第79話

 顔面は蒼白で、よく見ると両目とも白目を剥いていた。口元から唾液を垂れ流した彼は、ぶつぶつと独り言を呟きながら注射器を持ち上げると、それを自身の首筋に向かって勢いよく突き刺した。


「あっ! 駄目……!」


 スコップを投げ捨てて駆け寄った碧は彼の腕を掴んで注射器を奪い取ろうとしたが、慎二は力一杯に彼女を突き飛ばした。


 その流れで片膝をついた彼は、身体を痙攣させながら地面に倒れると、そのまま気を失ってしまった。


「藤咲さん……」


 碧が身体を起こすと、倒れた彼のそばには割れてしまった注射器が落ちていた。


 安否を確認している余裕はない。花に近づくのは危険だと判断した碧は、踵を返して数メートル離れた塩袋の前まで戻ると、預かっていたポーチの中を漁った。


 運よく予備の注射器を見つけることはできたものの、花を至近距離で持つと恐らく心を奪われてしまうだろう。


「どうしよう……」


 嗅覚を遮断すれば誘惑を防ぐことは可能かもしれないが、そもそも仕組みがはっきりしない以上、完全に防ぐ方法を見つけるのは難しい。


 そうこうしている間にも、太陽光をいっぱいに浴びた植物は花びらを広げ始めていた。あの花に誘惑されないための方法が、他に何かあれば……。


 視線を落とした碧は、足元に転がっている塩袋に着目した。花の種が塩水に弱いなら、ひょっとしてこれも嫌がるかもしれない。


 塩袋の口を開いた碧は、力を込めてそれを持ち上げると頭から塩を被った。次いで注射器を手に持った彼女は、花に向かって素早く駆け寄った。


 慎二の倒れたそばには煙草の吸い殻が落ちている。それを拾った彼女は見よう見まねで液体の中に灰を混ぜ囲ませた。


 これで上手くいくかどうかは分からないが、放っておくとさらに手出しができなくなってしまう。


 花の茎を掴んだ碧は甘い匂いに一瞬立ちくらみのような眩暈を覚えたが、強烈に引き寄せられるというほどではない。


 花の柱頭を目がけて彼女が注射器を構えた瞬間、どこからか声が響いた。


 不規則な音の並びにも等しいその声は、脳内に直接響いてくるようだった。視界の端で何かが動いたように思えて彼女がそちらを見遣ると、なんと菫の指が動いていた。


「うそよ……。まだ生きてるなんて……」


 青ざめた顔で花と菫を交互に見遣った碧は、気づけば注射器を持つ手が震えていた。


 これを注入することで、彼女は本当の意味で死んでしまうのではないか。それはすなわち、碧自身の手で彼女の命を奪う行為にほかならない。


 それをする覚悟が、自分にはあるの?


 彼女は自問した。


 私が人を殺す……。この手で菫ちゃんの命を……。


 脳内にこだまする声は、助けを求めているように思えた。この選択は、果たして本当に正しいのか……? 実は他にもっと良い方法があって、彼女を救うことができるのではないか。


 そんな碧の葛藤を見抜いたように、いつの間にか意識を取り戻していた慎二は彼女の手から注射器を奪った。


「……ありがとう」


 囁き声にも等しいその台詞を口にした直後、彼は碧が掴んでいた花の中心部に向かって注射器を突き刺した。


 まるで抵抗を示すように一瞬だけ強烈な匂いを発した花は、同時に稲妻のような火花を散らした。


 それは碧に向かって一直線に飛来したが、電撃はなぜか直前で方向を変え、空中で霧散していった。


 緊張が解けてその場に尻もちをついた碧は、力なくうな垂れる花を見ながら大きくため息を漏らした。


 菫の指先の動きが止まり、身体から伸びた光は色味が薄らいでいくように感じられる。


「菫ちゃん……」


 彼女の命の光が、もうじき消える。


 碧が瞳に涙を浮かべていると、首筋を押さえて膝をついた慎二は彼女の肩に手を触れた。


「あの子は血を流し過ぎた。どのみちもう助からなかったよ」


「でも……」


 碧が恐る恐る菫の手に触れると、それはすでに冷え切っていた。無言で彼女の身体を調べる慎二もまたそのことに気づくと、ため息を漏らして静かに涙を流した。


「さすがにこんな白昼から遺体を担いで山を下るわけにもいかない。後日僕の方で必ず何とかするから、今はこのままそっとしといてやってくれないか」


 必死な様子で訴えかける慎二は、ひどく顔色が悪かった。額に汗をにじませ、呼吸も荒々しい。どのみち今の彼では人を抱えて山道を下りられそうにない。


「あの注射って、……人に打っても大丈夫なんですか?」


 彼を気にかけるように碧が尋ねると、腰を下ろした慎二は地面に散らばった注射器の破片を見つめ、「いや、中身を注入していたら今頃は私も無事では済まなかっただろう」と答えた。


「君に助けられたよ」


「そんな……。私は何も……」


 慎二に肩を貸しながら車を停めた場所まで戻った碧は、彼を運転席に座らせて一人荷物の積み込みを行った。


「任せてしまってすまないね」


 青い顔をした慎二は助手席に乗り込んだ碧にそう言うと、エンジンをかけて山を下り始めた。


「そのまま帰っては親御さんに何を言われるか分からない。うちに寄って身体を洗ってから帰りなさい」


「はい、ありがとうございます……」


 碧は安心したせいか突然眠気が襲ってきた。運転席の慎二は注射器の薬が全身に回るにはもうしばらく時間がかかるだろうと話した後、遺体を丁重に葬ったのちに警察へ出頭するつもりだと語っている。


 それに相槌を打ちながら、彼女は瞼が重たくなってとうとう開けていられなくなった。まるで水中を漂うように身体が沈んでいく。


 目を開くと、彼女は水中を泳いでいた。自身が制服を着ていることから、そこが夢の中であることがすぐに分かった。


 葉瀬川さん……。


 瞼を閉じた碧は彼の姿を思い浮かべた。しばらくして目を開くと、前方に赤い糸が垂れ下がっている。


 手を伸ばしてそれを掴んだ彼女は、光の波に乗って水面を上っていく。


 見慣れた海岸沿いの景色。


 満点の星空と、少し欠けた月の姿。


 遠方で立ち上る焚き火の煙を見た碧は彼が生きていることに安堵したが、アウトドアチェアに腰かけた航のそばには、向かい合うように立つもう一つの人影があった。

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