はるのたね
秋待諷月
はるのたね
くるくると勝手に回るどんぐりの独楽。開けるたびに違う音がするオルゴール。欠伸をして顔を擦る熊の縫いぐるみ。中に仄かな白い炎が灯った紺青の硝子玉。
そんな、不思議で素敵な品物がごちゃごちゃと並んだ行商馬車の荷台の中で、トォイがふと気になったのは、その小さな手の中に収まってしまうほどの瓶でした。透明な硝子の瓶の中には、何やら、灰緑色で、かさかさと乾いた丸っこいものが一粒入っています。
「これ、なあに」
トォイは、行商のおじさんに尋ねます。鹿や鳥や、色々な動物の形をした煙が出てくるパイプを燻らせていたおじさんは、皹だらけの真っ赤な顔を綻ばせました。
「坊主、なかなか目が高いな。そいつは『春の種』だよ」
「はるの、たね?」
「そうさ。そいつはそうやって肌身離さず持っていると、暖かさを感じて芽を出す。すると春になるのさ」
おじさんの言葉に、トォイは目を輝かせました。小瓶に鼻先をくっつけて、中の小さな『種』を、眩しいものでも見るような目でじっと眺めます。おじさんは、優しく笑って言いました。
「買っていくか? 坊主にだったら、おまけしてやるよ」
北の山の麓にある、小さな村です。一年の大半は雪で覆われ、一年の半分は吹雪で閉ざされる、とてもとても寒い村です。長い冬の間中、日の光は厚い雲に遮られ、村はいつでも夜のような暗さなのでした。
トォイはこの村で生まれた男の子で、今年で八つになりました。毛皮の防寒具に頭まですっぽり包まれて、鼻の頭を赤く染めながら、雪に埋もれた村の中を兎のように跳ねていきます。
そうして辿り着いたのは、煙突から細く煙が立ち上る、こぢんまりとした木組みの家でした。玄関の扉を開けると、赤々と燃える暖炉の火と、優しい声と笑顔が、冷え切ったトォイを迎えてくれました。
「お帰り、トォイ。寒かったろう。もうすぐスープができるからな」
鍋の中をぐるぐると掻き回しているのは、ノォル。トォイより六つ歳上の、しっかり者のお兄さんです。トォイは今、この小さな家で、ノォルと二人で暮らしているのでした。
トォイは黙ってノォルの横に歩み寄りました。そして後ろ手に隠していた例の小瓶を、嬉しそうに出して見せました。ノォルは首を傾げます。
「なんだい、それ」
「『春の種』だよ。行商のおじさんが売ってくれたんだ。この種がね、芽を出して大きくなって、それで、春になるんだって。つまり、えっと、この種はたぶん、春を呼んでくれるんだよ!」
ノォルは驚いたように目を大きくして、まじまじと瓶の中身を観察します。トォイは得意になって、また大事そうに小瓶を両手で握りしめました。
「だから、この種が大きくなったら、お父さんとお母さんが帰ってくるんだね」
にこにこと、トォイは零れ落ちるような笑みを浮かべます。ノォルは小瓶と、トォイの笑顔を交互に見つめました。
そうして、ノォルも柔らかく微笑みました。
「そうだね。きっとそうだよ」
ノォルが行商のおじさんを訪ねたのは、次の日の、酷く雪が降る午後のことでした。パイプから煙となって飛び出した羊の群れを数えていたおじさんは、ずんずんと歩いてくるノォルの表情にぎょっとさせられました。
「どうした、そんなに怖い顔をして」
おじさんはおっとりと尋ねます。ノォルは怒っているような、でも何だか泣きそうな顔をして、おじさんに言うのです。
「昨日、俺の弟に種を売ったでしょう」
「ああ、『春の種』か。あれがどうかしたのか」
「おじさんは、この村へ来るたびに面白いものを売ってくれるし、値段だって俺たちでも手が届くものばかりだ。けれど、あの種は駄目だよ」
次第に雪が強くなってきました。おじさんはノォルを荷台に招き入れて座らせます。ノォルは続けました。
「芽を出して春を呼ぶ種なんか無いよ。だって種は、春になって暖かくなったから芽を出して大きくなるんだもの。順番が逆だよ。あれじゃあトォイは、ずっと春を待ちぼうけだ」
おじさんは黙って話を聞いています。ノォルは一度、鼻をすすり上げました。
「俺たちの父さんと母さんは、冬の間は、雪が積もらない村まで出稼ぎに行っているんだ。それで春になると帰ってきて、次の冬が来るまでの間だけ、俺たちと一緒にいてくれる。だからトォイは、春が待ち遠しくて仕方がないんだ。なのに今年の春は、待っても待っても来やしない」
ノォルはしゅんと項垂れました。おじさんは頭を掻いて、「そういうことか」と呟きました。立ち上がって、ノォルの頭を無造作に撫でてやります。
「そいつは、酷なものを渡しちまったかもしれないな。確かにあれは、春を呼ぶ種なんかじゃない。けどな、ただの種でもないさ」
「え?」
「あの種はな――」
おじさんが言い終えるか終えないか、という時でした。荷馬車に一人の女の人が駆け寄ってきたのです。ノォルの近所に住んでいるおばさんでした。
「ノォル、さっきトォイが何やら慌てて飛び出して行っちまったんだけど」
ノォルは面食らって、弾かれたように立ち上がります。息を切らしたおばさんは、それでもしっかりと南の方角を指差しました。
「あっち、村の入り口の方へ走って行ったよ」
ノォルは聞くや否や荷台から飛び降り、おじさんたちを置いて全力で走り出しました。どんどん強くなる雪の中、人気のない村を南に駆け抜けます。途中で見つけたのは、村の入り口へと向かう一人分の小さな足跡。それは村を囲む垣根から外へと、そして雪原へと、ぽつんぽつんと続いているのです。
躊躇うことなく、ノォルは村の外へと飛び出しました。
深く積もった雪に足を取られながら、今にも風雪に掻き消されてしまいそうなトォイの足跡を辿ります。冷たい雪と向かい風が頬を打ち、数歩先の視界すら頼りなく、吐く息も凍りついてしまいそうです。
雪は最早、吹雪と化していました。暗い世界を縦横無尽に暴れ狂う雪は、巨大な化け物のようでした。
「トォーイ!」
ノォルは叫びました。けれども声は風に阻まれて、ノォルの耳にすら遠いのです。息は上がり、足も身体も重く、今にもそのまま倒れてしまいそうです。もうほとんど歩けそうにありません。
そしてそれは、トォイも同じことだったのでしょう。
村から随分離れた雑木林の、太い木の根元に、トォイは小さな身体を更に小さくして蹲っていました。
「トォイ!」
やっとの思いでノォルは駆け寄り、トォイの身体を抱き抱えます。弱々しく顔を上げたトォイは、ノォルの顔を見て安心したのか、小さく笑いました。
「兄ちゃん」
「トォイ、ばか! なんでこんなところにまで」
「兄ちゃん、だって、種がね」
トォイはゆっくりと、懐から小瓶を取り出しました。ノォルは、はっとしました。
種のひび割れからは、小さく可愛らしい、黄緑色の芽が出ていました。
「芽が出たんだよ。だから、春になると思ったんだ。お父さんとお母さんを、迎えに行こうと思ったんだ」
トォイの大きな目に、溢れそうなくらいに涙がいっぱい溜まっていました。
ノォルはもう堪らなくなって、もう一度トォイを強く抱き締めます。
「春になるさ。二人とも帰ってくるさ。だからトォイ、家に帰ろう。暖かい家で、一緒に父さんと母さんを待つんだ」
雪は酷くなるばかりです。二人の身体は見る間に真っ白になり、どんどんと冷えていきます。トォイの目が、眠たそうに閉じてきました。ノォルはトォイを背負って行こうとしましたが、すぐに力無くべしゃりと倒れ込んでしまいました。滲み出した涙すら、すぐに凍ってしまいます。
トォイは虚ろになった瞳で、芽を出した種を見つめました。微笑んで、優しく話しかけます。
「暖かくなるんだよ。春になるんだよ。だから、ねえ、早く出ておいでよ」
ノォルはトォイと芽を、霞んできた目で見つめました。なぜでしょう、少しだけ、その場所が暖かく感じられました。
すると。
小さな芽は、待ちきれないといった風にぶるぶると震え始め、急激に茎を伸ばし、葉を広げました。
成長した芽が、窮屈な小瓶を中から割ったと見えた、その次の瞬間。
辺り一面に、白く柔らかな光が溢れたかと思うと、あれだけ激しかった吹雪が、嘘のようにぴたりと止んだのです。
それだけではありません。足下の雪があっという間に消え去り、剥き出しになった地面からは次々と緑色の芽が出てきました。二人が寄りかかる木の枝には蕾が膨らんで、桃色の花を咲かせました。柔らかな風が甘い香りをどこからか引きつれ、空には透き通るような青空が広がります。その間にも地面には若葉が広がって、一面に緑色の絨毯を敷き詰めました。
もう、寒くなんてありません。ただただ、心地よい暖かさだけがあります。
ノォルは、おじさんが言っていた言葉の意味を知りました。
――あの種はな、人の心の暖かさを感じて芽を出し、大きくなる。そして小さな、けれど本当の『春』になるのさ――
「春だ」
嘘のような光景に、ノォルが呆然と呟きます。ふらふらと立ち上がり、一歩、二歩と進み出ます。すると不思議なことに、少し離れた先では、まだ吹雪が轟々と唸っている様子がぼんやりと見えているのです。
今、この場所、この空間だけが、小さな小さな『春』なのでした。
トォイもまた、ゆっくりと立ち上がります。何も無くなった手の中を眺め、そして、この暖かい世界を眺め、にっこりと笑いました。
「春になったんだね」
次の日の朝になって吹雪はようやく収まり、村の人たちは雪原に倒れていたトォイとノォルを見つけることが出来ました。吹雪の中で一晩中凍えていたはずの二人は、何故かそこにだけ広がった緑の草花の上で、仲良く穏やかな寝息を立てていました。
すっかり混乱してしまった村人たちの後ろで、行商のおじさんだけが一人、嬉しそうに笑っているのでした。
雲が割れ、暖かな日差しが村に降り注ぎます。
どうやら、春になったようです。
Fin.
はるのたね 秋待諷月 @akimachi_f
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