航 7月2日 I

第73話

「はっ……!」


 ホテルのベッドで飛び起きた航は、咄嗟に自身の首筋に触れた。アイスピックを刺したはずの傷跡はなく、何とか夢の中から脱出できたことを知ってため息を漏らした。


「碧はどうなったのか……。痛てっ!」


 気を抜いた瞬間、わき腹の辺りに痛みを覚えた彼はゆっくりと掛け布団を捲った。寝間着やシーツには血が滲み、Tシャツを捲ると腹部に鋭利な切り傷が見られた。


「……参ったな。本当にこんなことが」


 ひとまず近くにあったティッシュで止血を試みた航は消毒液を探したが、部屋のアメニティにそれらしきものは見当たらない。傷は浅いため、出血はしばらくすると治まったが、さすがに消毒しておかないとまずい。


 仕方なく普段着に着替えた航は、ホテルを出てそばにあるコンビニに寄ると、消毒液やガーゼなど目についたものをかごに放り込んだ。


「すみません。部屋で鼻血を流してしまい、布団に血がついてしました」


 ホテルのフロントで航が謝罪すると、受付の女性は笑みを浮かべながら「大丈夫ですよ」と答えてくれた。


「後で交換に参りますね」


「助かります」


 部屋に戻った航は、慎重に椅子に腰かけてから夢の中で起こった出来事について考え始めた。


 背後から突如として現れた藤咲菫に襲撃された彼は、わき腹に刺し傷を負った。間一髪のところで自害を選択した結果、夢から目覚めることができたが、あのままでは本当に危なかった。


 やはり碧と推理した通り、他の夢から現れた侵入者に傷を負わされると現実世界にも影響があるらしいが、問題は碧の安否についてだった。


 航の目の前で菫に刺された彼女は、瞬時にして姿を消した。果たして現実でも死んでしまったのか。


「だが碧から聞いた話では、夢の中で死が訪れた瞬間に雪のようなものが舞うはず……」


 ひょっとして、自身の夢に戻された……?


 手帳の紙を一枚ちぎった航は、夢の中で殺人を行うことについて条件を記し始めた。


 通常の夢では、何が起きても現実に影響はない。それが自身の夢に侵入者が現れた結果、常識を覆す現象が起こり始めた。


 それらの条件を考えられるパターンに分けて箇条書きにしていくと……。


 一. “夢を見ている本人”が自分を傷つけても、現実に影響はない。


 二. 夢を見ている本人が“侵入者”に傷つけられると、現実に影響がある。


 三. “侵入者”が自分を傷つけても、現実に影響はない。


 四. “侵入者”が“夢を見ている本人”に傷つけられても、現実に影響はない。


 五. “侵入者”が“別の侵入者”に傷つけられると……。


 思いつく限りの条件を羅列していくと、航は一番目と二番目のどちらにも該当していた。通常の夢が現実化しないことは当然のことだが、それを覆した藤咲菫の事件は、ほとんどが二番目のパターンだと考えられる。


 今井、八十島はそれぞれ三番目と四番目に該当していた。二人と接点を持つ航にとって、彼らが他人の夢を覗き見る力を持つ者とは到底思えない。このことから考えても、藤咲菫は何らかの方法を用いて能力のない人間でも夢を渡らせることを可能にしているのかもしれない。


「生死を分ける分岐点は、“誰の夢”で“誰が”手を下すのか……」


 五番目のパターンに当たる碧は、未だ前例がない。他人の夢に入り込める者がそもそも稀であるため無理もないが、仮に亡くなっていれば今日の日付で新聞に載っている可能性が高い。


 携帯電話を掴んでインターネットを開いた航は、その年の日付と碧の名前を入力して検索をかけたが、事件に関する記事は見られなかった。ここに現れなかったのは幸いだが、全ての事件がインターネットに掲載されるとも限らない。


「正確な記録はやはり、新聞のバックナンバーを調べない限り分からないか」


 もう一つ、航には考えるべきことがあった。


 なぜ藤咲菫は航の夢に現れたのか。彼は夢を移動する際の法則について詳しくは知らなかったが、問題はどうやって碧の居場所を突き止めたのかということだった。


 考えられるのは、藤咲菫が碧を他の夢から尾行していたということ。航の夢に碧が現れた後、彼女を追うようにして現れたことにもそれなら納得がいく。


 けれどその場合、さらなる疑問が生じてしまう。


 藤咲菫は、明らかに航の命を狙っていた。ナイフで真っ先に刺したのが自分であり、何より碧の姿を見た彼女はどこか動揺しているように感じられた。


 面識のない相手を標的にするほど、藤咲菫は無差別な殺人を行うタイプだろうか。むしろ怨恨の深い者を順に始末している印象だ。


「嫉妬か……?」


 碧を一番の友人と語った藤咲菫は、遠山亜美を殺害した直後に彼女を標的から外した。ひょっとすると、彼女に関わる者を殺して回っているのか?


「いや、それだと碧を刺し殺した時の反応が、あまりに薄かったようにも……」


 彼女が刺された瞬間に頭の中が真っ白になった航に比べ、藤咲菫は淡々とした様子ですぐさま彼の元へナイフを突きつけた。


「……今夜にもまた来るかもしれないな」


 刃物が腹部に刺さる感覚を思い出した航は、不意に鳥肌が立った。


 眠った途端に殺しにやって来る……。まさか自分で体験することになろうとは思ってもみなかったが、これほど恐ろしいことはない。


 対策を練ろうにも、夢の中であるため武器を用意するようなことはできない。まもなく父親の藤咲慎二が娘をてにかけるものと思われるが、それが正確にいつのことなのか。


「何にしても、それまでどうにか逃げ延びるしかないか」


 二度と味わいたくない感覚だったが、いざとなれば自分の首をはねてでも強制的に夢から脱するほかない。


 長期戦を覚悟した航が内線電話を掴んだところで、部屋のベルが鳴った。


 シーツの交換に来たのだろうと予想した彼は、席を立って扉の方へ向かった。傷が痛んで扉に向かうだけでも厄介だったが、何とか入口まで辿り着いた。


 レバーを掴んだ彼はうまく力が入らず、扉を少しだけ開いた。すると隙間から顔を覗かせたのはホテルの者ではなく、今井莉緒菜だった。

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