第11話 睦み合う(一)

 家から程近い場所にある小さな岩山は、吾緋村を見渡すのに適していた。苔に足を取られないよう気を付けて斜面を登り、頂きに腰を下ろすと、晴れ空に似合うさっぱりとした風が吹く。


 前髪が風にさらわれるのをそのままに、遠くの村を眺めた。昔と変わらず廃れている。濡れない水に似た清風がいくら渡ろうと、あの村に変化の兆しは訪れない。


 人の世と水は似ている。新鮮な流れが絶えずもたらされればあらゆる善い芽が育まれ、変化と発展を遂げていく。流れが滞り、手入れもなければ腐るのみ。

 濁って視野は狭くなり、息苦しい空間で起こるのは共食い。清さがあればこそ生きられるものは次々に死んでいく。やがてどこでも粘着質に生きられる悪食だけが、そこに残る。


 閉鎖社会の吾緋村もそうだ。人を介して純度を高める毒の巣。蛇姫と呼ばれた灯姫が生きていた時代……千年ほど前から、吾緋の地獄は始まっている。

 灯姫は気高くあっただけだ。村のしきたりを尊重しながら己を貫き、自生していた彼岸花を愛していた。その姿勢や暮らしぶりに、村人達は劣等感や支配欲を抱いた。

 個々の胸に生まれた歪みを村という集団で肯定し合い、やがて村人達は、灯姫へ向けた悪口雑言を理に適った正義と謳い始めた。そうして地を固めていった悪意は、灯姫の全てを否定する基盤となった。


「……ッ」


 歯軋りをして、こみ上げてきた苦痛に耐える。幼い自分を囲んで蹴り飛ばし、犬畜生にも劣ると嗤った村人の醜貌しゅうぼうが閃光のように脳裏に走った。

 いくら時間が経過しようと、村人達は変わらない。腐った地獄で何を気に病む事もなく健やかに暮らし、家庭を作って子を成していく。そして子も似た思考を持ち始め、毒は脈々と受け継がれていく。村が存続する限り、地獄は終わらない。


 吐き気を覚えて口元を抑えようとした柘榴は、手に妙な重みを感じた。いつからいたのか、蛇が手の上で身を滑らせていた。見ればやや離れた所から、数匹の蛇が柘榴に控えめな視線を送っていた。どうも他の蛇達もこちらに来たかったようだが、柘榴の剣呑な気配を察して躊躇していたらしい。

 蛇に気を遣わせるとは。どうにもおかしくて、喉を鳴らして笑う。


「よぉ。もう平気だ、こっちに来な」


 招くと蛇達はすぐ近寄ってきた。柘榴の腕に頭を寄せるのもいれば、腿に乗るのもいる。吾緋村の蛇はよく相手を見ている。柘榴と蜜樹には一度も刃向かわず、愛嬌のある味方になる。しかし相手が村人だと即座に襲いかかっていく。

 蛇は犬猫と違って世話をしても懐かないものだが、ここの蛇は懐いているとしか思えなかった。蛇達の小さな頭を撫でてやると、彼らは満足げに尻尾の先を揺らめかせる。手が離れると、物足りなそうにこちらをじっと見つめてくる。


 まるで愛情を欲しがる子供だ。もしかすると、遠い日の蜜樹の目には、幼い自分はこんな風に映っていたのかもしれない。


「……いい子だ」

 そう言って撫でると、蛇は嬉しそうにゆっくりと目を閉じた。


 いい子。蜜樹がよく言ってくれた言葉だった。子供の頃、日常的に心身を痛みつけられていたせいか、素直に泣く事が難しくなっていた。当時の蜜樹は何も言わずに抱きしめて、時間を気にせず、側にいてくれた。

 そっと包まれている内に蜜樹の心の温もりが全身に染み渡り、思い出したように動いた心が涙を溢れさせた時も、蜜樹は優しく頭を撫でてくれた。いい子だと言う蜜樹の声が微かに震えていたのを、今も覚えている。


 蜜樹は言葉にならない機微を察するのが得意だった。細やかな情緒を解する感性があるからこそ、人の苦しみや悲しみに同調もしやすかった。他人が傷ついていれば自分も傷つく。そう分かっていて、胸が痛むのも厭わず、蜜樹は抱きしめた存在に限りない愛情を注いだ。


 彼の為なら何だってしてみせる。柘榴はその為だけに生きていた。役に立たない綺麗事も、覚悟を中途半端にする感傷もいらないのだ。ただ、蜜樹があらゆる苦痛から解き放たれる為だけに、ここにいる。


「……お前達が蜜樹に俺の正体をバラさないでくれて助かった。ありがとうな」


 蛇達にそう言うと、甘えるように口先を押し当てて擦り寄ってきた。蜜樹ほど蛇とはっきり意思疎通ができるわけではないが、おおよその事は伝わっているようだ。

 蜜樹は今も、共に暮らしている存在がかつての友だった事に気付いていない。姿形も内面も大きく変わっただけでなく、名前も違うとなれば気付く方が難しい。


 柘榴という名前は、村から去った後に自分でつけた。おかげで他人として蜜樹と接触できたが、もし蛇が蜜樹に正体を明かしていたらそうもいかなかった。いくら見てくれが変わっても、蛇の嗅覚はごまかせない。

 蛇達が蜜樹に情報を流さない理由は定かではないが助かった。こちらの身元を蜜樹が知ったら、その時はきっと涙を流して喜んだだろう。


 そしていつか必ず、蜜樹の知る過去の友人は既になく、芯が腐った花茎のように醜い存在に成り果てたと知る。緩やかに精神を蝕む拷問だ。そんな思いをさせるのは、ごめんだ。

 こちらの正体を明かすのは、そうならないよう土台を作り、時期を見定めてからだ。決して段取りを間違えたりしない。全ては蜜樹の為に。




 蛇との時間を楽しんでいると、蜜樹の声が遠くから聞こえてきた。見れば蜜樹が何かを探しながら岩山に近付いている。柘榴は蛇達に解散を告げ、すぐに急斜面を降りた。長年の悪行が上手い具合に全身を鍛えている。足場が悪かろうと、体を自在に操るのは容易だ。


「みーつき、お帰り。何か探してるのか?」

 蜜樹はハッと驚いてこちらを見上げ、相手が分かると安心したように微笑んだ。


「うん、人を探してたんだ。長い黒髪を一つにまとめて、尾みたいに揺らしてて……」

「揺らしてて?」

「気の利く働き者で、身軽で、狩猟が上手で……」


 蜜樹の表情に茶目っ気が走る。誰を指しているのかもう分かったが、ここで応じてしまうのはもったいない。せっかくだから蜜樹にもう少し喋らせたかった。笑みを返し、首を傾げてみせる。


「それで?」

「豊かな優しさを抱えていて、狐みたいに狡くて可愛い人。心当たりはない?」

「心当たりねぇ?」


 わざとらしく明後日の方向を見つめ、考えているフリをする。蜜樹に褒められるのは気分がいい。ここで終わらせてしまうのは惜しかった。


「もうひと押しくれれば、蜜樹が探してる奴と会わせてやっていいぜ」

「えぇ?」

 蜜樹は眉を下げて苦笑した。


「意地悪だなぁ。楽しんでいるでしょう?」

「それはお互い様だろ。ほら、もっとそいつの事を教えろよ。蜜樹から見たそいつはどんな人?」

「ううん……そうだね……」


 しばし思案に沈んだ蜜樹は、ふわりと穏やかに微笑んだ。ゆっくりと語りだすその声は、愛情を多分に含んで柔らかい。


「僕がその人をどんなに愛しているか話させようとしてる、僕の事が大好きな人。ずっと抱きしめて離したくない人。自分から口づけてくる時は余裕があるのに、僕からするとすぐに息が上がって逃げようとする人」

「……そこまでは言わなくていい」


 面映おもばゆさを感じて身を縮こませると、蜜樹は嬉しそうに目を細めた。つられて口元がほころんだ。蜜樹が楽しそうにしていると、どんな時も胸に心地良い波が来る。

 顎を引いて続きを促すと、蜜樹は目を伏せ、噛みしめるように言う。


「それからね。その人は、僕を幸せにできる人だよ」

「……幸せに?」

「うん、幸せに」


 にこにこと微笑む蜜樹を見つめていると、くらりと視界が揺れた。遅れて四肢から力が抜け、地面に吸い込まれるように落ちていく。


「っと!」


 慌てて両腕を広げた蜜樹が体を受け止めてくれた。とっさに右手で顔を覆い隠す。自分が今、どんな顔をしているのか分からない。ただ、蜜樹の言葉にうるさいくらい心臓が跳ねて、甘やかな痺れが脳裏に走っているのは確かだ。


 蜜樹があけすけに思いを伝えてくれるのは嬉しいが、たった一言で心の奥まで穿うがってくるのは困る。蜜樹は、自分の幸せは柘榴と共にあるのだと言っている。惚れた相手にまっすぐそう伝えられる身になってほしい。

 落ち着く為に深く呼吸をしてみるが、構わず鼓動は早くなった。蜜樹に抱きかかえられている以上、逃げ場もない。それでも顔に熱が集まってくるのを見られるのは避けたい。


「柘榴、大丈夫?」

「…………」

「……柘榴?」

「………………」


 どうしたものかと短く唸る。まだ熱は引かないが、あまり心配させるわけにもいかない。

 ――……こんな顔を見せたくないが、仕方ないか。

 柘榴は無事を伝える為に、こわごわと右手を除けて蜜樹をおそるおそる見つめた。


「…………平気……」

「……」


 低く無愛想な声が出たのに、蜜樹の目は輝いた。あどけない表情だった。宝物を見つけた子供のような、無垢な顔。ああ恋しいと胸が切なく軋むより早く、唇が塞がれた。

 蜜樹へ腕を回してせがむように後頭部を撫でると、蜜樹はじっくりと遊ぶようにこちらの上唇を舐め、甘噛みしてくる。思わず漏れた甘い声に羞恥を覚えるも、耳元で名前を囁かれ、吐息の熱さと声の艶めかしさに羞恥さえ溶けてしまう。


 独り占めしているのだ。蜜樹の思いも、体温が上がっていく体も、何もかも。ただそれだけで、好ましい熱情に全身が焼かれていくようだ。


「柘榴」


 蜜樹の声色は笑っているように優しい。一方でまぶた、頬、鼻先、そして唇へくちづけていく蜜樹はむさぼるように性急で、呼吸も鼓動も乱れていく。


 ――熱い。


 柘榴は軽い目眩めまいを覚えながら、蜜樹へ回した腕に力を込めた。情愛の熱に溶かされていく気がした。蜜樹の腕に包まれて、蕩けてこのまま消えてしまいそうだ。自分でも呆れてしまうくらいあっさりと、骨の髄まで恍惚に濡れていくのが分かる。


「蜜樹……」

 夢うつつの心地になりながら、愛おしい頬をそっと撫でる。


「このまま……座って、蜜樹」


 ゆっくりと腰を下ろした蜜樹に、ぴたりと体を張り合わせる。首元に顔を埋めて目を閉じれば、蜜樹以外の何も感じなくなる。思案の隙間に執念深く絡みついてくる過去も取り払われて、い温もりが隅々まで流れてくる心地に身悶えする。


「……柘榴」

「ん……」


 目元を優しく撫でてくる指先を唇で食むと、蜜樹は僅かに動揺を見せた。優位を感じて口端が緩んだ。

 華やぐひと時において、蜜樹にとっての自分は、夜咲きの花にも勝る妖しい媚薬なのだと知っている。蜜樹がそう教えてくれた。熟しきった甘い視線と、迫りくる官能に健気に耐える顔色で。睦み合う度、ねんごろに。


 蜜樹の手を捕らえ、見せつけるように愛しい指に舌を這わせる。強く震える指は獲物だ。困惑しながら期待を覗かせる瞳に指を咥えたまま笑って見せ、もう一本口内に含んでちう、と強く吸い上げる。


「……柘、榴ッ」


 片目をつむり、蜜樹は苦しげに眉間に皺を寄せる。整った流線を描く涼しげな髪の間から、真っ赤な耳がちらちらと見え隠れしている。


「なんだ、蜜樹。もっとしてほしいのか」

「違……ん……っ」

「はは、かわいいねぇ。なぁに想像してるんだか、ビクビクしてやんの」


 もう一度深く指を咥えこみ、指の根元から先端にかけてをじっくり舌先でなぞる。時折、関節のしわをくすぐるようにちろちろと舌が動けば、蜜樹の目は蕩けながら野性的な険を帯び始める。

 優しく温厚な蜜樹も男だ。とうに頭が茹で上がってる時に、情を交わす相手に火照った舌でいやらしく指を舐められて、吸われて、その気にならないはずがない。だから、艶やかな雄が唸り始めている。抱きたいと訴えている。

 素直に欲を見せる蜜樹が、かわいくて仕方がない。


「俺にそんな顔を見せてくれるのか、蜜樹……はは、いや、今更か。お前はこんな俺を好いてくれた。分かってるはずなのに……動揺するよ」

「……柘、榴」


 蜜樹の両頬を包んで、唇を重ねる。顔の角度を変え、繰り返しくちづけて、絡め合わせるのは露呈し始めた快楽と、ただれる程の色情。ただ、それだけじゃつまらない。もっと欲しい。蜜樹の心の底に触れたい。煮崩れた恥部まで、見せてほしい。


「蜜樹……」


 鎖骨に這わせた指先を、喉仏の張る首へ、顎先へと滑らせる。堅牢な理性は、戯れで心に注いだ甘美な熱で蝕んだ。使い物にならないだろう。秘密を隠せるものはない。


「なぁ」


 さらけ出してしまえ。何もかも。


「この世にいるのは俺達二人だけみたいだな、蜜樹」

「……柘榴と、二人……」

「そう。こんな村なんかなくなってさ」

 そう言うと、蜜樹は赤い顔で微笑んだ。瞳の奥に仄暗いものが走る。


「村は消えるよ……遠からず」

「ふぅん? そりゃ嬉しいね」

「ふふ」


 蜜樹はそっと柘榴の額に唇を触れさせた。直に触れる柔らかな熱に目がくらむ。とっさに口を固く結んだのに、短い嬌声がこぼれてしまった。愛する人の熟れた唇を直接当てられるのは、堪えるものがある。

 蜜樹は耳元へ顔を寄せて、ほくそ笑んだ。


「気持ちいい事だよ、とてもね……」

「……は……」


 とろりとした蜜を注がれたような心地に薄く笑うも、背に冷や汗が垂れた。蜜樹の胸元を、関節が白くなる程にきつく掴む。少しでも慢心すれば気を失いそうになる。芯まで惚れた相手の腹の底を探るのは、命がけだ。


「気持ちいい、ね……村の消滅がか……?」

「そう!」


 甘やかな熱気に対してか、あるいは村の消滅に対してか。興奮を乗せてゆっくりと首を傾げる蜜樹は、美しい女神のようだった。邪気のない無垢な笑顔で破滅を喜び、艶美の極みを見せつける神は、自身の左手へ目を向ける。

 小指があった場所には何もなく、その根元の肉は、かさぶたを何度も剥がしたかのようで痛ましい。


「やっとなんだ。やっと……終わりが見えてきた。まだ海景がいた頃、海景を嘲るだけじゃ飽き足らず、日々の鬱憤を晴らす為に……逃げられないように海景の足を切断し、慰め者にして、それから見世物小屋に売り飛ばそうと画策していたこの村は……」

 喉を鳴らして、蜜樹は笑った。


「邪魔だ」

「……」


 ぞくりと背が震えた。ゆったりとした口振りで語る蜜樹は、相変わらず色気を溢れさせている。その芳香の裏に潜む憎悪はすっかり蜜樹と一体化し、鬼気迫る魅力の一部になっている。毒蛇を従える鬼神……蛇姫。蜜樹の姿は、まるで神楽の蛇姫その人のように見えた。

 豆助の話を思い出す。蜜樹は海景の失踪の後、村人が海景に対して、今しがた口にしていたような非道な行いをしようと目論もくろんでいたのを知ってしまったと。それがきっかけで、蜜樹は次第に壊れていった。


 村人の未遂の計画一つで崩壊したわけじゃない。蜜樹は元々、海景が村からいびられていると知っていた。つまはじきにされている存在がどんな目に遭っているのか、村にいるだけで耳に入る。まして蛇を使える蜜樹には、全てが筒抜けだっただろう。

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四つ指の彼岸花 結包 翠 @yudutsu_midori

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