幻想のワンナイト
森下千尋
幻想のワンナイト
九月二十五日 土曜日
「やっと見つけた……」
新宿最大級のクラブ『W』メインフロアのバーカウンター近く、人が入り乱れる中で、カジュアルな女子四人組の中に、おれは奈々を見た。
「なんか奈々のことめっちゃ見てるけど、誰?」
四人組で一番背が高い女が、不審な眼でおれを一瞥すると、奈々がこちらを向いて目を丸くした。困惑した表情で。
「さあ」
互いの目と目の焦点が、ピタリと合う。奈々は無理やり口角を上げて言う。
「……ストーカーじゃん?」
おれは強引に奈々の手を取り、ツレたちから引き離すようにフロアを横断した。
奈々の持っていた酒が手から滑ると、白濁した泡が床へ落ち、無数の靴がそれを踏んだ。
九月三日 金曜日
「何かキンチョーしてきた」
キョロキョロと周りを見渡す。フライデーナイトの新宿、雑居ビルに囲まれたコンクリートジャングル。その窮屈な地上を歩く、行き交う人の波で既に酔いそうだった。時刻は夜九時半。落ち着きのないおれを見て耕平が笑う。
「おいおい恭太、ガキじゃねえんだから」
耕平もおれもハタチだった。ガキかどうかは微妙なライン。
ただ耕平はさっきから、オレは大都会新宿に慣れてるぜという雰囲気を醸し出している。まったく。大人ぶれる事こそ、ガキの特権だよな。
今夜、おれはクラブデビューする。新宿『W』の前、一張羅ラルフローレンのシャツにザラのダメージパンツを履いたおれは、短く刈り込んだ側頭部に手をやると、そこからジェルの付け具合を確かめるように前髪を触った。良い感じ。
八王子に住むおれにとって新宿は、電車一本で行ける異世界だった。
汚いし、人多いし、ギラギラしてて、欲望丸出しの眠らない街。それがおれにとっての新宿のイメージ。
同じくギリ東京都民、町田市在住の耕平は中学からの付き合い。
コイツは一週間前にクラブデビューした。
少し先に経験しただけのくせに、耕平はすぐ先輩ヅラする癖がある。
十四で他中の先輩と付き合った時も、
十六で先に童貞を捨てた時もエピソードを嬉々として聞かせた。
「恭太クラブはマジ半端ねえ」
現在、二十。それで今度はクラブ。
「オレはオマエも好きだと思うワケ。音楽好きだろ? つーか、オマエ。ジンヤ好きだろ」
DJジンヤは、神である。紡ぐ音のカリスマだった。
大都会ほど最新に触れられる。汚ねえ、とか散々言っといて、こういう時大都会に直通で行ける八王子が大好きだ。おれが了承したので耕平はニヤついてハイタッチを求めた。
「じゃあ決まり、また金曜日な」
新宿にある有名クラブ『W』。金曜日の今夜はオールジャンル。メインDJは若手ナンバーワン、ルックスと実力を兼ね備えたDJジンヤ。
ドキドキしてセキュリティチェックを越えると、暗いエントランスからすぐ地下へ入った。ロッカーに荷物を預けると、耕平が「これ、やる」と手を差し出した。コンドームだ。
「はっ? 音楽聴きにきたんじゃねーの」
おれは肩をすくめた。音楽がフロアを鳴らし、あちこちに反響する。
「何があるかわかんねー。だからこれはマナーだ」
冗談なのかよくわかんねーな、誰かに見られる前に耕平からゴムを奪い取った。
メキシカンビールで二人乾杯した。美味い。緊張で渇いた喉に染み渡った。
時間とアルコールが進むにつれて酔いが回ってくる。
音に合わせてぎこちなく身体でリズムを取っていたことも、脳を揺さぶって酔いを助長している気がする。くらくら。夜が深まるとさらに人が増えていく。肌と肌がぶつかる。足元がぐらつく。へそを出した編み込みの女性が激しく踊る。耕平が、オレも! と隣で背中を合わせるようにし一丁前に踊った。Yeah! 愉快だ。
「恭太!」
耕平がDJブースを指さす。DJジンヤがブースへ上がっていた。彼はヘッドホンをかけ、曲が終わるタイミング、その瞬間、新しい音楽をスムーズに繋いだ。フロアの盛り上がりが、さらに一段と盛り上がった。
生の音と空間におれは震えた。
イエー、興奮で上げた手が、前にいた女性の後頭部にぶつかる。
「すみませんっ」
反射的に手を引き、頭を下げた。
女性はゆっくりと振り返ると、それには応えず、
「ねえ、何飲んでるの?」とおれに聞いた。
え、ああこれ、何でしょう。
心理的なパーソナルスペースなど最初からないくらい、近い。
彼女は原宿辺りにいそうなオシャレな娘だった。
どれどれ、とおれの酒を取る。手と手が触れる。どきりとした。
「コーラじゃん」
屈託のない笑顔で言う。いや、それおれの。
「ん、飲んで。絶対コーラだから」
彼女はカップをおれの口元へつける。されるがまま、おれはカップの液体を飲む。
「コーラですね」
自分でも何でそう言ったのかわからない。けれど女性は、でしょ! と笑ってくれた。黒褐色の液体はコーラよりもウイスキーの濃さしか感じない、むしろコーラ色のウイスキーだった。女性の腕がおれに絡む。
「なんか飲も!」
彼女は手をつかみ、おれをバーカウンターへと誘う。
外人みたいなイエローの髪はボブで、ぷっくりとした唇。小動物のような眼をした顔をまじまじと見つめる。
「わたしは奈々、きみは?」
「恭太」
「恭太はよくここに来るの?」
「いや、はじめて」
「だと思った」
「え、な、なんで」
「フツーさ、女の子にドリンクくらいおごるでしょ」
「えっ?」
おれはさっきと同じコーラ色のドリンク、奈々は透明なスピリッツにライムを搾ったもの、それぞれ別に注文した。
「ごめん、いくらだった?」
「いやもういいよ」
「女に払わせるとかマジだせえし」
「終わったことにごちゃごちゃ言うのもマジだせえよ」
「……じゃあ、次は払う」
「はい。ごちそうさまでーす」
「奈々さんは? Wよく来るの」
「うーん、たまにね。てか奈々でいいよ」
「そうなんだ、奈々、って幾つなの」
「女の子にそれ聞くかな」
「……」
「冗談だよ、ハタチ。恭太は」
「おれも、二十」
「えータメなんだ。ウケる。年下かと思った」
「十代ならクラブ入れないっしょ」
「マジメか! じゃあ同い年に乾杯!」
嘘みたいに楽しくて、会話も酒も弾んだ。暗闇に射すミラーボールの光が奈々を幻想的に見せて、露わになっているうなじを妖しく紫のライトが包んだ。もっと、奈々の事を知りたかった。酔いが後押しする。
「ホテル? 別にいいよ、行く?」
朝の気配を含んだ新宿の街は、その汚さを少しも隠していなくて、逆に清々しかった。
人の数だけ寛容なんだな。誰も、裏通りを歩くおれと奈々のことを気にしなかった。
ビルの谷間にカラスが戯れる。奈々は言った。
「わたしさ、美容師になりたくて上京したんだよねー」
片手にはファミマで買った唐揚げやら水やらが入った袋、もう片方の手は、おれの手と繋がれている。
「こんな遊んでばかりで何やってんだろーね」
そんなこと、今言わないでくれよ。おれは繋いだ手をしっかりと握った。
お互いにシャワーを浴びて、照明を落としたヤニ臭い部屋、奈々が羽織っている安物の白いバスローブを俺は脱がす。はだけると乳房の上に蝶のタトゥーが入っていた。華奢な彼女の身体をきつく抱きしめると、奈々がおれの首筋にキスをしてくる。お互いの身体を確認し合うように触り愛撫し、感じ合った。
耕平からもらったゴムを出来るだけスムーズに付ける。奈々を優しく押し倒した。
いいよ、と奈々は頷く。
コーラのように甘ったるい夜の延長線上で、おれは彼女と交わった。
九月四日 土曜日
目を覚ますと、おれは裸のままベッドに横たわっていた。
頭が重い、飲みすぎた。
ぼんやりと、部屋を見回す。奈々はいない。
テーブルの上には乱雑にスマホやファミマの商品、ルームキーが散らばっている。
ペットボトルの水を飲んで一息つく。
十時過ぎだ。三、四限はパスして昼過ぎから授業に出よう。いや、違う今日は土曜だ。
そういや耕平はちゃんと帰ったのか? スマホを見ると鬼の着信とメッセージ。
「恭太、どこ!」「ゲロ吐いてんのか」「帰った?」「まさか女? 嘘だろ」「それはないか、始発で帰ります」
奈々は先に出たのかな。シーツに残っていた彼女の香りが夢のようだった。
服を着て部屋を出ようとすると、ポケットに財布がない。
テーブルにも、ない。
──マジかよ。
部屋中どこにもなかった。嘘だろ? 奈々が、盗ったのか──。
九月二十五日 土曜日
「ねえ離して、もう! 痛いって!」
奈々は手を振り解いたけど、トイレ横の通路、おれは壁に手をつき奈々を逃がさない。
「財布、返して」
「なんのこと」
「返してくれないなら──」
白を切るならしょうがない。
「警察にでも言う?」
奈々はスマホを操作し、一枚の写真を見せる。
「こないだの記念に撮っただけ──」
そこには裸のおれが馬鹿みたいな寝顔で写っていた。
「──だけど、うっかり見せちゃうかも。そう例えばT大学の友達とか」
奈々は微笑む。
「ね? T大学経済学部経済学科二年生の及川恭太くん」
財布って個人情報の宝庫だよな。
一瞬で逆に追い詰められた。間抜けだと、先日のおれを一喝したい。
「ねえシラケちゃうよ、せっかく良い音が流れているのに」
フロアにはDJジンヤ。彼の紡ぐ音の波がフロアを高揚感に包んでいく。
奈々はビールをジンジャーエールで割って飲んでいる。おれは、ウイスキーのコーラ割。
「ちゃっちゃっちゃっ、よっエビヴァディ」
奈々は小さな身体を大きく揺らし踊る。頬はほんのりと紅潮している。
「ねえねえ、君可愛いねー、一人で飲んでるの? 俺と飲もうよ」
音の合間を縫うように近づいてきた、ニット帽を被ったタトゥーだらけの男が奈々に声を掛ける。
いいよー、と奈々は答える。ちょっと待てよ。
おれは男の左腕を掴む。
「あっ? 何だよオマエ」
「話し中なんだけど」
「女がいいよって言ったらOKだろうがよ」
男が右手でおれの腹部を殴る。掴んだはずの左腕がすり抜けていく。
「家に帰ってシコってろよ、モブ野郎」
勝ち誇った面持ちで、男は奈々と暗がりに消えていく。
DJジンヤのグルーブがこだまする。
ビルの非常階段に座り込み時間を潰した。
夜が終わる直前、奈々が『W』の地下から上がってきた。
彼女は独りだった。
「やっぱ、いた。マジのストーカーかよ」
奈々はなぜか嬉しそうに見える。
「さっきの男は?」
「あー、なんかおっぱい大きい女がいて、途中から捨てられた」
どんな顔をしたら正解なんだよ。
「誰でもいいんじゃんね」と奈々は笑った。今度は嬉しそうじゃなかった。
「ねえ恭太」
不意に名前で呼ぶ。そういう所にドキっとする馬鹿なおれ。
「もう一回、する?」
奈々の眼を見て、その言葉に、色っぽい表情に、おれは胸の鼓動が抑えられなくなりそうだった。
「わたしに、会いに来たんでしょ。財布は口実で」
あの日、財布には三千円しか入っていなかった。
奈々の言う通りだった。おれはもう一度会って確かめたかった。
彼女の、笑みを、輪郭を。身体中を、細部まで。
「おれは────」
でも。
「終わったことにごちゃごちゃ言わないようにしてる」
静かにそう告げると、奈々の微笑みが消えた。
「終わらせちゃうんだ」
奈々は言葉を吐く。
「マジ、ダセー」
彼女は財布を投げつけた。おれのだ。
「でも。誰でもよかったわけじゃない」
おれが伝えると奈々は顔を上げる。
「じゃあ」
カッコつけるのもガキの特権なのかな。解ってほしくて眉間にシワを寄せて言う。
「財布盗むとかサイテーだな」
「えっ」
「もし盗まなかったら……」
先はあったのかな。おれの脳みそじゃわからない。
「そしたらさ」奈々は言う。「あそこで終わってたよ」
先を続けたくて──。だからって盗んだのかよ。
連絡先交換とか、するだろフツー。
いつの日か、遊んだ男、女として?
おれたちは、それをどこかで望んでいなかった。それだけは、解っていた。
「間違ってるだろ」
たぶん間違えたんだ。おれも奈々も。
「テキーラをさ、乾杯する時にさ」
奈々が不意に喋り出した。
「自分のだけバーテンダーに頼んでお茶を入れた男がいたの。女だけ酔わして、ってことなんだろうけど。たぶんその男とは、そこから全部、共有出来ないわ」
おれは奈々に背を向けて歩き出す。
白みはじめた東の空に、身体は眠気を感じている。
奈々とおれはこの同じ空を見て、今この瞬間を感じている。充分だった。
さらけ出した裸あの夜は、幻想のようだった。
何万日のうちの一日の、さらに数時間だけを。同じ場所で共有した現実を、彼女は何と呼ぶだろう。思い出になんてしなくていい。奇跡なんかじゃ全然ない。
ある夜、くらいが丁度いい。
幻想のワンナイト 森下千尋 @chihiro_morishita
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