菫 7月1日

第75話

 八十島が逮捕された。


 確かに殺したはずなのに死んでおらず、菫が手にかけた紺野と見知らぬ女の容疑をかけられている。


「余計なことを話す前に、もう一度殺しに行く?」


 菫の問いかけに対し、脳内の存在は首を振った。


(新しいパートナーを探しましょう)


「……それもそうね」


 研究資料をすっかり破棄したと思い込んでいる菫は、犯罪者の訴えなど妄言扱いを受けるだろうと思い、八十島への襲撃はもはや行わないことにした。


 新しいパートナーとして彼女が選んだのは、同じクラスの莉緒菜だった。本当はもっと経済力のある者が望ましかったが、贅沢は言っていられない。


 莉緒菜の自宅を訪れると、扉を開けて現れたのは父親らしき人物だった。莉緒菜は体調を崩して現在は入院しているようだ。


「どこが悪いんですか?」


 菫が尋ねると、彼女の父親は少し言いにくそうに「ちょっと疲れが溜まってしまったみたいでね」と言葉を濁した。


 教えられた病院に到着し、莉緒菜の名前を受付で告げるとすぐに病室を教えてもらえた。エレベーターに乗って五階に上がり、廊下を歩き進んだ菫は彼女の病室から出てくる女性の姿を捉えた。


 中学の頃に一度見かけたことがあったので、彼女が莉緒菜の母親であることはすぐに分かった。


 挨拶をすると、莉緒菜は先ほど眠ったところだと彼女は教えてくれた。


「心配なので顔だけでも見て良いですか?」


 菫の言葉に快く頷いた母親は、外に買い物に出ているので好きに出入りしてくれて構わないと言った。


 病室は思いのほか広く、ベッドも眠り心地が良さそうな厚みのあるマットレスだった。スチールの椅子に腰かけた菫は、八十島に仕入れさせた睡眠導入剤を莉緒菜の口の中に突っ込み、水を流し込んだ。


 莉緒菜が飲み込んだのを確認してからもう一錠取り出した菫は、それを半分に割って自分で飲むとベッドの端に頭を乗せた。体質的に薬への耐性が弱いのか、彼女はこれだけでも短時間ならすぐに眠ることができた。


 自身の夢からいつもの手順で夢を渡った菫は、黒々とした光の柱を見つけて水面から顔を出した。そこは廃ビルの屋上で、手すりの外側に立った彼女は遥か下に見える地面を眺めていた。


「飛び降りないの?」


 菫が背後から問いかけると、「振り返った莉緒菜は心底怯えた表情を浮かべ、「来ないで……。来ないでよ……!」と懇願するように言った。


「あなたは何を恐れているの?」


 菫は続けて言った。「何を恐れているのか、覚えているの?」


「分からない……」


 手すりにしがみついた莉緒菜は、落下することを恐れているわりには手すりの内側に入ってこようとしない。


「何を怖がっているのか、まるで思い出せない。でも、怖くて仕方がないの! 何かが私を追いかけてくる。藤咲菫……。あなたの名前を聞くだけで震えあがってしまうのはなぜ? あなたは私に何をしたの!」


「間違いを犯したのは、あなたの方でしょ」


 彼女の隣で手すりに両肘をついた菫は、頬に手を当てながら彼女を見つめた。


「覚えてないの? 私の庭の大事なお花を燃やして、私の身体にカッターナイフで傷をつけたのよ」


「それは……! 私だけを見て欲しかったのに、あなたが他の子とばかり仲良くしてるからついカッとなって……」


 声を震わせながら言い返した莉緒菜は、力なくうな垂れた。


「あなたを傷つけるつもりはなかったの、本当よ! でも……。私だけのものにならないのなら、いっそ……」


「殺してやりたいと思った?」


 その言葉に莉緒菜は息を呑んだ。手すりから手を離した彼女は顔を上げると、「でも、死んだ方が良いのは私の方かもしれない」と言った。


「私はあなたを傷つけて、孤独にして、自分だけのものにしようとした。そのせいで私は、恐ろしい考えを持つようになってしまったの。だから……」


 身体を傾けた莉緒菜は、そのまま屋上から飛び降りようとした。けれどそこで素早く彼女の腕を掴んだ菫は、手すりに身体を預けながら何とか自殺を阻止した。


「恐ろしい考えなんかじゃないわ。前にも言ったでしょ? 私たちって、本当は似た者同士なのよ」


 彼女の腕を引いた菫は、手すり越しに抱き寄せると耳元に顔を近づけた。「だからこれからは、私のために働いてくれるよね」


 菫が放つ甘い香りに魅了され、頭の中が真っ白になった莉緒菜は涙を流しながら彼女の背中に腕を回した。


「何でもするわ。あなたに償うためなら、わたし」


「……嬉しい」


 身体を離した菫は、向かい合って彼女の瞳を見つめると、「これからは、私があなたの一番のお友達よ」と言って笑みを浮かべた。

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