アラゴナイトの庵 〜なごみ飯をあなたに〜

涼月

アラゴナイトで最後ではない晩餐を

 今日こそは!

 今日こそは、残業しないで帰るぞ!

 

 鋼の決意を唱えた刹那、出張中の上司からのメールの知らせ。

 気付かないフリしよう。それでいい。


 俺は目を瞑りトイレへと立ち上がった。だが、立て続けにメールが入った後、電話まで鳴り始めた。目の前の可愛い後輩君。律儀に受話器を取ってしまう。そして、俺に視線を向けた。


詩琴しごとさん、課長から電話です」


 くっそー! あのパワハラ上司。ぜってーわかっていて、就業時間間際に電話してきたな。


 それからはお決まりのコース。今日も終電に駆け込んだ。

 淡い期待が打ち砕かれた分、今夜は余計に虚しさと疲れが押し寄せてくる。

 シートに座った途端、猛烈な睡魔に襲われてそのまま眠り込んでしまった。


 気づいた時は、最寄駅を大分過ぎてしまっていた。終電だったことを思い出して愕然とする。タクシーで帰るしかないのか……


 とりあえず、駅前を覗いてみたが、小さな駅の周りには、灯りもほとんど灯っておらず、眠りについた家々の暗い影が夜空に浮かび上がるばかり。


 はあーっとついたため息と共に、急に腹の虫がなった。

 さっきまでは、上司への怒りのあまりに、お腹が空いていることさえも忘れていたことに気づいた。こんなところじゃ食堂も飲み屋もなさそうだしな。

 せめてコンビニくらいないかなと、ひとまずふらりと歩き始めた。


 ああ、このまま道端に倒れてしまいそうだ。野垂れ死んだ自分の姿が頭を霞める。

 まだ若いはずなのにな。俺まだアラサーだぜ。どうせ野垂れ死ぬなら腹いっぱい食ってからがいい。そんなことを、泣きそうな気持ちで考えていたら、ふっと視線の先に、淡い黄色の光に包まれた赤い暖簾が目に入った。『アラゴナイトのいおり』なんて、変わった店名だな。


「まだ、間に合うかな?」


 カラカラと引き戸を開けて暖簾をくぐれば、カウンター席だけの小さなお店。

 店の中も柔らかな黄味がかった光に満ちていて、ほわりと温かい出汁の香りがした。

 

 振り返った女将の美しさに、思わずぽうっとしてしまう。

 見返り美人とはよく言ったものだ。深く抜かれた衣紋から覗く色っぽい肌と美しい面立ち。どちらも楽しめる最高の姿だったんだと妙に納得した。


「いらっしゃいませ。どうぞ。こちらへ」

 嬉しそうに瞳を輝かせた女将。目の前のカウンター席へと誘ってくれた。


 淡く優しい桃色の花模様の着物に、銀地の無地帯をキリッと締めて。

 アップに結い上げた黒髪は艶やかで、うなじの白さを引き立てる。


「もしかして、お店を閉めるところでしたか?」

「いえ、そんなことは、お客様がいらっしゃる限り続けていますので」

「良かった。助かった」

「そうおっしゃっていただけると嬉しいですね」

 その言葉が偽りではないと確信できる笑みを向けて、女将は美しいブルーのグラスを差し出した。


「まずは、一息お入れください」

 よく冷えたレモン水が、体の隅々まで染み渡っていく。

「はあああ。生き返るようです」 


「お好きなものは?」

 メニューは特に無いようで、客の希望にそって作ってくれるようだ。何が美味しいのかもわからないし、この女将に任せてみよう。

「おまかせで」

 俺の言葉に、女将は満足そうに頷く。


「女将の和奏わかなです。疲れたお客様を癒すのがわたくしどもの務め。今のあなたにぴったりのメニューをご用意いたしますね」

 そう言い残すと、板前さんと相談しに奥へ入って行った。

 

 戻ってきた盆の上には、朱色の切子グラスの徳利と御猪口が。

 トクトクトクッと良い音が響く。


「食前酒です。一口どうぞ」

「では、いただきます」


 くーっ! まろやかな口当たり。とろりとした感触が、喉元をすり抜けていく。


「ああ、美味しい酒だ。飲みやすいですね」

 女将の和奏さんはその様子をじーっと見つめていたにもかかわらず、真顔で尋ねてくる。

「飲みましたね。ゴクンって、ちゃんと飲み込みましたね」

「へ? ええ。もちろん。何か飲み方の作法があったんですか?」

 慌てる俺に首を左右に振る和奏さん。


「このお酒『舌花ぜっか』という名前なんです」

「何とも不思議な名前ですね」

「いわゆる自白剤です」

 そう言って、いたずらっぽく笑った。


 え? 自白剤? 俺、スパイ扱い? これから拷問されんの?

 いや、そんなことされなくても言っちゃうかも。

 女将に一目惚れしましたって。


 慌てた俺の様子を面白そうに眺めてから、和奏さんは種明かしをするかのように穏やかに告げてくる。 


「お客様の心の内、遠慮なさらず私に打ち明けてくださいな。そのために、おしゃべりしやすくなる魔法をちょっとだけ混ぜておきました。だから、なんでも話してくださいね」


 潤んだ瞳で見つめられたら、もう何でも話したくなってしまう。俺は前後バラバラ、要領も悪く、ポロポロと辛い仕事の愚痴を語り始めていた。

 

 こんな風に自分の弱さを晒すなんて、大人の男のすることじゃない。

 頭の片隅に残る理性はそう語りかけているけれど、魔法にかかった唇と疲れ切った心からはマイナス言葉が溢れ続ける。

 こんな情けない姿の俺を優しい眼差しで包み込み、頷きながら聞いてくれる和奏さん。


 ああ……心がほぐれていく……


 そんな俺の眼前が突然揺らいだ。続けてふわりと顔に纏わりつく熱気。


「さあ、玉里たまり君。お待たせしました。まずは前菜でミニ鍋をどうぞ。名付けて『社畜の心を癒やす湯けむり温泉鍋』ですよ」


 湯気の向こうで意味深な笑みを浮かべる和奏さん。その妖艶さと舌花ぜっか酒の酔が混ざり合って、俺はのぼせた様に見つめてしまう。

 あれ? 俺自分の名前なんて名乗ったっけ?

 一瞬そう思ったけれど、何と言っても自白剤のせいで舌が軽くなっているからな。自分の記憶に無いことも話してしまっているかもしれない。社外秘、何それ美味しいの? 状態だ。


 危ない。非常にまずい。わかっちゃいるが、この幸福感は病みつきになる。

 もうどうだっていいやと投げやりになって、湯気に顔を突っ込み続けていた。


 ああ……温かいな。包まれるな。まさに和奏さんの言う通り、湯煙温泉だ。

『お背中流しましょうか』とか、空耳まで聞こえてきたぞ。


「さあ、召・し・上・が・れ」

 ぷっくりとした和奏さんの唇が形作るその言葉の意味が、俺の中でグルグルと回り始めた。

 

『はい! 喜んで。ついでにあなたも食べていいですか?』

 緩む口元から零れそうになる言葉を、寸でのところで飲み込んだ。

 

 ふう。危ない!


 ギリギリのところで自白剤に抗って、目の前の鍋に視線を移した。

 供されたのは小さな鉄鍋。

 グツグツと煮立った鍋の中身は白菜や春菊と共に白くてふわふわな豆腐。


 これ、身も心もあったまる奴じゃん。


 俺は嬉しくなって箸を取った。


 ポン酢タレの中に大根おろしを添えて、アツアツの豆腐を蓮華ですくった瞬間。


「ギャー!」


 期せずして己の口から飛び出た叫びに、自分でも驚く。


 な、なんだこれ!


 湯豆腐と思っていた白くて丸い塊。クルリと向きを変えた途端、黒い瞳孔にギロリと睨まれた。

 なんじゃこりゃ!


「め、目玉……」

「やったー! 驚いた? ね、驚いたでしょ」

 呆然とした俺とは反対に、和奏さんは嬉しそうにはしゃいでいる。


 え? これ、わざと? わざと俺を驚かそうとしたってわけ?


「あの……これは一体」

「大丈夫ですよ。本当の目玉じゃありません。はんぺんと黒豆で作っているんです。でも、可愛いでしょ」


 いや、可愛くは無いかな。俺、叫んだし。寿命縮んだし。

 さっきまで、聖母の微笑みを浮かべて愚痴を聞いてくれた和奏さんが、今はドッキリを成功させたいたずらっ子のように、無邪気に喜んでいる。

 あの意味深な笑みは目玉のことだったのか!


「騙されたと思って食べてみてくださいな。美味しいですよ」

 ニコニコとそう言われても、やっぱり食べづらい。


「これ……『社畜の心臓にとどめを刺す目玉地獄温泉鍋』ですね」 

「あら、そっちの方がいいかも。玉里たまり君、名前つけるのお上手ね」

 

 ぼそりと呟いた俺の言葉に、尊敬を込めた言葉を返してくれる和奏さん。

 その少女のような無垢な微笑に……なんか照れます。

 おだてられて直ぐに木に登る俺。ちょろい。ちょろ過ぎるな。

 

 覚悟を決めて目玉に食らいつけば、ふんわり広がる海の香。

 

 ああ、確かにはんぺんだね。しかも出汁が沁みた優しくまろやかな味と食感。黒豆の甘みも加わって、複雑なハーモニーを奏でてくれる。

 空きすぎた腹に優しい最初の一口。

 

 一つ食べたら二つも三つも一緒。

 俺はアッと言う間に完食してしまった。


 ああ、生き返った。


「お口にあって良かったわ」 

「美味しかったです」

「じゃあ、次ね」


 そう言って微笑んだ和奏さんが持ってきてくれた二品目は黒い丼ぶりに盛られたちらし寿司。

 いや、なんて物じゃなくて、山積み刺身丼だ。


 まさに、山のように積み上げられた刺身の山。下の方に鯛などの白身魚。その上にオレンジのサーモン、更に赤いマグロが山盛り。

 異様な光景。まさに山から溢れ出す赤いマグマのような様相。

 それだけでは無かった。丼の前に備えられた鉄ぐしに刺したままの炙りマグロの束。


 これ、一体どうせよと?


玉里たまり君、次はね、『ダメダメ上司に鉄槌丼』よ。さあ、あなたの手で鉄ぐしを丼の頂上へ。グサッと一思いにぶっさしちゃってっ」


 え? いや、それなんか聞いてるとヤバい感じに聞こえますが。


「日頃の恨みつらみを込めて、胡麻摺ごますり課長に鉄槌を下しなさい!」


 げ! 俺、個人情報まで漏らしていたのか! 胡麻摺ごますり課長の名前まで。


 青くなった俺を怜悧な瞳で見つめる和奏さん。先程までのなごみムードは消えて、女神のような神々しさだ。

 

「正義はあなたにあるわ。迷うことはありません。悪を成敗するのよ」


 いやいやいや、かつては中二病が入っていたとはいえ、俺も一応アラサー男なので、そんなごっこ遊びのようなことはもう卒業しているんですけど。

 己の心の片隅に残る中二心に蓋をして、必死で分別ある大人の男に戻ろうと足掻く。


玉里たまり君、怯む必要は無いわ。あなたは勇者なのよ。こんな理不尽な上司の言うことを、今まで文句も言わず答え続けてきた勇者。自分を信じて。大丈夫。女神の神託は下りました。彼に罪を償わせなさい」


 女神の神託……それって、和奏さんのお墨付きってこと?


 驚きおののく俺の目を、和奏さんは慈しむように見つめてきてくれた。そして、俺の両手を取ると、鉄ぐしをその中へ滑り込ませてくる。


「怖かったら、一緒にやる?」

 小首をかしげて見つめられたら、俺も覚悟を決めざる負えなくなるじゃないか!

 彼女の瞳を力強く見つめ返し、鉄ぐしの柄を握り変えた。


「我を苦しめる悪魔のシモベよ。聖なるボルケーノの灰となれ!」

 思わず中二病全開のセリフを吐けば、キラキラとした瞳で見つめてくる和奏さん。

 その期待、絶対裏切らないぜ!


 グサリ! 


 赤みマグロの上に刺してから、ゆっくり炙りマグロを落としていく。コロコロと転げ落ちるまだらな赤。のたうち回るマグマのように山肌を覆って行った……


「ふぅー」

「お見事でした! さあ、食べて食べて。新鮮な食材が自慢なの」

「あ、ありがとうございます」

「ちょっとはスッキリした?」

「そうですね。思いっきり楽しんだら、モヤモヤが晴れたような気がします」

「良かったぁ」


 こんな小芝居、一人でやっていたら虚しさが募っただろうけれど、心の底から嬉しそうに笑ってくれる人が一緒に居てくれたら楽しいものだね。

 和奏さんのお陰で、愚痴を零すのも、正義のヒーローを気取るのも、悪いことばかりじゃないなって気分になれた。


 いくつになったって、辛いものは辛い。

 大人だからと感情を抑えてばかりいないでさ、時には自分で自分を開放してやろう。


 そんなことを思いながら、脂ののった刺身を舌に乗せれば、あっという間に溶けていく。快感さえ覚える海の恵みと、酢飯の食べやすさに、大盛りの刺身丼はみるみる空になっていった。

 舌花酒のお替りを注いでくれる和奏さんの白魚のような手。優しく囁く労いの言葉。美しい微笑……


 


 残念ながら、俺の記憶に残っているのはここまでだった。


 次の朝、俺は道端で眠りこけているところを、通り縋りのおじさんに起こされた。

 辺りを見回してみても、あのお店らしき建物を見つけることができない。

 一夜の夢のような出来事。狐に化かされたのだろうか?


 それでもいいやと思う。

 だって、俺の中に活力のようなものが蘇ってきたことは確かだったから。



 後から調べてみると、店名のとは淡い黄色のパワーストーンのことで、『なごみの石』『地球の女神』と言われているらしい。


 まさに、和奏さんはそんな女性だったなと思う。

 もう一度会いたいと思いつつも、もう会ってはいけないと言う恐れにも似た気持ちも霞める。


『アラゴナイトのいおり

 それは、ギリギリまで乾いてしまった人にしか見つけられないお店。きっと、そんなお店なんだろうと思った。


 三途の川の一歩手前で引き返せるように、今日も見守ってくれているのかも知れない。



         完

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