抗う者よ、願いをここに

ウツユリン

初夏の願い

「——はぁっ……はぁ……っ」

 青白い月光の降り注ぐ住宅地の路地を、少女は駆けていた。

 夕方の雨が作りだした水たまりに、薄くなったの足裏がしぶきを跳ね上げ、お気に入りのスカートへ染みを広げる。

 少女が走ってきた背後、遠くの月夜に赤々と照らされた煙が立ち上っている。サイレンや救助活動の慌ただしさが、敏感な自分の狼耳ろっじで鳴り止まず、耳を塞いでしまいたくなる。

 それでも少女は、足を止めなかった。

 ——逃げなきゃ!

 少女の個有能力ユニーカ反響定位エコーロケーション、その海棲哺乳類に匹敵する空間認知が、自分の後方から迫る複数の足音を捉えていた。

 足音はブレず速度も落とさず、正確無比に少女を追従している。それだけでもじゅうぶん、人間離れしているのだが、乱れない息遣いがまるで、すぐ傍で聞いているような錯覚を少女の聴覚に恐怖を突きつけてくる。早鐘を打っているのは自分の鼓動で、追跡者たちの拍動はその手馴れた足さばき同様、一定のリズムを刻んで力強い。

 執拗な追っ手たちを撒くため、少女は住み慣れた街のよく隠れんぼに使っていた住宅地のあいだを左に右に折れながらさらに駆けた。

 無理な運動で頭がズキズキする。

 なぜ自分が追われているのか、考えてもわからなかった。——否、本当はわかっていて考えなくないだけなのかもしれない。

 今日の今朝まで、少女の日常はありふれた普通の日々だった。

 両親と幼い弟、家族4人で賑やかな朝食を取り、珍しく休日が重なった父母に連れられ、楽しみにしていたテーマパークへ出かけた。心地よい疲れを身に残し、夕方まで休日を満喫し、帰路につく。

 ——お月さまがきれい。

 透けたマイカーの天井から夕立の過ぎた空を見上げ、普段、あまり月を見ることのない少女はそう思った。


 そして少女の日常は、壊れた。


「——きゃっ⁉」

 個有能力ユニーカが跳ねる小さな物体の急接近を検知し、少女は、普段よりいくぶん反応が鈍い自分の身体へ回避行動を命じる。が、その行動を予測したように、振り上げたふくらはぎを物体が直撃した。

 文字どおり、足元を掬われて、少女は盛大に尻もちをついてしまう。びちゃっと、アスファルトへ突いた手に、すっかり夏日の熱を奪われたぬるい雨水が、気持ち悪さを伝えてくる。——が、そんな思いは、眼前に浮かんだ赤い光を前にあっさり消し飛んだ。

「な、なにこれ……」

 球体のそれは一つ眼の化け物さながら、宙を漂い、夜闇に赤い光を浮かび上がらせて少女の姿をロックオンする。よく見ればその"眼"にはシャッターがあり、赤外線センサによって色づいた、偵察機ドローンであるとわかる。が、まず日常生活では見かけない特殊装備ガジェットを前にして、ドローンも黒ずくめの追っ手も、怯える少女には自分を捕まえようとする"化け物"と変わりなかった。

 そうして腰が抜けた少女へ、ジリジリッと迫った偵察機は、だが唐突にその役割を終える。

「——レディを無遠慮に眺めまわすガジェットとか、『法と秩序の番人』も悪趣味なものね。聞いて呆れるわ」

 侮蔑に皮肉をまぶしたくったその声色は、だが雲ひとつない青空のように淀みなく清廉に少女は感じられた。

 自分のエコーロケーションにいっさい反応せず、すくっと目の前で立ち上がった、豪奢な衣装の女性。顔を覆い隠す奇抜な仮面からこぼれた声は思いのほかみずみずしく、唖然と見つめる少女を上背が見下ろした。

 やたら金銀装飾の多いそのファッションは紅色の占める割合が過多で、一瞬、『派手すぎる』と、尻もちをついたままの追われる身の少女は評価を下しかける。が、女性が放つ威圧感と、均整の取れた長身にまとわれると、エキゾチックな装いも不思議とケバケバしい印象は薄れた。昔、絵本で見た東洋の女帝みたいだと少女は思った。

 そんな紅色の女帝は、アスファルトへめり込ませた偵察機の残骸を放り捨てると、手を——細く獣毛に覆われていない、見慣れない五指をすっと差し出す。

 促されるまま伸ばした、自分の毛深い手とは大違いだ。こんな手は、見たことがない。

「素敵なワンピね。泥跳ねがいいアクセントになってるわ」

「えと……あの……」

「ショーツまで染みちゃった? いま着がえる?」

「ふぇ⁈」

 ストレートすぎる女性の物言いに、あどけない少女の頬はカアッと朱を帯びる。返す言葉に詰まってしまい、とりあえずブンブンと首を横に振って提案を断った。

「そう。ま、どっちみちちょっと待ってもらうことになりそうだけど」

 声音がわずか硬さを帯び、ほぼ同時にエコーロケーションが複数の足音に取り囲まれたことを報せてきた。

 そのうちのひとつ、追跡劇の最初から先頭を走っていたリーダーとおぼしき黒ずくめの一人が、カシャリとをこちらへ向けた。

 宵闇に溶け込むような、黒く塗装された細い筒。

 専門知識に疎い少女にも、それが殺傷力を持つ『兵器』の類いであることは容易に想像がついた。兵器の放つ無機質な殺気と、それを構える追跡者の鋭い視線に当てられ、少女は半ば無意識にぎゅっと手に力が入る。

「だいじょうぶ。アタシがついてる」

 自分の肉球越しに、握り返す確かな温もりが伝わって、少女はハッと仮面の横顔を見つめた。

 この状況でも微動だにしない彼女と打って変わり、苦々しい追跡者のリーダーの声にはかすかな驚きが感じられた。

「おまえが……赤の魔女かい。聞いてた以上に壊滅的なセンスだな」

「うるさい。名乗ったつもりはないんだけど。いい加減、見てくれで決めつけんの、やめてくれない? そういう偏見がいろいろややこしくしてるって、いくら組織の犬のアンタたちでも、わかるんじゃない?」

「黙りな! テロリストの戯れ言を聞くつもりはないよ。聞きたいのはひとつだけだ。なんでおまえがここにいる?」

「この仔を迎えにきた、って言ったら?」

「ふざけるな! その〈レシピエンツ〉には、Class 5の危険認定が下りている。街の一角を消し飛ばした張本人だ。われわれ《レンジャー》が連れて行く」

「ふーん。ずいぶん手回しが早いことね。アンタたちにもルートがあるわけ?」 

 仮面の下から放たれた強烈な皮肉に、対する追跡者は警戒の無言を返した。両者の言っていることは、少女にはわからなかった。ただ追跡者の言葉が、頭をガンガンと鳴らしていた。

「ち、ちがうのっ! わたし、気づいたら炎に囲まれてて……」

 記憶の断片が意思に反してつなぎ合わさり、少女は己の所業をまざまざと思い出す。

 満月を見上げ、無性に胸の奥が疼いたこと。

 そこでなぜか、楽しかった時間を塗りつぶすように、深い深い哀しみで胸がいっぱいになった。


 ——終わりたくない!


 それがいずれ訪れる『とき』を案じた、自分の慟哭だと、まだ幼い少女にはわからなかった。

 ヒトが皆、いずれ迎える『終刻』を想い、逃れようのない恐怖を悟って心が流した悲涙だと、理解できようもなかった。


 だからココロは泣いた。とめどない泪を不可思議の力に換え、哀しみを溢れさせた。


「————」

 同じ疼きが胸に去来し、少女は音にならない慟哭を打ち上げる。

 たちまち紅蓮がそこここで上がり、タカの外れた激情に合わせて勢いを増していく。

 自分へ向いた銃口が間髪を入れずに瞬き、命を貫く鉛の弾丸が飛来する。


 ——死ぬのは、いやだっ‼


 ——それがアンタの願い?


 ふいにそんな声が聞こえた。

 聞いたことのある声のような気もしたが、上手く思い出せない。——が、少女はしがみつくように声へと答える。


 ——おねがいっ! ほかにはなにも要らない! だから!

 ——なら、アタシときて。アタシと、アンタのような仔たちを救うの。


 声の意味はわからなかった。が、なぜか噓ではないことだけはわかる。

 そして声と往けば、自分の望みが叶えられることも。

 だから少女は——かつてごく普通の少女だった者は、強く、その手を握り返した。


「——撃ち方やめっ! くそっ、奴らどこに消えた!」

 忌々しげなリーダーの号令が、銃声の余韻をかき消す。

 住宅地で上がった火の手は、発火したときのように唐突に消えて、塀や花壇に散らばった焦げ跡だけが現象の証左を残している。

 そうして目標ターゲットをロストしたレンジャーのリーダーが、フルフェイスのバイザーを解いて若々しい相貌を露わにする。細めた黒瞳が煌々と青白い光を降り注ぐ満月を仰ぎ、部隊チームには聞こえない懸念の言葉をみずみずしい唇からこぼれさせた。

「なにを企んでる……? 赤の魔女」


「——ホント、自己中よね、ヒトって」

 遠ざかっていく街を眼下に、月夜の空を"紅色の矢"が飛び退る。――“赤の魔女”と呼ばれた謎の女性だ。

 豪奢なその装いの腕には、あどけない寝顔をさらす少女の姿があった。柔らかな体毛は急激に抜け落ちていて、その姿はもはや、ヒトのそれと大差ない。

 それは彼女本人の選択の結果だ。

 説明不足とあとで詰られるだろうか、そのときに話してやればいい。どのみち、身体の変化は止められないし、いずれは「これでよかった」と思える日がきっと来る。――赤の魔女がそうだったように。

「じゃんじゃん手伝ってもらうからね、えーと……スーちゃん!」

 レンジャーチームのリーダーがが聞けば、また壊滅的ネーミングセンスだの何だと言われるだろうが、幸いにも今はいないし、当分顔を合わせることもない。赤の魔女としてはもう一度、顔を突きあわせて話をしたいと思う何かが、あのリーダーにはあったのだが。

「ま、いまはスーちゃん優先ね。アタシの、初めての仲間なんだから」

 不可思議の力によって何人にも見咎められず、夜空を駆ける魔女はもう一度、腕の中に視線を落とした。——仔を慈しむ、母のような微笑みをたたえて。

「アタシが守るよ。それが――約束だから」


 †  †  †


「――ピウス! アーロンが新しい座標を!」

「出現予測時間は明日、か。おまけに北半球と南半球に同時か。絶妙なタイミングだこと」

「直行便を手配するから――」

「スー。アンタが行ってくれる?」

 唐突すぎる提案にベージュのスカートの少女は、「ふぇ⁈」と大きな瞳を見開いてしまった。

「あれからもう2年が経つ。そろそろ、アタシの名代として仔らの交渉に行ってくれない?」

「赤の魔女の代理って、もしまたレンジャーやCEAONの妨害に遭ったら……」

「スーザン。周りを見てみて」

 赤の魔女――ピウスに促されるまま、スーザンは『園』のプレイルームを見回した。

 リビングルームほどの広さに、この2年で保護した仔たちが思い思いの時間を過ごしている。見ていて危なっかしい時もあるけれど、ピウスのおかげで皆、穏やかな日々を送っている。もし、レンジャーの手に渡っていればと考えるだけで、スーザンはただでさえ体毛が減って寒さに敏感な背筋が凍えそうになる。

 彼らも、スーザンと同じ業を背負ってしまったはみ出し者だ。

 だからといってみすみす、権力に引き渡してしまう道理はない。彼らはまだ、年端もいかない仔どもなのだから。

 ――なら、今度は自分が力になる番だった。

「ピウス、わたしが行きます。行って、話をしてきます」

「そう。だったら任せたよ。いい、スーザン。これだけは忘れないで」

 豪奢なエスニック衣装の額をスーザンにコンッと当てて、赤の魔女はまっすぐスーザンの目を見た。

「彼らの意見を尊重すること。けっして無理強いしちゃダメ」

「――はい」


 そうしてスーザンは、直に出現すると予測されたポイントへ発った。


 ――これは、のちに〈月下の紅蓮〉として歴史に刻まれることとなる、大きな騒乱の始まりにすぎなかった。


〈了〉

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抗う者よ、願いをここに ウツユリン @lin_utsuyu1992

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