第2話 秋の声

 昼食に寄った馴染みの喫茶店で、サンドイッチを齧りながら、窓の外の銀杏並木を眺めていた。例年より少し早く黄葉した銀杏が、目抜き通りの歩道を華やかな黄金色こんじきに塗り替えている。秋の精霊の天真爛漫な笑い声が、街全体で深まる錦衣を色付けていく様な、どこか浮足立った秋麗あきうららの日だ。


 暖かな店内の温度に当てられて、瞼が重くなって来る。腹が減っているのにもかかわらず、好物のはずの玉子サンドがあまり美味しく感じられない。眠気覚ましに注文した熱いブラック珈琲を一口飲み込んで、僕はホッと息を吐きした。


 


 「ほんでな、死んだ爺ちゃんの声聞こえた思ったらほんまにビビってもうてな……」


 


 「何それー、ウケる〜」


 


 「いや、そん時はほんまに怖かってんって!ほんで、ヤバいわー思って俺飛び起きて……──」


 


 隣の席に座っている若いカップルが楽しそうに話している。男の方は関西人らしく、その聞き慣れないイントネーションにつられて、つい聞き入ってしまう。関西人というのは一般人でも芸人の様に話し上手が多いのだろうか。僕は口下手な質なので、男の饒舌さが少し羨ましく感じる。


 


 ふと、視線を上げると、窓硝子に反射して映る自分の姿が目に入り、思わずゲンナリとした気分になった。


 灰色のスーツを着て、葡萄酒色のネクタイを締めた男が、不服そうな目をしてこちらを見ている。夜更ししてゲームをプレイする悪癖がある上、ここ数日は寝不足が続いている為に目の下には隈が浮かんでいて、そのせいか三十二歳の実年齢よりはくたびれた印象だ。一見すると、ごく平凡な昼休憩中のサラリーマンである。




──しかし、僕にはそれ以外のモノが見えてしまっていた。僕の頭部の一部分が、現実では有り得ない形状に変形をしている。不自然な身体の変化に僕が辟易し、落ち着かない気持ちで触れていると、僕の中に居座る無邪気な気配が、嬉しそうにはしゃいでいるのを感じ取った。


 


 ……ああ、まだ憑いてるな。ばっちりと。


 




 僕には物心付いた頃からいわゆる霊感というやつがある。


 僕の母親は僕が三歳の頃に病気で亡くなってしまったが、僕は全然悲しくなかった。何故なら、僕には母が見えていたからだ。


 ご飯の時も、眠る時も、小学校の入学式の時も、父が仕事で来られない授業参観の時も、中学校の体育祭でリレーのアンカーになった時も、母さんの霊は僕の側にいてくれた。


 母さんはいつも僕の背後で『こら。歯はちゃんと隅々まで磨きなさい』とか、『もっと大きい声で朗読しなきゃダメよ』とか『あら可愛い娘ね。その感情はね、恋というのよ。ウフフ』とか言いながら、色々と世話を焼いてくれた。


 『高校を卒業するまでは、隆史の側にいるから』という宣言通り、母さんは僕が第一志望の大学の合格通知を受け取った日に『おめでとう、頑張ったね。大学に行ったなら、サークルにでも入って、ちゃんと友達と彼女作りなさいよ。母さん心配なんだから……──』と言いながら消えてしまい、二度と僕の前に現れなくなった。最後まで喧しい人だった。居なくなってしまう事は、ずっと以前から予告されていたので、それほど寂しくは無かった。




 母さん以外の霊の存在も、僕にははっきりと見えていた。小学校の校庭のブランコの一番奥には、首が半分取れかかった三編みの女の子がいつも座っていたし、お葬式に参加したら、号泣する従兄弟のお兄さんを宥めるお嫁さんを、恨みがましい目で睨む亡くなった伯母さんの霊が見えた。


 最近だと、十五センチ程度のサイズをした小さなオジさんの霊に憑かれてしまった事もある。そのオジさんの霊は生前に映画観賞が趣味だったらしく、見ている映画のネタバレをして来て大変に迷惑だったので、霊能者に祓ってもらった。


 母さんの霊がまだいる頃は、良くない霊がこちらに来ようとしたら、追い払ってくれていた。母さんは力の強い霊だった。『隆史を大切に思う気持ちがあるから、私は絶対に負けないのよ』そんな風に言って、母さんは笑っていた。


 


 父親含めて周りの大人は、霊が見えるという僕の話を信じなかった。幼い頃に母を亡くして、孤独だった僕の精神が作り出したイマジナリーフレンドだろうと思っていた。子供の頃は理解されない事を寂しく感じたが、今は周囲の誰にも霊感の事を話していない。どうせ信じてもらえないのは分かっている。昔から変わり者だと言われて友達も全然居ないが、孤独には慣れてしまったのでもう平気だ。この世界中全てのゲーム会社が倒産でもしない限りは、一人で楽しく生きていける自信がある。


 




 多少人と違った力があるものの、僕自身は印刷会社の広報で働く、ごく普通のサラリーマンに過ぎないので、出来るだけこの世の条理から外れた彼らに関わらない様に、気を付けて暮らしている。霊の中には生者に悪影響を与える、悪い存在も沢山居る。大人になった今はもう守ってくれる母さんも居ない。


 だから、この子に取り憑かれてしまったのは、完全に僕の油断のせいだった。


 


 取引先から会社へ戻る途中の交差点付近で、交通事故が起きているのを目撃したのは一週間前、夕暮れ時の事だった。


 白い軽自動車が、ガードレールに突っ込んで半壊していた。道路にははっきりタイヤの跡が残っていて、何かを避ける為に思いっきりハンドルを切った様だった。


 


 「その子、突然飛び出してきて。それでブレーキも間に合わないで轢いちゃったらしいよ」


 


 「ええ〜、可哀想……」


 


 手前を歩く女子高生がそんな事を話しているのが聞こえてきた。見上げた茜空には薄っすらと鰯雲が浮かび、夕紅葉が控え目に色付き始めていた。侘びしげな秋声の囁きに、騒がしい街は未だ気が付いて居ない様だ。


 青に変わった横断歩道の音響に、一斉に歩き出す人々の黒い頭、ドラッグストアの呼び込み、香ばしい匂いを漂わせるチェーン店の焼き鳥屋。黄昏色に染まる大通りの喧騒が、生々しい事故の痕跡を横目に、いつも通りの日常を賑わせている。僕は嫌な予感を感じて、すぐに事故現場から目を逸らした。


 


 その日はそれだけで、何も起きなかった。


 


 しかし、いくら気を付けていても、咄嗟的に浮かんでしまう同情心というのは、どうしようもないのだ。


 三日前の朝、会社への出勤途中に僕は再びその通りに差しかかり、その子がまだその場所に居ることに気が付いてしまった。『可愛い子だな、可哀想にな』と、うっかり思った。瞬間、こちらに気がついたその子は、人懐っこい目をしてふわふわと飛び上がり、僕の周りに纏わりついてきた。




 不味いと思った時にはすでに遅く、僕は無事に取り憑れてしまったのだ。


 




 僕に取り憑いた霊は、アキちゃんという名前の十九歳の女の子だ。光君という男の子にもう一度会いたくて成仏できずに、たまたま通りかかった霊感の強い僕に取り憑いたらしい。




 光君というのはアキちゃんのお隣の家に住む少年で、お互いが幼い頃から仲良く育った関係らしい。アキちゃんは数年前に失明してしまって、目が見えていなかった様だ。アキちゃんが最後に見た記憶では、光君は学ランを着た純朴そうな高校生の姿だ。


 しかし、大学デビューを果たしたらしい最近の光君は、キツい香水の匂いを纏う女や、煙草の悪臭を漂わせるヤンチャな仲間達と連るんでは、家の前でアキちゃんに出会っても無視したり、邪険に扱っていた様だ。


 そんな薄情な男なんて、ほっておけば良いと僕は思うが、アキちゃんは死んでしまった今も彼が気になって仕方ないらしい。


 


 これだけの情報を聞き出すのに、僕は大変に苦労した。アキちゃんはこちらからの問いかけに中々答えてくれなかった。アキちゃんは僕が眠っている時に、一方的に生前の記憶や感情を夢として流し込んできた。断片的に受け取ったアキちゃんの記憶から、僕はこれらの情報を得た。




 アキちゃんの見せる夢の最後は必ず、顔の見えない若い女が包丁を持って光君に立ち塞がる場面で終わる。『光君、私を捨てた事、絶対に許さないんだから』そんな呪詛の言葉と怨念の感情が雪崩込んできて、僕は毎朝悲鳴を上げて飛び起きていた。


 その恐ろしい夢の女がアキちゃんの見た記憶なのか、アキちゃんの感情の具現化なのかは分からない。けれどその悍ましい悪夢のせいで、僕はずっと寝不足だった。


 


 アキちゃんは光君と再会する願いを叶えて欲しがっている。彼にどうしても伝えたい事が何かあるらしく、それを伝える事が叶ったのならば、僕の中から出ていくので手助けして欲しいと伝えてきている。


 アキちゃんには申し訳ないが、正直言って見た目も変わってしまっているであろう光君を、宛もなく探し出せるとは思えない。


 しかし、アキちゃんに取り憑かれたままのこの状態も大変に困る。取り憑かれから三日間、ずっと体調が芳しくない。疲労感が強く、身体が年寄りになったみたいに重い上に、いくら食べても腹が減るのが治まらない。


 しかも、動物には霊の姿が見えているらしく、朝ゴミを捨てに行くとカラスには襲われるし、通勤途中でいつも可愛がっている野良猫には怒られるし、自宅アパートで飼っているコーンスネークのミコちゃんには逃げられてしまった。……ああ、早く僕の中から出ていって欲しい。切実に。


 


 「ねえねえ、今日ハロウィンだし、仮装して渋谷に遊びに行こうよ」


 


 「ええー、いらんわ。面倒くさい」


 


 「なんで、楽しそうじゃん。猫耳付けて、猫娘とかやりたいなー」


 


 「あんなん田舎モンが行くやつやろー」 


 


 先程のカップルのそんな会話が耳に入ってくる。


 


 (ハロウィンか、もうそんな時期なんだな。まあ、僕には一生縁のない行事だろうけど。仮装して集まる事の何が楽しいんだろうな)


 


 自己顕示欲の強いナルシストの女達と、その女達をナンパする事が目当ての男達。魑魅魍魎の如きウェーイ系陽キャ達ばかりが集う恐ろしい祭り。コミュ障陰キャの僕は、ハロウィンイベントに対してそんな偏見を抱いている。


 




 帰宅途中の電車で居眠りから目覚めると、白い服を着た髪の長い女が目の前に立っていた。いかにもな幽霊姿の女、……というよりそのまんま貞子だ。


 時刻は逢魔が時。斜陽のさす車内には、貞子以外にも、口裂け女や吸血鬼やゾンビ等々、世界中のお化け達がひしめき合って乗車している。一瞬アキちゃんの霊によってあの世行きの電車にでも引きずり込まれたかと思ったが、良く見るとそれらはハロウィンのコスプレーヤー達だった。


 


 (び、びっくりしたなあ)


 


 僕はホッとして溜息を吐いた。シェンムーシリーズの新作をプレイするまでは、まだ死にたくは無い。


 


 いつの間にか寝過ごしてしまい、渋谷まで来てしまっていた様だ。


 電車を乗り換えるために降りようと、重い体を何とか動かす。


立ち上がったその時、ホームの向こう側に居る若者達の中に、夢で見た光君に良く似た青年の姿が目に入った。服装は某鬼狩り少年漫画のコスプレだし、髪を金髪に染めていてすっかり垢抜けていたが、優しげな目元に確かに面影があった。


 


 (あ、不味い。このままだと見失ってしまう……!)


 


 僕は慌てて電車から降りる。反対側のホームまで走って、光君らしき青年のいる集団を追いかけた。 


 


 改札へ向かう階段付近で何とか追いつき、最後尾を歩く青年の肩を叩いた。


 


 「ねえ、君はもしかして光君って名前じゃないかな?」


 


 「……そうだけど。何で俺の名前知ってんの、あんた誰?」


 


 光君は疑わしい目で、息を切らしている僕を見た。先を歩く仲間の若者達が振り返って、僕に足止めされている光君に声をかける。


 


 「どうしたー、光。早く行こうぜ」


 


 「いや、なんか。犬耳付けたヤベェおっさんが絡んできて」


 


 「いや、待ってくれ。僕は決して怪しい奴じゃないんだ。実は君の家の隣に住んでいるアキちゃんって子の霊が、今僕に取り憑いていて……それで、その。アキちゃんは君に伝えたい事があって……──」


 


 「はあ?マジ意味分かんね。キモっ」


 


 光君は引き止めようとする僕の腕を邪険に振り払うと、仲間の青年達の元へ早足で向って行ってしまう。


 


 対人関係が苦手な僕がここまで頑張ったのは、アキちゃんに取り憑かれて困っているという事もあるけれど、それ以上にアキちゃんの意地らしい想いを叶えてやりたかったからだ。


 


 (……でも、ごめん、アキちゃん。やっぱり、僕には無理だったみたいだ)


 


 僕はすっかり心が折れてしまった。落胆の思いで踵を返し、光君達に背を向けた。


赤いコートを着た若い女とすれ違う。瞬間、どこかで嗅いだ覚えのある匂いが弾ける様に香った。


 


 (──これは、光君と一緒に居た女が付けていた、あの香水の香りだ)


 


 僕は反射的に振り返った。女が手に握っている銀色がギラリと光る。


 


 ──あっ、この女は。あの夢の。


 


 「止めろっ!」


 


 僕は咄嗟に女を羽交い締めにして、捕まえた。


 


 「離してええぇえ!!アイツを殺すんだからァァァッ!?離せえエエエェェッ!!」


 


 女は発狂して暴れた。凄まじい力で身を捩り、僕の腕を振り解く。女はそのまま包丁を持った腕を振り上げて、呆気にとられている光君の方へと突進する。


 


 「おいっ、逃げるんだっ……!!」


 


 僕の上げた大声にハッとして逃げ出そうとした光君は、しかし、足が縺れてその場で尻もちを付いてしまう。


 


 「光くぅぅん!アタシと死んでええええっーーー!!」


 


 「し、しまった、マズい……!?」


 


 自らを庇うように手を上げた光君の頭上に、鋭く尖った凶器が振り下ろされる。


 


 ──その時、僕の中から何かの気配が飛び出した。


 


 アキちゃんは猛スピードで駆け抜けて、女の背中に飛び付いた。


 騒ぎに気が付いた野次馬達の目には、女が勝手に転んだ様に見えているのだろう。しかし僕には、女に伸し掛かり、勇ましく吠える年老いた秋田犬の姿がはっきりと見えていた。


 


──否。どうやら見えているのは、僕だけではないらしい。


 


 「……あ、あれは、お隣の家のアキ?ど、どうして、ここに?」


 


 腰を抜かしたままの光君が、呆然とした様子でそう呟いた。


 


 通行人が警察に通報してくれた様で、間もなくやって来た警察官によって取り押さえられて、犯人の女は現行犯逮捕された。女の正体は光君の元恋人で、別れた後にストーカーと化していたらしい。光君の家の前を彷徨いてゴミを漁ったり、後をつけたりしていたそうだ。


 恐らく女を見かけたお隣のアキちゃんは、動物らしい危険察知能力で、女の抱く殺意を感じ取っていたのだろう。そして、光君を女から守る為に僕に取り憑いたのだ。


 


 僕は光君にアキちゃんの事を正直に話した。僕の背後に漂っている体が透けたアキちゃんの姿が見えているらしい光君は、僕の荒唐無稽な話を信じてくれた。


 




 警察からの事情聴取が先に終わって、僕は警察署の外で光君を待っていた。秋の日は釣瓶落としと言うが、外はすっかり夜も更けていた。ひんやりとした夜風が頬を撫でる。澄み切った星月夜は、既に冬の予感を秘めている。 


 


 光君が警察署の出口から出て来ると、アキちゃんは嬉しそうにふよふよと浮かんで光君に飛び付き、その顔を舐め回していた。


 光君は「うわっ、ヤバ。お前マジスケスケじゃん、マジで草なんだけど。うわっ、ヤバ。スマホに写んないし。ガチ霊じゃん、超ヤバ」等と言いながら混乱しつつも嬉しそうにしていた。


 


 光君と出会えて喜んで跳ね回るアキちゃんの様子に、思わず笑みが零れる。


 


 「アキちゃんがまだ君に会って遊びたいって言ってるから、聴取が終わるまで待ってたんだ」


 


 「マジっすか。つーか、犬語とか分かるんですか?霊能者マジヤべェ」


 


 「いや、全然何を伝えて来てるのか分からなかったから、すごく苦労したんだけど……ていうか、僕は別に霊能者じゃないんだけど……」


 


 心霊現象に多少慣れた僕でも、動物霊に取り憑かれるのは初めての経験だ。本当に大変な数日間だった。


 


 「へー。でもどうして、アキはそこまでして俺の事助けようって思ってくれたんですかね?」


 


 光君の疑問に、僕は母さんの事を思い出した。幼い息子を残して死んてしまうのは、心配で心残りだったのだろう。ある意味、僕のせいで母さんは長い間、成仏できずにいたのだ。母さんの霊が満足して居なくなってしまったのは、母さんにとっては良い事だったんだろう。


 


 「本当の所は僕にも分からないけど……でも、アキちゃんは君の事が大好きだし、近頃君があんまり構ってくれなくなって、とっても寂しかったみたいだよ」


 


 「……そっか、アキ。ゴメンな。お前が俺の事、そんなに思ってくれてるなんて知らなかった」


 


 光君は面映い様子でアキちゃんに笑いかけた。


 


 「アキちゃんは君との楽しい思い出を僕に沢山見せてくれたよ。お庭で家族とバーベキューをしている時にこっそりお肉をくれたり、お小遣いで買ってくれたビーフジャーキーをくれたり、給食の残りのパンをくれたり……君に会えるのが、すごく嬉しかったみたいだ」


 


 毎日の様に与えられる給食パンの思い出が怒涛の如く流れ込んできたおかげで、僕はしばらくパンが食べたくなくなったくらいだ。


 


 「……そうかぁ、食いしん坊だもんな、お前」


 


 光君は僅かに感涙しながら、撫でようとアキちゃんの頭に手を伸ばした。しかし、その手はアキちゃんの体を通り抜けて、虚しく空を切った。目には見えても、霊体には触れられない様だった。


 アキちゃんの輪郭がぼやけて始めて、その曖昧な姿を形成する光の粒子が、キラキラと瞬き始める。そろそろ、お別れが近いらしい。


 


 「………光君。アキちゃんがまだ居てくれているうちに、感謝とお別れを伝えた方が良いよ。じゃないと、絶対に後悔するから」


 


 ──僕は母さんに、言えなかった。


 


 あまりに当たり前に居てくれたので、永遠のお別れの意味が、死者が見えてしまう僕には分からなかった。 


 


 伝えたいと思った時には、二度と叶わなくなっていた。


 


 「アキ………俺を、俺を助けてくれて、俺を、大切に思ってくれて……ありがっ……──!」


 


 アキちゃんは、まるで返事をする様に「ワン」と一声吠えた。最後まで光君の言葉を聞かないうちに、一際華やかに輝くと、その姿は一瞬で跡形もなく消え去った。


 


 呆然と夜闇を見つめて固まっていた光君が、しばらくして嗚咽を漏らし始めた。啜り泣きは、やがて抑え込んだ慟哭に変わる。


 


 思わずもらい泣きしてしまい、僕の目からもボロボロと涙が溢れ出た。僕はジャケットの袖でゴシゴシ目元を拭い、項垂れる光君の背を叩いた。


 


 どんなに大切な存在であろうとも、死んでしまったのなら、もう二度と出会う事は出来ない。本来ならそれが当たり前なのだ。それがこの世の正しい理なのだ。──それでも。


 


 「……きっと。光君の気持ちは、アキちゃんに伝わったよ」


 


 取り憑かれてから三日間ずっと僕は、光君を大切に思うアキちゃんの気持ちを感じ続けていた。


 だから、アキちゃんがどれほど健気に光君の事を信じていたか、僕はちゃんと知っている。


 


 「……俺、俺っ、家に帰ったらすぐにアキに会いに行って、ちゃんとお礼言います……!アキがまだ元気に生きてくれているうちに……!」


 


 「……そうそう、生きてくれているうちに………って、は?」


 


 光君の予想外の言葉に、僕は思わず間抜けな声を出してしまった。


 


 


 それから二日後の、日曜日。


 僕は光君と一緒に、アキちゃんのお家に遊びに来ていた。


 


 光君はアキちゃんが飼われているお隣の家を訪れて、アキちゃんに会わせて欲しいと伝えた。


 飼い主のオバさんは「あら光君、久しぶりね。すっかり大きくなったわね」と笑顔を浮べて、光君に付いて来た見ず知らずの僕も、一緒に家の中へと迎え入れてくれた。


 


 案内された客間のソファーの前、秋田犬の老犬が千鳥柄の犬用ベッドの上で、ふてぶてしい様子で眠っていた。その稲穂色の毛並みは、顔の周辺が白く変色し始めている。


 


 「アキちゃん、君は生霊だったのか」 


 


 飼い主さんに聞こえない大きさの声で、僕はこっそりとアキちゃんに囁いた。


 


 「この子はもう十九歳になるお婆ちゃん犬で、近頃は寝てばかりなの」


 


 「凄いですね。人間で言うと百歳に近いんじゃないですか?」


 


 僕の言葉に、飼い主のオバさんは困った様に微笑んだ。


 


 「でも、食いしん坊さんな所だけは今も変わらなくて、こないだも散歩中に焼き鳥屋さんの匂いに釣られて、突然に道路に飛び出しちゃって。おかげでほら、私は車に轢かれて骨折しちゃったけど、アキちゃんが無傷で良かったわぁ」


 


 足に付けたギプスをポンポンと叩きながらオバさんは「我ながら親バカなのよねえ」と笑った。


 


 飼い主さんは眠ってばかりと思っている様だが、今朝も例の事故現場近くの焼き鳥店の前で、爛々とした様子で焼き鳥を眺めているアキちゃんの生霊の姿を僕は見かけた。


 ぐっすり眠っている今もきっと、美味しそうな匂いのする場所に霊体で遊びに行っているに違いない。


 


 「長生きした猫は猫又の妖怪になって、不思議な力を得るというのは聞いた事があるけど、犬にもあるんだろうか……」


 


 僕の疑問に、アキちゃんの頭をもふもふと撫でながら光君は笑った。


 


 「アキのは単に、食い意地パワーじゃないすっかね」


 


 「うーん……なんだろう。僕の涙と感傷を返して欲しい気分だ……」


 


 僕が胡乱な目で睨んでも、アキちゃんはどこ吹く風で気持ちよさそうに眠っている。


 


 「あ、鼻提灯出てる」


 


 僕と一緒になって呑気なアキちゃんの寝顔を笑っていた光君が、感慨深げに話し始める。


 


 「──居てくれるのが当たり前になってしまってて忘れてたんです。俺、子供の頃から動物が大好きだったんですけど、うちの兄貴が動物アレルギー持ちで、ペット飼えなかったんですよ。だから、隣にアキが居てくれて、本当に嬉しかったんですよね。すごい幸せだったんだなって思い出しました」


 


 「分かるよ。僕も賃貸だから犬とか猫は飼えないけど、蛇を飼ってるくらいだし」


 


 僕は光君の言葉に深く頷いて同意した。僕も昔から動物が大好きだ。動物は僕が周りと違って変な奴でも、裏表の無い無垢な感情で接してくれるから。


 


 「えっ、蛇ってマジっすか?スゲェ見たい!今日家に遊びに行って良いですか!?」


 


 キラキラした瞳をして、光君が僕のペットであるミコちゃんの存在に食い付いて来た。


 


 「えっ、今日……!?」


 


 突然の申し出に僕は一瞬怯んでしまう。


  


 「何か用事とかあるんすか?」


 


 「……いや、まあ……別に無いから良いけど……」


 


 特に断る理由も思いつかないので、僕は光君を自宅に招く事にした。実は予てよりミコちゃんの鱗の美しい輝きを、誰かに自慢したいと思っていたのだ。




 「よし、じゃあ、コンビニでツマミとか酒とか買って行きましょうよ!」


 


 「えっ、酒って……まだ昼なんだけど」


 


 光君は僕が思ったよりずっと、長居するつもりらしかった。陽キャのコミュ力と行動力、恐るべし。




 「……ちなみに、光君はスマブラとかやった事ある?」


 


 「俺スマブラ、超ツエーっすよ。兄貴に負けた事ないっすから!」


 


 そう得意げに笑った光君の快活な笑顔が、まるで輝いた様に見えて眩しかった。


 


 (──母さん。僕、生れて初めての友達が出来そうです)


 


 パチリと目を開けたアキちゃんが、こちらを見上げて微かに尾を振った。見えていないはずのその灰色の瞳が、優しげに僕を見つめている。 


 


 『光君を、よろしくね』


 


 確かにそんな声が聞こえた気がした。


 

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