第3話 冬の声

 今朝は地元の霊山、愛宕山あたごやまが雪化粧を纏っていた。山眠る冬は、空気も鈍色で錆びた様に軋んでいる。


 


 提出された必要書類を整理する作業を一通り終え、事務所の給湯室で雪景色を眺めていた私は、温度差で曇る窓硝子を指でなぞった。


 凍える季節にもかかわらず、私の気持ちはフワフワとどこか浮ついていて、落ち着かない。 


 


 本当は休んでいる場合じゃない。確定申告の時期がやって来たのに、今年も相変わらず提出率が渋いから、早く出してと皆んなのお尻を叩いて回らないといけない。


 皆んなイマイチ重要性が分かっていないのか期限ギリギリまで放置するし、新人君なんかは保険料控除の書類を無くしたなんて言い出すし、この時期は本当に大変だ。


 毎年私はそれで本当にイライラさせられていたけれど、今日はそのイライラを上回る、ワクワクとドキドキで、私の心は仕事中だというのに浮ついてしまっている。


 


 


 私は今日、プロポーズされるらしい。


 


 ハジメさんは私に隠していたみたいだけど、先輩事務員の中野さんに聞いちゃった。「奈々ちゃん今日下野辺君に正式にプロポーズされるんでしょ、良いわねえ。ひょっとしてデキちゃったの、寿退社かしら?」なんて、朝ロッカーで出会って開口一番に言われた。


 あのお喋りで噂好きの中野さんに話しちゃうなんて、やっぱりあの人抜けてるなあ。結婚して本当に大丈夫かな。……なんて、本当は私の返事は決まってるけどね。




 


 下野辺かのべハジメさんは、八歳年上のわたしの恋人。私が事務員として働く製紙工場で、製造部門の係長を務める男性だ。出会ったのは三年前、私がこの職場に転職した日。まだ副班長だったハジメさんは、新人の私に工場の中を案内してくれた。


 


 「平井さんは、工場で働いた経験はないの?」


 


 「はい、ありません」


 


 「事務員さんは責任重大だから、頑張って」


 


 初めての会話はそんな感じだった。その時はまさか彼とお付き合いする事になるなんて考えてもみなかったから、背が高くて威圧感があるし、なんだか無口で怖そうな人だな、なんて思いながら彼を見てたっけ。


 実は彼が私に一目惚れしていて、緊張のあまりぶっきらぼうな対応になっていた事は、後から知ったのだけど。


 ハジメさんは怖いどころか、ちょっと天然で、とても優しい人だった。


 


 


 ところが、昼休憩の時間もスタッフの皆んなが気を利かせて、事務所に二人きりにしてくれたのに、ハジメさんは私が持ってきた手作り弁当をそわそわした様子で食べながらも、何も言ってくれなかった。


 


 何か言いた気だけど、どこか心許なそうに口を噤んだままだ。いつもより明らかに口数が少ないし、様子がおかしいのに、プロポーズを口にする勇気が出ない様だった。


 彼のそんな照れ屋で少し気が弱い所は好きだけれど、今日はその躊躇いがとても歯痒い。


 


 その後、就業時間が終わっても、ハジメさんは何も言って来なかった。


 しかも、帰り際に機械に不具合が出て、復旧作業の残業でハジメさんは帰れなくなった。復旧作業は夜二十時を過ぎても終わらなかった。退社時刻の十八時から待ち続けていた私は、我慢が出来なくなって、ゲンさんの様子を見に工場内に向かった。


 


 空調の無い場内の気温は冷え切っていて、吐き出す息が白くなる。暖房が効いた事務所との温度差で余計に堪えた。場内を煌々と照らす照明や絶え間ない機械の動作音すら、どこか凍り付いた様に寒々しく感じられる。


 


 ハジメさんは、体を屈めて機械の投入口を覗き込んでいた。その大きな背中を見つけると、寒さに当てられていた私の気持ちも、直ぐに暖かくなって浮上した。


 声をかけると、おっとりした優しい目が私を捉えて、少しバツが悪そうな色を浮かべた。


 


 「奈々ちゃんまだ残ってたの。悪いけど、今日はまだ遅くなりそうだから、先に帰っててよ」


 


 何よ、そっけないな。本当は気にしてるくせに。早く言いたいって思ってるの、分かってるんだから。


 


 「ねえ、今日プロポーズしてくれるつもりじゃなかったの?」


 


 やれやれ、結局私の方から言う事になるとは。ほんと、駄目な人。


 


 「えっ。な、なんで。奈々ちゃん知ってるの?」


 


 私の咎める様な言葉に、ハジメさんは分かりやすく狼狽えた。


 


 「中野さんから聞いちゃいました〜」


 


 「言わないでって言ったのに!」


 


 「ふーん。それで、中川さんには言えるのに、私には言えないんだ」


 


 「奈々ちゃん、怒ってる?」


 


 「別にー。言いたく無いならそうすれば?」


 


 私が戯けて放った言葉に、ハジメさんは覚悟を決めた様に真剣な表情を作った。


 


 「……ごめん。俺、意気地なしだから。緊張しちゃって、上手く言えなかったんだ……奈々ちゃん、あの、俺と……」


 


 真摯な瞳がしっかりと私を見据えていた。もうそこにさっきまでの迷いは無かった。


 


 確かに少し意気地なしだけど。でも一度決めてしまったら誠実で、実直。


 


 ──彼のそんな所が本当に大好き。


 


 


 「俺と一緒になって!」


 


 「動いたぞー」


 


 


 ハジメさんが言葉を発したのと、作業員が声を上げたのは、ほぼ同時だった。


 


 不具合を起こしていた機械は油圧式のプレス機だった。新聞紙などの古紙を大量に集めて、何百トンもの圧力をかけ、四角い箱型に変形させる機械。回転式の投入口に古紙を投入すると、潰された古紙は小さな箱型になってベルトコンベアに乗って流れてくる。


 


 ハジメさんはその機械の中に巻き込まれた。私の目の前で、まず右手が吸い込まれたゲンさんは、頭が飲み込まれ、上半身が飲み込まれ、最後にバタつく足が飲み込まれた。


 


 悲鳴すら無かった。「あ」と一言口に出して、目を丸くしていたハジメさんは、あっという間に機械の中へと消えてしまった。


 


 誰もが言葉を失い絶句する工場内で、硬いものをゴリゴリと無理矢理に潰す機械の轟音は、およそ三十秒間ほど続いた。


 大音量は突然に止まり、後はコンベアが静かに回る音が鳴り続けている。そんな無言の空間の中は、吐き気を催す程の血の臭いが充満していた。


 


 「──ああ。こりゃ駄目だ、もう……」


 


 コンベアの出口付近に立っていたベテランスタッフの長谷川さんの声が聞こえて、金縛りに合った様に動けなかった私は、衝動的に飛び出した。


 


 「ハジメさんっーーー!」 


 


 止めようとする工場スタッフの制止を振り切って、私はそれを見てしまった。


 


 


 


 それは、人の形を成してなかった。


 


 


 


 ──あれから一年経つけれど、私は未だに夢を見る。とても煩い夢だ。煩くて頭が痛くなる夢だ。凍った冬の、錆びついた轟音の夢だ。


 


 煩くて、煩すぎてまるで無音の様な空間で、ポツリと落とされる声。声が頭の奥で聞こえて来る。


 


 『俺と一緒になって』 


 


 寝ても覚めても声が消えない。私を呼ぶ声が頭から消えない。私は裸足でふらふらと冬の日を彷徨う。山は沈黙して、空気の全てが凍り付いている。何度も何度も頭の中で繰り返す声に、私は支配されている。私は支配する声に呼ばれているから、私は声が呼ぶ方へふらふら彷徨うのだ。


 


 『俺と一緒になって』


 


 オレトイッショニナッテ。


 


 


 声の聞こえる暗闇へと飛び込んで、私は折り畳まれて箱になった。


 


 もうあの不快な音は聞こえない。私を呼ぶ声も聞こえない。沈黙。暗闇。何も聞こえない。聞こえない。聞こえないのは嬉しい。寂しい。寂しい。 


 


 大好きな優しいあなたと同じ箱になるは、嬉しい。嬉しい。




 


 ──ああ、これは本当に夢なんだろうか。


 

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VOICES 三宮優美 @sunmiya777

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