碧 7月2日 II

第78話

「塩を散布すると、その一帯に植物が生えてこなくなると言われている。塩の主成分である塩化ナトリウムが植物から水分を奪うからだ」


 藤咲慎二はこまめにハンドルを切りながらそう言うと、隣の座席に腰かけた碧の方をちらりと見遣った。


「浸透圧によって水分が塩分濃度の高い外部へ移動し、細胞内のものがすべて尽きると植物はやがて枯死する。また塩は真水で洗い流さない限り、土壌で分解されずに長い間残留し続けるんだ」


「塩を使うことで、赤い石を処理できるんですか?」


「塩の散布だけでもある程度の効果は発揮するだろうが、今回は高濃度塩化ナトリウムを注射器で直接流し込もうと思う。菫の頭部には小さな芽のようなものが出ていたから、そこから針を刺し込めば種まで回るはずだ」


「そうですか……」


 荒れた山道を眺める碧は、静かに一人ため息を漏らした。大事な友人の遺体の頭部に芽が生えている姿など、想像するだけでも悲しくなる。


 町で材料を買い集めた慎二と碧は、彼の車で遺体を埋めた場所を目指していた。協力すると約束してくれたわりに黙って準備を進めていた彼は、目的地が近づいてきた頃になってようやく口を開いた。


「じゃあ、あれは使わないんですか?」


 後部座席にはクラフト紙の表面に十キロと記載された塩袋が積み込まれている。それを指差しながら碧が尋ねると、「念のため持ってきたが、正直使うことはないだろうね」と慎二は答えた。


「それよりも、大事なのはこれだよ」


 ポケットから彼が取り出したのは、煙草の箱だった。「こいつの灰を塩水に混ぜ込んで種に振りかけると、根が枯れたらしい。どういった理論でそうなるのかまでは突き止められなかったようだが、実際に八十島はこの方法で赤い石を一つ葬っている」


「赤い石がもう一つ!?」


 驚いた顔で慎二を見つめた碧は、「二つもあるなんて知らなかったです」と言った。


「私も手帳を読んで初めて知ったんだよ。どうやら紺野が発見したらしく、彼の研究を引き継ぐことでどうにか始末する方法にたどり着いたようだ」


 取り繕うようにそう答えた慎二はポケットに煙草の箱を戻すと、「八十島の見立てでは、タバコモザイクウイルスが塩水と融合して何らかの作用を引き起こし、未知の物質を組織ごと破壊したのではないかということだ」と言った。


「赤い石から生まれてくる植物が、まさか煙草の一種だとは思いもよらなかったよ。もはやサンプルが残っていないため、今回は検証なしで本番に臨まないといけない。上手くいくかどうかは分からないが、これで菫が安らかに眠れるのなら、試す価値はある」


「…………」


 木々の隙間から射し込む太陽光に目を細めた碧は、慎二の横顔を眺めた。菫を殺害した経緯を聞いた彼女は、その光景を想像してひどく哀れに思った。


『私は、あの子の命を奪ってしまった……』


 彼はしきりにそう口にしていたが、実のところそれは事故死に等しく、殺意はなかったものと思われる。


 赤い石を頭部に埋め込もうなどという奇想天外な発想を思いつきさえしなければ、彼女は死なずに済んだのかもしれない。


 そうなれば朝陽や、亜美も……。


 だが、それは可能性の一つに過ぎない。人はそれぞれ意思を持って行動している。絶対などという選択肢はないのだから。


 過ぎたことを悔やんで立ち止まるより、今は自分にできることをしなければならない。


「傲慢か……」


 小声でそう呟いた碧は、ほんの少し口元を緩めた。


 今思えば、随分と無茶苦茶な理論で押し切られたような気がする。友人の死を嘆いている相手に“傲慢”なんて言い方で叱るなんて、あの人は本当に……。


「本当に、……いいんですね?」


 碧が意思を再確認すると、慎二は前方を向いたまま苦笑いを浮かべた。


「君に協力すると決めた時から、すでに覚悟は決まっているさ」


 山の中腹付近で車を停め、材料を手に歩きだした二人は三十五度を超える暑さのなかを登り始めた。額には汗が流れ、Tシャツが背中にべったりと張り付いている。


 夜通し語り合った二人は互いに体調が万全な状態とは言えず、足取りも重かった。息を切らせて前かがみに進みながら、時おり水分補給を挟んで何とか目的地を目指した。


 やがて他の地帯とは趣の異なる空間に出た碧は、そこだけ空気がひんやりと冷たく感じられた。周囲を取り囲む白樺の樹皮には光沢があり、白く美しい。その場はどことなく、出会った頃の菫を思わせた。


「あの辺りのはずだ」


 慎二が指差した方を見ると、そこだけ円形に雑草が取り除かれ、中心には一輪の花が咲いていた。未だ蕾の状態であるそれは、以前に藤咲宅の庭で見たものによく似ていた。


「嘘でしょ……。埋めたのは昨日の夜なのに……」


 花の上には、菫と同じ紫色の光が伸びていた。彼女の命は昨晩すでに失われているはずなのに、どうして光の柱が浮かび上がっているのか。


 塩袋を地面に置いた慎二もまた、強張った表情で花を見つめていた。


「なんという成長速度だ……。もう花が咲き始めている」


 碧からスコップを受け取った彼は、花に近寄っていく。「気乗りしないかもしれないが、少し掘り返してみよう。花と遺体が繋がっているのかどうか確認しておきたい」


 わずかに甘い香りを漂わせる花のそばで、慎二は土を掘り返し始めた。彼の鞄と塩袋を預かった碧はそれを見守りながら、この場に誰か人がやって来やしないかと心配で仕方なかった。


 昨晩に埋めたこともあり、遺体の部分まで掘り返すのにさほど時間はかからなかった。指先の一部が見えた時には思わず鳥肌が立ったが、さらに恐ろしく感じられたのは顔の部分を覆う土が退かされた時だった。


「ひぃっ……!」


 遺体に傷がつかないよう途中から土を素手で払っていた慎二は、彼女の口元の辺りが見えたところで咄嗟に悲鳴を上げた。彼に続いて碧が覗き込むと、菫の顔の周囲には無数の根が張り巡らされ、それがまるでマスクのように口から鼻の辺りを覆っていた。


「こ、これは一体どういうことだ……」


 顔面を覆う根はすべてこめかみにある手術痕に繋がっており、そこからさらに地表に咲く花へと続いている。「……間違いない。この花を咲かせているのは、菫の頭部に埋め込まれた赤い種だ! 沢渡くん、ポーチから注射器を!」


「は、はい……!」


 碧が急いで注射器を出すと、それを奪い取るように手にした慎二はポケットから煙草を取り出して火をつけた。


「やはり私は間違っていたんだ。今からでも、菫を人間に戻してやらなければ……」


 液体の中に煙草の灰を落とした彼は、注射器を構えてこめかみの根をむしり始めたが、ねじり合ったそれは傷口をしっかりと覆い、なかなか取り除くことができない。


「……駄目だ。ここからでは根が邪魔をして注入できない。少し効果が出るのに時間がかかってしまうかもしれないが、花の蕾から流し込む方法を取ることにしよう」


 茎を掴んだ彼は、花の中心部分を覗き込んだ。スコップを手に碧は少し離れたところでそれを見守っていたが、その光景にどこか違和感を覚えた。


「何だか、甘い匂いがさっきよりも……」


 気づけば先ほどまで蕾の状態だったはずの花びらが開き、内側の濃い紫色を伺うことができるようになっていた。それと共に、強烈な甘い香りが周囲に漂い始めている。


 彼女はふと、航が以前に話していたことを思い出した。


『紫色の美しい花で、とても甘い匂いが漂っていた。長く見ると、やがてようだ』


「藤咲さん!」


 碧は叫び声にも近い声で呼びかけたが、慎二は花を見つめたまま何も答えない。もう一度声をかけようとしたその時、ぶるぶると身体を震えさせた彼は、ゆっくりとこちらを振り返った。

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