ブロークン・サークルより愛を込めて

藤枝志野

1

 ある日突然、高田馬場のロータリーが閉鎖された。四月頃に一部が立入禁止になり、このたび完全閉鎖となった。僕は大した衝撃を受けなかったが、僕の目の前でフレンチフライをむさぼる先輩こと岐須井きすい或葉あるはにとってはかなりショッキングだったようだ――飲食店で「これはまずい」なんて言うものだから身が縮こまる思いでいる。他に客も少なく静かなので店員にも丸聞こえに違いなかった。


 先輩は指先の塩と油を念入りに拭い、手帳型ケースをつけたスマホをタップした。先輩は頻繁にスマホを触り、そのたびに紙ナプキンで指をきれいにする――それも、新しいのを取りに行くのが億劫なのか、いつまでも同じ一枚で拭いている。スマホのロック画面にピースする人の画像と現在時刻が浮かび上がった。通知はない。


 先輩は今、画像の人物――姉川あねがわ千也ちやと離れ離れになっている。今年の三月末、姉川はサークルの会合に出かけたきり音信不通になった。先輩に届いた最後のチャットは午後五時五十四分の〈ロータリー着いた じゃ〉。それに応えて先輩が送ったハートをまき散らすクマのスタンプに既読はつかなかった。先輩がサークルの人間に確認すると、姉川は会合を無断で欠席したという。まじめな姉川の所業とは思えないし、わざわざロータリーまで行ってばっくれるのも辻褄が合わない。ロータリーに着いてからサークルの人間と合流するまでの間に何かが起きた。そう推理した先輩が一番に思い当たったのは、ロータリーで人が消えるという噂だった。ロータリーの女神像の力が揺らぐことで時空に穴が生じ、そこに運悪く落っこちる人間がいる。なぜこれを一番に思い出したかというと、この噂を先輩に教えたのが姉川その人だかららしい。穴に落ちた人を救い出せるのは穴が開いたタイミングしかない。先輩が穴をこじ開ける方法を探っていた矢先、肝心の女神像がフェンスの向こうに遠ざかってしまったのだ。なのでまずい。もとい、やばい。今日もこうして作戦会議を開いているが、とっくに行き詰まった二人から妙案が飛び出るはずもなく、食費と時間がいたずらに消えている。


「路上飲みとか混雑を避けるためだって、閉鎖。そんなの建前に決まってるよ――わたしと千也ちゃんを引き裂くためのさ」

「そうですね」


 アイスのアールグレイを吸い上げると、ずず、と音がした。そこに先輩のため息がかぶさる。


「だめだ、今日は解散」

「分かりました」


 各々トレイを持って席を立った。燃えるごみと燃えないごみ、飲み残しに分別して片付ける。先輩がトレイでもって燃えるごみの蓋を押し開けた。紙くずは真っ暗な口へと音もなく転がり落ちて消えた。



     ×   ×   ×



 それから一週間ほど後、先輩から緊急召集がかかった。おなじみのハンバーガー店で席につくなり、先輩は身を乗り出してきた。乗り出した拍子にひじがトレーにぶつかってドリンクが揺れる。


「連絡があったよ」

「姉川さんですか?」

「違う違う」


 先輩は人差し指を立てて振った。


「それだったら君に連絡してる時間すら惜しい」

「はあ」


 先輩が出したのは面白みのないシリコンのケースに入ったスマホだった。素早く指を動かして開いたチャット画面では、大人しそうな男の顔のアイコンが長大な吹き出しをいくつも吐いていた。


「千也ちゃんが出入りしてたサークルの人。蓮縄っていうんだけど。最初に千也ちゃんについて相談した相手は口が固いっていうかなんていうか、聞いても返事があんまりこなかったんだけど、その人から話を聞いたって連絡くれてさ。それで今度タイマ――(ここで先輩は「もとい」とでも言いたげに首を振った)――会うことになったんだよ」

「今度っていつですか」

「次の日曜だから……あさって?」

「へえ。急ですね」

「善は急げだからね」


 先輩は軽く胸を張り、すぐにまた前かがみの姿勢に戻る。


「でね、お願いなんだけど、わたしと蓮縄が会うところにこっそり居合わせてほしい」

「こっそり?」


 僕が聞き返すと、先輩は思考をまとめるように指先でとんとんとテーブルを叩いた。


「会う場所はすぐそこの喫茶店でさ、十時に駅で待ち合わせて行くから、その前に店に入っておいてくれないかな。で、話を盗み聞く感じで。ほら、いざって時のために証人? 援護要員? として立ち会ってほしいんだけど、さすがに一緒の席にいると誰こいつって思われるでしょ」


 頭の中に、街のあちこちで張り込む捜査員の姿が現れる。言わんとすることはなんとなく理解できた。


「分かりました。今のところ予定も入ってないので大丈夫です」

「よし」


 先輩は小さく拳をつくって続けた。


「でね、もしも何かあったら秘密の合言葉を言うから助けに入って」

「助けに? どうやって」

「こっそり通報するとか、変人のフリして蓮縄に絡んで気をそらすとか」


 前者はともかく後者は先輩だけ脱出して自分が取り残される予感がする。それに、先輩が手も足も出ないのなら僕が加勢したところで何にもならない気もする。だがそもそもそんな窮地に陥るとも思えなかったので、とりあえず了解することにした。


「それでね、合言葉は……」


 もったいぶっているのか、先輩はにまにまと口を開けたまま動きを止める。そして十秒弱をおいて言った。


「唐揚げ食べたい」

「唐揚げ食べたい?」

「そう」


 先輩はうなずいた。


「今決めた」


 なにせ秘密の合言葉なのだから、前々から決めておいて漏洩するのもまずいが、街中で堂々と発表するのもよろしくないのではないか。僕はそう思い、下宿に帰ってからチャットを送った。


〈さっきの合言葉なんですけど〉


 まるで待ちかねていたかのように一瞬で既読がついた。


〈誰かに聞かれた可能性もあるので少し変えませんか〉

〈確かに笑〉


 それからやはり十秒を待たずにメッセージが飛び込んできた。


〈カツ丼食べたい で!〉


 お辞儀をするスタンプで返し、スマホを置いた。お腹が空いていることに変わりはないようだった。


 土曜日は一コマだけオンラインの授業を受け、それ以外の時間はレポートと動画に費やした。机とトイレとの往復でしか体を動かさなかったせいか、昼になっても食欲がわかない。三時を過ぎてインスタントのうどんを無理くり食べ、胃が苦しいので夜も横にならずに動画を見ていたが、自動再生をオンにしたままいつの間にか寝てしまって、気づくとまるで知らない実況者が「ドンカツだ〜!」と叫んでいた。一時過ぎだった。一時ということは日付の上では日曜で、つまり先輩が蓮縄なる人物と会う日ということだ。僕は座椅子から体を剥がしてシャワーを浴び、ようやく落ち着いたお腹をさすりながらベッドに向かった。感心すべきことにその時の僕は忘れずにアラームをかけていて、今の僕も殊勝なことにスヌーズに頼らず起きることができた。


 手順の少ない支度を済ませて下宿を出た。朝の新宿行きにもかかわらず電車は空いていた。のっぺりとした曇り空をながめながら、今頃の先輩の様子を思い浮かべた。自分よりかは時間をかけて身だしなみを整え、バッグの中身を確認して――いや、お茶を飲んで話すだけなのだから持ち物も何もない。先輩は髪のセットや濃い化粧もしないようだから身支度にも時間はかからない。千也ちゃん待っててね、手がかりが見つかるかもしれないからね。そう心の中で力強く呼びかけて、先輩は勇ましく家を出る――おそらくすでに小腹を空かせて。姉川は時空の狭間で先輩を待っているだろうか。本当に時空の穴に落ちたのか、落ちたとして生きているのかは甚だ疑問だ。


 電車は中井駅を出た。疑問といえば、先輩と姉川は、どうして付き合っているのか首を傾げたくなる凸凹な二人だった。先輩の話を聞く限り姉川は極めて淡白な人物で、先輩のことを苗字で呼び捨てにしているらしい――先輩の千也ちゃん呼びとはかけ離れている。デートの話も先輩から聞かされたが、先輩の浮かれた話しぶりに惑わされずに分析すると、姉川の冷淡な言動に先輩が翻弄されている構図が多かった。先輩がそれでも懲りずに熱をあげているのは先輩にマゾ気質があるのか、それとも話に登場しない場面では姉川も態度を軟化させているのか、よく分からない。


 高田馬場に着くなり先輩からメッセージが届いた。


〈準備できてる?〉

〈馬場に着きました。これから店に行きます〉

〈了解〜〉


 喫茶店はロータリーに面したビルの三階にあった。特別新しくも古ぼけてもおらず、声を潜めて話す学生風の男女やパソコンを広げたスーツ姿の人などが座っていた。僕は店内が見渡せる角の席を選んだ。壁にボナールのぼんやりした絵がかかっている。


〈店に入りました。入って突き当たりの席です〉


 OKの札を掲げる犬のスタンプが送られてくる。僕は緊張とまではいかないそわそわした気分になり、興味もないデザートのページまでメニューを読んでからアイスティーを注文した。コーヒーは苦いしジュースは甘いからといういつもの理由だ。ほどなくして〈馬場着いた!〉、ついで〈蓮縄来た〉と報告が入り、十分もしないうちにドアのベルが鳴った。蓮縄はなんの特徴もないジャケットとジーパン姿で、チャットのアイコンどおり温和な顔をしている。続いて入ってきた先輩はいつもどおりの様子で、服はエスニック調のゆったりした長袖長ズボン、荷物はシンプルなウエストポーチ一つ。そして指には、ナットに少し洒落っ気を足したようなものや、巨峰の粒並みのサイズの石がついたものや、とにかくごてごての大きな指輪が、大きいという共通性しかもたずに並んでいる。――二人が席についた。姿は見えないが場所は把握できているし声も聞こえる。寝こけでもしない限り合言葉を聞きそびれることはなさそうだった。


 アイスティーが運ばれてきたのでさっそく口をつける。ダージリンかアールグレイかも分からない冷たいものが食道を落ちていった。二人の会話には早くも「姉川さん」という単語が出ていて、蓮縄の話に先輩が熱心な相槌を打ち、先輩の話に蓮縄が同情的な言葉を挟んだ。それをぼんやり聴きながら、僕は壁にかかったボナールの絵をながめていた。女の隣でテーブルクロスの上に前足をついた猫を見るうち、先輩がつけていた指輪の一つが思い出された。ボナールの猫の色のような、何色をも取り込んだ乳白色の石がはまった指輪を、先輩は初めて会った時もつけていた。歌かヨガかのサークルのしつこい勧誘から僕を解放してくれた、鮮やかなストレートを披露した右手の人差し指にはまっていたのだ。ストレートは勧誘の鼻先でぴたりと止まった。うちの新人に手を出してくれちゃ困るよ、特に今は試合前なんだから、と先輩がでっち上げを並べるうちに勧誘は逃げ去った。礼を言わなければならないのに、僕は見ていた人に通報されないかばかり心配して、口から出たのは「その指輪オパールですか」で、「違うよ。ムーンストーンだよ」と先輩が笑ったことも覚えている。


 僕は何度目か黒いストローに口をつけた。客が一人出ていき、店員が「ありがとうございます」と言った。ドアのベルが鳴り終わるかどうかのタイミングで突然、


「そうなんですね」


 蓮縄の声が妙にはっきりと耳に届いた。僕は反射的に二人の席の方へ目を向け、それと同時に再び声がする。


「どうですか、一緒にカツ丼でも」


 カツ丼、と口の中で繰り返す、そしてどきりと心臓が跳ねたその瞬間には、蓮縄や学生風の男女やスーツ姿の男やその他のほとんどの人間が椅子から立ち上がっていた。まるで号令でもかかったように――いや、かかったのだ。先輩の返事はない。姿も見えない。僕と同じくなんの反応もできずに蓮縄を見上げているのかもしれない。その蓮縄はゆっくりと体をひねり、穏やかな微笑をたたえた両目でこの上なくしっかりと僕を捉えた。


「そちらの方も一緒に」



     ×   ×   ×



 サークル員、先輩、サークル員、僕、そしてサークル員というサンドイッチを形成した行列は、「ありがとうございました」という店員の声に送られて喫茶店を出た。そして、それこそ新歓コンパの会場をめざすかのように練り歩き、あるアパートの一室に吸い込まれた。部屋の前でちらりと振り返ってみたが、そこには後ろを歩く男のTシャツがあるだけで、何が起こるわけでもない。お香ともタバコともつかない匂いに心の中で顔をしかめながら、無言の圧力によって奥へと進まされた。部屋は水回りを囲むL字型で、壁には大学で見た覚えのある、慈愛にあふれすぎた怪しいチラシや、曼荼羅と似て非なるものが飾られていた。玄関からは見えない、普通ならダイニングとして使われそうな空間には、雛壇のような台におびただしい数の燭台や花やイコンもどきが冒瀆的なほど雑然と並んでいる。その前に僕と先輩は座らされた。喫茶店にいたメンバーのほか何人かに包囲され、玄関への通路はもちろん塞がれている。彼らは一様に、蓮縄のような穏やかな顔で僕らを見ていた。決して高圧的でもないし暴力をちらつかせてくるわけでもない。しかし歯向かえばただでは済まないと本能が警鐘を鳴らしている。


 そして蓮縄はといえば、雛壇と僕らとの間の分厚い座布団の上に座っていた。


「まずはお話の続きから――お連れの方のために、今まで岐須井さんにお話ししたこともおさらいしましょう」


 取り巻きが鳴らしたのだろう、ちーん、とベルのようなお鈴のような音がした。蓮縄は僕と先輩を何秒かずつ見てから再び口を開いた。


「姉川氏がわたくしどもの家族になったのは一年ほど前でしょうか。こちらから手を差し伸べたのではなく、氏の方から救いを求めてきました。奇特な方です。初めてお会いした時のことは忘れもしません。なんとひたむきな、力強い瞳だったことでしょう」


 蓮縄はいつの間にか自分の声に聞き惚れるように目を閉じていた。取り巻きたちもバラードに聞き入るようにしんみりとした顔で黙っていた。


「家族となってからは兄にも姉にも劣らず、驚くほど熱心で敬虔で――それは最後まで変わることはありませんでした。――ああ、失礼。わたくしとしたことが、最後とはふさわしくない言葉ですね。彼女は母なる女神と一つになった。彼女は御祖みおやの一部となって今も息づいているのですから」


 視界の端で先輩がびくりと動いた気がした。喫茶店では聞かされなかった話なのだろう。僕にしても意味が分からなかった。


「氏からお話を聞いたのは去年の暮れの頃でした。曰く、御祖のために身を捧げたい、それを今まで果たせなかった分のおつとめとし、御祖の御許でさらに励みたいと――。氏の熱心さはわたくしたちの誰もが存じていました。その願いを反故にするなど誰ができましょう」


 取り巻きたちがそろって二度うなずいた。


「わたくしたちは氏の言葉を受け入れました。そして去る三月、彼女は晴れて御供としてかの穴に――」

「――ない」


 先輩の声だ。はっきりと聞き取れなかったが、蓮縄の言葉が妨げられるには十分な音量だった。蓮縄は目を開いて先輩を見つめた。


「生贄になんてなるわけない」


 低い声だった。今度は明瞭に聞こえてきた。


「千也ちゃんはそんなことするわけない。千也ちゃんはわたしと幸せになるんだ」


 蓮縄はぴくりともせず、興味も感情もないようなのっぺりした表情で聞いている。取り巻きも、気圧されているのか関心がないのか、反応する気配はない。


「二人で四年で卒業して、一緒のアパートに住んで、家事もちゃんと分担して、先に帰った方が夕ご飯をつくって、わたしの方が絶対料理上手だからわたしが先に帰れるように、近場の区役所でケースワーカーでもなんでもやってやるって決めたんだ。千也ちゃんも笑ってた。面白いねって言ってくれたんだ。それを、それをお前たちがたぶらかしてめちゃくちゃにしたんだろうが、この邪宗の徒どもがァッ!!」


 言い終わらないうちに、先輩の姿が視界の真ん中に躍り出ていた。のっぺりしたままの蓮縄に飛びかかって胸ぐらをつかむ。


「だって」


 頭を揺さぶられる蓮縄がふにゃふにゃの声を出した。


「氏は、氏はほんとに自分から――」

「嘘こけェ!!」


 先輩と僕を取り囲む輪が崩れた。先輩は取り押さえにくる数人に向かって蓮縄を投げ飛ばした。次々と群がってくる取り巻きを、指輪だらけのパンチや足払いで迎え撃つ。蓮縄に仕掛けたのを除けばどれも相手の行動ありきの正当防衛に見える。あんなに怒りを爆発させていた――しかも他ならぬ姉川のことで――にもかかわらず、至極冷静に判断する頭が残っていたというのが意外だった。


 戦闘は僕の視界から外れていった。後に残ったのは僕を隔てていたために先輩を止めそびれた五人と、目を回している蓮縄と、それを介抱する何人かだった。誰も僕を気にとめる様子はない。それでも下手に動くわけにはいかず、僕は正座したまま考えはじめていた。滞っていた空気が先輩の大立ち回りによって動き出したおかげで、話を聞くばかりで硬直していた脳も回転しはじめた気がした。先輩が全員を相手にしてはさすがに多勢に無勢だ。先輩と自分が逃げおおせるために何ができるだろうか。蓮縄が消えたおかげで僕の目の前には雛壇の全貌が見えていた。目が回るほどの品物に囲まれてもなお凛として、一体の像が鎮座している。ロータリーの女神像、のレプリカだ。この部屋に集う者たちの祈りの向かう先。魂の拠り所。それならば、と僕は足の指を動かしてみる。幸い痺れてはいない。それならば僕は、彼らの信じる心を信じよう。そろそろと、しかし制止を許さないスピードで僕は腰を浮かし、女神像ににじり寄ると両手で持った。あ、と間の抜けた声が聞こえる。僕は急いで後ずさりした。


「御祖さま!」


 僕は下半身をゆっくりバネのようにたわませると、なるべく長い滞空時間になるように、そして取り巻きたちが手を伸ばしてくるその向こう、蓮縄の座っていた分厚い座布団に着地するように祈りながら、女神像のレプリカを放り投げた。


「御祖さま!!」


 迫ってきていた取り巻きたちが一斉にくるりと向きを変え、女神像を助けに殺到する。蓮縄の周りであたふたしていた何人かも残らずそこに加わり、膝枕を失った蓮縄の頭が床に落ちた瞬間、僕は我に返って玄関へダッシュした。数歩目で明らかに人を踏んだにゅごっという感触があったが気を取られている場合ではない。九十度のコーナーを曲がると玄関へとまっすぐに廊下が伸びていて、開け放たれた玄関のドアまでには取り巻きが何人かのびていて、僕はそれを横スクロールアクションのように跳び越えた。ゾンビみたいに足をつかんでくる気がして余計に高く跳んだ。先輩の足跡みたいに点々と転がる取り巻きをたどって共用廊下の突き当たりまで行くと、駅の方へ駆け去っていく先輩の背中が見えた。先輩は無事だった。僕はほっとすると同時に、心にぽつんと寂しい雫の落ちる気がした。かくかくと曲がりながらぐるぐると階段を下り、先輩の爆走した道をなぞって走った。短い数ブロックを過ぎて振り返ると追っ手らしき姿はない。出前機を積んだカブとすれ違ったが、それがUターンして追いかけてこないとは言い切れず、近くの曲がり角で道をそれてから再び北をめざした。早稲田通りにはちらほらと人通りがあって少し心強くなり、早歩きで駅に向かう。ホームで自動販売機を見た時、喉の渇きと一緒に、あの喫茶店のアイスティーは無銭飲食ではないかという不安がわいてきた。しかし、あの店もグルだったのだと思い直すことにして、折良く入線してきた電車に乗り込んだ。降りた駅で大きなサイダーを買った。カフェイン入りの飲み物は水分補給には向かないらしいので。



     ×   ×   ×



 カルトサークルとの接触以降も先輩との作戦会議は続いた。蓮縄の話のうち、姉川がロータリーの時空の穴に落ちたという部分は先輩も僕も信じている。しかし、姉川は志願して生贄となったという部分を先輩は頑として受けつけず、自分と結ばれるべき姉川がそんなことをするわけがないと繰り返した――さもありなんと言うほかない。だとすれば蓮縄たちが無理やり姉川を女神に捧げたのだろうか。先輩に詰め寄られた際、蓮縄は必死に否定していた。蓮縄とはあの日以来連絡がとれず、真相を問いただすすべはない。先輩に連れられてあのアパートにも行ってみたが、人の気配がまるでなく、先輩がドアを蹴破る提案をしたところで隣人にそこは空き部屋だと教えられた。帰り道、アパートがちょうど女神像が向いている方角に建っていると気づき、信心深い人たちだと静かに感心したのだった。


 六月後半に入り、僕はいつものように先輩に呼び出された。おやつ時だからか先輩は初めてドーナツ店を選び、前哨戦のように担々麺を平らげると、多種多様なドーナツを立て続けに頬張った。いつも以上の食べっぷりだった。


「はあ」


 もちもちの生地、クリーム入りにストロベリーソースときて、今は砂糖の粒がまぶされたチョコ生地を取り上げたところだ。


「どうすれば時空の穴を開けられる? どう思う?」

「分かりません」


 僕はアイスロイヤルミルクティのグラスの角をなでながら言った。


「でも思ったんですけど、あのサークルは穴を開けたい時に開けられるかもしれませんね。穴が開くタイミングを待って生贄を捧げるなんて呑気じゃないですか。だとすれば生贄を捧げようっていう時に、何かして穴を開けていたのかも」

「何かって?」

「分かりません」


 先輩に食らいつかれたチョコ生地の円がC字型になる。中指の腹で口の端を払うと、砂糖の粒が皿に落ちてちんちんと音を鳴らした。この人は今ここで何らかの答えが出るまで無限にドーナツを食べるのではないかとぼんやり危惧さえしたが、先輩は一口残してふいに咀嚼をやめた。両目が僕の後方の何かを追うようにゆっくりと動いている。数秒後、残りのチョコ生地を口に放り込んでやにわに席を立った。テーブルにももをぶつけるほどに勢いよく。


「蓮縄だ」

「えっ」


 僕は振り返って先輩の視線を追う。店の外に人影が一瞬見えた。それが蓮縄かは分からなかったが、ロータリーの方へ向かっていることは確かだった。先輩はすでにドアへと走りはじめている。僕は二人分のトレーを片付けて後を追った。アイスクリーム店の短い行列を避け、悠長に歩くグループをかわした先で、円を描く道路にぶつかった。先輩は止まると死ぬとでもいうかのように青いビルの前を駆け抜ける。交番と駅を過ぎて横断歩道を渡れば目的の場所だ。僕は追い抜かす人すれ違う人に謝り倒しながら遅刻の時以上に走った。横断歩道で信号待ちを食らう先輩に追いつく、その一歩手前で信号が青に変わり、やっとのことでロータリーの島部分にたどり着いた。先輩は立入禁止のフェンスの手前に突っ立っていた。


「穴だ」


 いつの間にか僕の横にいた蓮縄が呟く。思い出したように汗がわいてきた。


「穴だ。僕らは開けてないのに」


 僕はない唾を飲み込んで先輩に歩み寄った。確かに直径二メートルほどの穴が、地面にきれいな円を描いていた。あまりに黒々として深さはうかがい知れない。先輩はそれをのぞいていた。いつもの勢いであれば躊躇なく飛び込んで姉川を引き上げてきそうなものだが、穴から目を外さずにただ立っている。まるで何かを待つように。


 やがてなんの前触れもなく、穴の縁に白い手がにゅっと現れた。


「千也ちゃん」


 縁に両手をつき、プールから上がるように出てきたのは、先輩のスマホのロック画面で見た人物そのものだった。姉川は地面に立つと一瞬辺りに目をやった。


「千也ちゃん!」


 先輩が姉川に飛びつこうとする。姉川はそれには目をくれず、黒々とした穴を振り返って手を差し伸べた。


「牧根くん、ほらおいで!」


 穴の中から再び手が伸びてきて姉川の手を捉える。姿を現したのは大人しそうな、蓮縄よりはしっかりした雰囲気の男だった。姉川と男は泣きそうな顔で互いを見つめた後、信号が何度青から赤に変わったか分からないほどのあいだ抱き合っていたが、それを先輩の気の抜けた声が妨げた。


「千也ちゃん」


 ゆっくりと抱擁がほどけ、姉川が先輩の方を向く。面白いほどに感情の削がれた顔だった。僕は思わず笑いを漏らしかけ、そして思い出した。先輩のスマホのロック画面でピースする姉川もまた、恐ろしいほどの無表情だったのを。


「誰?」


 男が問う。


「あ、あれ? 前言ってた岐須井って人」


 姉川が棒立ちの先輩を顎で示した。


「ほら、私が落っこちたら絶対助けに来るって奴。ね、牧根くん、言ったとおりでしょ?」


 牧根は思い出したとでも言いたげに何度かうなずいた。姉川はそれから先輩を見やった。


「何したか知らないけどありがと。じゃ」


 最低限の礼節を吐き捨て、最高の笑顔を牧根に向けて姉川は去っていった。僕は絡み合った腕が雑踏の中に消えていくのをながめていたが、ふとすっぱい臭いがして視線を落とした。しゃがみ込んだ先輩がドーナツと担々麺だったものをげえげえと吐いていた。延々と生み出される吐瀉物は見る間に地面を侵食し、気づけばこちらの爪先まで広がってきている。僕はあわててそれを避け、弾みでバランスを崩した。踏ん張ったはずの足の下に地面はなかった。視界と体がぐるりと回る。フランスの橋のようにフェンスに取り付けられた南京錠、南京錠が日の光に瞬く、そのフェンスの向こうでアパートの方へ両手を差し出す女神像、目を殴ってくるようなまぶしい空、全てが上方の円に収まって遠ざかり、僕は際限なく落下する。大したスピード感もなければ恐怖もない。円は延々と小さくなっていつしか消えてしまった。もがく手を握った拍子につぶしてしまったのかもしれない。誰も助けてはくれないのだろう。




 終

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ブロークン・サークルより愛を込めて 藤枝志野 @shino_fjed

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