ひれ

若生竜夜

ひれ

 これから少し、奇妙な話をしようと思う。

 五、六年前の夏の話だ。まだ俺が若くて、右腕がちゃんとあったころの話。

 一人、魚好きの友人がいた。

 魚好きったって、食う方じゃない。飼って、見て楽しむ方だ。住んでたアパートの部屋には、いくつも馬鹿でかい水槽があった。

 ああ、アクアリウムってえ方が洒落てるか。呼び方なんぞなんでもいいんだが。とにかく奴の趣味は、綺麗に磨き上げた硝子の中に、色とりどりの、いろんな魚を泳がせて、観賞することだったんだ。

 たぶん、給料の半分くらいは、その趣味につぎ込んでたんじゃねえか。ほとんどが淡水魚だそうだったが、一匹ウン百万もする魚もいるって言ってたっけ。

 俺には理解できない世界だったが、まあ、それはともかく、奴は時々俺を部屋に呼んでな、貴重なコレクションを見せてくれた。なんでかわからねえが、気に入られてたんだな。

 ある時、また奴が俺を部屋に呼んだ。珍しい魚が手に入ったから見に来いという。

 いつものことだ。俺はいささかうんざりしていたが、奴の話を拝聴した後に振舞われるワインは魅力的だった。魚ほどじゃないが、給料の四分の一はワインに消えてたらしいからな、いいものが出てきたんだ。

 で、俺は出かけていった。いそいそと奴の部屋にな。

 見せられたのは、なんのことはねえ、金魚の水槽だった。赤い色は綺麗だったが、そこらの縁日にでも売りに来てるような、ただの金魚の群れだ。そいつが水槽の中でヒラヒラ泳いでるだけだった。拍子抜けだ。

 だが、奴はその金魚の群れを、世にも珍しいものなんだと言う。めったに手に入らねえ、貴重な魚なんだと熱く語った。

 こいつ、魚好きが高じて、とうとう壊れちまったんだろうか? もともと魚に関しては、頭のネジの一、二本は抜け落ちてる奴じゃああったんだが。俺は笑うどころか、あきれるのを通り越して心配になったよ。

 だが、そんな俺の心も知らずに、奴は至極幸せそうだった。熱っぽい目でうっとりと金魚の群れを眺めてな、今にもむつごとのひとつも囁き始めそうだった。

 まあ、しかし、それ以外はいつもの通りだったからな。俺は余計な口は出さないで、ワインだけいただいて帰ることにしたんだ。幸せそうにしてるなら、そっとしておいてやるもんだろう? 時には見ないふりをしてやるのも友だちってもんだ。

 帰り際だった、奴が言い出したのは。

「なあ、もし、もしもだ。オレがいなくなるようなことがあったら、この魚たちのことを頼まれてくれないか」って。

「特に今日見せた彼女たちな、綺麗な赤いドレスの彼女たちだよ。くれぐれも。ね。よろしく頼むよ」

 いきなりなんだと思うよな。俺も思った。

 彼女たち? 赤いドレスって、ああ、金魚か。随分詩的な表現だ。

 俺は酔いの回った頭でうすらぼんやり考えた。

 いなくなったらって、なんだ。とうとう借金取りにでも追われるようになったのか?

 魚に金つぎ込んでるのを知ってたからな。そんな発想になったんだろう。妙なとばっちりはごめんだとも、ちらりと思ったが。

 俺は、「ああ」だか、「おー」だか、適当に返したように思う。


 その数日後だ。奴が消えたのは。

 大事な会議があるってえのに、出社しなかったらしい。連絡も取れねえんだと、奴と同じ会社の共通の友人から回って来た。

 郷里の親御さんにも連絡してみたんだが、そっちにも帰ってねえっていうことだった。

 まだ暑い中、仕事帰りに友人数人でしめし合わせて部屋を見に行ったんだがな、もちろん鍵がかかってて入れるわけがねえ。何度呼んでも返事はねえし、携帯にかけても出やしねえ。

 それでだ、電気のメーターは回ってたから、もしかして熱中症かなんかで中で倒れてるんじゃねえかって話になった。以前にそういう事件があったろう。なに、知らねえ? あったんだよ、そういうことが。

 考えてみりゃあ、エアコンだの水槽ポンプだのが動いてるんだから、人がいなくてもメーターは回ってるはずなんだ。だが、皆焦ってたんだな。いや、どっちみち部屋の中を一度確認しなくちゃならなかったから、気付いても同じだったんだろうが。

 で、ひとまず部屋の管理会社に連絡して、大家に鍵を開けてもらうことになった。

 妙な具合だった。

 誰もいねえ。

 いや、誰もいねえのはいい。よくはねえが、いい。

 だが、なんにもいねえ水槽で、エアポンプだけがプクプク泡立てて水草を揺らしてやがるのは変だろう? あんなにたくさんヒラヒラ泳いでいた水槽の魚がよぉ、一匹残らずいねえのは、おかしいと思うじゃないか。

 ただ一つ変わらなかったのが、あの金魚たちだ。以前見た時のまま、赤いドレスみてえなしっぽをヒラヒラさせて、水槽の中を心地よさそうに泳いでやがる。のんきなもんだ。飼い主がいなけりゃ、てめえらも長くねえってのによ。

 ああ、金魚はいいからとっとと先を話せだ? せっつくな。ものには順序ってのがあるだろうが。もうちィっと我慢して聞いてろよ。

 結局のところ、奴は部屋にもいなかった。行方不明のままなわけだ。飲みさしのワインがテーブルに残っちゃいたが、部屋は綺麗に片付いてたからな、なにかに巻き込まれたって感じでもなかった。

 いや、もちろん、素人判断だ。警察が調べたわけじゃねえ。ともかく、最初っから期待はしちゃいなかったが、それでも皆がっかりはしたってことさ。

 あんたに言われなくても、警察へは届け済みだ。親御さんがな、出した。捜索願い……っと、今は行方不明者届っていうのか? そいつは、俺たちじゃ出せねえからな。ともかく、やれるだけのことはやったと思うぞ。

 で、だ。行方不明の奴の部屋は、なんもかも全部ほったらかしだ。飼ってた魚もほったらかし……に、しておくわけにもいかねえって、見つかるまでの間、俺が金魚を預かることになった。

 そりゃあ、な。約束はしてたが。酔っ払いの適当なやりとりだ。まさか本当になるとは思っちゃいなかったよ。それまでのワイン代としちゃあ安いのかもしれねえが、迷惑っちゃ迷惑だ。

 せめてもの慰めは、預かるのがただの金魚だったってことだ。俺は一匹ウン百万もする魚の飼い方なんざ知らねえからな、そっちを預かるはめになってた日にゃ……考えたくもねぇやな。

 そういうわけで、赤いドレスのヒラヒラ金魚どもは、俺の住む部屋に水槽ごとやってきたのさ。


 しばらくはなんてこともなかった。水槽の分部屋が狭くなったのには不満だったが、夜更けに明かりを絞った下で、あいつらがヒラヒラ泳ぐのを眺めるのは、悪くない暇つぶしだ。馴れれば赤い魚の群れは、独り身のいい慰めになった。

 何日目だったか。やたらと月がでかかったのは憶えている。ルナティックっていうのか。カーテンを開けた窓から、洒落た言い回しの似合いそうな、皓々とした月明かりが入ってくる夜だったな。

 俺は座椅子にもたれて、安ワインをちびちび舐めながら、いつも通りヒラヒラ動いてる赤い魚どもの尾っぽを眺めていたんだ。

 あいつらは珍しく悪だくみでもするように、固まってわさわさうごめいていた。

 そのうち、ふと、団子になってうごめいてた魚の群れが割れて、白いものが押し出されてきた。

 にゅるり、と。

 赤い膜を突き破るようにして、生まれてきたのさ。

 生首が。

 そいつは、つるんとした顔立ちの、やたら綺麗ぇな、なまめかしい女の首だった。気持ち良さそうに眠るみてえに目を閉じて、うっすら開いた唇の間からは、真珠色のちいさな歯とピンクの舌がかすかにのぞいて見えてたな。

 ゾクッときたね。

 恐怖じゃねえ。

 わかるだろ。ゾクッときたんだ。

 水槽の中の首しかねえ女に、俺の目は釘付けになっちまった。

 女がゆっくりと瞼をあげる。深淵みてえな目が俺を捕える。

 強烈な引力だったんだ。抵抗なんてできねえ、強烈な引力だった。

 自分の喉が鳴る音が、やけに大きく耳に響いたよ。

 俺はふらふらと立ちあがり、水槽に近寄った。手からすり抜けたグラスがラグに転がって、ワインがべったりとしみになったが、それどころじゃなかったな。かまってる余裕なんてなかった。

 俺は女の顔をもっとよく見ようと、右手のひらを水槽に押しあてた。ぺったり、はりつけるようにな。

 冷たさを感じる暇もなく、押し当てた手は、硝子の内側に沈んでいったよ。

 なんの抵抗もねえ。すうっと潜っていったんだ。まるで、生首の口元まで、飴の棒でも差しだすみてえに。

 とどいた俺の指先に、そいつの舌が這う感触がした。生温かくて、しめって、くすぐったかった。おもしれえだろ、水の中なのに、妙にはっきりわかるんだ。

 そいつはしばらく俺の指をねぶっていたが、やがてそうするのにも飽きたのか、いきなり、ぱくり、と食いつきやがった。

 文字通り、食いやがったんだ、俺の指を。

 真珠みてえなちいさな歯を立ててな、一滴もこぼさねえっていうように、血をすすりながら。指の肉を、骨を、うまそうにコリコリコリコリ咀嚼していきやがる。

 おかしなことに痛みはなかった。それどころか、俺は自分の手が食われていくのを、うっとりとしながら眺めてたんだ。

 生きながら自分が食われていくのは、しびれるような快感だったよ。

 ああ、そうとも。いかれてたんだ。あいつがなにかしたんだろうさ。

 ようやく俺が解放されたのは、右の手が手首までなくなっちまってからだった。あいつは満足そうに溜息らしいものをついて、赤い膜の向こうにずぶずぶと帰っていった。

 ひっこめた俺の右手は、最初っからそこになんにもなかったように、手首のところで途切れて、火傷の痕みてえなつるんとした皮膚におおわれていた。

 ここまできてもまだ俺はおかしかったんだな。へらへら笑いながら床に転がってたグラスを拾い上げて、もう一杯ワインを飲んでから、そのまま寝床に倒れ込んだんだ。

 泥みてえな眠りだった。途中でなんだったか現場がどうのって会社から電話がかかってきて受け答えした気もするんだが、まともにしゃべれたかどうかも憶えてねえ。気付けばふたたび夜で、やっぱり皓々とした月の光が開けっぱなしのカーテンの間から部屋に射しこんでいたな。

 そっから先は繰り返しだ。

 真っ赤な金魚の群れを割って表れた女の生首に俺はふらふら引き寄せられて、右腕の残りをコリコリ肘まで食われる。うっとりとほうけた顔で眺めてるうちに、女が俺を食うのに飽きたら、ふらふら寝床に倒れ込んで、死んだように眠りこける。

 夜が来て、目を覚ましたら、またうっとりとしびれながら、今度は右腕の残りを肩までだ。

 あのままいってたら、どうなってたんだろうな。手足を全部なくして、胴を食われる時には、もっと強烈に気持ちよかったのかもしれねえ。……冗談だよ。そんな目で見るな。とっくにおつむは、まともになってるんだ。

 助かったのは偶然のおかげだな。いや、それとも、こういうのを奇蹟ってえ呼ぶのか?

 同僚たちが尋ねてきたんだ。夜の夜中に、だ。

 後で聞いた話だが、前の日電話した時に俺の様子がおかしかったってえんで、あいつらは律儀にも心配して、作業現場の帰りに寄ってくれたんだそうだ。俺は風邪だとかなんとか受け答えしてたそうなんだがな。奴らの間で、なにかの勘が働いたらしい。

 ほんの数日で衰弱して片腕までなくしてる俺に、奴らは仰天してな、俺はそのまま病院に担ぎ込まれた。すぐさま入院になったよ。

 ああ、それで――、この話は終わりだ。俺は無事退院して、今はぴんしゃんしてるってわけなのさ。

 金魚? 金魚がどうなったかは俺にはわからねえ。気がつけば、水槽だけ残して、きれいさっぱり消えてたからな。いや、俺はさわっちゃいねえ。入院騒ぎでそれどころじゃなかったんだ。始末できるはずがねえ。

 同僚たちにも聞いたが、誰も知らねえそうだ。だいたい、あんなもん盗っていく酔狂な野郎がいるとも思えねえしな。あいつらは煙みてえに消えちまったとしか言いようがねえんだよ。

 ただ、な。

 今でも時々……時々、だが。なにかが俺の手足をかすめていくんだよ。生温かくて、しめって、くすぐったいなにかが、味見でもするみてえに。

 それで、ちらりと、目の端を赤いものがよぎるんだ。赤い赤いドレスの女みてえに、ヒラヒラゆれて消えていく、金魚のしっぽみてえに見えるもんがさ。

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ひれ 若生竜夜 @kusfune

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