第七部
碧 7月2日 I
第72話
寒い……。寒くてたまらない。
私、死んだのかな……? こんなことなら、昨日の晩ごはんはお母さんに頼んでハンバーグにしてもらうんだった。
唸り声を上げながら目を開いた碧は、暗闇の中でお腹に手を当てた。衣服越しに触れたそこは傷を負っておらず、パジャマを捲ってみると傷一つなかった。
「……夢?」
起き上がって周囲を見ると、そこは自宅の寝室だった。スタンドライトを灯した彼女は近くに置いてあった携帯電話を掴み、素早く自身にメッセージを送ったが、届いたものをすぐさま確認すると内容は打ったものと同じだった。
「……生きてる」
大きく息を吐き出した碧は、手が震えていることに気づいた。菫に刺された瞬間は目の前が真っ暗になり、痛みと絶望に支配されていた。安堵のため息は口から魂が漏れ出るかと思われるほどに長く重く、まるで全身の力が抜け落ちていくように感じられた。
時計を確認すると、三時を少し回ったところだった。夢の中で死亡したことにより、眠りの途中で弾き出されてしまったのかもしれない。
もう一度眠れば、航の夢に移動できるだろうか。けれど彼女の身体は奇妙な興奮に包まれ、どうにも眠れる気がしなかった。
どのみち今から行ったところで、すでに決着はついているはずだ。
「……葉瀬川さん」
彼は殺されてしまっただろうか。また私のせいで犠牲者を出してしまった。そんな思いで涙が溢れた碧は、ベッドに蹲ってしばらくの間動けないでいた。
ひとしきり涙を流し、布団の湿り気が多少気になるほどには落ち着きを取り戻した碧は、立ち上がって部屋を出た。
一階のキッチンで安物のアイスココアを溶かしながら、初めて菫が夢を渡って来た日のことを思い出した。あの頃の彼女はとても臆病で、人見知りで、自分の助けなしでは上手く他人と話せないほどだった。
それがここ二か月ほどの間に、菫はすっかり変わってしまった。植物に脳を支配され、完全に自我を見失っている。手術を施そうにも、赤い石と根を完全に取り除くことは不可能だという。
「…………」
航は赤い石を処理するべきだと言った。それは未だ菫の脳内に存在しているが、もうじき父親が彼女を殺害するのだろう。
ひょっとしたら今夜か、まさに今犯行が起きていても不思議ではないのだ。赤い石が二度と悪さをしないように処理できるのは、もはや自分しかいない。
でも、処理ってどうすれば良いの?
肝心なところを聞き逃したまま、現実に戻ってしまった。自身が危機的な状況にも関わらず『逃げろ』と言ってくれた彼は、もういない。
こんな自分を助けるために、未来に生きる彼は命を失うことになったのだ。そう思うとまたもや涙がこみ上げてきたが、碧はふと彼の言葉を思いだした。
『――藤咲慎二を頼れ』
菫の父親がすべてを知っていると航は話していたが、果たして手を貸してくれるだろうか。また怖い態度で追い返されたら……。
「でも、私にしかあの人を救えない」
まだ間に合う。今度こそ助けるんだ。そのためには藤咲慎二に協力を仰ぐ必要がある。彼が菫を殺すと言うなら、後を尾行してでもその現場を押さえて行動に移すしかない。
「とにかく、やってみるしかないよね」
キッチンで碧が独り言を呟いていると、そこへ起きて来た母親が眠そうな顔つきで電気をつけた。「あんた、まだ起きてたの?」
「うん。もう寝るとこ」
そそくさとキッチンから離れた碧は、自室で服を着替えるとこっそり家を抜け出して藤咲宅を目指した。
真夜中だというのに、藤咲慎二の車は見当たらなかった。庭の方へ回ってみると、部屋の一角には電気が灯っている。誰かが起きて部屋にいるのかもしれない。
夜分に失礼かと思いつつ呼び鈴を鳴らしてみたが、誰かが出て来る気配はない。
今まさに、殺害が行われている……?
庭に落ちている石を掴んだ碧は、それで窓を割ろうと考えた。音を立てて騒ぎにはしたくなかったが、鍵の辺りを少し壊すくらいなら、ご近所さんが飛び起きて来る心配もないかもしれない。
碧が深呼吸して石を構えていると、一台の車が敷地内の駐車場に入ってきた。慌てて石を投げ捨てた彼女は、庭の闇に紛れて身を隠した。
車から降りた人物が昼間に見た藤咲慎二であることを確認した碧は、彼がトランクを開け始めたところで素早く駆け寄った。
「な、なんだね君は!」
足音を聞いて肩をびくつかせた慎二は、鋭い眼光を向けて碧を睨みつけたが、彼女はそれには構わず体当たりをするように身体をぶつけながらトランクの中を覗き見た。
そこに菫の姿は見られなかったが、代わりに泥のついたスコップが転がっており、シートには血痕らしき赤い液体がべったりと付着している。
「菫ちゃんを山に埋めてきたんですね」
拳を握った碧は、慎二を睨みつけながら詰め寄った。「あなたが菫ちゃんを殺すのは分かっていました。どうして自分の娘を殺したりできるんですか!」
「な、何を言ってるんだね、君は……」
「私は全部知ってるんです! 菫ちゃんの身に起こったことも、赤い石も、手術も、それにあの花のことも!」
早口に捲し立てる彼女の言葉に、慎二は眼球が飛び出るかと思われるほど目を見開いていた。
「どうして、君はそのことを……」
「八十島という人があなたに手帳を送ったことも私は知っています。そこには赤い石についての大事な秘密が書かれているはずです。一刻も早くあれを処理しないと、また同じように犠牲者が出るんですよ!」
「あれを処理するだと? そんなこと……」
『――あの赤い石を、いや、寄生植物の種をこの世から抹消しなければ、今後も犠牲者は増え続けることだろう』
突然現れた少女の訴えは、八十島が手帳の最後に記していた内容と全く同じだった。
慎二は自問した。これは夢なんだろ?
だが、……いつからだ?
菫が死んだ時か?
紺野が亡くなったという知らせから?
妻が亡くなったということさえ、幻なのか。もしそうであったなら、どれほど……。
「お願いです。……力を貸してください」
碧は彼の手を強く握りしめた。その手の温もり、震え、力強さに慎二は、無意識のうちに涙を流していた。
「菫……」
彼は思い知らされた。これは夢ではなく、紛れもない現実なのだと。
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