航 10月20日

第82話

「続いてのニュースです。およそ三ヶ月前、夜間に自室にて高校生が死亡する事件が相次いだ報道に関しまして、警察はそれら一連の事件を他殺とみて捜査を続けてまいりましたが、容疑者の女性がすでに亡くなっていたことが判明しました。


 犯人はなんと実の父親であり、その男は遺体を山中に埋めた後、思い直して葬儀を行ったと供述しております。


 警察はなぜ三カ月も経ってから犯人が出頭したのか事情を聞くと共に、一連の高校生殺害事件にも犯人が関与していたのか詳しく――」


「へぇ。田舎ではそんな危ない事件が起きてんだな」


 朝食のパンにかぶりつきながら朝のニュースを観ていた葉瀬川航は、パンくずを払い落として参考書を鞄にしまった。


「お兄ちゃん、床に落とさないでよ!」


 赤いランドセルを背負った妹の紬は、怒ったように声を上げると掃除機を持ち出してその場を掃除し始めた。


「紬よ……。それは後で兄ちゃんがやるから、お前は早く学校に行け」


「だって、お兄ちゃんに任せてたら家がどんどん汚くなっていくんだもん」


 事故で母親を失ってから三年。今年で小学五年生になった紬は、すっかり母のような小言を言うようになっていた。


 そんな彼女の姿を見ながら表情を緩める航の父親は、「そうだぞ。航に任せると部屋が汚くなる」と彼女に加勢するように言った。


「親父にだけは言われたくないね」


 呆れた顔で言い返した航は、立ち上がって食器を流しに置いて水を流すと、紬から掃除機を奪い取った。


「ほら、お前は早く学校行けって」


 航が手のひらを外側に向けて動かすと、紬は彼を見上げながら「お兄ちゃんも遅刻しちゃダメだよ」と言った。


「分かってるよ」


 妹を見送った航は、そそくさと掃除機をかけてから元の位置に戻した。


「俺もそろそろ行ってくるわ。親父は今日も遅いんだろ? 飯は?」


「帰ってから食べたいなぁ」


「そんじゃ作っとくから、帰ってきたら勝手にレンジで温めて食えよ」


「へーい」


 がぶがぶと牛乳を飲みながら気のない返事をする父親は、去り際の航を呼び止めると「お前、大学受験はしないつもりってほんとか?」と珍しく真剣な顔で言った。


「……紬から聞いたのかよ」


 航は困ったように頭を掻き、「まだ分かんない。国立受かったら行くかもだけど、それ以外はちょっとな……」


「サッカーは? 推薦来てるんだろ?」


「だって、うちにそんなことしてる余裕ないだろ。紬ももうすぐ中学生だし、俺もなるべく早く働いた方が親父にも――」


「高校生のお前に働いてもらうほど、俺の稼ぎは少なくないぞ」


 不機嫌そうに言い放った父親の言葉に少しむっとした航だったが、すぐに冷静さを取り戻し、「今はそうかもだけど、いつ体壊すか分かんないだろ?」と言った。


「いいから、お前は好きなことをやってろ! サッカーがしたいなら、それが出来る学校に行けばいい。勉強したいことがあるなら、私立でもなんでも俺は構わん!」


「…………」


 父親の言葉を聞いて短いため息を漏らした航は、「……まぁ、考えとくわ」と答えて鞄を肩に掛けた。


「遅刻しそうだから、もう行くわ」


「おう、張り切って行ってこい!」


 父親に大声で見送られた航は、駅に向かう道を足早に進んでいた。次の電車を逃すと確実に遅刻だが、このペースなら十分に間に合うだろう。


 鞄から志望校のパンフレットを取り出した彼は、大学を受験するか、高校を卒業してすぐに働くかどうか迷っていた。


 今後の家計を考慮すると、大学を出て収入の高い職種についた方が妹に好きなことをさせてやれる。けれど先ほどの父親との会話から、サッカー推薦をすでに獲得している彼は本格的に打ち込むべきかどうかと、気持ちが大いに揺らいでいた。


「まだ、サッカーしても良いのかな……」


 内心で身体が疼くのを感じていたが、夏の引退後はすっかり受験モードに突入している。航は俯いたままパンフレットを握りしめ、それをじっと見つめながら唸り声を上げた。


 すでに大通りの交差点に差しかかっていたが、考え事に夢中になっていた彼は歩行者用の信号が赤に変わっていることに気づかなかった。


 彼が信号を渡り始めたところで、右側から大型のトラックが走ってきた。クラクションを聞いてようやくそのことに気づいた航だったが、咄嗟のことで頭が混乱し、足が思うように反応してくれない。


 駄目だ、ぶつかる……!


 目を瞑った瞬間、突然身体が後ろに引っ張られた彼は地面に倒れ込んだ。


 目の前を通過するトラックの運転手は、激怒して声を荒げながら走り去っていく。それを見送った航は、呆然とした表情で徐々に早まる鼓動を感じていた。


 今のは相当危うかったのではないか……?


 頭が働き始めると、額から冷や汗が流れた。


「あの、……大丈夫ですか?」


 背後を見遣ると、そこには一人の女子高生の姿があった。この辺では見かけない学生服姿。地面に落ちたガイドブックを見る限り、旅行者のようだった。


「ありがとう。おかげで助かった」


 ガイドブックを拾って手渡すと、その子は礼を言いながら本を両手で抱きかかえた。


「えっと、観光かな?」


 胸元のガイドブックを見ながら航が尋ねると、小さく頷いた彼女は「修学旅行なの」と答えた。


「本当は来たくなかったけど、せっかくの機会だし」


「どうして来たくなかったのさ?」


「だって私、一緒に回る友達もいないし……」


 彼女の暗い表情を見た航は、その姿が三年前の自分と重なった。


 事故で母を失った頃の彼は、一人でこの世に取り残されたような気分になったものだ。


「僕は葉瀬川航。高校三年生だよ」


 思わず自己紹介をした彼は、次いで笑顔を作って手をさしだした。


「君の名前は?」


 突然の挨拶に驚いたのか、彼女は航の顔をじっと見つめながら、 瞬きを繰り返している。


 やがて微笑み返してきたその子は、彼の手を力強く握り返した。


「私の名前は、沢渡碧。高校二年生です」

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深海を蝕む糸 扇谷 純 @painomi06

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