航 7月2日 II

第77話

 目が覚めた航は、どこか頭がぼんやりしていた。直前まで自分が何をしていたのか、はっきりと思い出せない。


 ホテルの部屋にいたはずが、彼はいつの間にか屋外にいる。斜め前方に見える焚き火に気づくと、記憶が波のように押し寄せてきた。


 今井に睡眠薬を盛られ、強制的に夢のなかに送られてしまったか。


 身体を動かそうと試みたが、椅子のひじ掛けに腕が縛られていた。足元には楔のようなものが打ち込まれ、椅子の足は地面に固定されている。


「おはようございます、先輩」


 航が周囲に目を配ると、焚き火を挟んだ隣の赤いアウトドアチェアには藤咲菫が足を組んで腰かけていた。


 ひじ掛けに置いた手で頬の辺りを支え、面白いものを見るように笑いをこらえながらこちらを見つめる彼女は、視線が合った途端にとうとう笑いだした。


「藤咲菫……」


 航にはわけが分からなかった。「今井に頼んで、俺を眠らせたのか」


 その問いかけは、まるで見当はずれだったようだ。またもや笑い出した菫はどこか憐れむように彼を見ながら、「私は今井莉緒菜ですよ、先輩」と答えた。


 見るからに藤咲菫そのものである彼女は、話し方が今井莉緒菜にそっくりだった。彼女の言葉で余計に頭が混乱した航は、「まさか、藤咲菫と今井莉緒菜は同一人物なのか?」と彼女に尋ねた。


「今井莉緒菜なんて人物は、初めからいなかった……」


「ぶー。残念、違いまーす」


 楽しそうに先輩をおちょくる彼女の仕草に鳥肌が立った航は、今井莉緒菜という人物について思い返した。


 彼女は確かに実在しているはずだ。碧も過去の彼女と出会っているし、夢の中で襲われた時も間一髪のところで脱したと聞いている。


 ひょっとして今井もまた、自分と同じように過去の藤咲菫と夢の中で通じているのか?


 航はふとそう思ったが、彼女はまるで思考を先読みしたように、「菫さんと夢で繋がってるわけじゃありませんよ」と言った。


「それじゃ、一体どうやって二人は……」


「そもそも、その考えが間違ってます」


 椅子から立ち上がった藤咲菫は航の前まで移動すると、すぐそばにあるクーラーボックスから缶ビールを取り出して飲み始めた。


 美味しそうに吐息を漏らした彼女は、次いで彼を見下ろしながら「私の身体は、間違いなく今井莉緒菜のもので間違いありません」と言った。


「でも、莉緒菜ちゃんはもういないんです。……藤咲菫すらも」


「それは、一体どういう――」


 口を開きかけた航の首筋にアイスピックの先を押し当てた彼女は、「今は私が話してます」と彼の言葉を遮った。


 缶ビールを一息に飲み干した彼女は乱暴に缶を投げ捨てると、「面白い昔話があるんですよ」と言った。


 それは藤咲菫が階段から落ちて死にかけた時の話だった。父親の手によって地中に埋められ、身体が朽ちることを恐れた藤咲菫を誘導し、今井莉緒菜の夢を訪れた。


 偶然にも一度体験していた魂の交換を試みた藤咲菫は見事に成功をおさめ、今井莉緒菜として七年もの時を過ごしてきた。


「魂の入れ替わりだって……? そんなことが現実に可能とは、とても思えない」


「でも実際に私は、この手で女の首を絞めたんですよ?」


 八十島の研究資料を始末するために彼の夢を訪れた話を始めた彼女は、その時に初めて身体の入れ替わりを経験し、近くにいた女性の首を絞めたことを告白した。


「あの生々しさには、思わず身体が震えました」


 楽しそうに昔話を語る藤咲菫は、吐息交じりに笑い声を漏らしている。


「どうして罪のない人間まで殺したんだ……。八十島や紺野はともかく、その女性は君にとって無関係だったはずだ」


「無関係……?」


 突然大きく目を開いた彼女は、航の座る椅子の肘掛けをアイスピックで思い切り刺した。


「関係ありますよ! あの女が悪いんです。私たちの秘密を世間に公表しようなんて言い出すから!」


「それでも、データを破棄すれば済む問題じゃなかったのか! ……今の君は、ただ人殺しを楽しんでいるようにしか見えないよ」


「…………」


 航の言葉に少し悲しそうな表情を浮かべた藤咲菫は、彼の耳元に顔を近づけた。


「楽しんでいるのは、どっちでしょうか」


 アイスピックを引き抜いた彼女は、先端を自身の指先に突き刺しながら、「人って勝手ですよね。好きだけ相手を弄んで、必要がなくなったら面倒を見なくなるんですから」と言った。


 彼女の指先から滴る赤い血が、航の太ももの上に垂れ落ちている。


「私たちはとても弱い立場なんです。些細な事が命取りになる。先輩には分かってもらえると思ったんですけどね」


 血のついた指先で彼の左膝に触れた彼女は、そのままゆっくりとなで始めた。


「……僕が障害者だから、理解してもらえると思ったのか?」

 

 航は怒りを覚えつつ、それを抑え込みながら静かに応えた。


「自分だけが厳しい立場に立たされているなんて思ったら大間違いだよ。君だって、一人の人間じゃないか。誰かに支えられたり、迷惑をかけたりしただろ? いくら苦しくても、人には越えてはならない一線というものがある。君は今からでも罪を償うべきだ」


「それは今井莉緒菜として? それとも藤咲菫?」


 航の説教臭い言葉に苛立ちを覚えた彼女は、太ももにアイスピックを突き刺した。悲鳴をあげる彼の顔をまじまじと見つめながら、藤咲菫の姿をしたそれは笑みを浮かべた。


「私にとって彼女たちは、単なる記号に過ぎないのよ。あなただって、一度買った車を死ぬまで使い続けないでしょ? 買い替えて乗り換えるでしょ? 私にとって大事なことは、決して種を絶やさないこと。そのためなら、何でもやるわ」


「……君は一体、何者なんだ。花を持ち去ったのは君の仕業か? 水橋嶺二もまた、君の事件に興味を持ったために殺されたのか」


 痛みに耐えながら航がそう尋ねると、彼女は肯定の意思を示して頷いた。


「ようやく正解に近づいてきましたよ」


 突き刺したアイスピックの先をぐりぐりと動かしながら、彼女は誇らしげに彼を見つめた。「先輩は首を突っ込みすぎたんです。私が藤咲菫の事件について話した時、何も事件について調べてほしいなんて思ってなかったんです。可愛い後輩が傷ついているところを労ってくれるだけで良かった」


 彼女の目つきが一瞬にして鋭いものへと変わり、航は思わず息を呑んだ。


「沢渡碧の命を救うため。先輩が事件の謎を追っていた理由は、私のためなんかじゃなかった。私のことはどうでも良かったんですね」


 彼女が手にしているアイスピックは、いつの間にかカッターナイフに変わっていた。


「先輩のこと、……結構好きだったのにな。やっぱり恋愛って距離が近づきすぎると、すぐ駄目になっちゃいますね」


 カチカチと刃を出し入れする彼女は、どうやって航を殺そうかと悩ましげに笑っている。


「先輩のために、苦しまないよう殺してあげますよ」


「――だめ!」


 そこへあらぬ方向から声が聞こえて視線を遣った彼女は、沢渡碧の姿があることにひどく驚かされた。

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