第8話 あやうい人 (1)

 誰にも言っていないことがある。高校生のとき、友達の誰にも打ち明けていない片思いをずっとしていたこと。それは数学科の夏目先生であったということ。そして卒業式の翌日、父ほど年齢の離れた夏目先生によって誓子は処女を失ったということ。


 嵐のようなひとときだった。実際にその日は嵐のような空模様で、分厚い雨雲が立ち込め、吹きつける強風が断続的に窓を揺らし、昼下がりだったというのにどんよりと薄暗い日だった。


 卒業式の翌日、返却しそびれた本を携えて誓子は卒業したばかりの校舎にやってきた。もう卒業したというのに制服を着てきてしまったことがきまり悪かったので、誰にも見つからないようにこっそり忍び込んで。

 図書室前の返却ポストに本を突っ込んだ後、なんとなく引き戸に手をかけてみると思いがけず鍵が開いていた。そのまま音を立てないようにそっと開けてみると、黒いカーテンを閉め切った昼下がりの薄闇とほこりっぽい淀んだ匂いが広がっている。誓子はあたりに誰もいないことを確認して、そっとその中へ入り込んだ。


 カーテンを少しだけ開けて外をのぞいてみると、そこに広がるのは体育館のうすぼけた屋根。その隣にじっと横たわる灰色の校庭、山合いへと向かって漠然と伸びてゆく二車線の道路。体育館の屋根に打ちつける雨粒が束のようになって風に流されてゆく様子や、遠くの道路が時折水しぶきを上げる様子をしばらく眺めながら誓子は、年中等しく陰気な図書室をなんとなく気に入っていたのは、そのような変わらない景色を見ることができたからだと気づいた。


 嵐の外界をしばらく眺めているとそこに偶然夏目先生がやってきて、それからはあまりよく覚えていない。点描画の点のようにちりぢりになった記憶のしみが頭の裏側にはりついて、いつまでも取れない。


 確か世間話のようなことをした。

 僕も本を返しに来たんだ。最寄りの本屋にも駅前の図書館にも置いてなくて諦めてたんだよ。それがここの図書室にあるなんてね。

 灯台もと暗しですね。

 そうそう、その通り。

 穏やかな低い声に雨音が覆いかぶさっていた。

 あのとき先生は何の本を読もうとしていたのか、そういえば聞くことができなかった。


 夏目先生。夏目貴嗣なつめたかつぐ先生。大きな閲覧机を挟んで先生と向き合ったとき、今まで目を凝らすようにして見つめていた目じりのしわがはっきりと浮き上がるのを見た。他にも、細い眼鏡のつるがべっ甲でできていること、まばらに浮き上がっている白髪、真っ白のこめかみ、えんじ色のシャツについた薄いしわ、くすんでかさついた唇。そんなものが次々と目に入り、教壇と自分の座席にはずいぶん距離があったのだと思い、そこから目が離せなくなった。


 好きです。そう口にしたときの異常な喉の渇き、舌がうまく動かないのに口ばかり上滑りになってゆく危なげな感覚を覚えている。

 その告白をしたのはいつだっただろう。見ているばかりでほとんど会話したこともなかった先生と世間話以上の会話の広がりがあるとは考えられないから、きっと衝動的に口にしたのだろうと思う。


 乾いた唇を舌で濡らしながら、もうどうにでもなれと思ったことを覚えている。精一杯の虚勢を張って先生のジャケットの袖にしがみつき、顔を真っ赤にしながら背伸びして目を閉じ唇を探した。触れるというより噛みつくようなぎこちなさは、ほろ苦い痛みを伴った。初めての煙草の味、初めてのコーヒーの味。そのときのことを思い出そうとしても苦味と痛みばかりがこみ上げるばかりで、先生の感触だとかまなざしだとか、忘れたくないと思っていたことは何一つ思い出すことができない。


 ごめんなさい。ごめんなさい。なかったことにしてください。泣き出した誓子を前に夏目先生は当然戸惑っていた。

 なかったことにしてください、としゃくり上げて泣く誓子に、なかったことになんてしないよ、となだめた先生の声は果たして本当に先生のものだっただろうか。遠慮がちに背中をさすり、自身の肩を貸してくれた彼の手つきに、その困惑の手つきの中に探るような気配を感じたのは気のせいだっただろうか。

 沈み込んだ記憶の澱、その上澄みのようなものを誓子はいくつか手に取ってみるが、きっとどれも幸福な思い込みだとすぐに手を放す。思い出の正当化。きっと点描画の点を少しでも明るい色に塗り替えたいだけなのだ。


 しかし探るような気配というのは誓子の背中に、ちょうどブラジャーのホックが交差する背骨の中央あたりに今でも染み込んでいる。

 探る気配、すなわち鍵穴と針金。かち、かち、かち、かち、かちかち、かち、と体の内側からくすぐられるような小さな針金の音が今も背骨で鳴っている。鍵穴にいびつな針金を差し入れて、そっと抜き差ししたり角度を変えたりしながらわずかな感触の違い、音の差異を感じ取るために神経を研ぎ澄ませているような、息を止めて様子をうかがっているような。


 教室でただ見つめるばかりだった夏目先生にあそこまで大胆になれたのは、小学生のころから好きだった少女漫画の影響があったのかもしれない。

 運命的に出会い、惹かれあい、紆余曲折を経てもっとも幸せな形で結ばれる、あらゆる幸福が確約されたストーリー。少女漫画っていうのは水戸黄門みたいなものなんだよ。そのように友達に力説したあの日の青空が懐かしい。

 万に一つでも、そんな物語を自分もたどることができたら。おとぎ話だと割り切りながら、どこかでそのように思っていた自分はなんと浅はかだっただろう。

 

 夏目先生は近くで見れば見るほど、彼の身体の固さややわらかさを知れば知るほど、非の打ちどころのない少女漫画の王子様とはかけ離れていた。あえて少女漫画で例えるとしたら、主人公のお金持ちの友人に仕えている黒服の運転手のような佇まい。そのような先生のどこが好きだったかと聞かれれば今でもたくさん挙げることができるが、ただ、誓子が一番忘れられないのは先生自身の危うさだった。


 先生はある一定の危うさを常に持っているという点で揺るぎのない人だった。危ない人ではなく、危うい人である。


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