テンプティング・ガールズ・ヘクス/High-School Girls' Universe 4th

北溜

00 Shizuku

 それは多分、奇跡だったんだと思う。


 その人は世間ではそれなりに有名な人ではあったから、私から探し出そうと思えば探し当てられただろうし、遠巻きであればきっと、会うこともできた。あるいは強行突破すれば、最低でもひとことふたこと、会話することだってできたはずだ。けど、そういう必然性を蔑ろにしたやり方は、何か、どこか、違う気がした。

 とは言え普通に生きていても、その頃はもう何の繋がりも無くなっていたその人に出会える可能性なんて、限りなくゼロに近くて、だから、手を伸ばせば触れられる距離にその人が突然現れた、その奇跡の日、私は思わず、泣いてしまったんだ。

 「何か俺に助けられることは、ある?」

 優しい声。

 ある? の響きが、尻上がりに甘かった。

 私に向けた、少し困惑の混じった笑顔が、夜の優しい暗がりに溶け出してしまうくらい、柔らかかった。

 でも、わかる。

 その優しさの向こう側でとぐろを巻く、その人の本能、みたいなもの。

 女なら、誰彼構わず食指が向く、業、みたいなもの。

 ある意味、その人の病気なのだ、それは。

 だから私は、なんにも知らないその人に、言った。

 「じゃあ、抱いて」

 

 17歳。

 その頃の私のテリトリーは、夜の街だった。

 だから学校にいる間の私は、ただの脱け殻だ。

 ずっと教室の机に突っ伏して、夜の活動の鋭気を養うために眠ってばかりいた。

 必然的に、友だちなんていない。別にそれでいい。ここに私の居場所を求める気もない。

 眠気で霞む朧げな意識の向こうからぼんやりと聞こえてくる、私を卑下するクラスメイトたちの声。ビッチとか、何とか、そんなようなこと。

 わかってる。彼女たちは彼女たちの知らない世界で生きる私が、怖いんだ。でも無防備に震えてるだけなのはもっと怖いから、遠くからびくびくと、誹謗とか言う無形の刃物で、私を刺す。

 それじゃ無理だ。

 そんなんじゃ、ママの呪いに縛られた私の心を、壊すことなんてできない。


 記憶の中のママは、いつも泣いている。

 会いたい、会いたい、会いたい。

 呪文みたいに、呻くような声で何度も何度もそう呟いて、泣く。

 ―――その子の存在は認めない。

 ママにとって、ママの大切な人との、唯一の絆だった私。それを拒絶するその言葉は、ママの胸を抉り、とどめを刺した。

 会いたい。会いたい、会いたい。

 そんな呪文でママは私に呪いをかけたまま、私が小学校に上がる少し前、ビルの屋上から飛び降りて、死んだ。

 無形の刃物というのは、それくらい病的に容赦のないアプローチじゃないと、人を殺せない。学校なんて言う、限定的な世界が全てのクラスメイトたちは、そんなホンモノの残酷さを、知らない。


 ママが死んだあと、十五歳で養護施設を出て、身を寄せることになった私の叔母。その叔母が経営するクラブが、私のホームグラウンドだった。

 歳を偽ってその店で働き、夜を徘徊する男たちに、幻を見せる。

 叔母が私を引き取った条件がそれで、私もそれを望んだ。

 高校に行くつもりなんてなかった。けど、カモフラージュになるからと、叔母が半ば無理やり通わせた。だから自然と私の世界の中心は、学校ではなく、夜の街に置かれた。

 駆け引きが、お金を生む世界。

 ジョーカーを差し出さなければ、ゲームは成立しない。

 だから私は、私の女を差し出した。

 初めての相手は、40代の客だった。

 初めては、世間で言われているほどに痛みなんてなかった。

 ただただ圧倒的な異物感が、これでもかというくらい私のずっとずっと奥までめりめりと入り込んでくる、そんな感じ。

 意思とか意識とかいう、人が人である象徴みたいなモノとは全く別の、得体の知れない何かに急き立てられて私の中で蠢くそれは、思ってた以上に無機質だった。

 初めてだったから特別なんだと思ったけど、暫くしてそんなことはないんだと、そのあと何人かの男を相手にして、知った。

 まるで職業病とでもいうように、抱かれれば、濡れる。けど、それでも男の塊はただの異物でしかなくて、抱かれてひとつになる、なんて、私にとっては絵空事だった。

 それでも私は、ネオンに包まれたこの夜のテリトリーに縋った。

 知っていたからだ。

 夜の街を徘徊する、という病気を持つ、私が会いたいその人と、万が一にでもつながれる一縷の望みは、このテリトリーの中にしかなかったからだ。

 会いたい。会いたい。会いたい。

 ママの呪いが、私を夜に縛り付ける。

 

 ―――客に入れ込むな。

 私が男を相手にする時の、叔母の口癖。

 でも私は知ってる。その言葉は、叔母の口から漏れ出して、叔母自身の胸に突き刺さる。

 やはり姉妹というべきか、叔母は、ママと同じように、夜の街に依存する男との間にできた娘を生み、捨てられた。

 その、叔母の娘。私の従姉妹。絵里。

 三つ歳の離れた、私の姉、みたいなひと。

 ママの呪いに縛られ、夜のテリトリーの中でしか生きられなかった私が正気でいられたのは、多分、絵里の存在が大きかった。

 「死んじゃう度胸なんてないあの人ははと比べたら、雫のママの呪いは、よっぽど悲惨だよ」

 薄く笑いながら、どこか投げやりに、私について絵里はいつもそんなことを言う。

 投げやりで、褪めてもいて、でも、ほんのりと熱を持って湿っているという矛盾した、絵里独特の言い回し、声色、まなざし。私はそれが、大好きだった。

 ママの呪いに振り回される私には、到底得られない強さ。そこから染み出てくるような、どこか控えめな、優しさ。

 いつだったか、酔った勢いで絵里が話してくれたことがある。

 いかがわしい仕事をして、ヤバい連中に目をつけられて、行方不明になった男との間にできた子供。産むと覚悟したその子供が、流れてしまったこと。

 「あたしらの一族って、なんだか祟られてるよね。夜の街に縋るから、みんな、クズみたいな男に振り回されてる」

 言いながら、絵里は笑った。

 笑いながら少し、泣いていたかもしれない。

 私は勝手に、思ってる。

 絵里を強くしたのはきっと、生まれてくることの叶わなかった、その子供だ。


 奇跡が起きたその日は、お店の休業日だった。

 前日、酒癖の悪い客に付き合わされたせいで、学校に行く気にもなれなかった。

 じゃあたまには女子っぽいこと、しよう。そう言って絵里は、朝から自室でぐだぐだとしていた私を、ショッピングに連れ出した。

 新宿の街を歩き倒して、今夜だけは贅沢しようと、ハイアットにある高級中華料理店に入った。それが奇跡のスイッチをいれた。

 その人は、海外でも評価されるような、画家だった。社会のずうっと上の方の階層で、生きていた。だからこういう店に日常的に足を向ける。今思えば、そんなほんの少しの必然性と、私の人生の幸運すべてを代償にして降りかかってきた偶然が、生み落とした奇跡なのかもしれない。

 トイレに席をたった帰り。店の奥の細い通路。私はその人と、遭遇した。

 会いたい。会いたい。会いたい。

 ママの呪いが、私を高揚させる。

 私は泣いた。

 会いたかった。ずっと、ずっと。

 「何か俺に助けられることは、ある?」

 半ば反射的に、私は答えた。

 「じゃあ、抱いて」

 その台詞は果たして、私に呪いをかけた母のものだったのか、私自身が純粋にその人を求めて言ったのか、わからない。

 ただ、その人をつなぎ止める方法を、それしか思い付かなかった。

 そしてその人は、私の提案に乗った。突然泣き出すこんな怪しい女であっても、抗えないのだ。その人は、その病気に。

 『ごめん、急用できた。先に帰ってて』

 絵里に短いメールを送り、私はその人の手を引いて、こそこそと店を出た。


 ハイアット・リージェンシーの高層階。

 普段、夜の街で出会う男たちと使っている安物のラブホテルとは、根本から何もかもが違う、スイート。

 とは言ってもその時の私に、場所がどこかなんて、関係なかった。

 その人が、目の前にいる。その事実だけで、他に何も要らなかった。

 「君の傷がどんなものかわからないけど、多分それを癒すことなんてできないよ、俺には」

 口ではそう言いながら、私を背中から、優しく抱き締める。

 温もりが服をすり抜けて、肌をじんと痺れさせる。

 そのまま流れるような仕草で、ブラウスのボタンを外されるたび、胸が強く、とくんと脈打つ。その躍動は、どこか穏やかな、寄りかかりたくなるような優しい熱も、携えている。

 不思議な高揚が、体感したことない柔らかな熱さを伴って身体を駆け上がり、私の口から吐息になって、漏れる。

 そしてそのまま、ベッドにふたりで倒れ込んだ。

 今まで男に抱かれてきたことが全部まやかしだったとでも言うように、私は、その人の、やっぱり意思とか意識とは別の何かに突き動かされる塊に、生まれて初めて、溶かされた。


 奇跡の起きたその日、私はその人、本当の家族がいるのにゆきずりでママを抱き、孕ませ、私を生んだママと私を捨てた、実の父親の腕の中で、皮肉にも初めて、男に抱かれる喜びを知った。


 「危ない、な」

 後日、全てを絵里に告げた後、絵里はその場所に私を連れていったことを、その人に出会うと言う偶然を自分が招いてしまったことを、悔いて、しきりに謝り、しきりに泣いてから、赤い目をして静かに言った。

 「雫はさ、あいつに限らず、誰かを本気で憎んだこと、ないでしょ?」

 言われて確かに、と思い、頷く。

 憎む、なんて、疲れるばかりで、何も生まない非効率な感情だと、思ってた。

 「行き過ぎた憎しみは間違いを犯すけどさ、でも適度な憎しみがないと、そういう感情の芽がないと、人ってさ、距離感が麻痺しちゃうんだ」

 洟を啜りながら、絵里は続ける。

 「誰かを好きになることもそう。裏側に憎いって感情の芽が存在し得ない好きは、悪質な宗教みたいに、雫を盲信させて、いつかアンタの大切なものを奪っちゃう」

 なんとなく、言ってる事はわかる。

 でも私は、それでも言いと思った。

 盲信でもいい。

 父とつながっていたいと思う娘に、躊躇なんてない。

 私の中で、何かが弾けた。

 絵里に、胸の中にある何もかもを、ぶちまけた。


 父親に対する娘の正しい在り方なんて、私にはわかんない。

 だって、生まれた時から私の側に父はいなくて、ただママの、父に会いたいって呪いだけがあって、憎しみなんて感情は全部ママが持ってちゃって、それで正しいつながり方なんて、分かるわけないじゃん?

 私が思い付いたのは、男と女がつながる、一番シンプルな手段だけ。

 その上とどめを刺すみたいに、初めて男に抱かれる喜びを父に教えられて、親としてと同時に、オスとして受け止めちゃった私の心を、どうやって抑えればいいの?

 世の中が、こうあるべきだと強烈に発するモラルとか、なんとか、そんなのも、どうでもいい。父とつながってたいって想いを叶えるためなら、私はなんだってする。

 だってじゃあ、他になにがあるの?

 その子の存在は認めないなんて言い放つ父を、それでもつながりたい父を、じゃあどうやって留めるの?

 何か方法があるなら、ねえ、教えてよ。


 いつのまにか、涙で頬が濡れていた。

 そんな私を、絵里は抱き締めた。

 そして言った。

 「なら、あなたがあいつの娘だという事実だけは、絶対に知られちゃダメ。そういう男は、そういう真実に耐えられるほど、強くないから」

 絵里の腕の中で、私は頷いた。


 でも、それは叶わなかった。

 あの奇跡の日から3年が経った頃だ。

 私がひた隠しにしていた真実が、どこかから聞き及んだ叔母によって父に明かされ、父は壊れた。

 そして自ら、命を絶った。

 絵里の言う通りだ。

 あの人は、弱い人、だった。

 父と一緒だった、愛しい、まどろみの中の日々は、しゃぼんだま玉みたいに、ぱちんと、あっさり弾けた。


 父の遺体は、父の家族が住まうという、東京のずっと南の、島に送られた。

 私に何も、残さないまま。


 「雫、これだけは約束して」

 夜の竹芝桟橋のフェリー乗り場。

 絵里は思い詰めたように私を見据えて、噛み締めるように、言った。

 「ちゃんと、帰ってきて。お願い」

 多分私の胸のうちを、何もかも、察していたんだと思う。そんなふうに約束を迫ったって無駄だということも、含めて。

 だから、泣いていたんだ。

 私は、良いアイデアを思いついていた。

 父と、ママと、私とがずっとつながっていられる方法。

 手に握りしめた小さな巾着。中には、母の遺骨。そこに、父の欠片も納めればいい。そして―――私のそれも。

 「いってきます」

 それだけ言って、笑って、私は踵を返す。

 父の欠片を手に入れるため、私は、南の島に向かうフェリーに乗る。

 

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