現れた喫茶店

 翌日は残業でなかなか帰れず、一緒に残業させられたおつぼねさんに怒鳴られ続けた。

 耳にはいつも通りふたをしているので、彼女が一体何を怒鳴っているのか、私には全く分からない。風はごうごうと吹き荒れ、今にも窓を破りそうな気配はするが、今日はなかなかそこまでいかない。結局仕事が終わるまで、彼女の怒鳴り声は続いた。


 ずいぶんストレスを溜めているんだな、とぼんやりした頭で考えていたが、元は彼女の上司が仕事を溜め込んでいたせいで、私のせいではない。むしろ巻き込まれた私も被害者なので、完全に八つ当たりだった。


 九時にやっと退社した時にはスーパーは閉まっていてた。二十四時間営業のスーパーもあると聞いたことがあるが、場所をよく知らないし、この時間まで弁当があるかどうかも分からない。

 仕方なく少し遠まわりして、それでも家から一番近いコンビニへと向かった。夜中に行ったことはないが、コンビニならまだ弁当もあるだろう、と私は考えた。


 しかしあっさりとその当ては外れた。弁当はサラダも惣菜そうざいの一つも残らず売り切れていて、パンの一個も残っていない。白々しらじらとした蛍光灯の光が棚を明るく照らしているばかりだった。


 仕方なく冷凍食品のコーナーでピザを買い、帰宅しようとした私は、どうした事か帰りは道に迷ってしまった。

 周囲が真っ暗なせいで道を一本間違えたようで、似たような家が立ち並ぶ住宅街に入り込んだらしい。スマートフォンで道を調べようとしたが、実際の道とはまるで違うところを現在地と表示していた。

 辺りに人気はなく、道をたずねられる人もおらず、私は同じ道を何度もぐるぐる回っていた。


 ここまでついてない日なんて、そうそう無い気がするわ。


 時刻はもう九時半を指していた。すでに眠りにつきつつある住宅街は、時々電信柱に灯された街灯以外に明かりはない。次第に暗い方へ向かっている気がしたが、どの家も同じような形をしているので、進んでいるのか戻っているのかも分からない。


 だんだん心細くなってきたその時、ふと明かりが漏れている建物が目に入った。

 明かりがついているということはおそらく誰かいるという事だ。

 私は道を聞こうとそちらに足を向けた。


 真っ暗闇の中、ようやくその建物が目に入った時、私は息を呑んだ。

 窓からオレンジ色の温かそうな光を漏らし、脇には街灯の立つその建物は、ハーフティンバー風の古風な喫茶店だった。壁じゅうにつたい、植え込みも枯れて茶色になっている。

 そして入り口脇の看板には「喫茶・ゆーかり」と書かれていた。



 写真で見た時は何とも思わなかったが、そうして間近に見れば「喫茶・ゆーかり」は異様な雰囲気をかもし出していた。

 暗がりでも荒れた様子の分かる植え込みや、放置されているとしか思えない蔦。濁ったガラス越しの光はぼんやりとしていて、灯りが点いているのに人がいるのかどうか疑ってしまう。

 しかも周囲は真っ暗だ。両隣りょうどなりの家は空き家になっているのか、壁が崩れたり窓が割れたりしていた。


 真っ暗な道で迷って、こんな店に辿り着いてしまったら、自分は夢を見ているのか、入ってはいけない世界に迷い込んでしまったのかと思うのも頷ける。

 しかももう九時半だ。都会や街中まちなかの店ならいざ知らず、こんな田舎の住宅街の真ん中で、居酒屋でもない店が開いているような時間ではない。


 私は入るかどうか迷い、しばらく玄関ポーチを行ったり来たりした。

 道は尋ねたいところだが、果たして本当にこの中にいるのは人間なのだろうか、という不安が押し寄せて来た。そうでなければ、店主が防犯のために灯りを点けたまま帰っていて、中には誰もいないのではないか、という気もしてきた。

 

 迷いに迷い、やっぱり戻ろうかと私は入り口に背を向けようとした。すると急に入り口の扉が開いて、中から年配の女性が顔をのぞかせた。


 びっくりした私は思わず一歩後ろにさがった。こんな玄関でうろうろしていたら、足音で外に誰かいることくらい気付くのは当然だったが、本当に誰かがいるとは思っていなかった。

 それにしわだらけの老婆でこそないけれど、小顔で目が大きく、しかも黒目がちの目をした女性だ。まるで魔女が顔を出したかのような、妙な迫力をもっていた。


 外の様子をうかがうように出て来た女性は、私と目が合うと、目尻に皺を作ってにっこりと、とても嬉しそうに微笑んだ。

「いらっしゃい、空いてますよ。中へどうぞ」

 店に入るかどうか迷っていると思ったのだろう、彼女は私の肩を軽く抱いてドアを大きく開くと、中へ入るように促した。

 帰る道を聞こうと思っていた私は、その思わぬ勢いにつられてしまった。気付けば店内へと足を踏み入れ、背後でドアが閉まっていた。



 一体中はどんな様子なのだろう、と私は恐る恐る店内を見回した。

 けれど目の前に広がったのは、ほんのりと薄暗いオレンジ色の照明に照らされた、昔ながらの喫茶店だった。焦げ茶色の腰壁こしかべがあり、白い漆喰しっくいとレンガで壁が装飾され、茶色のパーティーションで席が区切られている。


「どこでもお好きな席へどうぞ」と言われた私は、昼から何も食べていなくてお腹が空いているのを思い出した。道を聞くのは後にして、夕食はここで食べればいい、と思った私は、白いスミレの花が飾られたテーブルに着いた。


 メニューを見ると、最初に出ていたのは「夜定食よるていしょく」とエビフライやハンバーグなどの定食メニューだった。次いで単品のピラフやスパゲッティ、ドリアなどが並んでいる。

 一番安いのが「夜定食」で六百円と書かれていたので、私は迷わずそれを注文した。


 料理が出てくるのを待つ間、私はもう一度店の中をゆっくりと見回した。

 こんな喫茶店がまだ残っていたんだ、と思うほど、最近は開放的で明るいカフェが多い。それはそれでお洒落しゃれなのかもしれないが、それでも私は子供の頃に通い慣れた、昔ながらの薄暗い喫茶店が好きだった。

 店の奥には「化粧室」とだけ白いプレートに書かれたトイレがあり、その隣にはピンクの電話が置いてある。もはや街中まちなかでも滅多に見かけなくなった公衆電話だ。


 きょろきょろと首を巡らせていると、いくらも経たないうちに女性が戻ってきて、机の上に盆を置いた。

「ゆっくり召し上がってくださいね」

「ありがとうございます」

 空腹のあまり思わずお礼を言うと、彼女はにっこり笑って、伝票も置かずにすっと立ち去った。

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