朧月狂刃

夢月七海

朧月狂刃


 幕府が開かれて二十年目、太平の世の千住せんじゅ藩の城下街にて、夜な夜な辻斬りが現れるようになった。四人の被害者は全て武士であり、傷口の大きさから、獲物は長刀であろうと推測されたが、下手人を見たものは誰もいないため、捜査は難航した。

 岡っ引きの他にも、武士たちも夜回りに加わるようになって久しいある晩、朧月の下を一人の侍が歩いていた。


 彼の名は更科さらしな鉄信てっしん。長い戦乱の世を生き抜き、幕府に吸収された飯間いいまの国から千住藩に渡った、二刀流の使い手である。齢は五十を過ぎ、髷も灰色になっていたが、足腰は矍鑠かくしゃくとし、近年の藩の武術大会でも上位に名を連ねていた。

 夜回りは複数名で行うと決められていたのだが、鉄信は一人きりであった。その理由は、一人の時のみに辻斬りは現れるのではないかという予測と、そのような狼藉者など自分一人でも十分だという自信からだった。


 外堀沿いに歩いていた鉄信は、この道に合流する細道から、一つの影が向かってくるのを見た。辻斬りかと、鉄信は立ち止まり、脇差の二本に手を掛ける。

 幽鬼のように気力なく現れたのは、十四か五辺りの、黒い着流しで散切り頭の少年だった。


 辻斬りは、戦乱を引き摺る落ち武者ではないかと藩内で噂されていたので、太平の世に生まれの少年だった事にも驚かされたが、鉄信はそれ以上に、少年が左手で握る長刀に釘付けとなっていた。

 それは、少年の背丈ほどの長刀であり、鞘も鍔も柄も、意匠が無く真っ黒だった。柄の先にある頭からは、黒い鎖が伸び、途中で千切れている。鉄信はその刀に見覚えがあり、思わず辻斬りに「君、」と話しかけていた。


「名前は?」

黒神くろがみやいば


 少年は、あっさりと答えた。対して鉄信は、青ざめた顔で、ごくりと唾を飲み込む。

 彼が飯間の国で仕えていた頃、十ほど年下の侍に「黒神」という名があった。鎖鎌の付いた黒い長刀を操り、戦乱の世を駆け抜けていたのだが、天下分け目の合戦の後、行方知れずとなっていた。彼の顔を思い出して少年を見ると、鋭い目つきが非常に似ていた。


「もしや、父は、矢兵やへいというのでは……」


 鉄信の次の質問には、少年は答えず、鞘を腰に差し、長刀を抜きながらこちらへ向かってきた。対話は叶わない、彼の瞳に宿る殺気からそう感じ取った鉄信は、二本の刀を構える。

 腰を低くして走ってきた少年は、下から逆手持ちの長刀を上げた。すかさず、鉄信は二本の刀の交差する点で、それを受け止める。


 両手に伝わったのは、痺れるような衝撃だった。通常ならば、ここで引き抜いた一本を攻撃に転じさせるが、それも困難となる。鉄信は、一歩後ろに下がることによって、少年の長刀を流した。

 少年は、刀を順手に持ち換えて、袈裟斬りを仕掛ける。鉄信はこちらも、二本の刀の交差によって受け止めたが、今度は下に位置する刀の峰を滑らすようにして、少年の懐へ入る。


 切っ先が、自分の喉元へ迫るのを見て、少年は口を歪めるように笑った。背筋に水を掛けられたかのようにぞっとした鉄信をよそに、少年はその場で飛び上がった。

 少年が自身の刀に、全体重をかけたため、鉄信は姿勢を崩した。上から下まで全てが黒い長刀が、胴体を切りつける直前に、腰を屈めて何とか躱す。


 しゃがみこんだままの鉄信に、少年は躊躇なく刀を振り落とす。重力に逆らわない速度に、鉄信は苦し紛れの秘策を繰り出す。

 左手の刀で、長刀を受け止めようとすると、一瞬で弾かれてしまう。しかし、これは想定の内だった。長刀が薙ぎ払ったままの形でいる隙に、右手の刀で突きを繰り出す。


 ざく。そう、肉と骨が切れる音がした。

 朧月に照らされる中、鉄信は、自分の右手の指が、刀と共に落ちるのを見た。


「―――っ!」


 鉄信の左の刀を弾いた少年は、速度を変えず、蝶のように軽やかな返す刀で、上から自分の右手を切ったのだと、彼は遅れて理解した。しかし、もう遅い。足元の刀を、左手で取るよりも速く、長刀の黒が降ってくる。

 月を背にして、少年は笑っていた。無邪気な笑みだった。合戦の際でさえ、鉄信はこんなにも楽しそうに人を斬る人間を見たことがなかった。


「更科殿!」


 しかし、彼が斬られる直前に、背後から若い侍の声が響いた。数名の足音が、慌ただしく走ってくる。

 少年は興が削がれたような顔で、刀を下ろした。助かったと、安堵する鉄信の耳元で、少年が囁いた。


「親父は、ただの飲んだくれとして死んだ」


 はっと息を呑んだ鉄信から踵を返し、少年は逃げ出した。

 若侍に「大丈夫ですか!?」と肩を揺らされながら、他の侍に追いかけられて遠くなっていく辻斬りの背中を、鉄信はぼんやりと眺めているだけだった。






   ▢






 翌日、治療を受けた鉄信は、療養所で若い侍たちに、土下座されそうな勢いで謝られた。もっと速く駆け付ければ、その怪我は免れたのかもしれないと、彼らは悔やんでいた。

 鉄信は、これは自分の奢りが招いたことだと、彼らを慰めた。確かに、もう剣を握ることは叶わないが、命あっての物種だと、彼はしみじみ感じていた。


 しっかりと療養するようにと医者から言われたものの、鉄信は寝付けずに、布団の上で座っていた。四本の指を失った右手の痛みはあったが、それだけが眠れない理由ではない。

 彼は、部下だった黒神矢兵のことを思い出していた。武士道を重んじ、どんな戦でも敵に敬意を払っていたあの男が、飲んだくれになった姿など、想像すらできなかった。


 辻斬りの少年は、侍たちは一晩中探し回ったが、見つけられなかったという。だが、あの少年はもう、我々の前には現れないだろうという直感が、鉄信にはあった。

 軒先から、初春の庭が見えた。午前の朗らかな光を受けて、梅の花が綻びを見せている。


 鉄信は、日の当たる世界にいる。しかし、黒神刃は、これからも暗闇の中を歩き続けるのだろう。人を斬ることで得る喜びと共に。

 私と、黒神父子との明暗は、どこで別れてしまっただろうか。そんな、答えのない問いが、喉奥に刺さった骨のように、鉄信を突いて苦しませた。




























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朧月狂刃 夢月七海 @yumetuki-773

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