第76話

 病室で目を覚ました菫は、腕時計で時間を確認した。眠りに就いていたのはざっと一時間といったところ。今度は四分の一錠で試してみるのも良いかもしれない。


 椅子から立ち上がった彼女は、未だ眠り続けている莉緒菜を残して病室を去った。


 欠伸をしながら菫が廊下を歩いていると、談話室で一人腰かけていた莉緒菜の母親が彼女に駆け寄ってきた。


「もう帰るの? あの子いつもは物音を立てるとすぐに起きちゃうんだけど、今日は全然起きなくてごめんなさいね」


 恐らく病室を覗いた際に二人して眠っていたため、そっとしておいてくれたのだろう。


「いえ、莉緒菜ちゃんとお話ができて嬉しかったです。またお見舞いに来ますね」


 愛想良く応えた菫は、莉緒菜の母親に手を振ってお別れをした。


 自宅に向かいながら、菫はふと八十島の夢を訪れた時のことを思い返していた。で起こした行為は現実のものとなり、知り合いらしき女も亡くなっていた。


 問題はあれが夢ではなく、確かに現実だったということだ。


 夢の世界を作り出している者を殺害すれば、それが現実となることを菫は理解していたが、あんな体験は初めてのことだった。


 八十島の夢を訪れた彼女は、気づけば八十島として現実世界で身体を動かし、自身の夢に監禁していた彼を殺したはずが、生きながらえて刑務所に送られている。


「色々と奥が深いのね。もっと勉強しなくちゃ」


 菫が玄関の扉を開くと、診療所にいるはずの父親の革靴があった。室内に入った途端に酒臭さが鼻につき、不愉快な気分になった彼女はすぐに部屋に籠もろうと思ったが、階段の途中で腕を掴まれた。


 酔いに任せて暴力を振るう父親に対して腹を立てた彼女は、押し返したはずみで足を踏み外してしまった。衝撃は思いのほか激しく、頭部を強打した菫は打ち所が悪かったのか、身体を動かすことができない。


 死……。私に死が迫っている。嫌よ! こんなところで死ぬなんて……。


 目の前が真っ白になった菫は、気づけば夢の世界に佇んでいた。天より舞い散る紫色の花びらを見上げる彼女は、次いで地面に視線を落とした。


 溶け落ちた物質がどろどろの状態で足元を漂っていたが、夢の世界の溶解はすでに停止している。


「一体、どうなってるの……?」


(あなたは、まだ……)


 脳内に響く植物の声に反応した菫は、そっと耳を澄ました。


「……私は、生きているの?」


(あなたの父親は、私たちの身体を土中に埋めている)


「埋めた……? それじゃ、助からないじゃない!」


(私が酸素を送っている。でも、あまり長くはもたない)


 続いて聞こえてきた植物の提案に、菫は目を見開いた。


「――そんなの無茶よ!」


 だが、考えている猶予はなかった。こうしている間にも時間は過ぎていく。


 急いで水場を用意した菫は、藁にも縋る思いでその中に飛び込んだ。深く目を閉じて開くと、運よく黒い光が垂れている。


 夢を移動した菫は、昼間に莉緒菜と会話した屋上に立っていた。


「菫さん!」


 手すりの内側に座り込んでいた莉緒菜は、彼女の存在に気づくと立ち上がって手を握った「あれからずっと、あなたを待っていたのよ」


 彼女をそっと抱き寄せた菫は、薄っすらと笑みを浮かべたあと、力なくうな垂れた。


「どうしたの!?」


 莉緒菜が心配するように顔を覗き込むと、その瞳を見つめ返した菫は「莉緒菜ちゃん。私のお願い、聞いてくれる……?」とか細い声で言った。


「もちろんよ!」


 莉緒菜は嬉しそうに頷き、「何をすればいいの?」


 彼女と向き合った菫は、手を取って地面を見下ろした。前回と違い、周囲には果てしない水辺が広がっている。斜めに傾いた建物は絶妙なバランスで現状の位置を保っているようだった。


「一緒に飛び込んでくれたら、あなたを素晴らしい世界に案内できるわ」 


「……ここから、飛び降りるってこと?」


「えぇ、そうよ。二人で一緒に」


 菫が握った手に力を込めると、一瞬怯んだ様子を見せていた莉緒菜は意を決したように頷いた。


「分かった。菫さんの言うとおりにする!」


「いい子ね」


 彼女の答えに笑みを浮かべた菫は、腰の後ろに片腕を回した。


「何があっても、私が良いというまで絶対に手を離さないでね。そうでないと、あなたは途中で迷子になってしまうから」


 碧は気づいていないようだったが、手を繋いだまま同時に水に飛び込めば同行者を伴うことは可能だった。水中で自身の夢に向かって浮上していく菫は、笑みを浮かべながら莉緒菜と向かい合った。


「……ここは、どこ?」


 菫の夢は崩壊が再開していた。家具や照明、植物も含め、今ではすべてが汚らしい排泄物のような姿になり果てている。


「ねぇ、ここのどこが素晴らしいところなの?」


 不安そうな顔で周囲を見回す莉緒菜を眺めながら、「もう手を離しても大丈夫よ。少しの間、そのまま前を向いてて」と応えた菫は、目を逸らした隙に水の中に飛び込むと一人で彼女の夢を目指した。


 確証はないけれど、これ以外に望みを託す道はない。


 八十島の身体を動かした際と同じ状況を再現した菫は、廃ビルに着地すると恐ろしいまでの疲労感を覚えて地面に座り込んだ。目を閉じてそのまま眠りについた彼女が再び目を開いた時には、見知らぬ天井が伺えた。傍らからは心地よい風が吹き込み、頬に当たっている。


「莉緒菜ちゃん!? ……良かった。目が覚めて」


 声の聞こえた方向へ視線をやると、そこには莉緒菜の母親の姿があった。


「あなた、三日間も眠り続けていたのよ。お母さんは莉緒菜ちゃんが永遠に起きないんじゃないかって心配しちゃった……」


「三日間……?」


 近くに置いてあった携帯電話を見ると、確かに日付が進んでいた。夢の中にいる間に時間が経過していたのかもしれない。


「ねぇ、鏡ある?」


 彼女は母親が鞄の中に常備していた手鏡を受け取った。顔を映して眺めると、それはまさしく莉緒菜の顔だった。


 腫れぼったい目、小ぶりの鼻。肉厚な唇。偽物のストレートヘアはアイロンをかけていないためか、不規則にうねっていた。


 身体を見やると、入院服姿のそれは以前のものと明らかに違っている。再び鏡の方を向いた彼女は、自分の顔に向けて苦笑いを浮かべた。


「ほんと、……可愛くない」


 鏡を畳んで母親に手渡した彼女は、立ち上がって自身の身体が自由に動くことを確認すると、窓辺から外の景色を眺めた。「いい景色ね」


「急に動くと、体に障るわよ」


 母親に言われて振り返った彼女は、屈託のない笑みを浮かべた。


「もうすっかり良いみたい。、お礼を言わないとね」

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