蝉時雨

橘塞人

蝉時雨

 ミーンミンミンミンミン……

 蝉が煩く鳴いている。東京でも長野でも、日本全国変わらずに。焦がすような日差しも変わらない。変わるのはコンクリートジャングルによって、クーラーの排熱の多さによって、東京の方がより熱量が厳しいことくらいか。

 嗚呼、夏である。真夏である。蝉時雨が降り注ぎ、ちりちりと身を焦がすこの季節になると、時折あの子のことを思い出す。いなくなってしまったあの子のことを。長野での思い出と共に。

 僕と両親は僕が10歳になるまで、長野にある祖父母の家に住んでいた。周囲には田んぼ、畑、森や山といった、緑ばかりに囲まれた暮らし。それがずっと続くのだろうと思っていたが、僕が10歳になった時に突如父の仕事によって東京暮らしとなってしまった。行きたくない。行きたくない。あの頃はそう叫んで泣いたものだが、16歳となった今ではその記憶はもう遠い。


「おかえりぃ。ゆっくりしていきなぁ」


 毎年、盆になると僕の家は祖父母の家に帰省し、僕もまたそれに同行する。今年の夏もまたそうだった。それは変わらない。

 祖父母も変わらない。いつから建っているのかさえ分からない、この家がボロいのも変わらない。そして、隣が空き地なのも変わらない。変わらない。

 ミーンミンミンミンミン……

 煩く降り注ぐ蝉時雨と同じように。此処では何も変わらない。変わってしまったのは僕だ。手足が伸びると共に、中身まで変わってしまったのは僕だ。僕は薄情、なのかなぁ?


「ちょっと、外歩いてくる」

「おう、気ぃ付けてなぁ」


 大人達のつまらない昔話に付き合ってはいられない。そんなスタンスで、僕は家を出て周囲を歩いて回る。その習慣も帰省時にはいつもやっていることではあった。だが、2~3年前に帰省した時より去年、去年帰省した時より今年と、周囲の景色を見て思い出せるものは確実に少なくなっていた。

 僕は歩く。久し振りのこの田舎道を。蝉時雨を浴びながら、あの子のことを思い出しながら。

 祖父母の家を出てすぐ、周囲は田園風景になる。鮮やかな緑色に色付く稲穂を見て、水を吸って匂いを放つ土を感じて、僕の思考は昔へ還る。

 ああ、いつも僕とあの子は此処を楽しく駆け巡っていた。あの頃は毎日が心底楽しくて仕方なく、そんな日々がずっと続いていくものと信じて疑いもしなかった。そんな漠然とした記憶はある。あるのだが。

 田んぼの畦道であの子がガマガエルを捕まえて、嬉々として持ち帰って、僕の母が腰を抜かす程に驚いたのはいつだったか。10年前か11年前か、その辺りだったような気もするがハッキリとは思い出せない。あの子が捕まえた場所もハッキリとは思い出せない。

 数年前には覚えていたことなのに。

 小学校の入学式の帰り道、あの子がはしゃいで水たまりに足を突っ込んでしまい、一張羅を汚して大泣きしたのはあの辺りだったか。場所は凡そ覚えているのだが、あの時あの子がどんな服装をしていたのかまでは思い出せない。

 数年前には覚えていたことなのに。

 小学校へ通う道、いつもあの子と一緒に通ったこの道、時折手を繋いでいるのを見掛けた同級生が「夫婦だ♪ 夫婦だ♪」と囃し立て、あの子が「うるさーいっ!」と叫びながら殴りかかっていったのは、大体いつもこの辺りか。ただ、いつも囃し立てていた馬鹿野郎な同級生の名前までは思い出せない。

 それは別に思い出さなくていいか。

 ミーンミンミンミンミン……

 休むことなく煩い蝉時雨の中、僕は通学路を外れて小山へと向かう。周囲を有名な山々に囲まれた中にポツリとある、名も知らぬ小山だ。此処は僕とあの子のお気に入りだった場所だ。比較的歩きやすい場所でありながら、あまり知られていないのか学校の他の連中と出くわすことが殆どない。そんな絶好の遊び場所だった。

 木々に囲まれた小道を登って山頂へと向かう。その山頂辺りになると開けて、草原が広がる。そこは記憶と変わらない。僕の脳裏では小さい僕とあの子が楽しそうに駆けていく姿まで見えた。

 此処で何をしていたのか、あまり記憶に残っていない。サッカーや野球をする訳ではない。2人で出来るものでもない。かくれんぼや鬼ごっこも同様。だが、それでも此処でのあの子との時間は非常に楽しいものだったと明確に覚えていた。そして。


「あなたはすこやかなときも、やめるときも、よろこびのときも、かなしみのときも、とめるときも、まずしいときも、これをあいし、ささえ、うやまい、ともにあることをちかいますか?」

「ちかいます」


 この場で、2人だけでやった、やらされた結婚式ごっこ。あの子の20歳年上の従姉が結婚式を挙げたことの真似だろうことは当時の僕にも分かっていた。そして、これはママゴトと同じようなものだとも。

 あの子の頭に草花で作った冠が申し訳程度に載るだけで、カッコウは僕もあの子も普段着のまま。そんな子供の遊びだったのだが。

 ちかいます。

 僕のその言葉には、嘘や誤魔化しは一切なかった。僕は彼女とずっと共にあると思っていたし、そうありたいと望んでもいた。嗚呼、望んでいたのに。

 ミーンミンミンミンミン……

 まだまだ終わりそうにない蝉時雨の中、僕は小道を戻って小山から下りる。そこからまっすぐ家には帰らず、ちょっと離れた場所の川へと向かった。ずっと、ずっと、避けていた場所だ。

 どぅどぅどぅどぅ、流れゆく水が激しい音を響かせるのが聞こえた。戻りたい、戻りたい。なかったことにしたい、なかったことにしたい。そんな気持ちを抑えつつ川辺に向かうと、そこには昔と変わらぬ景色が広がっていた。

 東京で見る川よりずっと狭い川幅、しかしながらずっと早い流れと激しい音、時折見える魚影、遠くに見える日本家屋を含めた景色までもが僕の幼少期のそれと何も変わらなかった。この川辺で、あの子は魚影を探して、その魚がどういう動きをするのかを観察するのが大好きだった。

 あれは8年前の夏だった。僕は両親に連れられて母方の親戚の家へと連れて行かれた。その間のことだった。あの子は1人でこの川辺までいつも通りやって来て、そして。


 帰らぬ人となった。


 目撃者がいなかったので、何があったのか真実までは分からない。ただ、川の方へ行き過ぎてしまったか、足を滑らせたかのどちらかで、事件性はなさそうだという予想だけ。しかし、僕にとってその真実はどうでも良かった。あの子は帰らない。死んでしまったことに変わりはないからだ。

 僕が一緒にいれば。僕が一緒にいれば。そんなどうにもならない後悔が頭の中をずっと渦巻いていて、一時期は此処に限らず何処の川辺に行くのも嫌に感じていたのだが、今となっては此処以外に嫌と感じるような川辺はない。記憶が遠くなってしまったのだ。

 激流に揉まれ、傷だらけになってしまったあの子の身体、ずっと悲痛な叫びをあげ続けていたあの子の家族の姿、視界の端で離れなかったあの子の血の幻影、今では何も浮かばなくなっていた。此処に来ても見えるのはあの子が死んでしまった前と同じ景色だけで、違うのは何となく嫌に思う違和感だけ。

 ミーンミンミンミンミン……

 変わらぬ蝉時雨さえ、僕を薄情者だと嘲笑っているような気がしてならなかった。あの子はたくさん怖い思いをして、あの日から先の未来さえ失ってしまったというのに、僕は今日までずっとのうのうと生きて、かつあの子のことをじわりじわりと忘れてしまっている。

 西へ傾き始めた太陽を背に、僕は祖父母の家への帰路についた。少し背を丸めながら歩くと、間もなくして祖父母の家が見えるようになった。いつから建っているのかさえ分からない、この家がボロいのは変わらない。そして、隣が空き地なのも変わらない。

 この空き地にはあの子の家があった。あの子が死んでしまってから1年後、彼女の両親は此処から離れた場所へ引っ越していったのだ。何処へ行ったのかは誰も知らない。そして、その時に彼女の両親はあの子の遺骨も持って引っ越していったので、この地にはあの子の墓もない。

 あの子が此処にいた痕跡、それは物理的なものが何一つとしてなくなってしまっていた。だからあの子はもう、僕の思い出の中にしかないというのに、僕はその思い出さえも手放そうとしている。嗚呼、僕は薄情だ。薄情な人でなしだ。


「おかえりぃ」

「夕飯まではもうちょい時間かかるぞー」


 家に帰った僕はお気楽な祖父母・両親の話し声を背に、今は物置と化した自室だった部屋へ行った。

 この部屋にはあの子もよく遊びに来ていた。ただ落ち着きが若干欠けた子でもあったから、ジェンガをすれば即座に倒し、トランプをすればすぐ投げ出し、その末に僕の手を引っ張って「外で遊ぼー」と言い出すのがよくあるパターンだった。僕が宿題をしていても、何をしているのかと覗き込んで、さっきのパターンになるのもよくあることだった。

 ん? ふと、僕はスマホのランプがついて、LINEのメッセージが届いているのに気が付いた。スマホを鞄に入れっ放しで、持たずにこの村の中を出歩いていたのだということにも、今気が付いた。

 そのLINEは東京でのクラスメイトからで、このように書かれていた。


『今日からおじいちゃんおばあちゃんの所へ行っているんだってね。どういう場所ですか? 東京よりは過ごし易いですか? また会えるのを楽しみにしています』


 そのメッセージを見ただけで、僕は東京での自分を思い出してしまった。彼女とは今のところただのクラスメイト同士の関係ではあるが、2人でLINEを交わすくらいの仲、友達以上恋人未満くらいの関係になっていた。そして、東京での僕は確実に彼女へ惹かれ始めていたと。

 何してるのー?

 あの子がいたならばそう言って僕のスマホを覗き込んだだろうし、数年前にはそんな幻聴が聞こえもした。しかし、今となってはそれもない。部屋にはただ、静寂の中で呆然とした僕がいるだけ。

 あの子は此処にいたのに。此処にいたというのに。今の僕はあの子と関係のない女性とLINEしている。


『ごめん、スマホ持たずに出歩いてしまって、レスが遅れた。こちらは東京よりは過ごし易いかな。まあ、セミがうるさいのはこちらも変わらないけれど』


 罪悪感と伽藍堂な胸の内を身に沁みながら、そんな返信をした。その頭の片隅で、この返信を見た彼女が笑顔でいてくれたら良いとさえ思ってしまう。そんな自分がとてつもなく薄情と言うか、情に欠けた極悪人にさえ思えた。

 ミーンミンミンミンミン……

 鳴り止まぬ蝉時雨さえ、そんな僕を責めているように思えた。




 数日経って、僕は両親と共に東京へ帰った。その間にクラスメイトの彼女と何度かLINEのやり取りをした。そのメッセージには恋の「こ」の字もないものだったけれど、そのやり取り一つやるごとにあの子の記憶が薄れていくような気がしていた。

 忘れてはいけない。忘れてはいけない。そう思っていても、あの子の形がもう何処にもないから、心の内にさえ留めおくことが出来ない。今ではもう、あの子の顔や声さえもが思い出せない。その忘却に対してずっと罪悪感もあったのだが、その罪悪感さえも次第に希薄になっていた。


『2学期になると、すぐ体育祭だね。今年こそ優勝出来るよう頑張ろうね』

『ああ。リレーのバトン渡しの練習をしっかりやって、今回は失敗のないようにしよう』


 そうやって東京に戻っても、僕とクラスメイトの彼女はLINEのやり取りは続いていた。話題は勿論、あの子がいなくなってからの出来事、あの子がいないこれからのこと、そんな話だけ。だって、彼女は長野のあの子のことを知らないのだから。

 そうやって東京にいると、思うのは学校が始まれば毎日会うクラスメイトの彼女のことばかり。東京でのことばかり。

 鳴り止まぬ蝉時雨はこちらでも長野と何一つ変わりはしないのに、日常の中ではあの子の幻影さえないことにふと気付く。そして、それが今ではもう悲しく感じられていないことにも気付く。

 嗚呼、やはり僕は薄情なのか? 薄情な人でなしなのか?

 答のない自問自答を繰り返す僕を嘲笑うかのように、蝉はただ、無機質に鳴き続けて時雨となるばかり。

 ミーンミンミンミンミン……

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