最終話 わすれたい人

 細い筆で描いたような格好のいい唇が目の前にある。

 せいちゃん、好きだよ。

 そのように動く唇に誓子も唇を動かして応える。

 創くん、大好き。


 照明のリモコンに手を伸ばして電気を消すと、すでに閉めきったカーテンの隙間から暮れかけた西陽がわずかに入り込むのが見えた。暮れるその瞬間まで力強いその陽射しは、まっさらに片付いたテーブルの木目やフローリングの継ぎ目、ウォールハンガーに掛かった上着などを浮かび上がらせ、次第に黒く沈んでゆく。


 創くん、大好き。すっかり暗くなった部屋の中で噛みしめるように思ったとき、誓子の脳裏に唐突に映像が浮かんだ。

 冷たい嵐。束になって流れてゆく雨脚。さわさわと音を立てて生き物のように上下する緑、反響せず吸い込まれていく声。意思とは無関係に歪む顔面の筋肉と、それを覆って塞ぐ大きなてのひら。

 早鐘を打つ胸の奥が、ぐっと押さえつけられたように一瞬どくどくっと波打った。


 みっしりと硬直した背中の感触が蘇る。それをなかったことにしようと目の前の秋本さんの熱い背中にしがみつくと、もはや何がどこまで本物なのかわからない。

 いつ終わったのかもわからないまま、痛みと圧迫との間でひたすら先生の息遣いだけを聴いていたあのとき。先生は終始ほとんど動かなかった。今の創くんのようにがむしゃらに動くことをせず、どこをどうすればいいか、最短距離を知っている人の動き。


 誓子の口内を秋本さんの舌が動き回っている。息を継ぐように一度唇を離したとき、目を閉じながら誓子は口走ってしまった。

 それまでの規則正しい動きを止め、体を離した秋本さんは怪訝な顔をして誓子が口にした言葉を繰り返した。


「先生?」

 やってしまった。熱を帯びた体温がすっと冷めていき、誓子は失禁するような放心状態となった。

「先生って何?」

「なんでもない……」

「さっきの卒アルと関係あるの?」

「ごめん、何でもない……」

「ごめんって何。何でもないのになんでいきなりそんな言葉が出てくるの」

 困惑のまなざしが誓子の裸を見下ろしている。誓子はその視線に耐えられず顔を覆ったが、白々しい言い訳から目を逸らす仕草に見えたようだった。


「何でもないなら証明しろよ」

 彼の目から温度が消えてゆく。秋本さんは手を伸ばしてアルバムを拾い上げ、誓子の枕元に投げつけた。装丁の角が誓子のこめかみをかすめ、弾みで真ん中あたりのページが開いた。それは見開きのコラージュページで、ご機嫌に切り貼りされた写真たちが他愛なく誓子の枕元に広がった。


「その写真見ながらもう一回、先生って言ってみなよ」

 先生はどれだよ、この若い奴かよ、と秋本さんが覆いかぶさってのぞき込もうとするのを誓子は押しのけた。

「やめて創くん、お願い、やめて」

 ものすごい力で誓子を抱きすくめようとする彼に抵抗しながら、誓子は力を振り絞ってアルバムをベッドの向こう側へ投げつけた。背表紙が壁に当たり、重たい音を立てて下向きに床へと落ちる。ぐしゃ、と押しつぶされたどこかのページが暗闇の中に沈み込んだ。


 秋本さんのわだかまりは目の前の誓子の身体へと打ちつけられた。秋本さんは今までで一番荒々しく誓子を責めた。誓子の脚を閉じて折り曲げ、半身を倒してうずくまるような姿勢にさせると、そこへ無我夢中に全身を使って打ちつけてきた。


 何か俺に言えないようなことを思ったんだろ。今まで心のどこかでそんなことを思いながら俺と付き合ってたってことだろ。

 馬鹿にしてたんだろ。なあ、馬鹿にしてたんだろ、と彼はしきりにくり返した。

 容赦なく押し寄せてくる乱雑な気持ちよさに、今までにない彼の獰猛さに誓子も急激に欲情し、目を閉じるとそれは更に体内で怒張し、どうしようもなく恍惚とした。誓子が自室にもかかわらず大きく喘いで乱れると、その声に呼応するように秋本さんがいっそう激しくなるのがわかった。


 意識ごと飲み込まれそうな恍惚の中で、誓子はまた思い出した。あのとき嵐の中で確かに、溺れる、と思ったのだ。その溺れる感じを今目の前にいる創くんが、創くんじゃない、先生、先生、先生、先生。

 迷いが潔癖に淘汰されてゆく。学生らしい健やかな交際をしてきた二人の、最初で最後の二人だけの秘密のようなひとときとなった。


 秋本さんが夜中に出ていった後、一人きりになった部屋の中で誓子は裸のままぼんやりする。数時間前に二人で使った食器がまだシンクに溜まっていること、玄関の鍵をまだかけていないこと、せめて化粧と汗だけでも洗い流してから眠りたいこと、様々のことが部屋の中空に漂い、滞留して淀んだ。


 心も体も、あの日に置いてきてしまったのだ。名もない曠野に取り残されたような寂しさが広がったが、不思議と涙はこぼれない。

 置いてきてしまった心も体はまだあの場所にある。そこだけ落ちくぼんだような、誰も知らないほこりっぽい図書室。荒んだ井戸の底のようなあの場所。そう思うと曠野にほんの少しの安堵が広がった。


 その場所を知っているただ一人の人が写ったアルバムは暗闇の中に沈み込み、もはやどこにあるかもわからない。朝が来れば再び浮かび上がって、誓子は裸のままそれをどこかにしまい込む。二度と見られない場所にしまい込む。その後にきっと何もかも思い出すだろう。それから点描画の点と点がつながり、ひとつひとつに別の色を塗りつけて別の絵に塗り替えてゆく。


 カーテンの隙間から差し込む街灯のあかりが天井ににじんで、じっと見ているとそれは時折ほんの少しゆらめいて形を変える。その不穏な感じ、危うい感じは誰ともつかない誰かに似ていた。

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あやうい人 各務 @mimika_no

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