菫 7月2日
第80話
「……碧さん」
七年前の若々しい姿のまま、彼女は相変わらず怯えた表情でこちらを見つめてくる。
過去に最も友情を育んだ人物と再会できた菫が喜びを感じる一方で、脳内に蠢く植物は嫉妬の対象となった彼女に思い知らせてやろうと航にナイフを向けた。
「どうしてその人を傷つけるの? 狙うなら私にすればいいでしょ」
碧は彼女の方へ足を進めながら、「元はといえば、あなたをこんな風にしたのは私のせいなんだから」と言った。
「久々に会って言うことがお説教なの? ずいぶんと偉くなったものね」
菫が航の頬にナイフを当てると、碧は悲しげな表情でそれを見つめた。
「……菫ちゃん、もうやめよう。あなたは死んだんだよ」
「残念でした。それは前の私なの。今は――」
「あのお花は、私たちが枯らしたよ」
近づくに連れて航が太ももに傷を負っていることに気づいた碧は一瞬顔をしかめた後、菫を睨みつけながら「あなたはもうじき消えていなくなるの。もう帰る場所はないんだよ!」
「……枯れた?」
首を傾げて目を見開いた菫は、彼女の言葉について考えた。
それはいつの話……? 階段から落ちた直後に私は、夢の中で今井莉緒菜と入れ替わった。今さら埋められた遺体に何か細工を施したところで、何かが変わるわけではない。
「碧さん。一足遅かったみたいね」
余裕の笑みを浮かべる菫の頭上を指さした碧は、「そんなことないよ。あなたはもう死んだの。自分の頭の上をよく見て!」と叫んだ。
「何よ! ふざけたことを言っちゃって!」
菫がしぶしぶ頭上を確認すると、今まで鮮やかな紫色に輝いていた光の糸は徐々に薄らいでいくようだった。
「どうして……? そんなはずは――」
そこで彼女はふと、莉緒菜と身体が入れ替わって目覚めた際に三日間のタイムラグがあったことを思い出した。
「私は階段から落ちたとき、すでに夢の中にいたのよ!」
まさか、あの子に先越された……?
「それから夢を渡って、莉緒菜ちゃんと魂の入れ替えを――」
もしも夢を渡る前に、本体が始末されてしまっていたら……。
不安に苛まれた菫は、輝きを失いつつある頭上の光を見ながら、自身の存在の危うさに頭を抱え始めた。
「……駄目よ。私が死ぬなんて、そんなの絶対にだめ!」
「菫ちゃん、もう終わりにしよ」
弱々しく訴えかける碧の言葉が、ひどく疎ましかった。
何もできないくせに、何もしてくれないくせに、どうせ他人のことなんて、どうとも思っていないくせに……!
「碧さん。あなたは私のことを殺しておいて、ずいぶんと平気な顔をしているのね。大事なお友達だって言ってくれたのに!」
「それは……」
目に涙を浮かべる碧を見た航は、椅子の上でじたばたしながら菫を見上げ、「もう諦めろ!」と訴えかけた。
「今井の身体を奪えなかったお前は、未来では存在しなくなるんだ」
「私の存在が、なかったことに……?」
光が薄らいでいくにつれ、自身の指先が透過し始めていることに気づいた菫は、怒りに震えながら彼にナイフを突きつけた。
「なによ! ……あんたが、代わりに死ねばいいのに」
自身で発した台詞に思わずはっと目を見開いた菫は、一つの可能性について考えを巡らせた。
目の前にいる男が過去の夢と通じているのなら、ひょっとして魂を入れ替えることができるのでは……?
菫は彼の腕を縛った縄を切ると、ナイフを突きつけたまま近くに置かれたクーラーボックスを顎で指した。
「そこに飛び込みなさい」
「一体、何をするつもりだ」
菫の発言に航が眉を潜めていると、彼女は血走った目で彼を見つめ、「私はあなたになるの」と答えた。
「消えてなくなる前に入れ替われば、まだ間に合うはず」
「何を言っている……」
彼女が今度は自分と魂を入れ替えようとしていることに気づいた航は、すでに未来で存在しないことになっている菫が今さら何をしようと実現はできないはずだと結論づけた。
「不可能だよ。君は既に僕のいる未来には存在しないんだ」
そうは答えつつ、航はどこか不安な気持ちにさせられていた。
本当にそうだろうか? 碧の行動を変えたことで未来の彼女が消えたとしても、目の前の存在が死にゆく寸前の藤咲菫の魂とリンクしていたら……? ひょっとすると、過去の定められた行動を上書きすることも……。
「やってみないと分からないわ」
生に対する彼女の執着に航は恐怖を覚えた。類まれな強運ですべてを掴んでしまいそうな気配……。
「やめろ……。離せ!」
抵抗を示す航に勝機を見出し始めた菫は、意地でも彼を水中へ引きずり込もうとしている。片足で踏ん張りのきかない彼は、徐々に身体を引きずられていく。
駄目だ、このままでは……!
航がそう思った瞬間、突然雨が降り始めた。
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