この世界で一番眩しい光を放つ君へ
夢咲彩凪
第1話
黄昏色した空の中心で燃えさかる陽は、海に長いレッドカーペットを敷いて凛と浮かんでいた。
少しずつ、少しずつ、水平線に溶けていきながら。
もうすぐそこでは、夜の色が空のキャンバスを染め始めている。
──いってらっしゃい、太陽さん。
きっと、またあした。
きっと、また約束の日に。
***
植物たちの宴の季節。桜が花開き、舞い踊り、儚く散る季節。
「……学級委員長になりました。苅込 星(かりこみ せい)です。よろしくお願いします」
高校三年生になった私は、新しいクラスで一年前の今日と一言一句違わない言葉を口にする。
わざとらしく手を打つ担任につられて、まばらに乾いた拍手が起こって、すぐに消えた。
別に学級委員長がやりたかったわけじゃない。
役員決めの気まずい雰囲気のなか、真面目そうな見た目と二年生のときもやっていた経験を併せ持つ私に自然と視線が集まっただけだ。
そしてそういう時、私は自然と面倒事を引き受けてしまう性でもあるから。
自分の席についたあと、ひそかにため息を吐き捨てる。
私は、自分のことが大嫌いだ。世界中のだれのことよりも、自分が。
誰に対しても愛想を振りまいて、言われたことにはなんでも頷いて、人が喜ぶような言葉だけを選んで。
嫌われないように、好かれるように──他人の目ばかり気にして。
こういうのを八方美人とか、偽善者とか、言うんだろう。実際に影で言われていたのを偶然にも聞いてしまったことがある。
〝八方美人〟〝偽善者〟
私の性格への評価として、的の中心を射抜いている言葉だ。
いつものごとく自己嫌悪の沼に溺れながら、ずり落ちてきたメガネを押し上げる。
〝星〟なんて名前、私には似合わなすぎる。それはもっと輝いてる人のための名前だ。
そう、たとえば──。
「あ、はいはい! せんせー! 俺副委員長やる」
この人、みたいな。
光が溢れ出して弾けるような明るい声色に、教室の色も心なしか照度を増す。
「おーいー、陽斗ー! だったら委員長やれよ!?」
「おまえ、楽だから副委員長狙ったんだろー」
数人の男子たちが大ブーイングを起こす。クラス替えもしたてなのに、親しげだった。
去年までは接点は少しもなかったけれど、私も彼の名前は聞いたことがある。やはり〝陽キャ〟な彼は、友だちも多いんだろう。
私は陽斗……と頭の中で反芻する。
彼にぴったりな名前だ。
その輝きは〝星〟よりもずっとずっと身近で、強く輝いている太〝陽〟。
私の生きる世界とは完全に違う世界を生きる人。
「みんな大好き安藤陽斗くんです! なんかやってみたくなったから手挙げたけど、適当にがんばりまーす」
彼がヘラヘラと笑いながらそんな雑な挨拶をすると、またクラスが盛り上がりを見せる。
そして再び先生に促され、彼に送られたのは、少なくとも私とは一味違う拍手だった。
──その日が私と陽斗の、正反対な私たちの、出会いの日。
神様が定めた、奇妙な巡り合わせ。
*
無性にひとりになりたくなるときがある。
だれもいない場所へ行きたくなるときが。
三年生になってもう早一ヶ月。
さっきまでは最近何となく形成されてきた女子グループで昼食を取っていた。私だって友だちができないというわけじゃない。
でも心から信頼できる相手かと聞かれれば頷くこともできない。
『私、図書室で本借りてくるね』と言い残して、向かった場所はいつもの場所──立ち入り禁止の屋上。
一歩踏み込めば、爽やかな初夏の風が吹き抜けた。
自分が悪いことをしているという意識は、不思議と心地よい。
私は偽善者なんかじゃない、いけないことだってできるんだ、っていう謎の満足感に浸れる。
「ふう……」
フェンス越しに広がる町の風景を眺めていると、まるでこの広い世界に自分しかいないような錯覚に陥る。
本当の意味でひとりになれたような。
だから、この場所が好きだった。だれも知らない私だけの秘密基地。
ゆっくりと流れる時間の感覚に浸りながら、大空を仰いで、太陽の眩しさに目を細める。
──ガシャン
突然、後ろで屋上の重い金属扉が派手な音を立てたのはそんな時だった。
ハッとして後ろを振り返れば、大きく見開かれた瞳と目が合う。
そして次の瞬間、彼はまるで何事もなかったかのようにすばやく踵を返し、私に背を向けて。
「……え、」
その拍子に不自然に膨らんでいたポケットから〝なにか〟をこぼした。
「……っ、ああ、くそ、なんでこんなときに」
彼は焦ったようにひとりごとを漏らしながら、散らばったものを拾い集めはじめる。
反射的に手伝おうと手を伸ばしかけ、宙で静止させる。自分の人差し指と中指が決まり悪そうに絡まった。
──正直にいえば私は彼のことが、安藤陽斗のことが苦手だった。
副委員長なんか立候補したくせしてクラス一の問題児。
最近あったことと言えば、頭が固くて嫌われてる先生のハゲ頭にナメクジを投げつけた。
自意識過剰で口うるさいおばちゃん先生なんて、彼に論破されてしばらく学校に来ていない、だとか。
とにかく問題ばかり起こして、自由奔放で、やりたいことはなんでもやる。
それが安藤陽斗。
学級委員からも注意しておいてくれ、なんて呼び出されたときはさすがに怒りが込み上げた。
……でも、彼は好かれてる。クラス一の人気者。
私の方がみんなに優しくしてるのに。私の方がみんなのためにがんばってるのに。私の方がみんなに気をつかって──。
なんで。どうして。私は。彼は。
彼を見てると、自己嫌悪に陥るから嫌だ。
「……これ見たこと誰にも言うなよ」
いつもうざいほど明るい安藤くんの、見たこともない影を落とした表情。低い声が私の鼓膜を不機嫌に揺らす。
「大丈夫……なの?」
どこか悪いの、なんて直球には聞きずらくて、そう尋ねた。
彼はなにか言うより先に拾い集めたうちのひとつのパッケージから、白い錠剤を取り出す。
そして持っていたペットボトルの水とともに流し込む。彼の喉仏が上下に動いた。
「ここには誰も来ないと思ったのに。なんで出しといたんだろ、俺」
彼はそんな独り言とともにわざとらしく頭を抱える。
私の質問に答えてはくれないらしい。ムッとして口を開いたけれど、やはり噤む。
「……まあ、いいや。委員長口硬そうだし」
「え?」
「誰かには言っときたかったんだよな。できれば俺のことどうでもいいと思ってそうなやつに」
話の展開が読めずに固まる私を、安藤くんはへらへらと笑いながら一瞥する。
そして、まるで他人事みたいに、ぽつりと言った。
「──俺、もう少しで死ぬらしい」
一瞬、世界からすべての音が消えた気さえした。
私の周りに存在するあらゆるものが、息を殺して、彼に視線を向けている。
ぐるんぐるん、と回る景色。立っていられないほどの目眩が私を襲う。
〝死〟
あまりにも現実味のない単語だった。
なぜなら、安藤くんはまさに今、そこに存在しているから。それがふつうで、当たり前で、あるべき日常の形で。
理解の追いつかない頭の中で、不快感を募らせる警鐘音が鳴り響く。
「医者に言われちゃったんだよ。生きられるのはあと一年くらいで、大学生になれる確率はめっちゃ低いーって」
自分の心臓の音が邪魔して、彼の声がすごく遠くに聞こえた。
何か、言わなきゃ。どうしたらいい? 私は彼になんて言えばいい……?
「ごめん──」
「……──なんてな」
ようやく震える声で口に出した言葉は、何に対してかもわからない謝罪で。
それさえすぐに彼の声に打ち消された。
私は「え?」と顔をあげる。
「──なんて言ったらどうする?」
彼はニヤニヤと口元を緩めて、「嘘に決まってんじゃん」と。
煮えたぎるマグマのごとく、怒りが湧き上がる。沸騰するんじゃないかと思うくらいに、顔に熱が集中していくのがわかった。
そして爆発する寸前。
ふと、激情の波が引いた。一秒にも満たないその刹那の隙に。
代わりとして押し寄せてきたのは別の感情。
嘘でよかった。どうしようかと思った……。
そう心の中で呟いたと同時に、〝安堵〟が広がっていく。
私は唐突に気づいた。
安藤くんの口から〝死〟という言葉を聞いたときに生まれた感情は、〝寂しさ〟でも〝悲しさ〟でも、もちろん〝絶望〟でもなく。
──〝焦り〟だった。これから死ぬ、という人に対する対応の仕方がわからない、という焦り。
常に模範解答のような生き方を知らず知らずのうちに目指してきた私は、全く予想だにしなかった現実を前に正解を見つけられずにいた。
「最低……」
自分に対してのつぶやきが彼を攻撃する刃と化す。
「あっ、ごめ──」
彼の言葉を聞き終わらないうちに、私はぐちゃぐちゃに混ざりあった感情を抱えてその場から駆け出した。
どこまでも自己中でしかいられない自分も、私の悪いところばかり露呈させては弄んでくる安藤陽人も、平等に生きられないこんな世界も。
ぜんぶ、ぜんぶ、こわれてしまえばいいのに。
なんて。
*
「今日、日直の掃除当番だよね……?」
「あ、わりぃ、今日俺ら塾早く行かなくちゃいけなくてさ。苅込、代わってくんね?」
「いいよ。塾がんばってね」
慌ただしげに荷物を抱えて、教室を出ていっていくクラスメイトたちの背中を見送る。
縫い付けていた笑顔から糸が少しずつほどけて、跡形もなく散った。
さっきこれからカラオケに行くって話していたのをこの耳で聞いていたのですが、ねぇ。あれは私の空耳ですか? ええ?
心の中では毒を吐きつつ、ほうきを手に持つ。
放課後を知らせるチャイムが、響き渡っていた。
「星ちゃん、じゃあね」
「うん、お疲れ様!」
近づいてきた友だちに慌てて笑顔を貼り付け、別れの言葉を返す。
手伝ってくれてもいいのに……って、そんなこと言っても仕方がない。
私が引き受けたことなんだから。
そうして賑やかだった教室は潮が引くようにだんだんと静かになっていく。
時折廊下を部活のユニフォームを着た集団が過ぎていったりすると、酷く妙な気分になったりするものだ。
「よし、終わった……」
手際よく掃除を終わらせ、ついでに担任に頼まれていた書類を運び終わって戻ると、私は大きく伸びをする。
パタパタと軽快な足音が迫ってきたことに気づいたのは、その時だった。
ガラッと教室のドアが開けられる。
「うわ、ビックリした! なんだ、委員長か」
ゆっくりと流れていた時間が、急速にぜんまいの螺子を巻かれて動きだす。
今、最も聞きたくなかった声の持ち主──安藤陽斗は、昼休みのことなど全く意に返した様子もなく、「よっ」と片手を挙げた。
どうしてこうも今日は今まで大して関わりもなかったこの人と、1日に2回も鉢合わせしてしまうんだろう。
でも、平常心平常心……。
「どうしたの? 教室に忘れ物でもした?」
「そ、忘れ物。あったあった、財布無くしたかと思ったわ〜」
ほっと息をもらした安藤くんに「よかったね」と声をかけつつ、早足で教室を出る。
一刻も早くこの場を去りたかった。
そして、長い長い廊下をひとり歩きながら、聴こえてくる音に耳を傾ける。
西日の差す校舎に青く響く、運動部の元気な掛け声や、吹奏楽部が奏でる楽しげな音色や、それから──。
私はハッとして足を止めた。
ガシャン、ガシャン、と何かがぶつかったような鋭い金属音が突然耳を揺らした。
そしてその元となっている場所は、たしかに今私が前を通りかかった多目的教室。
見た感じ電気がついた様子もないが、だれかが中で何かをしているのだろうか? しかし不自然なほどに閉め切られたドアは、外界との関わりを一切絶っている。
私は首を傾げるも、まあいいかと立ち去ろうとして……やはりもう一度足を止めた。
噪音に邪魔されて聞こえなかったようだが、数人の話し声が聞こえる。
また、その中に混じる小さな悲鳴。
〝喧嘩〟〝事故〟
色々な可能性が一瞬にして頭の中を駆け巡る。
──衝動的だった。いつもの私の悪い癖が出た。ただ、やらなきゃいけない、と。
コンコン、と控えめにドアを叩く。それに呼応するように心臓が早鐘を打っていた。
……返事がない。
先ほど同様に話し声は相変わらず聞こえてくるのを見る限り、気づかれていないようだ。
仕方なくそっとドアを少しだけ開けて、中を覗き見る。
その瞬間、私は思わず声にならない悲鳴をもらした。
「調子乗んなよ、死ね」
乱雑に倒された机たちの中心に、逃げ場のない状態で倒れ込むひとりの女子。
それからそれを見下ろす数人の女子たち。投げかけられた粗暴な言葉の割に、聞こえてくるのは笑い。嘲りの色を濃く含んでいる。
ただならない雰囲気に私は一歩後ずさる。
〝イジメ〟
その存在を近くに感じながらも、どこか非現実的に捉えていた事柄のひとつ。
逃げ出したくてたまらなかった。でも私が、私に、それを許してくれない。
私は、そのまま混沌の世界に躍り出て──。
「や、やめなよ!」
*
獰猛な獣の群れに迷い込んだ子兎のごとく囲まれ、ただ身を竦めるばかりの状況に陥ってようやく自分の浅はかさに気づいて。
ギゼンシャ。ウザイ。
幾度となく繰り返されるその言葉を、どこか上の空で聞いていた。
何もできない自分が、悔しい。結局、私はいいことをする、という意識が与えてくれる優越感に酔っているだけ。
ふと熱いものがこみ上げて、歯を食いしばる。そんな時だった。
「なあ、お前らがやってんのってイジメってやつ?」
彼は、安藤くんは、いつの間にかそこにいた。軽い調子で……でも瞳には光が宿っていないように感じられた。
突然現れた彼にぎょっとしたように振り返った女子たちが、すぐに安堵の息を吐く。
「陽斗か〜。脅かさないでよ」
「イジメなんて人聞き悪いじゃん。聞いてよ、この偽善者ね──」
一人の女子が誘導するように、私に冷たい視線を流す。
見ないで、と叫びたかった。浅慮で不甲斐ない自分を曝け出しているのが、無性に恥ずかしかった。
「……イジメなんてしてもモテないぞ?」
それをしばらく黙って聞いていた安藤くんが唐突に口を開く。えっ、と誰とも取れない驚きの声が空気に溶けた。
「お前の好きなやつって3組の荒川? で、お前が5組の長岡だろ? そんでそっちが6組の西谷だっけ。今の録音したからあいつらに聞かせてやろうか? 絶対ドン引きすんぞ」
なんで、と弱々しいつぶやきが聞こえた。
安藤くんならノリで見逃してくれる。なんなら一緒にイジメをして、楽しんでくれるんじゃないか。
そんな甘い考えが垣間見えた。
怒りのためか恐怖のためか悔しさのためか、はたまたどれでもあるのか、小刻みに体を震わせ始めたひとりの女子が、「もういいよ!」と叫んだ。
伝染していく動揺の色が見える。そしてそのまま集団はこの教室から姿を消した。
沈黙。そして静寂。
呆然と立ち尽くす私を一瞥して、安藤くんはしゃがみこんでいる女の子に「大丈夫か?」と手を差し伸べる。
「あ……ありがとうございました」
「あいつら最近調子乗ってるって噂だからな。気をつけろよ?」
「……っ、はい」
血の気のない顔色をしていたが、今は少し赤みがさしている。何度もペコペコとお辞儀をしながら、女の子も去って行った。私に少しも視線を向けることなく。
……ああ、なんだかすごく泣きたい気分。
「なあ、委員長」
「…………」
自分がダサくて、たまらなくて。彼の呼びかけにも答えず、下を向いて俯いていた。
そうすれば、彼は私の顔をグッと覗き込んできて。そして人の良さそうな笑顔を浮かべて、言った。
「ちょっと付き合えよ」
反射的に頷いてしまった理由は、やっぱり自分でもよくわからない。
*
安藤くんが私を連れ出した先は、近くのショッピングモール。
困惑する私を他所に、彼は夕方の混雑した店内を物色し始める。
「何しに来たの?」
「遊びに来たに決まってるだろ。あ、門限とかある?」
「いや、あんまり遅くならなければ大丈夫だけど……」
「じゃあ、決まりな」
私の様子なんてお構い無し。「これとかどう?」と女物のスカートを自分の体にあてがう安藤くんには言葉を失うしかない。
「俺が死ぬまでにやりたいこと101。女装」
「……へ?」
「やっぱ人生なんて短いし、やりたいことは全部やってから死にたいじゃん?」
自分で言ってから、どこか遠くを見つめて大きく頷く安藤くん。
『俺、もうすぐ死ぬらしい』
昼間の悪夢が蘇る。
私の記憶の中の彼の声が、酷く冷たく脳内で何度も再生される。
「あれって嘘じゃ──」
──なかったの?
最後の方は声にならなかった。悟ったような彼の口調が、それが〝真実〟だと告げているような気がして。
「誰だっていつかは死ぬんだからさ」
な、と笑う彼に私も曖昧に笑い返す。
「答えになってないよ」
……そうか、本当に彼は死ぬんだと。
でも、あのとき私があまりに深刻そうな顔をするから、〝嘘〟だと誤魔化した。
内心、誰かに聞いてもらいたくてたまらなかったのに。
そんな確信に至る。
「なんか、敵わないな……」
「なにが?」
「ううん、なんでも」
これから死ぬ人への対処の仕方、なんて模範解答はないけれど。
安藤くんが生きている、今、この時。私は私なりに彼と過ごしてみようと思った。思えた。
助けてもらったお礼の分くらいは。
「女装するならもっと本格的にやらないと」
目を見開いた安藤くんを横目に私は並べられたスカートに手を伸ばす。
不思議と気分は晴れ晴れしい。
「す、すごい……」
トイレから出てきた安藤くん──否、安藤さんを見て、私は思わず感嘆のため息を漏らした。
「どう? 俺かわいい?」
「う、うん。すごく可愛い……」
全然お世辞なんかじゃない。
私が選んだ服を着て、帽子を被って、またお姉さんから教わったというメイクまで自分で施した安藤くんは、本当に可愛かった。
元々中性的で整った顔立ちだからだというのもあると思う。
「これから毎日女装すれば?」
「そうしようかな。ギャップ萌えとか言って、モテるかもしれなくね?」
「男子にモテるんじゃない?」
うわ、と顔を顰めて嫌そうな顔をする安藤くんの表情がおかしくて、つい笑ってしまう。
「じゃあ委員長は?」
「え?」
「委員長は俺のこと好きにならねえの?」
好きになる、の意味が恋愛感情によるものだと理解するまで時間がかかった。
意地悪っぽい笑みを浮かべる、安藤くんを軽くにらむ。
「なんでそんなこと聞くの。……ならないに決まってるよ」
「ええ、ひでーな。じゃあ、今決めた。死ぬまでにやりたいこと487。恋愛に興味なさそうな女子を惚れさせる」
「……サイテー。まあやれるもんならやってみれば」
嫌味っぽく言い返せば、彼が心底楽しそうに笑う。
「いいな、楽しい。委員長、実は毒舌キャラだったりするんだ」
「相手が安藤くんじゃなきゃこんな言い方しないかも」
「お、それは俺が特別ってことで──」
「なわけ」
いつからかタガが外れて、無意識的に貼り付けていた笑顔が剥がれ落ちていた。
そして存在さえ忘れていた素の笑顔が時折溢れだしてくる。
ふざけてばかりの彼に気を使うのもバカらしくなってきたんだと思う。
「っしゃ、次次! 委員長、俺の死ぬまでにやりたいことリスト消化、まだまだ手伝えよ?」
「い、いいけど……」
何を手伝うのか、と警戒心を募らせつつ、女の子にしか見えない彼の後を追う。
そして私たちが向かった先は、ショッピングモール内に入っているファミレス。
「死ぬまでにやりたいこと13──」
「そのさ、死ぬまでにやりたいことって何個あるの? もしかして全部暗記してるの?」
「さっきので、487個。まだ達成されてないのがほとんどだけどな。でも全部覚えてはいる。学校の授業なんか覚えるだけ無駄だし、こういうことに記憶力使ったほうがいいだろ?」
『学校の授業なんか覚えるだけ無駄』と言った安藤くんの表情に刹那の影が落ちた。気がした。
〝だって死ぬから〟
そんなこと言われてないのに無性に胸が苦しい。
「まあまあ、それはさておき、13。女子にあーんしてもらう」
「……は?」
ほらほらー、と安藤くんが口を大きく開ける。
無……理無理。ありえない。
「手伝ってくれるって言ったじゃんか」
「こんなのは聞いてない!」
焦りから声が大きくなってしまい、周りから視線が集まる。
そういえば安藤くんは女装のままだ。その格好で男子の声を出している彼のせいでもあるかもしれない。
もう、なんでこんなことに……?
私は花びらが萎むように小さくなって、また「無理だよ……」とぼやいた。
安藤くんはそんな私を見て、おかしそうに笑ったあと「冗談冗談、あーんくらいしてもらったことあるわ」と。悪魔のひとことを。
「張り倒そうかと思いました」
「すんませんでした」
それからどちらともなく吹き出して、バカみたいに笑って。また他愛もない話なんかして。
残りの食事を食べ終え、私たちは場所を移動する。
*
「もうすっかり夜だな」
吸い込まれてしまいそうな星空を見上げて、ぽつりと安藤くんが言う。
ショッピングモールを出て坂を昇ればすぐのところにある公園には、人影もなく静かな時間が流れていた。
ただ、すぐ近くで真っ黒な海が不気味な波音を立てる音だけがよく響く。
『やりたいこと283。ケーキ屋さんに行って、ここにあるの全部くださいをやる』
そんな宣言により8個のケーキを買った安藤くんは、今ベンチに座りながら3個目のケーキを食べ始めたところだ。
私も彼からもらったチーズケーキを頬張っていたが、ふと尋ねる。
「……なんでさっき助けてくれたの?」
「何が?」
「私がイジメの現場に飛び込んでいって、女子に囲まれてたとき」
「ああ……委員長、困ってそうだったから」
彼はあっけらかんとして言って、それから意味深にふうー、と息を吐いた。
「委員長だってあの女子のこと助けたじゃんか」
「……いい人になりたいから、だよ。それにいい人に思われたい。私はあの子のためなんかじゃないの」
私はそういう性格。優しさという名の、ただの自己満足を振りかざしているだけの卑怯な人間。
それを誰かに知ってもらいたいと思ったのは、この意図せぬ偽善を働く苦しみを共有したいと思ったのは、あまりに唐突だった。
「いい人じゃん。そういう優しい行動ってなかなかできねえよ」
「へ?」
とんでもないと首を横に振る。
「自己満足のための優しさは優しさじゃないよ。みんな私のこと、偽善者って言ってるでしょ?」
「そんなのみんなそうじゃん」
何言ってんの、とでも言いたげに安藤くんが怪訝な表情を見せた。
「優しくするのは、その人に好かれたいとか自分を好きになりたいと思うからなんじゃねーの? だれかに好かれたいから優しくする、なんて当たり前のことだと思ってた」
「でも安藤くんは見返りなんか求めなかった」
「求めたよ。委員長に好かれたいと思った。怒ってそうだったから」
思わず言葉に詰まる。たしかにその通り、私は怒っていた。
──〝だれかから好かれたいから人に優しくする〟
人に、自分に、自分を好きになってほしいから。
そんなこと考えたいこともなかった。
「てか別に心の中でどう思ってようがどうでもよくね? 世の中みんながみんな聖人君子なわけじゃない。結局は相手が優しくしてもらった、と思えばそれでいいんだよ」
安藤くんのぶっきらぼうな言葉ひとつひとつが染み渡っていく。
私は私でいいんだ、と言ってくれているような気がする。
「委員長はだれかに好かれたい気持ちが大きすぎるから、その分人に優しくすることが多いんじゃね? でも器用じゃないからそれが上手くいかないんだろ?」
「そう、かも……」
「人に好かれたいなら人を好きになればいい。自分に好かれたいなら自分を好きになればいい。もっと委員長もほかの人に、心を開いてみろよ」
いつもふざけてばかりな安藤くんの真剣な眼差しがまっすぐに私を射抜く。
彼が人から好かれる理由がわかりたくなくても、わかってしまう。
安藤くんは、きっと誰より人が好きで、人のことをよく見ているんだろうな、と。
「……太陽」
「え?」
「安藤陽斗。太陽。誰よりも光ってて、眩しくて、みんなを明るくさせてくれる存在。安藤くんにすごくぴったりな名前だよ」
素直な想いがすらすらと溢れだしてくる。そうさせてしまうのもまた、彼の魔法かもしれない。
……私は、どんなにがんばっても報われない昼の星。
昼間の星は目に見えない。それは太陽の光の強さに負けてしまうからだという。
100万年もの時間をかけてこの地球まで光が届く星。それなのに、青空の上に光る星の輝きなんて知らない。
それってとても悲しいことだ。
安藤くんは「なんだよ急に」と珍しく照れたように頭の後ろをかく。
「……〝星〟もぴったりだと思うけど」
突然名前で呼ばれ、戸惑っているうちに彼は続ける。
「真っ暗な夜を静かに照らす星みたいに、委員長はたくさんの人をさりげなく助けてる。クラスのためにやってくれてること、俺ちゃんとわかってるから」
あっ……と思った瞬間、見上げた星空が、ぼやけていって。
こらえきれない感情が溢れだす。ずっとその言葉が聞きたかった。だれかに認めてほしかった。
そう、私はずっと……。
すぐ近くにあるもう真っ暗な海から、潮の匂いが漂ってきて、またそれが涙腺を刺激する。
「やりたいことリスト488。泣いてる女子の涙をふく」
安藤くんは私のメガネをそっと取って。「なんだ、結構可愛いじゃん」なんて言いながら人差し指で私の頬を拭った。
ひんやりと冷たい指が、なんだか気持ちよかった。
「ありがとう」
私の小さな声が、夜風にそっと溶けていった。
*
それから、私たちは放課後の時間を毎日一緒に過ごした。カフェ巡りや海、遊園地なんかも行った。
安藤くんのやりたいことリストを消化するように、私もたくさんの〝はじめて〟を経験した。
彼の突飛な行動についていく時間は、次第に楽しくなって。いつしかかけがえのないものになっていて。
不思議と自分が人の目をそれほど気にしなくなっていることに気づいたのは、つい最近。
それと同時に、私は自分をさらけ出すことを覚えた。だれかを好きになることを知った。
「星、どこ見てるの? また安藤?」
「まだ来てないっぽいよ。ほんっと仲良いよね、ふたり」
「ね、ホントは好きなんじゃないの?」
朝の教室。爽やかさと眠気の入り混じる気持ちの良い空間。
ここ最近のことを思い出してはぼんやりとしていた私は、友だちの言葉で現実に引き戻される。
友だち──ようやく安藤くんのおかげでできた本当の友だち。大切に思う存在。
「……っ、そんなわけないってば!」
心臓がバクバクとうるさい。最近安藤くんのことになるとずっとこんな調子だ。
否定しながらも、心のどこかの扉をトントンとノックする音は、たしかに〝好き〟という言葉に反応している気がする。
私は恋の訪れを、自覚し始めていた。
「でも今日遅いね、安藤」
「最近学校来てたけど、久しぶりに休みなんじゃない?」
3人がそんな話を初めてすぐに、担任が教室のドアを開けて入ってくる。
「起立、礼」
私の号令が教室に響く。
その日も何気ない一日が始まる。
……そのはずだった。
「今日はひとつお知らせがある」
野球部の顧問でもある体育会系の担任の野太い声が唐突に告げた。
いつもとは違う様子に数人の生徒が顔を不思議そうに、顔を上げるのが見えた。
「ここから先は本人に言ってもらう」
妙に嫌な予感がする。心臓がさっきとは違う意味で、また早鐘を打っていた。
先生が前のドアの方を振り返り──言う。
安藤、と。
一気に教室に揺蕩っていた糸がピンと張り詰める。
全員の視線が入ってきた安藤くんのほうへ、まっすぐに向いていた。
彼がクラスメイトに言わなければいけない重大なこと。そんなのひとつしかない。
私はここ最近ずっと忘れていた。ううん、違う。考えないようにしていた。
〝死〟
やっぱり少しも実感の湧かないその言葉から逃れたくて、そっと目を伏せる。
「えっと、なんか急にごめん、みんな。大したことじゃねえんだけど……」
いつもの調子で、いつものムードメーカーの、人気者の、明るい安藤くんそのままで。
まるで世間話でもするように話し始め、それから少し言い淀んだ安藤くんに「なんだよー、早く言えよー」とヤジが飛ぶ。
なんだかとても耐えられなかった。ぎゅっと目をつぶれば、涙がこぼれ落ちそうだった。
そして、彼は再度口を開いて……。
「俺、転校することになりました」
へ、と漏れた情けない声はたしかに私のものだった。でもきっと、私だけのものじゃなかった。
騒がしくなる教室。安藤くんに詰寄るクラスメイト。そんな景色が全てスローモーションでみたいに見える。
悲しかった。そうだ、私は悲しかった。とても、とても。
その日は何をするにもやる気が出なかった。
最後だからとクラスメイトたちにいつも以上に話しかけられ、楽しそうにしている安藤くんを盗み見ては無性に泣きたくなったりした。
そうしてそのまま時は過ぎ、放課後の時間。
言いたいことはたくさんあった。ただ、何を言うのも違う気がして、また浮かんだ言葉が渋滞を起こす。
隣を歩く安藤くんも珍しくずっと口をつぐんでいた。
ようやくその沈黙が破られたのは、初めて私たちが一緒に過ごした日に行った公園に着いたときのことだった。
安藤くんは、まるで泣いてるような顔して、まるで笑ってるような顔して。
「俺、転校することになりました」
と、朝聞いたこと全く同じ言葉を繰り返した。
「今までありがとな、委員長」
夕焼けが彼の瞳を赤く染める。
私は俯いたまま、震える声を抑えて尋ねる。
「これもやりたいことリストのうち?」
「……転校するのは嘘じゃねーし。しばらくは通信高校とかで、治療に専念するから」
「違う。違う違う全然違う!」
自分でも何が言いたいかわからない。この悲しさは、言いようのない大きな感情はどうしたらいいかわからない。
だって安藤くんはずっと──。
「笑ってる」
は、と情けない顔して安藤くんが固まる。
「なんでずっと笑ってるの? ほんとは辛いんじゃないの? だって死ぬ、んで、しょ……」
今日の彼の笑顔は、なんだか、とても……、少し前の私と同じ匂いがした。
まだ安藤くんが私に素直に生きることを教えてくれていなかった頃の私と。
貼り付けたような、何かを隠してるみたいな、そういう笑顔。
それがとても私は、悲しかった。言葉に言い表せない悲しみを覚えた。
安藤くんは私を見つめたまま、しばらく放心したように動かなかった。
「あんどうく──」
「──……っ」
そんな彼にもう一度声をかけようとした瞬間。
私は初めて、安藤くんの涙を見た。
夕焼け色のしずくが次から次へと溢れ出して。彼自身、自分が泣いていることに気づくと、驚いたように目を見開いた。
「お、俺……死にたくねぇ……」
うん、と大きく頷く。私の目からもいつの間にか涙が溢れていた。
いつの日かの〝焦り〟の涙なんかじゃなくて。彼を大切に思うからこその涙。
「せめて、もっとちゃんとあいつらともお別れしたかった。気まずくなるとか気にしなければよかっ、た。離れてても連絡するからな、なんて言われても、また戻ってこいよ、なんて言われても、俺にはもう無理なんだよ……っ」
地面に座り込んだ彼の背中をさする。
「やりたいことリストなんてなくたって、俺はもっともっとやりたいことたくさんあるの、に……」
ようやく溢れ出した彼の本音は、聞いているこっちが苦しくなるくらい悲痛な想い。
なんで、なんで、俺が、俺だけが……。繰り返されるその言葉に、涙が止まらない。
西の空の方には、水平線に沈んでいく太陽の姿が見える。
……神様、どうか安藤くんを連れていかないでください。
そんな願いを込めて、手を組んでぎゅっと握りしめる。
それからしばらくして、
「……俺、やっぱり春は迎えられないってさ」
不意に彼がまだ震える声で言った。
「でもまだ希望はあるらしい。すごく可能性は低いけど、もし手術が成功すれば……」
「生きるよ、安藤くんは絶対生きる」
生きる。生きて。これからもずっと一緒にいて。
「大好きだよ。行ってらっしゃい、陽斗くん」
彼の双眸をまっすぐに見つめて伝えた。
私の初恋は、初めての告白は、絶対に悲しくなんかない。こんなにたくさんの光をくれた彼を好きになったこと、絶対に後悔しない。
「やりたいことリスト500。これでリストは終わり」
まだ涙の乾いていないその顔で。安藤くんは私の大好きな笑顔を浮かべる。
「俺の最後のやりたいことは……一年後この場所で委員長に『ただいま』と『だいすき』を言う」
春の風が、夜の風が、私たちの間を通り過ぎていく。
そして、彼は言った。
「────行ってきます、星」
***
この世界で一番眩しい光を放つ君へ。
君だけが消えた日常を生きてきた。
太陽の消えた日常を。
それはとても暗くて、寒い日々だったけど、私はがんばって、みんなを手助けする星になろうとした。
自分をさらけだせば、たくさんの大切な人たちができて。そしてそんな人たちに好かれたくて、また私は優しい言葉や行動を心がけてきました。
卒業式の日、ひとつの写真立てを抱えて涙を流した私の周りには、一緒に悲しみを乗り越えられるたくさんの友達がいた。
それはきっと私ががんばったからだと信じたい。ほんの少しだけ本物の〝星〟に近づけたかな。
夜を照らす星に。
でもやっぱり太陽が恋しい。星の光を全部消しちゃうくらい、明るくて眩しい光が。
「……あ」
見上げた空に星が煌めいて、流れて──消えた。
星が、泣いた。
涙で滲んだ光の粒は、なんだかとても幻想的で。
会いたい、の気持ちが強くなっていく。
一年経ったよ、安藤くん。
また春が来たよ、安藤くん。
今日は約束の日。
ここは約束の場所。
「──おかえり」
そっと口に出してみれば、
「──ただいま」
大好きな声が、私の鼓膜を揺らす。
駆け巡るたくさんの思い出。そして駆け巡るたくさんの──これから一緒にやりたいこと。
涙を拭って振り返れば、あの頃と同じ笑顔を浮かべて、彼が。
──笑ったような気がした。
この世界で一番眩しい光を放つ君へ 夢咲彩凪 @sa_yumesaki
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