、エルメス知ってんじゃん。絶対無理」

 拒否するワタシの両肩を、エルメスは優しく掴んだ。優しかったけど有無を言わせない、内側に秘めた力強さみたいなものも感じた。拒むな。そう、無言でワタシに語りかけているようだった。

 「この広場を守るためだ」

 その台詞がとどめだった。

 ワタシはその言葉に、逆らうことなんてできない。半ば強制されるように、こくりと頷く。いや、頷かされる。

 「アイツらは池袋にいる。うまく取り入るんだ」

 エルメスはスマホを取り出して、何かを操作した。

 ワタシにラインが届く。エルメスから。そこにアルファベットと数字がぐちゃぐちゃと並べられたリンクがあった。タップする。地図アプリが起動して、池袋駅の北側にピンが立った。恐らく、そこへ行け、ということだ。

 「でも、ワタシがいきなり仲間にしろなんて言って、モエ信じるかな?」

 ワタシはエルメスの頼みに頷きはしたけど、不安は拭えなかった。モエだって、ワタシがモエを嫌ってることを知ってる。揉めたからなんて言って、簡単にモエが受け入れてくれるとも限らない。

 「信じられるような証拠をつきつけりゃいいだろ」

 不意にエルメスの背後から声が飛んできた。大薮だった。

 それまで黙ってタバコを吹かしていた大薮が、吸いかけのタバコを投げ捨て、足の裏でそれを揉み消してから、ワタシに歩み寄ってきた。そしてそのまま、右腕を振りかぶった。

 次の瞬間、左目のあたりに鈍く、激しい痛みを感じた。勢いでワタシは、その場に尻もちをつく。しばらくしてから、大薮に殴られたんだと悟った。

 「んー、ちょっと足んねえか、これじゃ」

 言って大薮はへたりこんだワタシの胸ぐらを掴むと、無理矢理ワタシを立たせた。

 大薮の口許は笑んでいた。でも目は笑ってなかった。黒くてのっぺりして艶のない黒い目でワタシを見据えて、また右手を振りかぶった。

 エルメスを見た。

 縋るように。

 でもエルメスの目も、艶のない黒だった。エルメスは大薮を、止めてくれない。

 今度は左頬に鈍い痛みが走る。

 痛む頬を両手で押さえながら、ワタシはへたりこむ。

 「その傷見せて、俺みたいなヤクザもんに襲われたって言や、信用するだろ」

 くくく、と笑う大薮の気配が遠退いていく。

 何が起こってる?

 判らない。何も。

 すぐそばで誰かがしゃがみこむ気配を感じた。視線を上げた。エルメスだった。

 「ミユしか頼れないことなんだ。頼むよ」

 ワタシを見据えるエルメスの目玉の黒には、やっぱり艶がなかった。

 得体の知れない怖さを感じた。

 ワタシはこくこくと小さく早く頷き、立ち上がると、新宿駅へ流れていく人混みに、逃げるように飛び込んだ。

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