第81話

 空に雨雲は出ていない。風に乗って斜めに吹く雨粒は緩やかな弧を描いている。それを目で追った彼は、散水ノズルを構えて勢いよく水を発射させている碧の姿を捉えた。


「……ごめんね、菫ちゃん」


 彼女に責められた時、碧は森の中で見た光景が脳裏に浮かんできた。地中に埋まった菫の口元を覆う無数の根、こめかみから生えた奇妙な花、そして、すでに冷え切っていた彼女の手……。


 ――あれは、菫ちゃんじゃない。


 藤咲菫は命を絶っていた。目の前で動く彼女の姿も、頭上に伸びる光もすべて脳に巣食う植物の仕業にすぎない。


 碧の中で、何かが吹っ切れたように思えた。


 植物の暴走を食い止めるべく駆け寄ろうとした彼女だったが、視界に海が入った時、とある夢で体験した記憶を思い返した。


 消防士姿の朝陽は、夢の中に入り込んだ碧を捕まえてよくポンプ車についてのレクチャーを行っていた。乗り物について非常に関心の強かった彼は、面倒がる彼女の意思に関わらずポンプ車の使用法やその構造について事細かに説明を行った。


『夢の中での創造物は、イメージが大事なんです』


 以前に菫から教わった言葉を思い出した碧は、きつく目を閉じながら想像力を働かせた。背後ではいつしか巨大な車体が唸り声をあげ、ホースに繋がったポンプが海水を運んでいる。手の中に現れたノズルを力いっぱいに掴んだ彼女は、発射される水が放物線を描くように調整した。


「ぎゃあぁぁぁぁ!」


 頭上から降り注いだ海水の雨に悲鳴を上げた菫は、苦悶の表情を浮かべて頭を抱えている。その場にへたり込んだ彼女の身体からは水蒸気が溢れだし、皮膚の水分が蒸発していくのが見てとれた。


「もう、少し……」


 このままいけば水分を全て奪い取ることができると考えた碧だったが、雑念が入った途端にポンプ車は姿を消してしまった。頭上から舞い降る雨がやみ、菫は身体を震えさせながらも立ち上がろうとしている。


「まだよ、まだ終わらせない……」


 菫が顔を上げると、彼女の前に立った航は口元に何かを咥えていた。先端から煙を放つそれを指先で摘んだ彼は、人差し指で溜まった灰をはたき落とした。


「……だっ…め……」


 海水と煙草の灰を同時に浴びた彼女の身体は一瞬にして干からびると、水分が蒸発して空気中に霧散していった。


 赤い石の消滅を見届けた航がその場に倒れ込むと、慌てて駆け寄った碧は彼が生きていることを知り、一人泣き始めた。


「……やれば、できるじゃないか」


 胸の中で号泣する彼女の背中を擦った航は、残った煙草をふかしながら笑みを浮かべた。「これで君も、超能力者の仲間入りだな」


「私、一人きりになっちゃった……」


 彼の胸の中で涙を流し続けていた碧は、しばらくして泣き疲れると、力なく隣に横たわった。


「亜美も、朝陽も、菫ちゃんも……。本当は死んでいたはずの私だけが生き残って、良かったのかな……」


「…………」


 暗い声で漏らす碧の横顔を見遣った航は、無言で彼女の頬をつねった。


「痛いじゃないですか!」


 怒ったように怒鳴る彼女を見ながら笑い声をあげた航は、「夢の中で頬をつねっても、目は覚めないんだな」と感心したように頷いた。


「そんなのただの迷信ですよ」


 航は拗ねたように頬を膨らませる彼女をなおも見つめながら、「そういう顔がまた見たかったんだよ」と言った。


「僕は暗い顔をしてほしくて君を助けたわけじゃない」


「……そう、ですよね」


 起き上がって海辺に向かう彼女の後ろ姿は、とても寂しげだった。


「生き残ったことに、負い目を感じる必要はないよ。これも君と僕が精一杯にやった結果だ。受け入れるしかない」


「受け入れる……」


 自分が夢を渡り始めなければ、今回の事件はそもそも起こりうることがなかった……。そんな仮定の話を思い浮かべながら、碧は胸の内に気持ちを飲み込んで振り返った。


「これから一人で生きていくことが、私にとっての罰なのかも知れませんね。」


 そう言って無理やり笑みを浮かべる彼女を見た航は、ポケットから煙草の箱を取り出すとそこから一本引き抜いて火をつけた。


「話したいことができたら、また遊びに来い。ビールくらいは振る舞ってやる。僕も一人で夜を過ごすのは、そろそろ飽きてきたしな」


 片足を引きずりながら碧の方へと歩き出した彼は、「今度はバーベキューセットでも出してくれよ」と言って屈託のない笑みを浮かべた。


「嫌ですよ。何で私があなたのためにそんなことをしなくちゃならないんですか」


「おいおい、命の恩人に向かってそれはないだろ」


「最終的に助けたのは私ですけどね」


 彼とのやりとりでようやく自然な笑い顔を見せ始めた彼女の向こうでは、これまでずっと夜だった夢の世界の水平線に、薄っすらと太陽が上がり始めていた。

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