第9話 あやうい人 (2)
先生は穏やかで、微笑むと目じりにくっきりと優しいしわが刻まれる人で、それと同時にどうしようもなく凪いで動かない鉛のようなかたまりを細い体の奥に沈めている人であり、根幹の部分で無気力であり、何かをぎりぎりのところで保っている人であった。
それらはすべて誓子の推測の域を出ないものだったけれど、そういう見方で先生を見るのが一番しっくりくるのだ。そのしっくりくる感じは母の胎内にいるときのような完全無欠の安心感を誓子に与え、先生の優しい頽廃の中で誓子は恍惚とする。
どうしてこんなにしっくりくるのだろう。その優しい投げやりさ、無気力が、幼いころにある日突然会えなくなった父の浮ついたような優しさと重なるからだろうか。頭をなでるときのあの、子どもに触れるにはいささか乱雑な手つき。でもどうしようもない優しさを伴ったあたたかいてのひら。冷たい後ろ姿も、いつからか誓子のほうを向かなくなったその体も、その体はいつでも等しくあたたかいのだと思い途方もなくなったあのとき。
先生が何かをぎりぎりのところで何かを保っているとして、その何か、が何かというのはあの嵐の日を経てもわからずじまいであったが、その代わりに曠野のような寂しげな風景が誓子の頭から離れない。
誓子が泣いていたとき先生は口を開いた。
「僕からしちゃったことにしようか」
それからすぐに「うっかり、僕から」とわざわざ付け加えた先生に、誓子はまさしく優しい投げやりさのようなものを見ていた。
誓子は涙をふきながら立ち上がり、出入口の引き戸に鍵をかけ、カーテンを隙間なく閉め切った。じゃあ、もう少し一緒にいてください、などと理屈の通らないことを口にしながら。それから一般開放はされていない書庫へと続く小さな扉を開け、どちらともなく一番奥の書棚まで歩き、気がついたら書棚の陰で二人重なるように倒れこんでいた。
先生、私このこと絶対に誰にも言いません。言わないからお願いです、もうちょっとだけ。
責め立てるような雨音と、時折遠くでとどろく雷鳴が二人に覆いかぶさっていた。それから毛穴ににじむじっとりと熱い汗と、冷たくてほこりっぽい図書室の床と、唾液の生臭さと、そういったことだけが暗い影となって誓子の記憶の奥に今も沈んでいる。ほとんど脱がされなかった制服は、卒業式のために母がアイロンがけをしてくれたばかりであった。
陰鬱な雨の日にそういう経験をしたからか、誓子はセックスというものを天気の移り変わりのように考えていた。澄み渡った青空の向こうからだんだん不穏な雲が近づいてくるような、やがてその雲が空一帯を覆ってどんよりとした影を落とすような、最初の雨粒を感じたと思ったら一気にどしゃ降りになるような。そうした現象のすべてがねっとりと体の内側へ入り込んでくるような。そのようなどうしようもなさに包まれながら、濡れたり乾いたりするのを繰り返す。それだけのことだ。
大学に入学してからすぐに届いた高校の会報で、夏目先生が退職したことを知った。
他校に転任になったわけでもなく、退職。彼の名前を紙面の端に小さく見つけたとき、記憶の影が少しゆらめいたが、誓子はそれを見なかったことにした。いつかの授業中の雑談で奥さんの話を嬉しそうにしていた彼の目じりのしわを、思い出さなかったことにした。
というのは、きっと先生は誓子のことを二度と思い出さないだろうと思ったからだ。嵐が過ぎ去った後に何事もない晴れ間が戻ってくるように、どっしりと雨をため込んだ地面がやがて乾いてひび割れるように。
そういうことだったのか、と誓子は思う。誓子があのときどうにでもなれと思ったように、すでに退職が決まっていた彼もまた同じことを思ったのかもしれない。優しい頽廃などなかった。恍惚も、無気力も、危うさも、そこには元から何もなかったのかもしれない。
何にしても、確かめようがないことはわかりようがない。先生の連絡先なんて知らないから、先生が今どこで何をしているのかもわからない。
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