どんな記憶も思い出す料理

 彼女の背中を見送ってから、私はテーブルの上に視線を戻した。そして並んでいる料理に少しだけ驚いた。

 最近ではまず外食で食べることのないような、家庭の味とも言うべき料理ばかり並んでいたのだ。

 ご飯に野菜たっぷりの味噌汁、焼き塩鮭、里芋の鳥そぼろ煮、白菜の漬物、そしてデザートにたっぷりのフルーツヨーグルト。それに熱いお茶が添えてある。


 どこかで見た事があるようなその料理の数々に、驚きながらも私はすぐに箸を手に取った。

 母の作る味噌汁はいつも野菜たっぷりだったし、焼き塩鮭は私の大好物で、身をほぐしてご飯に乗せるのが好きだった。里芋や大根などを、鳥そぼろで煮た料理も母がよく作っていたし、白菜漬けはいつも保存容器に入れて食卓に置いていた。

 市販のヨーグルトをスプーンでかき混ぜてトロトロにし、そこに缶詰の果物を混ぜたフルーツヨーグルトも、朝食やおやつによく食べていたものだ。


 どれもこれも、私の好きな、そして懐かしい料理ばかりだ。

 味つけも母の作っていたものとそっくりで、野菜が多いせいかほんのり甘い味噌汁も、塩気の少ないものを選んでいた焼き塩鮭も、少し片栗粉を入れてあるとろりとした出汁だしのそぼろ煮も、昔よく食べていた味そのもののような気がした。

 いつも最後に食べていたフルーツヨーグルトを、やはりお茶まで飲んでから口に含むと、甘酸っぱくて口の中がすっきりとした。


 ああ、まるで実家に戻ったみたいな気分ね……もう、実家なんて無いけれど。


 五年前に病気で逝ってしまった母の顔を久しぶりに思い出して、私はふうと息を吐いた。

 それから急に、昨日の予測変換で見た言葉を思い出した。

「どんな記憶も思い出す料理」。あれはこういう意味だったのだろうか、と。



 確かにこの五年間、一人で生きていくのに必死で、おつぼねさんにどれだけパワハラをされても、帰る家もない身では仕事を辞めるのも怖くて、母のことを思い出す余裕すら無かった。


 何となく気になった私は、懐かしい味に浮かれていたせいもあるのだろう、盆を下げに来た女性に思わずその事を話していた。

「ずっと忘れていたんです、本当に。こんなに懐かしい料理ばかり食べられる店なんて、きっとそうそうありませんし。だから『どんな記憶も思い出す料理』なのかな、って」

 すると店主と思しき彼女は軽く首を傾げた。


 その様子を見て、私は少し慌てた。勝手にそんなうわさを立てられ、ネットにせられていると聞いて、嬉しい人はそういないだろう。

 あわてて取りつくろおうとサイトを調べてみたが、今度は予測変換にも出ないし、一件もヒットしない。

「どうしよう、おかしい……、昨日は確かにあったんですよ。ここの写真が出てるサイトがあって。偶然見ただけなんですけど」


 焦って何度も検索し直す私に、女性はふっと少し寂しげに笑うと、私の肩にぽんと手を置いた。

「落ち着いて。それよりも、あなたは大事なことを忘れているのよ」

「大事なことを忘れている……? でも私は、この料理で母の事を思い出せました。大事なことならもう思い出しましたよ」

「いいえ、それよりも大事で、でも思い出しにくいことですよ。ほら、外へ出てごらんなさい」


 言われた私は再び女性に肩を抱かれて外に出た。

 すると何と目の前に、あれほど迷いに迷ってたどり着けなかった私の住むアパートがあった。


「行って、よく見てごらんなさい。あなたの部屋の番号は二〇四号室で合ってるわね。さ、ここにかぎがありますから」

 そう言って女性は、一本の鍵を取り出すと私の手を引き、アパートに向かって歩き出した。


「えっ、待ってください。鍵なら私が持って……あれっ、無い?」

 何が何だかわけが分からない私は、左手を引かれながら右手で自分のポケットを探った。しかしそこにあるはずの鍵が見つからない。いつもそこに入れていたのに、一緒に入れているはずのハンカチすらなく、ポケットは空っぽだった。


 ほとんど引きずられるような形で自分の部屋の前にたどり着くと、女性が鍵を開けた。

 カチャン、という聞き慣れた音のあと、ゆっくりと扉が開いていく。

 その中にいつものように足を踏み入れた私は、灯りを点けようとスイッチを押した。しかし玄関の灯りは切れてしまっているのか、何度ぱちぱちとスイッチを入れ直しても点かない。


「あの、電気が切れてるみたいです」

「そうね、電気はもう止められているわ。中に入ってごらんなさい」

「電気が止められている……って、そんな、電気料金は自動振り込みで」

「いいから、部屋の中をよく見て」


 有無うむを言わせない強い口調に、私は混乱しながらも従わざるを得なかった。

 そして見た。どこまでもどこまでも真っ暗で、がらんとして、カーテン一つ掛かっていない、空っぽの部屋の中を。

 ベッドも、衣類用のハンガーラックも、こたつも冷蔵庫も電子レンジもない。テレビもパソコンも、暗がりでもいつも光っていたルーターもない。


「どうして……こんな事に?」

「あなた、ずっと何の音も聞こえていなかったでしょう?」


 さっきまで厳しい声を出していた女性は、そう言うと私に手鏡を見せた。

 そこに映っていたのは、体の半分がひしゃげたように潰れ、片手があらぬ方向にじれた、若い女だった。

 私は思わず小さく悲鳴を上げ、鏡を取り落とした。事故にでもったのだろう女の姿は、それでも顔の半分だけで、自分のものだとはっきり分かったからだ。


 私が落とした鏡を、喫茶店の女性はゆっくりと拾い上げた。幸い割れたりはしなかったらしい。

 立ち上がった彼女は私の顔を見ると、静かに話し始めた。


「あなたのお母様は、最後まであなたを助けようと手を伸ばしていたの。でも死者の彼女はあなたに触れられなかった。そのうえ、車にかれた音すら聞いていなかったあなたは、ずっと生きているつもりで毎晩アパートに戻って、毎朝出勤していたの」

「そんな……私、いつの間に……」

「せめて行くべきところへあなたを連れて行きたい、とお母様は私に頼んできたのよ。自分が死んだと知らないあなたには、お母様の声も届かなかったから。それに、霊感の強いあなたの上司の方も、自分をうらんであなたが現れるんだと、私の所へ相談しにきたわ」

「それじゃ、毎日嵐のように風が吹いていたのは、私を怖がって……?」

「おそらくそうでしょうね」


 そこで彼女は、ふうっと深く息を吐いた。一瞬だけ、悲しみとも、あわれみとも、あきれともつかない顔を私に向けた。

 けれどすぐに思い直したように微笑むと、彼女は私を部屋から連れ出し、再び鍵を閉めた。


「あの料理はあなたのお母さんが、成仏できないあなたのために用意したものよ。私には分からないけれど、あなたには行くべき場所があるはず。それを忘れた人に思い出させるために、私の店はあるの」

「行くべき場所」

「そうよ、もう分かるでしょう?」

「……はい」


 いつの間にか目の前に、まぶしい光が迫って来ていた。

 急速に迫って来るその光に、辺り一面の景色が真っ白に包まれていく。

 そして「キキキィィィィ……!」という鼓膜こまくの破れるようなブレーキの音と共に、ドンっと自分の体が弾き飛ばされる音を聞いた。


 私の意識はそこで途切れた。

 永遠に、そこで途切れたのだ。

 ようやくそれを理解した私は、静かに目を閉じた。

 深く深く、二度と覚めない眠りにつく私の上に、柔らかな月の光が降り注いでいた。

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どんな記憶も思い出す料理 しらす @toki_t

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