エピローグ 2021年4月 東京

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「白銀。おまえ、いつから古賀が怪しいと思っていたんだ?」

 逃亡したまま行方不明になっている元警部補、古賀匠が殺人犯として極秘のまま追われている。その捜索は別の班が請け負うことになった。ついこの前まで上司だった男を追い詰めるのは、さすがに酷だと判断されたようだ。その結果、一息つけるようになった私を、課長は自分の部屋に呼び出した。そして最初のひと言が、今の言葉だった。

「ええ、直接怪しいと思ったのは、というか犯人だと確信したのは、摩理亞に襲われたひとり芝居をしていたことを見たからですが、それ以前から、主任……いや、古賀はおかしいと思っていました。身近にいればわかります。あの人は精神が不安定すぎました。異常な推理を展開してもそれをおかしいと感じない。そして歪んだ正義感もあります」

「なるほど、おまえの考える犯人像に一致したわけか?」

「はい。犯人には法で裁ききれない悪人を許せないという歪んだ正義感があると感じました。そして心のブレーキが壊れている。そう考えれば、今度の事件の動機も説明できてしまいます。自分が直接の被害者でなくてもいい。悪に対する怒りが殺意につながる。そんな人間の犯行なんだと考えました」

「そういえば、おまえは大学では心理学を専攻していたんだったな。警察に入ってからはプロファイリングも勉強している」

「はい。そういう意味では古賀こそ、私の犯人のイメージにもっとも近い人間でした。法で守られた犯罪者を憎悪せざるを得ない過去。そのトラウマによる精神崩壊。まあ、彼のいうように、黒井摩理亞もそういう意味では充分怪しい存在ではあったのですが、なにせ彼女には完璧なアリバイがあります。たとえ死んだ妹の幻覚に復讐を誓うくらい頭がいかれていたとしても、物理的に不可能なんです」

「まあ、そうだな」

 課長は苦笑いした。

「課長、じつはおもしろい話があります」

「なんだ?」

「2014年の春にアメリカ、ペンシルバニア州フィラデルフィアで起こった事件です」

「ん?」

「今度の事件とそっくりな事件が、アメリカで起こっていたんです。やはり未成年の女が主犯で、手下のような男ふたりを使い、一家に押し入り、その家族の父親と娘を殺し、母親はレイプされました。たまたまそのとき外出していたもうひとりの娘と母親が、彼らに復讐するという事件です」

「ほう?」

「娘はマリア・アンダーソン。母親はサリー・アンダーソン。死んだ父親はマイク・アンダーソン。妹はアリス・アンダーソン」

「偶然にも姉妹の名前まで一致していたのか?」

「ええ。怖いまでの偶然です」

 偶然。いや、これは神の采配だろう。

「そっちの事件の犯人は、マリアなのか?」

「ええそうです。ただしこれがひと言で言えない複雑な事件でして。マリアと母親は主犯格だった女性ルーシーを誘拐し、監禁したまま洗脳したのです。そして自分を被害者のマリアだと信じ込ませ、残りのふたりを殺させた。ちなみにそのふたりは親の仕事の都合でそっちの学校に行った日本人学生です」

「しかし、そんなことが可能なのか?」

「可能です。1990年頃、アメリカで父親にレイプされていたが、その記憶を失っていたという女性が親を告訴するという事件が多発しました。性的虐待を受けていたのに、記憶が抑圧され思い出せなかったというのです」

「聞いたことはある。だが、ほんとうのことなのか、それ?」

「ええ。その影にはカウンセラーがいました。父性社会の被害者である幼い娘。彼女たちを父親の性的虐待から救え。そういう正義の味方きどりのカウンセラーたちに誘導された彼女たちは、偽の記憶を作り出したのです。そんな中に、サリー・アンダーソンがいました」

「そのアメリカ版マリアの母親か?」

「はい。彼女はカウンセラーに操られ、両親が悪魔儀式で隣の幼なじみを殺したという偽の記憶から両親を告発しました。それがでたらめとわかったとき、罪の意識から自殺を図りましたが、死ねませんでした。その後、彼女は精神科医になり、記憶の操作や人格改造を研究しだしたんです。その分野では、大学の非常勤講師として勤めていたこともあったようですね」

「なぜだ? むしろ、そんなことから離れたくなるのが人情だろう」

「復讐のためです。サリーが精神科医になった数年後、そのカウンセラー、ワンダ・ホワイトは自分の娘エマに告発されました。ありえない性的虐待を受けていたことを思い出したと言われて」

「つまり、それはサリー・アンダーソンの仕業か?」

「そうです。明確な悪意にもとづく、洗脳、記憶改竄です。もっともこれはサリーが2020年5月、FBIに逮捕されたあと自供したからわかったことで、当時サリーはまったく表に出てきませんでした。裏方として、エマを操り、かつて自分を破滅させたカウンセラーを社会的に抹殺したんです。さらにエマはその直後、まったく無関係の人間を襲ったあげく自殺しました。行きすぎた記憶操作で頭がおかしくなったんでしょうね」

「怖い話だ。つまり、今度はその技術を使い、ルーシーの記憶を操作したんだな?」

「そうです。しかもサリーはその前に、同じようなことを繰り返します。自分と似た境遇のものに代わって復讐しようとしたのでしょう。つまりルーシーのときははじめてではないんです。経験があるだけ、よりうまくできたんでしょう。加減がわかってきたというか……」

「なかなか興味深いな。くわしく教えてくれ」

「はい。マリアとサリーは家族を殺されたあと、隣の州に引っ越しました。ニューヨークです。その家には地下室があり、誘拐してきたルーシーをそこに監禁し、洗脳して別人格を作り上げます。その間、約五ヶ月。その三年後、マリアはルーシーに昔の仲間ふたり猪股と羽田を殺させています」

「ん? ちょっと待て。アメリカの話だろ? 少年とはいえ、人を殺して三年かそこらで出所できるのか?」

「いえ、アメリカの場合、日本とちがって未成年でも凶悪犯罪を犯せばそう簡単には出てこれません。だからあいつらが犯人と知っていながら、警察にはいわなかったんでしょう。逮捕されず、いつでも殺せるように。とはいえ、すぐにやらなかったのは、準備が整わなかったためと思われます。洗脳による記憶改竄は監禁していた五ヶ月でやり遂げたようですが、その間はそれで目いっぱいで、殺し屋として仕上げられなかった。マリア自身が殺し方を研究し、それを仕込むのにある程度の期間が必用だったんでしょう。ほとぼりを冷ます意味もあって、彼らがアメリカで高校を卒業し、日本に帰国する直前まで待ったんです」

「なるほどな」

 ちなみに、ルーシーは、マリアからすぐに殺さないのは彼らが服役していて出所するまで待っていると説明されていたらしい。

「驚くべきことに、マリアはその間、ルーシーに自分の名前で大学に通わせ、自分自身は母親サリーを介護する看護師になりすましました。ナオミ・グリーンと名乗り、住み込みという名目で母親と同居していたわけです」

「いや、ちょっと待て。マリアはルーシーに殺しのトレーニングをほどこし、最後には猪股と羽田を殺させたんだよな。ルーシーは住み込み看護師がそれをおこなうことに疑問を抱かなかったのか?」

「それがおもしろいことに、マリアは『お嬢様』と名乗り、監禁洗脳しているときも、殺しのトレーニングのときも顔を隠していたようです。そうしないと、自分がマリアであると思わせにくいですからね。さらにマリアは封書で殺人指令を送っていました。それには逆らえないように洗脳されていたのです。だからルーシーはナオミが本当のマリアで、『お嬢様』であることにずっと気づいていませんでした」

「ほう?」

「さらにおもしろいことに、マリアは殺人現場には黒い逆さ十字を置かさせました」

「なんだとっ!」

 心底驚いたようだ。偶然の一致にしてはできすぎだろうから当然だ。

「それ自体にたいした意味はなかったようです。復讐の表明のつもり程度のことで」

「いや、そんなことより、そんなことは初耳だ。アメリカの事件とはいえ、耳に入っても良さそうだが」

「ええ。そうなのです。それがこっちに情報として伝わらなかったのは、向こうの警察が模倣犯をふせぐため、マスコミに逆さ十字などの情報を伏せたせいです。真相がわかったあとも、あまりのことに社会に与える影響を考慮して、詳細は発表されていません」

「ふむ。マリアたちは逮捕されるまで何人も殺している。つまり逮捕まで時間がかかったようだが、疑われなかったのか? とくに最初のふたり猪股と羽田の場合、マリアには明確な動機がある。真っ先に疑われそうだが」

「マリアたちが逮捕されるまで、地元警察は猪股と羽田がマリアの家族を殺したことをわかっていませんでした。あの事件は未解決のままだったのです。それに事件から三年半ほど経っています」

「そうだったな」

「それにすでにニューヨーク州に引っ越していたことで、地元の警察に疑われることはなかったようですね。おまけに殺し方から女性の犯行とは思われなかった」

 もっともルーシーは「お嬢様」がアリバイを用意してくれたと信じ込んでいたらしいが、そんなものはなかった。なくても嫌疑の外にいたのだ。

「ふうむ」

 課長は感慨深げにうなる。

「興味深いのはむしろこれからで、自分をマリアと思い込んだルーシーは、2018年にニューヨークの高校で教師になります。そこは日本人学校ではありませんが、日本人留学生や親の仕事でいっしょに渡米した学生の多い学校で、そのせいか英語を話せる日本人教師も何人かいました。そこでマリアは日本人学生の中田、木下といった、自分の事件とは直接関係のない少年をルーシーに殺させます。2020年の春のことですね。まあ、ふたりとも不良ですが、極悪人ではない。にもかかわらず殺した。おそらくマリアの歪んだ正義感が暴走しだしたのでしょう。この辺は古賀と同様です。マリアがルーシーを高校教師にしたのは、そういうどうしようもない不良たちを片っ端から殺されるつもりだったのかもしれません。あるいは少年犯罪者の情報を得るのに都合がいいと思ったのかも。さらにマリアは、直感でルーシーを怪しいと付け狙ってきた黄金崎という日系アメリカ人の警部補も殺害させています。邪魔だったんでしょうね。……そしてこの頃、父と妹を殺した事件の黒幕が当時地元に長期留学していた赤井だということがわかってきます」

「いや待て。そのアンダーソン家殺害事件のとき、赤井は何歳だ?」

「十二歳、いや、たしか誕生日直前でしたから、十一歳ですね」

 課長は絶句した。

「赤井秀朗はある意味、悪の天才とでもいう少年でした。頭がいいだけでなく、良心というものをいっさい持っていない。自分の欲望になにより忠実な少年。それが赤井です。だからそんな年齢で自分より年上のワルたちを操った。しかも十一歳なら日本だけでなく、アメリカでだって法で裁けませんよ」

「じゃあ、当然、マリアは赤井を殺そうとするだろうな」

「もちろんです。じっさい、木下が殺されたとき、赤井はかなり警戒して、手下に身の回りを見張らせていたりしたようです。そうなるとさすがのマリアも手が出せなかった。それにマリアはすでにニューヨークに引っ越していましたからなおさらです」

「いや、ちょっと待て。赤井はニューヨークではなく、アンダーソン一家惨殺事件があったペンシルバニア州にずっといたのか? じゃあ、どうやって中田や木下と知り合ったんだ?」

「赤井は長期の休みのときなどに、ニューヨークに遊びに行ったりしていたようです。となりの州ですからね。そのときに知り合い、手下にしたようですね」

「なるほどな」

 課長は一瞬考えたあと、いってきた。

「白銀、おまえは赤井を通じてその事件のことを知ったのか?」

「はい。黒井家の事件を調べていると、背後に赤井が浮かんできました。そして赤井のことを調べてみると、アメリカに留学していたことがわかりました。現地の警察に問い合わせたところ、その事件のことを教えてもらったんです」

「そういえば、おまえは帰国子女。英語は堪能だし、アメリカの事情にも詳しかったな」

「はい。ちょっとしたコネもありましたし」

 課長は一瞬考え込んだようだ。

「黒井家惨殺事件の黒幕も赤井だというのはたしかなのか?」

「そうとしか思えません。赤井はアメリカで自分の手足となる少年を使い、一家を破滅に追いやった。その結果、生まれたのが殺人鬼マリア・アンダーソンです。日本で似たような事件を起こしたのもそういう性質だとしか言い様がありません」

「ん? ということは、黒井家の惨劇が起こったのはいつだ? 赤井はいつ帰国したんだ?」

「黒井家の事件は2015年の春です。日本に戻ったのは高校を卒業した十八のとき、2020年の秋ですが、それ以前、十三歳の頃、ちょうど夏休みに赤井は一時帰国しています。そのとき黒井家の事件が起きたんです。赤井が実行犯の少年、墨田、目黑たちとつながりがあることもわかっています。間違いないでしょう。三年後少年院を出てきた墨田、目黑が殺されます。しかしその犯人は黒井摩理亞ではありません」

「古賀だというんだな」

 課長は苦虫をかみつぶしたような顔をした。

 ちなみに黒井家事件実行犯のひとりと思われる外国人少女、キャシー・ブラックはいまだ行方不明のままだ。おそらくいち早く危険を察知して逃げたのだろう。

「ひょっとして古賀はアメリカの事件のことを知っていたのか?」

「ええ、なんらかのコネで情報を得たのでしょう。つまり、黒い逆さ十字や、殺しの方法、被害者の選定や殺しの順番は模倣したんです。まず摩理亞の高校の不良生徒を殺す。つまり一人目上田はニューヨークの中田同様自宅で絞殺。二人目石川はニューヨークの木下同様地下鉄のホームで刺殺。それが今年の2月の話ですね」

「どうして真似るんだ?」

「たぶん古賀は、摩理亞はマリアと同じ行動をとるに違いないという思い込みがあったんじゃないですかね。無意識のうちに両者を同一視していたんですよ、きっと。まあ一種の強迫観念でしょうか」

「なるほど。マリアがこうやったんだから、摩理亞もこうやるに決まってるってことか? しかしマリア・アンダーソンは自分を追っていた刑事、黄金崎を殺させたぞ」

「だからこそ、古賀は摩理亞に襲われた自作自演をしたんです。おそらく強迫観念から無意識に」

「なるほど」

 課長はようやく合点がいったという顔で、手を叩いた。

「そして、黒井摩理亞もアメリカの事件のことを知っていたにちがいありません。おそらくアメリカの医学研究会とコネがある母親からの情報なのでしょう。かなりくわしいことまで知っていたと思われます。だからこそ、妹の亡霊に怯え、『お嬢様』名義で自分に殺人指令が下るという妄想に陥ったんです。アメリカの事件こそまさにそういう事件だったのですから」

「だがアメリカのルーシーとは違い、そんな指令はじっさいにはなかったんだろう? しかし古賀が手に入れた……」

「その指令書は摩理亞が無意識のうちに自分で作り、自分自身に宛てていたんです。それを古賀が見た。もちろん、摩理亞は実際に殺人は犯していませんが、かわりに古賀が殺して回る。だから、精神を病んだ摩理亞は自分自身が殺したと思い込んでしまったんでしょう」

 黒井摩理亞は、やはり精神を病んでいた。妹の亡霊の幻覚につきまとわれていたのだ。ただ一見まともに見えたし、教師の仕事も続けていられた。だから同居していた看護師、星野ナオミもその異常に気づかなかったらしい。

「じゃあ、摩理亞の学校の不良生徒、上田、石川は?」

「あれは古賀の暴走でしょう。くわしくはわかりませんが、きっと裏で古賀のかんに障る悪どいことをやらかしたに違いありません。正義の仕置き人気取りで殺したんですよ。あるいはふたりが赤井の手下だったことから、目をつけられたのかもしれません」

「なるほどな。ところで……」

 課長は言いにくそうにいった。

「ほんとうにあの事件の犯人は古賀なのか? たしかにおまえの推理には真実味があるが、証拠はいっさいないわけだろう? おまえの前で摩理亞に襲われたひとり芝居をしたことだって、決定的な証拠とはいえないはずだ」

「でも、逃げたんですよ。しかもその直後、赤井弁護士を殺害している。そっちのほうは状況からみて間違いないでしょう。現場には指紋すら残してるわけですし。そもそも古賀の部屋から黒い逆さ十字が出てきたことを忘れたんですか?」

「ああ……、たしかにそうだな」

 課長にしてみれば、部下が殺人犯だという事実は受け入れがたいだろう。すこしでもちがう可能性があれば、それを信じてみたい気持ちもわかる。

 だが古賀が人殺しであることは間違いない。そして最悪の場合、これからも殺し続けるだろう。やつは歪んだ正義に目覚めてしまったのだ。

「わかった。もういっていい、白銀巡査。いや、そういえば昇進したんだったな、白銀智子巡査部長。おめでとう」

「ありがとうございます。では失礼します」

 私は一礼して、部屋を出た。

 今、課長に対しておこなった説明は概ね合っている。方法も動機も、事件の背景も。ただし、決定的に違う点があった。

 まず、古賀が摩理亞に襲われたと証言したとき、私はそれを古賀のひとり芝居だったと言ったが、あれは嘘だ。古賀はたしかに襲われた。ただし襲ったのは摩理亞じゃない。

 これは古賀イコール犯人説を根底から揺るがす事実だ。

 たしかに古賀が赤井秀朗の父親、赤井弁護士を殺したのは間違いない。だが他のやつら、亜理栖殺しの墨田、目黑。それに上田、石川、赤井秀朗といった連中を殺したのは古賀ではない。確信がある。

 なぜなら、やつらを殺したのは、そして古賀を襲って殺し損ねたのは……。

 他ならぬ、この私なのだから。

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黒いマリア 南野海 @minaminoumi

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