赤い車

大枝 岳志

第1話

 昭和後期のことだった。

 工業地帯にほど近い、とある小学校の帰りの会。

 担任の女教師が藁半紙のプリントを配り、声を張って児童達にこう言い聞かせていた。


「知らない人に「チョコや飴をあげるから車に乗って」と声を掛けられても、絶対について行ってはいけませんからね! 誘拐されて、おうちに帰れなくなりますからねー! いいですかー?」


 児童達が「はーい」と返事をする中、一際身体の大きな西口達也少年の「なんでー?」という声が混ざる。

 達也少年は両親が共働きの為、毎日家に帰っても腹を空かしながら母の帰りを待つしかなかったのだ。


 達也少年は空腹感を抱きながら歩く帰り道、チョコや飴をタダでくれる大人がいたらと思うと、その誘惑に打ち勝つ自信がまるで持てなかった。


「くれるって言ってるんだから、もらったって別にいいじゃん! なぁ?」


 通学路に建つ一軒家に住む柴犬のサブローにそうやって話し掛け、多少の鬱憤を晴らした達也少年はとぼとぼ歩き続けた。住宅街を抜けると景色が開け、工業地帯に並ぶ煙突が見えてくる。

 そのうちの数本から煙が昇り、達也少年はそれを眺めながらラーメンを思い浮かべて、ごくりと喉を鳴らした。


 ぐぅーという腹が鳴る音を聞きながら、郵便局の前を通り過ぎようとしていたその時だった。


 郵便局の前の路肩に止まっていた真っ赤なセダンの運転席に座る中年男が、達也少年に声を掛けた。

 男はパンチパーマが伸び切ったようなボサボサのパーマ頭で、緑色のヨレたゴルフシャツを着ていた。


「おーい、君は何年生?」


 愛想良く男が話し掛けると、達也少年は男の顔を見てわずかに驚いた。男は遠目でわかるほど、右目と左目の大きさが違っていたのだ。

 右目は潰れたように細く小さかったが、左目は幅の広い二重だった。

 男の声は痰の混じったようなガラガラとした声で、達也少年は声を掛けられた事に若干の戸惑いを覚えた。


「ぼ、僕は四年生です」


 声を振り絞ってそう答えると、男はダッシュボードから何やら取り出し、達也少年を手招きした。

 ゆっくり近付くと、男の手にあったものは達也少年が大好きな、とあるメーカーの板チョコだった。

 口の中で溶けて行く甘さを想像し、思わずヨダレが出そうになってしまう。


「君、お名前は?」

「あの、僕は西口達也です」

「チョコ食べるか? うまいぞぉ。ほら」


 男は毛むくじゃらの腕でチョコの箱を開け、銀紙を破いて達夫少年に差し出してみせた。激しい食への欲求が湧いて来ると、それを断る勇気が達也少年から削がれて行った。しかし、必死に担任の言葉を思い出し、溜息をひとつ吐いて男に告げた。


「知らない人から、食べ物もらうなって言われてるから。いらないです」


 よし、よく言えた。えらい! と、達也少年は心の中で自分で自分を褒め称えた。

 しかし、男はにやけた顔を浮かべてチョコを達也少年の顔の前に突き出した。


「おじさんはね、森正男っていうんだ。正しい男、と書くんだよ。ほら、これでもう知らない人じゃないだろ? ん?」

「でも……」

「チョコ好きだろ? なぁ? うまいぞぉ」


 男は達也少年の欲求を掻き立てるように、目の前でチョコを一欠片食べてみせた。

 男はチョコを舐め溶かすように食べる訳ではなく、まるでガムを食べるようにくちゃくちゃと口を動かしている。すきっ歯の黄ばんだ前歯が茶色く染まって行くのが不気味に思えたが、それでも達也少年は実に美味そうにチョコを食べる男の誘惑に根負けしそうになっていた。


「あー、チョコは美味しいなぁ。達也君にも食べて欲しいなぁ。これはおじさん一人じゃ食べきれないなぁ、どうしよっかなぁ? 捨てちゃうしかないかぁ」

「お……お母さんが、食べ物捨てちゃダメだって、言ってた」

「そうだよねぇ。そしたらさぁ、達也君。このチョコどうしようか?」

「た……食べたい」

「何? 聞こえない。チョコ、どうしたい?」

「食べたいです」

「食べたいよねぇ? 食べたいときは、達也君はどうするのかな? おじさんに教えてくれる?」

「チョコ、下さい……お願いします」

「仕方ないなぁ。じゃあ、助手席に乗って」


 達也少年は辺りに大人がいない事を確認し、小走りになって助手席に乗り込んだ。車の中はヤニの臭いが充満していて、後部座席には男のものと思われるヨレた服が何着も置かれていた。


「はい、約束だからね。あげる」

「い……いただきます」


 達也少年は罪悪感と後ろめたさを感じながらも、手渡されたチョコにがぶりと齧り付いた。一瞬にしてミルクチョコの甘いカカオの香りが口の中に広がり、達也少年は思わず笑顔になる。

 甘さで支配された脳が男の存在からひととき離れると、達也少年は無我夢中になってチョコにむしゃぶりついた。


 半分ほど食べた所で突然フラッシュが焚かれ、驚いた達也少年は思わず動きを止めてしまった。

 次のシャッターを押すためのフィルムを巻くカリカリとした音が車内に響く。気が付くと男は満面の笑みで使い捨てカメラを達也少年に向けていた。


「たっちゃん、美味しい顔してたねぇ。おじさんね、嬉しくて撮っちゃったよ」


 達也少年は男から写真を撮られた事にも驚いたが、いつの間にか渾名で呼ばれている事にも驚いてしまい、自然と声が詰まってしまった。それは恐怖に近い感情だった。


「…………」

「ビックリしちゃった? あのね、もっと驚くとっておきの「オモシロ情報」を教えてあげるね。たっちゃんが食べているそのチョコ、メーカーが作ったチョコだと思っただろ?」

「え、だって……箱に入ってたし……」

「ううん。おじちゃんが真似っこして作ったんだ。どう? 美味しいだろ?」


 得意げになって話す男に達也少年は寒気のようなものを感じ始め、このまま車から降りようか思い始めた。

 すると、男は一冊の写真アルバムを達也少年に手渡した。


 恐る恐るアルバムを捲ると、そこには何人もの少年少女らがこの車内でチョコを食べている瞬間の表情が納められていた。

 それを見た途端、達也少年は身慄いがして思わず持っていたチョコを足元に落としてしまった。

 すかさず、男の声が響く。


「あ、たっちゃん! それはいけないなぁ。ねぇ、ちゃんと拾ってよ。おじさんね、みんなの美味しい顔が大好きで一生懸命作ったんだから」

「あ……はい……」

「全部食べたらもったいないなぁ、なんて思わないで、たっちゃんが一人で全部食べてもいいんだからね?」

「あ……あの」

「何だい?」

「持って帰ります……」

「ううん、ダメ。持って帰ったりしたら、ご飯の前に食べちゃダメでしょって、お母さんに叱られるかもしれないよ?」

「う、うち……共働きなんで……」

「じゃあおじさんがさ、おうちまで送って行ってあげるね。おうちの場所教えてくれるかな?」


 男は達也少年に家の場所を尋ねると、すぐにキーを差し込んでエンジンを掛けた。低いトルク音が車内にこもる。


「歩いてすぐなんで、大丈夫です」

「ううん。たっちゃんがおうち帰って、一人で「おなかいたいよー」ってなったら、おじさん心配だもん。だったらさ、たっちゃんのおうちの場所知ってた方がいいじゃない」

「いや、大丈夫です……」

「たっちゃん、チョコ食べたよね?」

「え……はい」

「買ってきたチョコじゃなくて、わざわざおじさんが丹精込めて作ったチョコ、食べたよね?」

「は……はい」

「おい。だったら礼儀返すんが筋なんじゃねーのかよ? あ? それなのに礼も言わねぇテメェを送ってやるって言ってんだからありがたく思うのが当たり前だろ。なぁ? 違うんか?」


 優しい声から突然低く鋭い声を出す男に、達也少年は誰か助けを呼びたくなった。窓とドアを開けようとしたがロックが掛かっていて、逃げ出せそうにもない。

 目の前の潰れた右目の奥が自分を睨んでいる事に気が付くと、達也少年は頷く事しか出来なくなってしまった。


「まっすぐ行って、長沢商店を左に曲がってすぐです……」


 このまま誘拐されてしまうかもしれない。そんな恐怖を感じながら自宅への経路を伝えると、男は声も出さずにニヤッと笑った。男の口の中のべったりとした粘液の音だけが、達也少年の耳に伝わった。


 赤い車が発進すると、寄り道をする事もなく伝えた通りに達也少年の家へとたどり着いた。

 男は降りようとする達也少年に声を掛けた。


「おじさんのチョコ、食べてくれてありがとうね」

「いえ、ありがとうございました……」

「おじさんね、みんなが美味しい顔して食べてるのを見ると心がむずむずしちゃうんだ。それがね、とっても嬉しいって証拠なんだよ?」

「あの、ありがとうございました。さようなら」


 達也少年が頭を下げてドアに手を掛けると、男に肩を叩かれた。振り返ると、男は笑いながら涙を流していた。潰れた右目から落ちる涙を辿ると、頬が微かに痙攣していた。


「ほら、見てごらん? おじさんね、こんなに嬉しいんだよ」


 この人はなんで嬉しいのに泣いているんだろう? 達也少年はそう思ったものの、本気で泣く男の姿を眺めている内に突然背中に寒いものを感じて反射的にドアを開き、逃げ出した。そして、振り返る事なくそのまま家の中へと駆け込んだ。


 玄関のドアを閉めると鍵を掛け、家中の窓の鍵が開いていないか肩で息をしながら点検して回る。

 これでもう大丈夫だ、よし。

 そうやって達也少年が一安心すると同時に、車が去って行く音が聞こえた。


 窓の外を眺めると赤い車は静かに、そしてゆっくりと走り去って行った。まるで泣いているように車は小さく、遠くなって行き、そうしてそのまま二度と戻って来る事はなかった。


 達也少年はやがて青年となり、二児の父となった。

 自動車整備の仕事に就き、様々な車と工具を使って話し合う毎日を過ごしている。


 ある日、古びた赤い車を見て欲しいという客が現れた。持ち主は二十歳そこそこの若者で、旧車が好きで乗っているが近頃調子が悪くなって来たという。

  達也青年は持ち主の若者に笑顔で声を掛けた。


「綺麗に乗ってますね。販売店で買ったんですか?」

「いや、販売店向けのオークションっす。ワンオーナーだったんすよ」

「へぇ、それでもこれだけ綺麗なのは珍しいですよ」


 そう言いながら車を眺めている内、妙な違和感を抱き始めた。思い出したくない記憶の蓋が開くのを感じ取ると、達也青年は喋るのを止めた。


 家に帰ると子供達が達也青年を出迎えた。玄関で二人の子供を抱き締めると、妻が一枚の手紙を達也青年に差し出した。


「差出人がわからないけど、あなた宛よ。怖くて開けられなかったの」

「俺宛? 誰だよ」


 住所と宛名だけの真っ白い封筒を開けると、中から一枚の写真が出てきた。それを見た途端、達也青年は言葉を失った。


 手が震え、血の気が引いて行くのが自分でも分かった。その様子に気付かない妻の声が頭の上から下される。


「ねぇ、何の手紙だったの? あ、写真かな?」

「…………」


 達也青年は答えない。


「ねぇ、何が写ってるの?」

「…………」


 達也青年は何も応えられない。

 そして言葉の代わりに、沈むような重たい空気を吐き出した。

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赤い車 大枝 岳志 @ooedatakeshi

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