ニャルラトホテプ神話『舌』

幻卜

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   ニャルラトホテプ神話 『舌』



   Dear Lovecraft, with love to Nyarlathotep

  (親愛なるラヴクラフトとニャルラトホテプに愛を込めて……)




 すべては一人の少女の虚言から始まった。


 チユが最初についた嘘は「ママ学校は楽しいよ」だった。

 「その食べ物知ってるよ、美味しいよね」「私見たことあるよ」「ペットなら私も飼ってるよ」

 すべては嘘。何の意味もない嘘。

 いつしか、誰もチユの言葉を信じられなくなった。それもそのはずだった。

 十二歳の頃、チユの母は10歳上の男と結婚した。男はチユより一つ上の姉がいた。

 チユは近い歳の女が怖かった。

 チユの姉は自信満々で、横暴でわがまま、自信もなければ内気なチユをすっかり見くだしており。堂々と嫌味を言ったり、蹴って転ばせたり、雑用をなんでもチユに押し付けた。

 チユは姉が憎かった。嫌いだった。一人、自分の世界に籠ったときは何度も何度も姉を殺して、惨い死にざまを妄想した。

 現実、それ以上にチユは姉が恐ろしかった。大嫌いのはずの姉にがむしゃらに媚びた。

 本音などとうに忘れた舌は虚言を吹き、チユは手慣れた道化で姉を笑わせようとした。

 姉が自分を見て笑っているうちは、同じ空間に居ても息をすることが出来たのだ。

 姉が笑っている。

 しかし姉はチユが面白くて笑っていたのではない、チユが馬鹿らしくて笑っていたのだ。

 そんなことはチユもわかっていた。それでも道化も、虚言も自分ではどうすることもできず、チユの心を置いてけぼりにした。

 苦しい。心と現実がかみ合わない。自分を守ろうとすればするほど、心が壊れていく。

 自分だけが知る粉雪が積もった草木の影で、チユは土に膝をつき、指を絡めた手を胸に抱きしめて願った。

 「ああ、誰か、私の舌を引っこ抜いてくれ。それが無理なら神様、

 こんな私をどうか愛してくれ」


 その時だった。

 さらさらと風がとがった針葉樹の葉を掻き分ける音がした、風は雪をはじき、その重みで頭をもたげていた茶色い雑草はちくりとチユの頬を撫でる。目の前が眩い光に一瞬包まれたかと思えば、次の瞬間には、森の深い緑の闇が眼前に広がった。

 空気が変わった。穏やかな冷たい木陰の空気が、細胞を刺す冷たい冷気に変わった。

 チユは顔を上げた。

 そこにはない道があった。森のずっと奥まで続いている。肌を刺すのは冷気じゃない。恐怖だ。チユはそこに惹かれるものがあった。

 チユは暗い、細い道を進んだ。寒さに指先がかじかみ、恐怖に立つ鳥肌を摩りながら進んだ。

 暗い森の先にいたのは人間だった。大きな楕円型の切り株に腰を落とした一人の少年がいた。少年はアジア特有の褐色肌に、漆黒の髪、身にまとっているのはチベット民族の伝統的なチュバに見えた。チベット人なのだろうか。しかし少年が身につけているアクセサリーは珊瑚やトルコ石などを使った伝統的なものではなく、幾何学模様の入った冷色のターコイズ石だった。

 少年はチユの存在に気が付くと、まるで西洋彫刻のように美しい顔を上げた。神のいたずらか、ミス一つない造形は顔を上げほほ笑むその時まで、まるで生き物だとは思えなかった。チユは少年の美しさに惚れ惚れした。それと同時に生理的な恐怖も感じた。理由は分からなかった。しかし少年と目が合った時、無意識にチユの足は一歩後ろへと後退った。

「チユ、いらっしゃい。君にふさわしいと思う姿で会いに来たんだ」

「私に?」

 少年は小さく頷いた。大きなターコイズの耳飾りが揺れて、少年の頬を優しく打つ。

 「僕の名前は奈亚拉托提普(Nyarlathotep)」

 「奈亚拉托提普?」

 少年はまた小さく頷く。

「哀れで、不幸な君を救いに来たんだ。僕は知っている。人は君を嘘つきと言うがそんなことはない。君の優しい嘘は、誰かに心配をかけさせまいとしてきた結果だ。そんな君が、誰かから気にかけられたいと思うのは、しごく当然のことだよ。君に嘘を吐かせて、そのくせ守って愛しもしないみんなの方がどうにかしている。そんなことは君もわかっている。君は愛に、理解に飢えている。その飢えは不安と不満の中に生きた人間なら持つ然るべきもので、それを抜きにさえすれば、君はとびっきり優しくて繊細と言うことを僕は知っている。もっとも、僕はそんな君の弱さすら愛する。だってそれも君なのだから、だから君を愛する」

 「あなたは本当に神様なの?」

「そうさ。僕の力は、歴史を変える天才に一%のきらめきを与える予言と、この凍てつく北東の冬の空に、夏の太陽を咲かせ得る奇跡の方法を知っている。その証明のため、僕から贈り物を君にあげよう」

「一体、貴方は何をくれるの?」

「今夜君の父さんは豚の心臓を友人からもらうだろう。その心臓の中に指輪を入れておく。その指輪は君以外が触れると火傷をしてしまう。僕たちにだけ触れることが許された特別な指輪を君に送ろう」

「指輪!なんて素敵なの!」

 「豚の心臓と、酸菜で酸菜血肠を作って一緒に食べようじゃないか」


チユは風を切って走り出す。厚く積もった雪がチユのために道を開け、足取りは爽快で、自分がまるで満ち足りた野兎のように軽やかに飛び跳ねる。そして心は自信と愛と溢れていた。

 この幸福を今すぐにでも、誰かに言ってやらねば気がすまない。そう、あの傍若無人の姉に言ってやらねば気がすまない。お前には愛してくれる男は居るのか?しかも、その相手はどれくらい地位がある人間か?いや、大富豪だろうが、王様だろうが敵わないだろう。チユの心は満ち足りていた。しかし心に巣食う闇は晴れなかった。それどころかどんどん膨れていった。姉を、姉を見返したい。姉の悔しがる様をこの目に焼き付けたい。

 チユの腹はすっかり欲望と憎悪、そして愉悦で沸騰していた。興奮で顔が真っ赤にのぼせていた。頭の中は奈亚拉托提普よりも姉の事でいっぱいになっていた。


日暮れの田舎は蛍光灯が少ない。遠くの方に霞む都会の放つ光は、昇る朝日のようにまぶしいが、その光も見えるだけでこの村を照らしてはくれない。

家に着くと姉がいた。家に着いたチユに一言もなしに、ソファーに背を預け読書をしている。いつもなら、姉の姿を見るや否や蕁麻疹が走って、怒りとストレスのあまり腕の皮膚を掻きむしっていた。だが今日は部屋に戻りもせず、腕を掻きむしるわけでもなく、チユはゆっくり姉に近づく。姉はそんなチユに気が付くと、眉をピクリと顰めて不愉快そうに顔を歪めた。


 「私。恋人が出来たの」

 「どうせ妄想でしょ。嘘つき」

 「本当よ。私の事を理解してくれて、そんでもって愛して、私を満たしてくれる恋人よ」

 「嘘つき。こんな狼少女愛せる人間なんていないわ」

 「人間じゃないわ、神様なのよ」

 「あっはははははは!!」

 姉の甲高い、つんざくような笑い声が部屋に響き渡る。ビリビリと空気が緊張し、陶器の食器がカラカラ音を立てて震えた。チユが大嫌いな声だった。この笑い声を聞くと毛穴が開いて全身の毛が抜け落ちそうになるのだ。何度も夢に出てきてチユの神経を逆立てた。

 「嘘だと思ってるんでしょ」

 チユは涙を堪えるような、震える声で言った。その間にも必死に姉を見くだすような嘲笑は顔に張り付けていた。しかしその虚勢はかえってチユを弱く見せた。

 「誰だってそう思うわ」

 ソファーに腰を掛けたままチユを見上げる姉の瞳は、確実にチユを見くだしている。

 「今夜、父さんが帰ってくるわ。父さんは友人から豚の心臓をもらってくる。そしてその豚の心臓を半分に割ると中に指輪が入ってる。私の恋人からの贈り物なの。その指輪は私にしか触れられない。私以外が触れるとやけどするのよ」

 姉の口元から笑みが消えた。目には鋭い苛立ちの光を宿して居る。その目にチユは思わず腕を組んで顔を引き攣らせた。

 「ただいま~」

 これ以上ないタイミングで、父は帰ってきた。大きなクーラーボックスを右手に下げている。

 「今日友人から、豚の心臓をもらったんだ。今夜はこれで酸菜血肠でも作ろうか」

 チユと姉は顔を見合わせた。お互い額に汗が滲んでいた。動揺した姉の顔にチユは不敵にニッと口の端を吊り上げる。

 「父さん、その心臓半分に割ってよ」

 姉はチユの前立ちふさがり、父に向って言った。父は突然のことに目をぱちくりさせるが、いいけど、と頷いて快く了承する。

 父がクーラーボックスを開けると中には雪が敷き詰められていた、保冷剤代わりの雪を退け、中から出てきたのは拳サイズの心臓で、血抜きはしっかり施されている。何も知らない父は「おいしそうだな~」とのんきにほほ笑むと、心臓を左手で抑え、右手で持った包丁を心臓に押し込んだ。

 チユと姉はその様子を瞬きも忘れ、食い入るように見ていた。チユは中から指輪が出てくることを期待した。対して姉はこの心臓が、肉の詰まったただの心臓であることを望んだ。


 「ん?なんだ、これ」

 父は豚の心臓から包丁を抜くと肩をすくめ頭を傾げた。チユと姉は父の反応に、異常性を察し身を乗り出す。まな板の上、半分に切られた心臓の中から出てきたのは……。

 黒い指輪だった。

 「指輪?豚が飲み込んだのかな、でもここ心臓だしな……」

 父は黒い指輪に手を伸ばす。チユは少年の言葉を思い出した。チユと少年以外は指輪に触れることはできない。火傷をしてしまうのだ。チユは今にでも父の行動を制止させなければと思ったが、父はすでに親指と人差し指で指輪をつまみ上げていたのだ。

 「いっっ!」

 父は目の前まで指輪をつまみ上げたとたん、突然に顔を顰めて、悲鳴を上げると持っていた指輪を宙に放り投げた。体制を崩した父は床に尻もちをつき、チユは反射的に指輪を受け止めようと駆けだした。

 宙にはじき出された指輪は、まるで引き付けられたように丁度チユの左手の薬指にピタリと収まる。薬指の付け根で輝く漆黒のリングはずっと長い間一緒だったみたいに肌に馴染んだ。

 チユの胸に温かさが広がった、自分は愛されているという自信と、その相手は人知を超越したモノである優越感と、それから姉の増上慢の鼻をへし折ってやったという愉悦で踊り出しそうであった。


 「きっと、誰かのいたずらね」

 姉は吐き捨てるように言った。

 「なら、なんで私がそんなこと知ってるのよ」

 「あなたはその光景を見ていたからよ」

 「なら、なんで放り出された指輪が私の指にぴったりと収まったのよ」

 「偶然よ」

 「なら、なんで父さんはこの指輪で火傷をしたのに、私は平気だったのよ!」

 「火傷なんてしてないわ!熱い物なんか、どこにもなかったわ。父さんは急に指が痛くなっただけ、当然でしょ。指輪は熱くない、触れて無事な貴方自身がそれを証明しているわ!」

 言いがかりだ。姉の言葉は真実でも正論でも現実でもないひどい言いくるめだ。そんなことはわかっていた、だが血が上って回らない頭では何も言い返すうまい言葉が見つからない。だけど、状況的に有利な立場にいるのはチユの方だ。

 「それで、私を言い負かしたつもり?悪いけど、私の彼は本当に神様なの、何度だって予言が出来るわ。何度だってね。いつまであなたの苦しい言い訳が通用するのか楽しみね」

 「あなたこそ、今まで虚言のレパートリーが尽きないところ尊敬するわ。だけどいつまで頼りの偶然があなたの嘘っぱちの見方をするのかしら、全く見ものだわ」


 翌日、チユは目が覚めると一目散に奈亚拉托提普の元へ駆け出した。

 奈亚拉托提普と出会うための、道は覚えている。雪を踏みとがった草を掻き分け、チユは奈亚拉托提普のいる場所へとたどり着いた。

 少年は昨日と変わらぬ姿で、切り株の上に鎮座していた。

 「おはようチユ。指輪は気に入ってくれた?ところで君に聞きたいことがあったんだ、ずっと不思議だったんだよ。なんで南西人はただで熱い地域なのに、真夏に熱いお茶を飲むんだろう。そして東北人はなぜ真冬に冷たい白酒を飲むんだろうね」

 奈亚拉托提普は呑気に透明の酒が入ったガラス瓶を回した。中に入った酒が渦を巻いて強い白酒の爽やかな香りがその場に散漫した。嗅ぎなれた、俗っぽい酒の匂いが奈亚拉托提普の神秘的な色気に霞をかけた。人間臭く感じた、それがチユには感に触った。

「ねぇ、貴方の力を貸して!予言力を、奇跡を私にちょうだい!姉が、あの忌々しい女が、貴方の存在をどうしても認めようとしないわ。お願い奈亚拉托提普!豚の指輪なんかじぁダメよ、神様なんでしょ?だったら常識も自然の法則もひっくり返えせるような奇跡を起こして!」

 「……もちろんだよ。君が望むならどんな願いでも叶えよう」

そんなチユの傲慢にも、少年は何も変わらないやさしさに満ちた笑顔でこころよく承諾した。

 「今晩、君のために日食を起こそう。18時きっかりに外に出てそれを見上げてごらん。漆黒の満月の裏に、君は黄金の太陽の夕焼けを見ることが出来るから」

今は満月、月の周期的にも、太陽系の法則的にもあり得ない。もし本当に空に新月が、太陽と月が偶然にも重なる日食を起こしたのなら、それは正に天地を、宇宙の法則をひっくり返したことになる。

 「ありがとう。奈亚拉托提普、あなたのこと愛してるわ」

 「ああ、だけど今度こそは酸菜血肠、一緒に食べようね」

 にこりと、奈亚拉托提普は何を考えているかわからない、無機質な笑みで走り去るチユの背中を見守った。


 「新しい予言をもらったわ」

 家に帰ってすぐ、チユは姉の前に立ちふさがった。その顔は自信に満ちていた。ソファーに座っていた姉は心底チユを煩わしそうな目で睨み上げた。これ以上私に関わるなと強い眼光でうったえていた。

 しかしチユはそんな目だけでは、引かない。耳をひっつかんででも鼓膜に予言を流しこんでやるつもりだった。

 「今日、日食が起こるわ」

 「は?」

 「あり得ないと、そう思ってるんでしょ?無理ないわ。だって今日は満月のはずだもの。日食はおろか、新月だってあり得ない話だわ。日食が起こる確率は340年で一度。現代の科学ではそれを予測できる。だけどここ最近そんな報告は一切ない。そんな特別なことが今日18時にきっかりに起こるのよ!」

 姉は手に持っていた本でチユの頭を殴った。衝撃で本は姉の手を抜けて地面にパサリと落ちる。表紙の少女は涙目だった。

 「起こらないわ!」

 「起こるのよ!!奇跡なの、奇跡すら私は操れる。だって奇跡そのものが形を持った『神様』が私の事を愛してくれているんだもの」

 身を乗り出し、チユはつま先立ちになって姉を真上から見くだす。頭のてっぺんがじんじんした。じんじんと痛みを感じれば感じるほど、眼球が熱くなって今にも涙がこぼれそうになる。チユは拳を握りしめて耐えていた。対して眉を吊り上げ、目玉が飛びでそうなほど目を開いた姉は、怒りで顔を真っ赤にし、今にでもチユに掴みかかりそうであった。


 「た、大変だぞ!!」

 二人の間に走る緊張感の糸は、酒焼けした父の声によってぷつりと切れた。二人ははじかれたように声のする方向に顔を向ける。

 「二人とも来てみろ!空が、すごいことになってるぞ!」

 父が家の外から二人を呼んでいる。

チユと姉は弾かれるように時計を見た、時刻は17時59分。予言であった18時のちょうど1分前だ、2人は慌てて靴を履き外へ飛び出した。


 そこには想像を絶する光景が広がっていた。

 空に浮かぶ新月が太陽を食らっている。黒い月が太陽の光に身を包み、漆黒の球体が暗黒をそのままに、黄金色の光線はなっている。

 依然として眼前に広がるは、日食。ただの日食でなく、尚もまれもない皆既日食である。

チユは拳を握りしめて、歯を食いしばり、喜びに耐えたが、思わず口角が上がってしまう。

 チユは思う。

間違いない。少年は神だ。そして私は神の恋人で、誰よりも特別な存在で、誰よりも特別な愛を享受しており、そして誰よりも特別な奇跡を自由に操れる。

間違いない私はこの世の誰よりも偉大で、人知を超える立場をものにした。もう私を認めない人はいない、信じない人はいない、話を聞かない人間はいない。もう私を否定できる人間などいないのだ。

 「確かに、こんなことが出来るのは神くらいのものね」

姉の言葉にチユは勝ち誇ったように胸を張った。

 「だけど、そいつが本当に神かなんてわからないわ」

 「どういうことよ」

 「あなたは予言した奇跡はどれもその恋人本人とは関係ないものばかり、もしかしたらそいつは神そのものなんかじゃなくて、神の声が聞けるだけのただの狂人かもしれない。いや、もしくはもっと低俗な、神と自称してるだけの虚言癖かもしれないわ!」

 「違う!彼は神よ!彼は人間じゃない!奈亚拉托提普は神だわ!」

 めちゃくちゃな言いがかりでも、チユには心当たりがあった。彼は確かに「君のため、ふさわしい姿出来た」と言った。

「なら人間じゃない本当の姿を見せてもらいなさいよ!貴方の恋人でも、ほかの何者でもない、本当の姿を!」


 チユは走り出した。風を切って走り出しだ。雪を掻き分け、奈亚拉托提普の元まで、息も整えず、走り出しだ。

 だが、道中。約束の場所に着くよりも先に、奈亚拉托提普はチユの前に姿をあらわした。

 奈亚拉托提普はチユの顔見るとまるで心を読んでおり、状況がわかっているように悲しそうな目でチユの瞳を見つめていた。

 「おねがい」

 「そのお願いは叶えられない」

 「本当の姿をみせて」

 「そのお願いは叶えられない」

 「私の願いならなんでも叶えてくれると、あなたは言ったわ!」

 奈亚拉托提普は一度、悲しそうに目を伏せた。

 「君は結局、僕のお願いを一つも叶えてはくれなかったね……」

決心がついたように、少年は目を開く。

「さようなら、チユ」


パリッ

 美しい少年の褐色肌が一本の亀裂が走った。

 バキバキと頬から蜘蛛の巣のようなヒビが広がっていく、一瞬悲しそうな輝きを見せた少年の美しいターコイズの瞳は真っ黒に染まる。世界的美術館の歴史的な彫刻を自分の手で壊してしまっているような罪悪感がチユを襲う。

 褐色の肌は色味を失い卵の殻のように無機質で淡泊。パリパリと皮膚の殻を触手で弾き破壊しながら、隙間からはぬらぬら黒光りする蠢く触手が何本も絡みあい、また時折、隙間から舌を覗かせるようにチロチロと細い触手が飛び出した。

 その光景はさながら昆虫の脱皮を見ているような気持ち悪さと、生命が生まれ変わろうとしている神秘を感じさせる。しかし中から出てくるのは地球上の生命などでは決してない。

 チユは思わず立ち尽くした。この場から逃げようとも、頭に血が上ってソレに殴りかかろうとも思わなかった。ただ、頭のてっぺんから指先までゆっくり熱が靴裏を通って、積もった積雪に流れていくようであった。異常ともいえる少年だった物体が、人知を逸し、関わってはならなかったのか、人の頭で理解してしまった寒気、吐き気、恐怖の渦潮に飲まれる。

口から息を吸った、肺が膨れ、腹が凹んだ。「助けて」が言えたならどれほどよかっただろう……。

 蠢く混沌ニャルラトテップの真なる姿を見てしまったチユは、喉からつん裂くような金切り声を上げるよりも先に、自分の舌を噛み千切って死んだ。



 ト梅幻卜

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