第74話

「先輩! やっと見つけましたよ!」


「今井……。どうして君がここに」


 傷を悟られまいとを勢いよく開いた航は、彼女を部屋に招き入れた。


「会社に戻れと言ったろ」


「ちゃんと出勤しましたよ。でも週末はこっちに戻って来てたんです。明日の朝にはまた東京に戻りますけどね」


 コンビニの袋を片手に部屋に入った今井は、机の上に袋を置くと中からペットボトル飲料を何本か取り出して見せた。


「差し入れ買って来たんですよ。何か飲みます?」


「何でもいいよ」


 ベッドに腰かけた航は、血のついたシーツが見られないように掛け布団で覆い隠した。


「何です、これ?」


 机の上に置かれた手帳の切れ端を見つけた今井は、それを拾い上げながら首を傾げた。


「夢? 侵入者……」


「暇つぶしにやってた占いさ」と航がはぐらかすと、彼女は納得したようにそれを机に戻した。


「先輩って、占いとかやるんですね」


「まぁ、他に娯楽もないしな」


 彼女から飲料水の入ったボトルを受け取りながら、航は浴室にある血のついた寝間着が気がかりだった。あれを見るとさすがの彼女も心配するだろうか。


「それじゃ、他のやつは冷蔵庫にでも」


 冷蔵庫の前に移動した今井は、屈んで残りをしまい始めた。航が早速ペットボトルの蓋を回すとすでに開封されており、中身も少しばかり減っていた。


「何だこれ、飲み差しか?」


「あっ。それ私が口付けたやつでした! すみません、……取り替えますか?」


「いや、良いよ。別にそこまでしなくても」


 手を振って応えた航は水を一口飲み、「差し入れするために、わざわざ僕の部屋を訪ねて来たのか?」と言った。


「良くここが分かったもんだ」


「駅前のホテルだって前に教えてくれたじゃないですか。だから駅前にあるホテルを片っ端から捜し歩いてました。フロントの人に妹だって伝えたら、すぐに部屋番号も教えてくれましたよ」


「ご立派なセキュリティ対策だな」


 航は傷を押さえながら態勢を変え、「直接連絡くれたら、すぐ教えたのに」


「だって、先輩携帯の電源切ってたでしょ。結構心配したんですからね!」


 彼女に言われて航が携帯電話を拾い上げると、いつの間にかバッテリーがなくなっていた。長年使っているせいか、気づくとなくなっていることはよくある。


「八十島に会うって言ったきり先輩は何日も戻って来ないし、繁盛先輩に聞いたら体調を崩してお休みしてるって言うもんだから、ご実家までお伺いしたんです。妹さんも心配なさってましたよ」


「お前、……家まで行ってきたのか」


 航はこれ見よがしにため息を漏らした。「余計なことを言わなかったろうな?」


「言ってないですよ!」


 焦ったように首を振った彼女は突然真剣な表情を浮かべると、「あの、何かあったんですか?」と彼を眺めた。


「……怪我されてますよね? 部屋に入る時に見たら、動きが少しおかしかったから」


「お前はほんと、……よく見てるんだな」


 観念したように姿勢を崩した航は、「ちょっと色々あって、今はホテルに缶詰め状態さ」と答えた。


「誰かに狙われてるんですか?」


 今井は声を潜め、「もしかして八十島?」


「いや。信じられないかもしれんが、相手はあの藤咲菫だ」


「菫さんが?」


 目を見開いた今井は、口元に手を当てながら「あの子はもう亡くなってるって、先輩が教えてくれたんじゃないですか」と言った。


「あぁ。藤咲菫はすでに亡くなっている。けれど過去に生きる彼女は、まだ活動を続けているようだ」


「言ってる意味がよく分からないんですけど」


 難しい顔つきで首を傾げた今井は、「一体何が起こってるんですか? 私にも教えてください!」と声を上げた。


「……そうだな。ここまで来て、今井に黙っているわけにもいかないか」


 再び水を口に含んだ航は、夢の世界について今井に語り始めた。過去に生きる沢渡碧と夢の中で偶然に出会ったこと、彼女が航の夢に逃げ込んだことで何とか命を繋ぎとめたこと、またそれを追って現れた藤咲菫の存在について話が発展した。


「藤咲菫に襲われた僕は、やむなく自殺した。結果的にそれが上手くいったみたいだが、彼女に刺された傷は現実のものになってしまったみたいだね」


「夢で起きたことが、現実になるなんて……」


 呆然とする今井を見た航は、「簡単には信じられないよな」と言った。


「でも、僕はどうやら彼女に目をつけられてしまったようだ。次に眠ったら、確実に殺しに来るだろう」


「そんな!」


 今井は怯えた表情を浮かべ、「どうするつもりですか……? 菫さんを退治する方法とか、そういうのはないんですか?」


「ないね。今の僕にできることは、眠らずに耐え続けるだけさ」


 肩を竦めて航が答えると、今井はなぜだか薄っすらと笑みを浮かべた。


「……そうですか。上手くいくと良いですね」


 冷蔵庫の方へと歩いて行った彼女は、「私にできることがあれば、何でも言ってください」と言いながらドアを開いた。


「話し相手になってくれるだけでも助かるよ。いざとなったら、起こしてもらう役を頼めるしね」


「いざ眠っちゃっても、先輩はまた自殺すれば助かるじゃないですか」


 冗談っぽくそう言った今井は、飲み物を取り出し始めた。「でも、やっぱりアイスピックで首を刺すのは、ちょっと抵抗ありますよね」


「……アイスピック?」


 航はふと首を傾げ、「僕はアイスピックで首を刺したことまで君に話したか?」と尋ねたが、それを口にした瞬間に彼は背筋が凍りついた。


 先ほどの説明の中で航は、『自殺を選択し、それが上手くいった』と話しただけだった。死に至った方法までは話していない。それを知る人物は一緒にいた碧か、もしくは……。


 航は隣に落ちていた携帯電話を静かに拾い上げたが、充電が切れており使い物にならなかった。フロントに内線しようにも、受話器は机の上にある。急いでそこまで移動して人を呼ぶか……。


 腰を浮かせようとした彼は、身体の自由が利かなくなっていることに気づいた。指先にも力が入らず、起き上がることさえできない。


「先輩、どうしましたか?」


 いつの間にか手袋を嵌めていた今井は、冷蔵庫から飲み物を順に取り出すとそれを袋の中に戻していった。「もしかして、動けないんですか」


 彼女が手渡した水の中に、薬物が混入されていたのか……。


「お前は、藤咲菫と通じていたのか」


「私が菫さんと?」


 航の問いかけに思わず吹き出した今井は、ベッドの彼に近づきながら「先輩って努力家ですけど、あんまり要領は良くないですよね」と言って彼を押し倒した。


 ベッドの上で仰向けになった航は、徐々に意識が朦朧とし始めていた。瞬きを繰り返して眠らないよう耐える彼の耳元に顔を寄せた今井は、「さっきのですけど、最後の一つだけ答えが書かれてなかったですね」と囁いた。


「碧さんはどこかで生きていると、私も嬉しいんですけど」


 至近距離に迫った彼女の首筋から漂う、五感を刺激するこの香り……。今までは香水の匂いで上手くカモフラージュしていたのか。


「おやすみなさい、せーんぱい」


 やがて瞼を開いていられなくなった航は、深い眠りに落ちた。柔らかな枕の感触に沈み込んだ身体は、暗い闇の底へと飲み込まれていった。

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