VOICES

三宮優美

第1話 夏の声

盆も過ぎたが、夏は相変わらず茹だる様な暑さを下界にもたらしている。


 


 俺が京都の日本海側にある、この父方の実家に泊まり始めて三日が過ぎた。この家には先月まで祖父が一人で住んでいたが、その祖父が亡くなってから、この家は一ヶ月無人のままに放置されていた。勿体ない事に電気や水道はそのままで、叔母が払っていたらしい。


 俺は大学の夏季休暇の間、父からアルバイト料を貰って、この家を掃除する為に一週間泊まり込む約束をした。大型の家具はほとんど初日にやって来た業者に運んでもらったので、埃っぽい家の中は既にがらんどうとしている。


 父はこの土地を更地にして売りに出すつもりらしいが、こんな片田舎の外れにある土地が売れるとは到底思えない。


 


 大して広い家でもない為に、三日目には一通り遺品整理と掃除も終ってしまった。特にやる事もないので、俺は縁側に寝転んで、スマホで動画を見て暇を潰していた。


 裏庭の伸び放題の立葵が板張りの廊下に花影を落としている。潮の香りを秘める緩やかな風に揺られて、柔らかい紅色の虹彩が俺の瞼の上を戯れる。鴨居に吊るされたガラス製の風鈴が軽やかに鳴った。俺が子供の頃から吊るされたままの風鈴は、表面に描かれた朝顔の絵が掠れて消えかけている。




 自宅のアパートに居る時は、エアコンの冷風を最強にしても暑くて堪らないというのに、海風を感じるこの場所は不思議と涼しくて快適である。


 祖父は縁側のこの辺りで倒れて亡くなっていたらしい。いくら実の祖父とはいえ、死体があった場所に寝転んでも平気なのは、我ながら図太いと思う。




 手入れをする人間が居なくなった庭は、一夏を超える前に既に荒れ始めていた。青々と茂る雑草とそうでないものの区別が、残念ながら俺には付かない。この炎天下の中での草むしりは骨が折れそうだが、生憎、父から庭の手入れまでは頼まれて居ないので、都合良く放って置く事にする。


 祖母がまだいた頃は、園芸が好きな祖母の手で、近所の人が見学に来るほど見事に整えられていたらしいが、近頃は疎かになっていた様だ。


 




 祖母は俺が物心付く前には居なかったので、俺は祖母の事を全く覚えていない。年上の従姉妹や、親戚に会うと皆んな口々にお婆ちゃんの話を懐かしそうにする。曰く優しく良く出来た人だったらしい。しかし、いくら出来た人だったと聞かされても、山菜を取りに裏山に行って行方不明になったという祖母の人生の顛末については、俺には粗忽だとしか思えない。


 


 俺は口煩くて頑固者の祖父の事が嫌いだった。祖父ははっきり言って性格の悪い老人だったのだ。


 祖父は若い頃、宮大工をしていたらしい。父いわく、昔から職人気質で融通の効かない性格だったが、妻の失踪後はより一層人間嫌いを悪化させた様だった。




 俺の家は里帰りもあまりしない家庭だったので、祖父とは滅多に会うことも無かったが、盆休みに帰省する親に付いて行くと、いつも祖父は不機嫌そうな顔をして「鬱陶しい、早はよ帰れ」と言った。母が独り身の祖父を気遣って飯を用意しても「東の味付けは口に合わへん」と文句を言い、掃除を手伝おうとすると「そこは触るんやない!」と怒った。


 父が居ない所で俺に愚痴をこぼす母がとても不憫だった。


 孫として可愛がってもらった記憶もないので、俺は夏休みに一度ある実家への帰省イベントが嫌で仕方なかった。




 中学生になってからは、親に付いていくことも無くなったので、俺はもう八年以上、祖父と会っていなかった。母には『たまにはお爺ちゃんに顔を見せてあげなさい』なんて言われていたが、結局、再び会わないままに祖父は亡くなった。


 


 世の中のお爺ちゃんという存在は、孫の事を目に入れても痛くないと言って可愛いがると聞くが、うちの祖父に限っては子供嫌いを隠そうともしなかったし、そんな祖父が俺は大嫌いだったので、俺と祖父はお互いに嫌い合っていた。──そもそも、あの偏屈の祖父に好きな人間が居たかどうかも疑わしいが。


 




 立派な入道雲が出ているなと眺めていたら、夕立がやって来た。通り雨は夏草の芳香を色濃く変えた。低く唸る雷鳴と遠くから微かに聞こえる海鳴りが、妙に心地良く感じて俺は気分が良かった。


 激しい雨の音を聞きながら、俺は上機嫌で夕飯用に買って来たコンビニ弁当を食べた。


念の為にと、冷蔵庫は処分せずに置いていって貰っていたが、この調子だと最後まで使わないだろう。冷蔵庫は最終日に軽トラックに載せて捨てに行く予定だった。




 一人暮らしの老人が使っていたものにしては大型過ぎる古い冷蔵庫が、家具を処分して何も無くなった台所にポツンと取り残されている。冷蔵室には干からびた野菜と腐った麦茶が入っているだけだったが、冷凍室には何のものかも分からない謎の肉が沢山詰め込まれていた。


 年寄りにあんなに大量の肉が食べられるとは思えないので、大方、誰かに貰ったりしたものを、消費しきれずに冷凍して貯蔵していたのだろう。




 肉は3センチ程の小さな塊に切り分けられて、10センチ四方ほどの一塊を、丁寧にラップで包んで冷凍室に隙間なく詰められていた。こういう所に職人らしい几帳面さが現れている。祖父の神経質な性格を思い起こさせて嫌な感じだった。




 


 ──その夜、俺は小学校の夏休みに、この家に帰省した日の夢を見た。


 


 夕暮れ時、祖父と俺は縁側に将棋盤を挟んで座っていた。祖父は子供の俺に将棋のルールを教えたが、低学年だった俺には難しくて理解できなかった。


 


 『アホやなあ、お前。誰に似たんや』


 


 そんな憎まれ口を浴びせられた。茜がさす祖父の面影に意地の悪い笑顔が浮かんでいる。心底楽しそうな様子で、祖父は俺を馬鹿にしていた。俺はまだ分別も無い歳だったので、心無いその言葉に傷付いて、癇癪を起こした。


 


 『だって、つまらんもん!』


 


 『そーか、そーか。アホには分からんもんな』


 


 『よ家うち、帰りたい!ジイジなんか嫌いや!』


 


 『おう、おう。早よう帰れ、帰れ』


 


 


 


 コンコンと何かが扉を叩くような音で俺は目を覚ました。寝床にしている客間の天井が目に入って、実家に泊まり込んでいた事を思い出すのに暫く時間がかかった。窓の外はまだ真っ暗で、スマホの時刻を確認すると深夜四時過ぎだった。妙に夢の中の祖父の声が耳にこびり付いていた。──カエレ、カエレ。


 


 心音が高まり、背中に冷や汗をかいている。そんな自分に俺は自嘲する。


 


 「こりゃ爺ちゃん怒っとるんかね」


 


 


 しかし、その日の昼過ぎ、客間の箪笥を片付けている時に、はっきりと祖父の声を聞いてしまい、俺はいよいよ笑っていられなくなった。


 


 『カエレ、カエレ、ハヨウ、カエレ』 


 


 縁側のある居間の方角から、確かに嗄れた声が聞こえて来て、背筋にゾッと悪寒が走った。夢で見たのと同じ様に祖父がそこに座って居るような気がして、俺は慌てて縁側へと飛び出した。そこには勿論、誰も居なかった。


 


 「……爺ちゃん、まさか化けて出とるんか?」


 


 『カエレ、カエレ』


 


 再び、何処からそんな声が聞こえて来て、聞き間違いでは無いと確信を抱く。


 


 「言われやんでも、掃除も終わったしもう時期に帰るわ!」


 


 声の方向が分からなかったので、俺は意味もなく家中をバタバタと歩き回りながら、そんな独り言を喋った。


 


 「あのな、俺は悪うないで。オトンがこの家潰してまう言うから、手伝ってるだけやねん。俺に怒ってもしゃーないで!」


 


 家の中はシン、と静まり返っていた。蝉の声だけが途切れなく聞こえ続けている。


 


 しばらくして、俺は馬鹿らしい気持ちになった。例え幽霊が居るとしても、正体が自分の祖父だと分かっているならそれほど怖くはない。それどころか、あの意地悪な祖父が死んでからも俺を驚かしていると思うと段々と腹が立ってきた。流石の祖父でも、孫の俺を呪い殺したりとか、そんな大層な事まではしないだろう。恐らく、祖父の霊は単に嫌がらせをしているだけなのだ。




 祖父は新盆の時期に亡くなったので、お盆の供養はまだ出来ていない。仏教では、生前に強欲だったり我儘だった人間は、成仏できずに餓鬼になって、この世を苦しみながら彷徨うとされている。その魂を救って成仏してもらう為にお盆の供養をするのだ。祖父もあんなに性根が悪かったから、成仏できていないで彷徨っているのだろうか。それともこの家に固執して地縛霊にでも成ったのだろうか。帰れ、というその声が耳の奥から離れない。


  


 「……塩でも撒いたらええんか?」


 




 その夜、俺はまた祖父の夢を見た。真夏の日差しの下、祖父が縁側に一人で座っていた。その両手は明るい白昼に場違いな真っ赤な血で汚れている。祖父は拡げた新聞紙の上に、出刃包丁を使って何かの肉を切り分けていた。


 


 『綾子、綾子……すまん、すまんかった』


 


 俺は悲鳴を上げて目を覚ました。


 


 綾子というのは、行方不明になった祖母の名前だ。


 


 「そんなアホな……」


 


 『アアアーーー、ヤコ、アヤコ、アヤコ、ゴメンヤ……ゴ、ゴメン……ア、ア、ヤ』


 


 縁側の方から途切れ途切れの声が聞こえて来た。


 




 若い頃、酒に酔って仕事から帰って来た祖父は、頻繁に祖母を殴っていたらしい。父から聞かされた話だ。祖母はまだ小さい父やその姉妹を庇って、肋骨を骨折するほどの大怪我を負ったこともあるらしい。


 


 その話を聞かされて知っていたから、俺は余計に祖父が嫌いだったのだ。


 


 祖母が行方不明になった日、山へ出掛けるという事を聞いたのは、祖父一人だった。


 


 俺が生まれて間もない頃だ。祖母が何日も帰って来ない事を知った父や伯母たちや近所の人、警察の人達が賢明に捜索する最中も、祖父は酒を飲んで家に籠もって、一切手伝おうとしなかったらしい。


 その癖、祖父は未だに時々祖母が行方不明になった山に一人で入っては、何かを探している様で、いくら危険だと注意しても止めやしないと父が辟易した様子で愚痴っていた。


 


 俺の頭の中で、恐ろしい予想が浮かび上がった。まさか、祖父は祖母を殺してしまったのではないか。そして、周囲には山に行って行方不明になったという嘘をついた。未だに山に何かを探しに行っていたのは、埋めて隠した祖母の死体が掘り返されて居ないかと確認していたのでは無いか。そして、祖父はその罪を背負ったまま死んだ為に成仏できずに、こうして俺に何かを訴えて来ているのでは無いか。


 


 『カ……カ、カエレ、カエレ……!アアア……!』


 


 俺は布団から飛び起きて、縁側へと走った。勢い良く引き戸を開け放つ。黎明の冴えた白さが、寝起きの目に染みて痛んだ。


 


 「爺ちゃん!あんたはもう死んだんや!もうこの世にはおらんのや!早はよ、居なくなってくれ!成仏してくれや!」


 


 明星が浮かぶ虚ろな空の下、俺は誰も居ない裏庭に向かって大声で叫んだ。


 


 ──その時、バサバサと大きな音がして、黒い影が姿を表した。


 


 「アーーー、アーーー、カエレ、カエレ、アーーー!」


 


 


 垣根に止まっていた一羽の大きなカラスが、俺の目の前へと舞い降りた。


 




 「アヤ、アヤ、アヤコ、ゴメンナ、カエレ、アーーー!ハヨ、ハヨ、カエレ、カエッテコイ、アーーー!」


 


 


 「えっ、しゃ、喋った……?」


 


 「コン……コンニチハ……アーーー……タッキュウビンデス、アーーー!」


 


 「何や、こいつ。鸚鵡おうむみたいに、人間の真似しとるんか……」


 


 「……カエレ、マタ、キヨッタンカ、エサホシインカ、クエ、クエ、ニク、クエ!」


 


 「……お前、爺ちゃんから、餌貰っとったん?」


 


 理解した瞬間、俺はドッと脱力した。


 


 あの冷凍庫の肉はカラスにやる為の餌だった様だ。


 


 途端にさっきまでの自分の思考と行動が猛烈に恥ずかしくなってくる。


 


 「餌なんかもうないから、どっか行け!もう来んな!」


 


 俺は落ちていた小石を拾って、カラスに向かって投げた。驚いたカラスは飛び退いて逃げ出す。


 


 


「サミシイナイ、アーーー……」


 




 カラスは最後にそう鳴いて、金色こんじきが零れる東の空へと飛び去って行った。


 


 


『お父ちゃんの事、ずっと気になってて、会いに行こう行こうと思うてたけど、中々忙しくてよう行かんきりで……──』




 二人の叔母達は祖父の葬式でそう話していた。二人共、三年ほど実家に行っていなかったらしい。


 祖父の三人いる子供のうち、うちの父は仕事を理由に遺品整理すら息子に押し付ける程に疎遠だった。


 


 ──しかし、カラスの前ですら素直になれなかったなんて、本当に捻くれたクソジジイだ。


 


 荒れた庭の草むらに暁の冷気を溶かす陽が満ちて、蝉が俄に鳴き始める。


 声が去って、すっかり静かになってしまった夏の朝は、遠くから聞こえる波音が穏やかな息吹を繰り返している。


 


 この夏が終わる頃、気候がもう少し涼しくなったら、父を連れて祖父の墓参りに行こうと俺は思った。

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