第9話

赤子は奇跡的に助かった。

お風呂で充分体を温められ、そして早朝にも関わらず奔走して見つけて来たミルクを与えると、それまで眠ってばかりいた赤子が力強くグングンとミルクを飲み出したのだ。

ケンも東雲も貞夫人もその力強さに感激した。

ミルクをお腹いっぱい飲むと、赤子はパッチリ目を開けてケンの目をまじまじと見た。

ケンが、

「おはよう!圭介。お母さんですヨ。」と話し掛けると、

安心したのか、かわいいあくびをした。

ケンが赤子を肩に担ぐようにすると、赤子はゲップをした。

あくびをしたりゲップをする度に三人は驚き大笑いした。

まるで、この家に天使が舞い降りたような気がした。

赤子はおしめを取り替えると満足したのか。また気持ち良さそうに眠り始めた。


ケンは改めて二人にお願いした。

「先生、奥様、先程は取り乱してすみませんでした。

でも、どう考えてもこの子を手離す事は出来ません。

捨て子として届け出る事はしたくありません。

それに、この子を私の養子という形にもしたくはありません。

この子は運命の子なんです。

何かの力によって私の腕の中に与えられた気がして仕方ないんです。

何かが、これはお前の子供だヨと私に授けてくれたに相違ないんです。

そうとしか考えられないんです。」

ケンは二人にそう訴えた。


やがて東雲が、

「ケン、私達はお前がしたいようにさせるつもりでいるヨ。

だがよーく考えてごらん。

この子がお前のお腹から生まれた子供としてもじゃ。

いずれ大きくなった時には、父親のいない子供になるんだヨ。

その子が、お父さんは誰?お父さんはどこにいるの?

と言われてお前はどう答えるのかネ。

世間からもお前は父親のない子を生んだと白い目で見られるだろう。

まあ、ケンはそれでもいいだろう。

だが子供の世界は存外言いたい事を言うものだ。いじめられる事も多かろう。

そういう先々の事は考えたかネ。

お前の覚悟は勿論だが、その子の苦しみまでも充分覚悟しなければ、先は遠いからネ。

私達はいいヨ。毎日が楽しくなるからネ。

ケンの子供として、子供の爺、婆として楽しみながら可愛がれるのだからネ。


まあ、出生届け等は少しぐらい遅れても良いらしいからの。

少しというか充分考えてみるのだネ。」

東雲は必死なケンを落ち着かせるように話した。


それから、東雲夫妻はケンの連れて来た赤子を好意的に迎えて一緒に可愛がってくれた。

だが、ケンには考えなければならない事が山程あった。

今は幸い、新しい職場に勤める前の休暇中だが、その仕事をどうするかという事だった。

生まれたての赤子を抱えていては、すぐに仕事に出掛ける事が出来ない。

だが、この先、子供を自分の力で育てていくためには収入が必要で、今の仕事を手離す訳にはいかない。

それに夫のいない状態で子供を生んだとなれば、世間の目は冷たくなるだろう。

この子を捨てた者も何らかの事情で育てていく事が出来なかったのだと思う。

今は自分の身の回りの事を考えているが、先々の事を思うと子供の成長につれて問題が起こって来る事が予想される。

考えれば考える程、独り身の自分には簡単な事ではないのがわかる。

里の母にはまだ知らせてはいなかった。

もう少し落ち着いてからと思う。

どうする事も出来なくなったら母の助けを借りる事も頭をよぎったが、果たしてケンのこの決断を母チセは賛成してくれるだろうか?

いつの時にもケンの事を信じ応援してくれていた母だったが、さぞ驚くだろう?

そして他人の子供を育てる為に、新しい幸せの道を捨てる事になると悲しむだろう。

ようやく、姑から解放された事を知り安心している所に…。

ケンは母チセに話す事を迷っていた。

その間にも、一日経てば二倍、その翌日には三倍と、赤子への愛らしさと愛情は増していくばかりだった。

そんなある日、三日ぶりに東雲の所に山田医師が往診に来た。

東雲の脈や血圧を測りながら、

「何だか顔色が良いですネ。何か良い事がありましたか?」

と聞いた。

少し黙って考え込んだ東雲が、

「先生、医者は患者から聞いた事は秘密を守って下さるんですネ。」と聞いた。

山田医師は、

「ええ、そうですが、何か誰にも言えない事があるんですか?」

と笑いながら答えた。


東雲はこのおおような性格の医師がすっかり気に入っていたので、それに信頼のおける人間だと見込んで、

今日で三日目になる赤子騒動の一軒を洗いざらい話して聞かせた。


「そういう訳でケンはその子の本当の母親になると決心しているようじゃ。

まあ届け出をすればすぐにもそういう形に出来るとは思うのじゃが、先々の事を思うとあの娘は苦労するのが目に見えておる。

折角、やっとと言うか嫁ぎ先の姑から解放されて、これから本当に幸せを掴めるという身になったのに。

その矢先に思わぬものが授かって、私も妻も複雑な気持ちです。

あの娘はとても気立てが良くて儂ら夫婦はあの娘を養女にしようとさえしているくらいです。

ゆくゆくは誰か良い人に嫁がせて、今度こそ幸せになって欲しいと願っていたんじゃが、もしもあの赤子を生んだという形にすれば、そんな幸福も遠のくでしょう。

先生、今言った事は患者の愚痴だと思って誰にも他言無用に願います。」


山田医師はその話をじっと笑いもしないで、真面目な様子で下を向いて聞いていた。

話が終わっても何の相づちも打たないで暫らく沈黙が続いた。

東雲がまた、何かを話し出そうとすると、山田医師が真剣な面持ちで、


「東雲先生、私がケンさんの婿になるというのはどうでしょうか?

私には、まだ妻はありません。

私では不足でしょうか?」

突然にそう言ったのである。


東雲は呆気に取られてしまった。

三日前の赤子といい、今日の医者の申し出といい、

まるで天から次々と御仏様が降らしているのではないかと思った程である。


「東雲先生、この事は昨日、今日思いついた事ではないんです。

ケンさんは気付いていないかも知れませんが、実は私はあの人が十六か十七の頃から知っているのです。

一度、ケンさんと話させていただけませんか。」

東雲は驚き慌てて妻を呼んだ。


そして、その少し後にはケンと山田涼医師は屋敷の広い中庭を歩きながら話す事になった。




「ケンさん、私は実は貴女の事をずっと以前から知っているんですヨ。」

「えっ?」

「圭介と同じくらい古くからネ。」

「えっ?」

「そうです。私は圭介と友達です。

ケンさんを見たのも一緒でした。あのヤマゲンの屋敷でです。

憶えていますか?

酒に酔って具合を悪くしたのが圭介で、それを介抱していたのが私です。

思い出しましたか?」


ケンは思い出していた。

具合の悪い友人を肩に担ぐようにして来た、背の高い人。

裏の戸を開けてやると外に出て、一人が吐いているようだった。

やがて中に入って来ると、青白くグッタリしている一人を何かと介抱していた人。

おばさん達が戻って来る気配がすると二人共逃げるように立ち、去り際に

“どうもありがとう”と言って、ニッコリ笑った。

背の高い優しそうな人だった。

あの人がこの人だというのか?

ケンはあの時の人が圭介だといつの間にか思っていた。

いや、いつの間にか思おうとしていたのだった。

でも、山田医師を見た時、何か懐かしい感じがしたのはあの人だったからだ。

あの宴会の夜はまだ十六歳で、賑やかな場所が苦手で一人台所で留守番をしていたのだ。

いきなり入って来た若い男の人の顔をまじまじと見ることができる自分じゃなかった。

お礼を言われて、ニッコリ笑いかけられたあの時、一瞬見ただけだった。

その時の嬉しさが暫らく胸に残っていた事を思い出す。

それから二年程して縁談があった時、あの時の人?と思い、あの淡い記憶があったからこそ、その気になったような気がする。

圭介さんと初めて会った時、あの時の印象とは違うと思ったけれど、圭介さんは優しくて誠実な人だった。

今初めて、あの時ニッコリ笑って“ありがとう”と言った人が圭介さんではなく、この人だったとわかった。

そうだった。

ケンはあの時の事を思い出していた。

「僕と圭介はネ、ずっと親友だったんだヨ。

進む道は違ったけれど気が合うし、考える事も食べ物の好き嫌いもよく似ていた。

あの夜もヤマゲンに呼ばれて行ったけれど、あまり気が進まなかったんだ。

他の連中は大いに盛り上がっていたけれど、そのうちに慣れない酒で圭介が悪酔いして、具合が悪くなってネ。

あの時は振り袖を着て着飾った女性が何人も来ていて、ああ、これは集団見合いみたいなものかなーって思ったんだけど、そういう場は二人共苦手だし、圭介も具合が悪くなるしネ。その場をこわしちゃいけないと、こっそり抜けて裏の方へ行く事になったんだ。

そこには清楚な娘さんが一人っきりで留守番をしていた。

おやっ?と思ったんだ。

年配のおばちゃん達まで加わって全員で賑やかに盛り上がっているのに、何故一人っきりで?と思ったんだ。

そしたら、具合悪そうなのを察して、

“裏口はこちらです”と言って、裏の戸口を開けてくれたじゃないか。

そして圭介が胃袋の物を全部吐き出して、俺達が戻って来るとタオルを濡らして絞った物を用意してくれていた。

僕はそのタオルで圭介の口元や手などを拭いてやった。

すると今度は冷たい水を入れた湯呑みを差し出したじゃないか?

憶えている?

僕はあの時、本当に感心し、感動したんだ。

座敷では着飾ったお嬢さんたちがキャーキャーしていたが、奥の台所で一人絣の着物を着た清楚で可憐なその人に会えた事が僕にとって、とても新鮮だった。

ケンさん、生死の境をさまよって死んで行く人を数多く見て来て、更にこの年になったからこそ言えるんだけど、僕はあの時一目惚れをしてしまったんだヨ。

僕が最後に“ありがとう”って言ったのを憶えているかい?

僕はあの時、

「また、きっと会おうネ。」と言いたかったんだ。

けれど、まだ若くて、ありがとうって言う事だけで精一杯だった。

でも本当はそういう気持ちだったんだ。

君はまだ若くて、そんな僕の気持ちはわからなかったろうけどネ。」

山田医師は笑いながら話している。

背の高いその人を時々仰ぎ見ながら、あの具合の悪い人を介抱していたあの青年がこの人だったとケンは驚きながら見ていた。

だから初めて会ったにもかかわらず懐かしい気がしたのだ。

「僕はネ、あの時、若いせいもあったし、酒の酔いもあったからか、あの絣を着た可憐で清楚な女性にそれは物凄く夢中になったんだ。」

山田医師はあの頃を懐かしむように頬を染めて話した。

「帰ってからも圭介にしきりに君の事を話したんだヨ。

あの人は野に咲く一輪の、なでしこの花のようだとか。

嫁に貰うなら絶対あの人にするんだとか。

早く一人前の医者になって、あの人をもらい受けに行くんだとかネ。

そして圭介に、

お前はあの人をよく見ていないだろ?

あんな人はそんじょそこらにいないきれいな人だヨ。残念だったナー。

と自慢までして、若かったナー。

するとそれまで僕の話を聞いていた圭介が、

見ていたサ、俺だってしっかり見ていたヨと話すじゃないか。

僕は尚更、得意になってあいつに話したものサ。

吐きそうなのを察して裏戸を開けてくれた時に、二人分のつっかけをサッと用意した事や、その後にはタオルを濡らして冷たいおしぼりを用意してくれた事。

その後には冷たい水まで用意してくれた事。

僕はすっかり有頂天になって自分が見て気が付いた事を得意げに全部、圭介に話して聞かせたんだ。

あいつは僕のその話を聞いてすっかりケンさんを好きになってしまったんだナー。


圭介からケンさんを嫁に迎えて祝言をあげたと書いて来た時は、正直、僕はショックを受けて悔しかったヨ・

横取りされた思いだった。

僕の気持ちを知りながら先に嫁に貰うなんてと思った、そして自分の軽はずみに後悔したんだ。

あーあ、あいつにあの人の良さを話すんじゃなかったってネ。

あの時は後悔したナー。」

そう言って山田医師は振り返って笑いながら頭を掻いた。

「全て後の祭りだったんだ。

だが手紙の最後に圭介はこう書いてあったんだ。

まだ本当の夫婦にはなっていない。

指一本触れていない。

戦争が終わって無事帰って来たら、その時は本当の夫婦になるつもりだ。

その事を君に宣言しておくってネ。

あいつはあいつなりに俺に仁義を通すつもりだったのだろう。

それなら戦争から帰って来た時に正々堂々とケンさんと本当の夫婦になって、尚、僕にも会えると思ったんだろう。

僕はあいつに裏切られた気持ちで怒りを感じたけれど、その最後の文面を見て、あいつのあいつなりの僕に対する気持ちを感じて諦めるしかないと思った。」


そう言って優しそうな目でケンを見た。

そして、

「以上、告白は終わりです。」と言ってから、

「もう一つ、東雲先生の往診のケンも告白します。

先生は以前から月に一度はうちの病院に通院して、その担当は平先生だったんだ。

先日、急に具合が悪くなられたあの電話を受けた時、丁度平先生は患者さんを診ていたんだ。

その時僕は自分から、行きます!って手をあげました。」

そう言って手をあげて見せた。

ケンは思わず笑ってしまった。

「君が東雲先生の所にいる事も、そこから僕のいる病院に勤めるのも全部知っていたからネ。」

どうして?という思いでケンは見た。


「君が今までいた病院の院長は僕の叔父なんだヨ。僕の母は院長の姉、あの家から出たんだ。叔父夫婦には子供がいない。

僕を自分の子供のように可愛がってくれて。

だから僕も医者の道を目指した。

ついでに今度の君の仕事は、僕に最初に話が来て、僕がここの院長に話したのサ。と言ったって、僕達の青春の思い出や圭介との繋がりなんか叔父夫婦は全く知らないけどネ。

以上、告白。全部これで終わりです!」と言ってから


「だから僕はもしもケンさんと自分に縁があるのなら、時間をかけて少しずつ少しずつ育てて行こうと思っていたんです。

だけど、さっき東雲先生から事情を聞いて、今こそ打ち明けるべきだと思ったんです。

ケンさん、僕と結婚してくれませんか。」

山田医師は、その時ばかりは顔を赤らめて少年のような顔をした。

そのはにかんだような笑顔を見た瞬間、


ああ、この顔だ!この目だ!

間違いなくこの人だった!

とケンの記憶のその人と一致した瞬間だった。


ケンは夢のように嬉しかったが、しかし十六の頃の娘ではなかった。


「ありがとうございます。お気持ちは本当に嬉しく思います。

でも先生の方は大丈夫なんですか?

私には子供がいるんですヨ。あの子には私が必要なんです。」と言った。


「だからです。だからですヨ、ケンさん。

あの子には母親だけじゃなくて父親も必要です。

だから僕は時間をかけてはぐくむ所を一足飛びにこうして告白したんです。

これでも一世一代の勇気を振り絞ったんですヨ。」


最後はおもしろおかしく冗談っぽく話したが、それも精一杯の照れ隠しだという事がケンにはわかった。

ケンも今こそ心を決める時だと思った。

ケンは改めて向き直ると、

「私のような者でよろしかったらお願いします。」

と答えた。山田医師は、


「あーあ、安心した!ありがとう!」

と本当に嬉しそうな顔をした。

こうして二人はあっという間に、まるで本当か夢かわからぬ程のスピードで大きな事を決めたのだった。


しかし、ケンには一つ心にかかる事があった。

それを相手に話さずにはおけない事があった。

ケンが看護婦になって多くの病人をその目で見るようになったからこそ鮮やかに蘇って来る記憶があった。


それは祖母の菖蒲から聞かされて育った話だった。

菖蒲は繰り返し、繰り返しこう言った。

「ケン、これはお前だけに話す事なんだから、よーく聞いてケンの胸の内におさめておくんだヨ。

きっとチセは知らんじゃろう。

私はチセに話した事がないからナ。

だが、私の連れ合いの武麻呂もチセの連れ合いの石麻呂も若くして亡くなった事は知っている。

あるいはチセのお祖母のサト婆が幼い孫達に堪忍部屋の事を何か話して聞かせた事はあるかも知らんが、詳しい事はわからない筈だ。

チセには今更どうしようもない悲しみを呼び起こさせる事もあるまい。

だがケン、お前は別だ。

お前には父親の石麻呂や祖父の武麻呂の血がまぎれもなく流れているからの。

だから、婆はお前にだけは話しておかなければならぬ。

何の血か、何の災いの血かわからないが、ケンの体の中にも確かに“古池”の血が流れているのだからナ。」

そう言って話す時の菖蒲は、遠い昔を懐かしむような目をしたものだった。

その頃にはとうに落ちぶれて、その昔、多勢の使用人を使っていた事があった等、影も形もなくなっていたが、菖蒲の娘時代の使用人は山に入る者も入れれば、何百人という数の者達を使っていたという。

その隆盛期の人の出入りの賑やかさ華やかさを思い出すのだろう。

そして、一途に思いつめた娘心が、やがて数ある縁談を断り続け、偶然、神社の森の道で出逢った武麻呂の事を思い出しているようであった。

前世から結ばれていたと信ずる程に心の通い合った武麻呂だったが、一緒になって一年半も経たずに逝ってしまった。

だから菖蒲の思い出の中の武麻呂はいつまでも若く美しいままの姿なのだろう。

その人から死の間際に語られた、この死病の真実、都の実家では代々“呪い”として恐れられ直系の男の子だけに伝わる“死病”の事を。

菖蒲は何度、ケンに話して聞かせたか。

まるでそれは恐ろしい昔話を聞くようだったが、菖蒲は話す度に、その時々の苦しみ悲しみを思い出しては顔を歪ませて話すのだった。

幼い頃のケンは、その話はあまりに恐ろしくて聞くのが嫌だと思う事もあった。

お婆様は何故こんな恐ろしい話を私にするのだろうと思った事があった。

だが菖蒲はケンの体の中にも“古池の血”が流れているからにはこの事はしっかり覚えていて、次の代にも話して行かなければならないと言う。

お婆様は尚も語った。


「私は、まさか息子の石麻呂にまではその呪いの病はうつりはしないと信じていた。

まさか、まさか遠く離れたこの土地にまで古い都の呪いの亡者が追いかけては来ないとたかを括っていたんだ。

だが、その恐ろしい病はとうとう息子の石麻呂の腹の中にまで棲みついてしまった。

それを知った時の私の気持ちは誰にもわかるまい。

この自分が好んで死病に憑りつかれた男を婿にしてしまったのじゃからの。

家がこんなに落ちぶれてしまったのも元はと言えば、この婆の一途な思いから出た事なんじゃ。

いいや、自分一人きりの事なら後悔などしない。

子供を持たずに死ぬならそれで良かったんじゃ。

だが私は石麻呂を生んだ。あの時の喜びは子供を生んだ者にしかわからないだろう。

私の両親もそりゃ喜んだ。

だが病に伏していた武麻呂は生まれた子が男の子だと知ると、喜ぶどころか急に絶望的な顔をした。

それがどんなに恐ろしい苦しい病か、自分が身を持って知っていたからだ。

あの時、武麻呂から聞いた禍々しい話を私は信じなかった。

この愛らしい我が子、石麻呂にそんな祟りがあるなんて。

石麻呂が立派な青年になってチセを嫁に貰って幸せになった時にはすっかり忘れていたくらいだ。

だが恐ろしい話は完全に忘れる事はないものだ。

忘れたいと思い、忘れたふりをしていただけだ。

あの堪忍部屋の事はいつも耳の後ろにひっそりと張り付いていた。

そしてある日突然、息子の石麻呂がそのおぞましい死病に憑りつかれた事を知った時には身の毛がよだった。


これは婆の恐い昔話なんぞではないぞ!

ケン、よく聞いて胸におさめておくのだぞ。

お前がやがて娘になって嫁に行って子供が授かったら、もしも一人目が女の子だったら、その一人でやめておけ。

二人目も女の子だったら良いが、二人目がもしも男の子だったらこの婆のように辛い思いをする。

女の子だけ授かる薬は無いものかのー。

ケン、お前がそうなる頃には世の中は変わっているかも知らん。

今まで、誰もわからなかったこの死病にも、偉いどなたかが説明をつけてくれるかも知らん。

だがケン、この事は本当の話でお前にも起こる事を決して忘れるではないぞ。」と

この話は何度も何度も聞かされた話だった。


婿に迎えた武麻呂が由緒ある公家の“古池”という家の出で、代々、直系の男子だけに伝わる呪いの死病。

その死病は必ず二十代の若いうちに憑りつかれ苦しみながら死んでしまう。

もだえ苦しむ様を家族から遠ざける為に離れた所に堪忍部屋という地下牢のような部屋を作ってそこで苦しみ死んで行く。

ケン、お前の祖父武麻呂も、都から遠いこの地まで来て、逃れられたと思ったろうが結局、逃れられなかった。

あの閉じてある北向きの奥の部屋でケンの祖父もケンの父親も苦しんで死んだのじゃと。

幾度も念を押されるように聞かされた話だった。

大人になった今のケンには、祖母菖蒲の気持ちがわかるような気がする。

この話を子孫の伝えて心構えして貰うという事もあるけれど、祖母は誰かにこの辛さを聞いて貰いたかったのだ。後悔や苦しみ悲しみ辛さが胸を幾度も襲った事だろう。

気位の高い祖母だった。気安く村の女房達に自分の事を話すような人じゃなかった。

唯一、吐き出せるのは孫のケンだけだったのかも知れない。



圭介との縁談の時にはあまりにも突然の事で、ワラワラとした状況の中で伝える事が出来なかったし、正直、次から次と押し寄せる難題や仕事に振り回され無我夢中で思い出す事のない話だった。

だが今、ケンは今、この人、山田医師と一緒になろうとしている。

今いる赤子が育ち大きくなる頃には自分達にも子供が授かるだろう。

今話さなければならない。

話さないで一緒になったら嘘をつく事になる。

秘密を抱える事になる。

ケンは看護婦になってから、腹の中に瘤のような物が出来て、苦しんで死んで行った患者を見た事があった。

この事を黙って口をつぐんだまま一緒にはなれない。

ケンは思いきって打ち明けた。

お婆様から聞いた話を思い出す限り、山田医師に話しをした。

自分の体の中にはそういう血が流れている事を包み隠さず話した。

山田医師は黙って聞いていた。

最後まで、一言も口を挟まないで聞いていた。

ケンが最後に、

「だから、私のこの体の中には“古池”という家から伝わるそういう血が流れていると思うのです。

そして、やがては生まれてくる子供にも、その血は受け継がれると思うのです。

それでも構わないのでしょうか?」

と恐る恐る話した。

山田医師は暫らく考え込んでいる様子だった。

ケンは相手はこの話を聞いて心変わりしたのではないかと思って不安になった。

子持ちの、しかも何か曰く呪いの血を受け継ぐ女を好き好んで嫁にする者があるだろうか?

ケンが不安を抱えたまま黙ると、

山田は初めてその様子に気付いたように我に返り慌てて、

「その事で私の気持ちが変わると思ったのですか?

今、僕は何かで読んだ事のある遺伝について思い出そうとしていたのです。

確かに遺伝する病気はあります。

もしかしたら、その病気もそうかも知れないと考えていたのです。

決して呪い等ではありませんヨ。

でも安心なさい。医療の分野は日々発展しています。

腹の中に瘤が出来ても、手術で取り除く事が出来るようになりました。

昔なら無理だった事も早い段階で見つければ治る病気です。

男、女の産み分けも、今は出来ませんが、将来は出来る日も来るでしょう。

ケンさん、僕は医師ですヨ。そして貴女は看護婦です。

二人が力を合わせればどんな病気にだって立ち向かえます。

安心なさい。

クヨクヨ考えないで。

その時が来たら、その時考えましょう。

今から先の事を考えて悩むのは馬鹿げています。

僕も医療班として戦地へ行きました。

多勢人が死んで行くのを見ました。

戦地へ行かなくても空襲で犠牲になって命を亡くした人はどれだけいたかわかりません。

戦争は悲しく残酷なものです。


ところが、僕も貴女も運良く生きています。

この命を有難く受け止めましょう。

天から授かったあの子も感謝して大切に育てましょう。

平和な時代になったのです。

私達は出来るだけ幸せに生き、亡くなった人達の為にも寿命を全うしましょう。

僕はそれをケンさんと共に送りたいのです。

いいですか?ケンさん。

二人力を合わせれば何だって乗り越えて行けます。」

山田医師はケンの目を見て力強く言った。


その力強い言葉にケンは、この人をすっかり好きになっていた。

子供の事や世間体の為だけじゃなく、泣きたくなる程、幸せを感じた。

本当はずっとずっと昔から、あの十六歳の時から好きだったのかも知れない。そう思った。


やがて、ケンは里のチセの了解を得て東雲夫妻の養女になった。

次に山田医師と婚姻の届け出を出し、その後に子供の出生届を出した。

名前は“圭介”にした。

山田も今は亡き親友圭介に何がしかの思いがあったのだろう。

ケンが、「違う名前にしましょうか?」と言うのに、

「是非、圭介をもう一度生かしてやろう。

彼だって生きたかった筈だ。夢だって沢山あった筈だ。

だから、この子を圭介の生まれ変わりだと思って大切に育てよう。

立派な人間にしよう。」

そう言ってくれた。


何もかもトントン拍子に進んで、派手なお披露目は何もしなかったが、ケンと山田涼はあっという間に結婚し、しかも一児の親になった。

それをもしも知ったなら、元の知り合いはさぞ驚くだろう。

特に元の義母や義妹は怒るかも知れない。

だがあの世にいる圭介なら笑って許してくれるような気がした。

住まいは東雲先生宅の離れの部屋で始まった。

だが食事は何もかも先生夫妻と一緒なので、賑やかなものになった。

それに何よりも山田の性格の明るさにケンは大いに助けられた。

慎重で何かと先々の事まで考え気を遣うケンに対して、何とかなるさ的な性格の山田はいつも笑ってケンの背中をポンとたたいてくれた。

ケンは幸せだった。

東雲をお父さまと言い、貞夫人をお母さまと言って暮らした。

東雲もすぐ側に医師と看護婦が付いてくれると安心し大いに喜んだ。

が、年には勝てず三年後に亡くなった。

九十二歳だった。

大往生と言えるだろう。

東雲が亡くなるとどうしても貞夫人が淋しそうに思えて、里から話し相手にチセを呼んでみた。

お互い気を遣い合うのを心配したが、二人は、若い頃の女友達に再会したかのように最初から仲が良く気が合ったようだった。

話にも花が咲いて何をするにも一緒、出掛けるのも一緒だった。

それはチセが年上の貞を気遣い大切にしてくれるからで、ケンは何も心配せず遠くから時々二人を見ていれば良かった。


山田と一緒になってから結局ケンは子育ての為に勤めには出なかった。

夫人も高齢になっていたので、ケンは子育てと家事に専念する事になったのだ。

東雲が亡くなって長男の圭が三歳になる頃、ケンは身ごもった。

それを知った時、女としては喜びながらも祖母の言葉を思い出し、いよいよその時が来た!と身構える気持ちになった。

もしも男の子だったらどうしよう。

ケンが何も言わないのに山田は、

「何を心配している。男の子だっていいじゃないか。」と言って笑ったが、

ケンは出来たら女の子であってほしいと思った。

その願いが通じたのか生まれたのは女の子だった。

チセも貞も何も知らないので、ケンの心の内を知る由もなかったが、ケンはホッとし安心した。

それから無条件な喜びが波のように次から次へと押し寄せて来た。

ケンは今や一男一女の二人の子の母親になったのだ。

母屋にいる二人のお婆は孫達を可愛がってくれ、二人で面倒をよく見てくれた。

女の子の名前は“桃子”になった。

生まれたばかりの時、赤子の眠る顔を見ながら夫婦で名前をどちらにしようか話し合っていた時の事だった。

ケンが花の名前をつけたいと言った。

山田と二人でいろいろ考えて最終的に、

“もも”か“さくら”に絞られた。

その時、すぐ側にいた幼い圭がいきなり、「僕、ももがいい!」と言ったのだった。

その一言で決まった。

だから、“桃子”の名付け親は兄の圭という事になるだろう。

時々、その事を話して笑い合う事があった。

その時、“圭”が、「僕の名前はどうして圭介になったの?」と聞いた。

ケンが答えるよりも先に父親の涼が、

「“圭介”というのは父さんの親友の名前なんだヨ。大事な大事な親友だったが戦争で死んでしまったんだヨ。

父さんはその親友ともっともっといろんな話がしたかった。

だから生まれたお前に親友の名前を付けたんだ。圭は父さんの親友になってくれるかい?」といった。すると圭は、

「うん、僕、父さんの親友になる。」と元気に答えた。

そういう父と子の姿を眺めて、胸を熱くするケンだった。


そういう忙しい日々の中から、少しでも時間を見つけるとケンは再び仏画を描き始めた。夫と二人の子供を得たケンの心境は以前とは違ったものになった。

従って以前は筆を持つ時、心細くて御仏にすがりつくように描いた心が、今は御仏に対して心から感謝する心に変わっていた。

「有難うございます。有難うございます。」

そう念じて描く御仏はふっくりとして慈悲深く一層優しい面差しに思えるのだ。

ケンは少しでも時間を作っては仏を描き続けた。

それがいつか、どこからか知れ渡って、ある日、画商がケンを訪ねて来た。

絵を見せて欲しいと言う。

何枚か描きためた御仏の絵を見て、是非に売って欲しいと言う。

お金の為に描いているのでは無かったが、自分の描いたものが認められる事は嬉しかった。

貞夫人も東雲の弟子であるケンが認められた事を非常に喜んでくれて、小さい子供の事はお婆さん二人が協力するからもう少し絵を描く事に力を入れなさいと言ってくれた。

それから東雲先生が使っていた画室で最低何時間と時間を決めて仏画を描くようにした。

そしてケンは思いがけなく自分の絵が画商の手から誰かの手に渡り、そこで誰かの人の心を慰めていると思うと一層、心を込めて描くのだった。

やがて子供達も手がかからない程成長した。圭も桃子も両親や二人のお婆達の愛情をいっぱい浴びて素直に育ってくれた。

そして逆に、チセを手伝って家の中の事をしてくれるまでになった頃、貞夫人が逝った。

九十を過ぎており、本人も最期が近い事を知っていたのだろう。

「ケンさんがうちに来てくれたお陰で先生も私も幸せで賑やかな生活を送れましたヨ。」

と言ったのが最後の言葉だった。

ケンは泣いた。この方々に巡り会えたからこそ今の自分があるのだと思った。

困って公園で途方に暮れていたケンを救い上げてくれた先生ご夫妻こそ、ケンにとっては観音様そのものだったのだ。そう思って泣いた。


やがて、夫も仕事が忙しく、子供達も大人びて来ると、ケンは日中、昔のようにチセとしんみり過ごす時間が多くなった。

ようやく、母との時間が取れるようになったのだ。

ケンは絵筆を持つ時間をあえて母と過ごす時間に変えた。

母チセはきっとこんな日をずっと待っていたのだろうと思う。

急に嫁に出したあの日から、母はこの日を待っていたのかも知れないと思った。

天気の良い暖かい日、

日向でのんびりしながら、

「母さん、母さんは幸せだった?」

ケンが聞くと、

「ええ、そりゃ幸せですヨ。ケンと一緒にこうしていられるのだから。」

チセは笑って答える。

「母さんはいつもじっと我慢して生きて来たでしょ?

母さんが怒ったとこなんか見た事ないワ。人の悪口や愚痴を言ったのを聞いた事もないし。」

ケンがそう言うと、

「そうだネー、怒る相手がいなかったって事だネ。

世間ではよく夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、親子喧嘩すると言うけれど、喧嘩は相手があってする事。

相手がないと出来ないのヨ。

私の場合、石麻呂さんは早く亡くなっちゃったし、喧嘩の一つぐらいしておけば良かったナと思うけど、ケンのお父さんはそれは優しい人だったのヨ。

姉とも仲良しのまんまで喧嘩をしないうちに戦災の火事で亡くなっちゃうし、たった一人娘のケンはこの通りあんまり良い子すぎて喧嘩の相手にならないしネー。」と言って笑った。

「母さん、お婆様はどうだった?嫁、姑で大変じゃなかった?」

ケンが聞くと、

「あの人は喧嘩の相手になるような人じゃなかったんだヨ

サト婆からお嬢様、お嬢様と話を聞いて育ったせいか、それが頭にあったせいか、私とお婆様は嫁と姑って感じじゃなかった。

それに何だか可哀想な人だったんだヨ。

ケンを可愛がっていつも自分の側から離さなかっただろ?

あの時は母さんも少し淋しかったけれど、ケンは何て言ったって私の生んだ子だ。今はお婆様に預けておこう。それでお婆様が慰められるならって。

そう思って畑に出て仕事していたっけ。

そこにケンがやって来た時はそれはもう嬉しかったものサ。

ケンはやっぱり私の子だ!って思ってネ。」


「それじゃ、母さんのお母さんはどうだった?私のお祖母ちゃん、お酒が好きな人だったんでしょ?」

「お婆様から聞いたのかい?」

「ええ。」

チセは遠い昔に思いを馳せる目をした。

「今のこの私の年になってよーくわかるんだヨ。あの、おっかさんの気持ちがネ。」


世間では“妲己の花”なんてあだなを付けられて陰口を言われて、サト婆が死んだ時も、おとっつあんが死んだ時も、涙一つ流さないで逆に陽気に振る舞って、なんて情の薄い人かネーと、私達子供に聞こえるように言っていたおばさんがいたけれど、おっかさんていう人はネ、それはよーく気が付く人で、人の気持ちに敏感な人だったんだ。

私のうちはネ、そりゃ大変な貧乏だったんだヨ。

若い頃から体が弱いのか働きの悪いお父ちゃんに文句一つ言った事は無いんだヨ。

お酒を買うお金が無いから、こっそりと、どぶろくを作って、近所の仕事仲間を呼んで楽しく飲ませるんだ。

そうでもしなきゃ体が弱くて気持ちも弱いおとっつあんがあそこまで仕事を続ける事は出来なかったろうサ。

仲間の人達に両脇をやっとこ支えられながら仕事に出て、うちの家は持ちこたえていたんだヨ。

おっかさんだってそうだった。

陽気にどんちゃん騒ぎをしているから丈夫で派手に見えただろうけど、本当はそんなに丈夫な人ではなかったんだヨ。

サト婆があんまりカネヤマの奥様、お嬢様の事を気にするから幼い子供を寝たきりのサト婆に置いて走って手伝いに行き、がむしゃらに人の畑を手伝って家に帰って来たんだろう。

私がおっかさんの代わりに手伝いに行くようになった時、ポロリとそんな事を言っていたっけ。

サト婆の為に暗いうちに行って帰って来る事がよくあったって。

それをお嬢様だったケンのお婆様がどこまでわかっていたか、きっとわかってはいないだろう。


お婆様という人は私に向かっても誰に対しても、うちのおっかさんの悪口一つ言う人ではないけれど、おっかさんの事をどこまでわかっていたのかしらネ。

精一杯生きて、最後には男達に混じって働いて体をこわして死んで行ったおっかさんの事を理解出来なかったろうと思うヨ。

私はネ、お婆様に嫁いびりされた事もないし、自分の事は何の不満もないけれど、亡くなった私の母親の事を思い出すと何だか無性に哀れで悔しくなるんだヨ。」と言った。

暫らく沈黙が続いた。

ケンも黙っていた。するとチセが気持ちを切り替えるように、

「ケン、お前は良い旦那様に恵まれて、東雲先生ご夫妻に巡り会って、二人の子供にも恵まれて、本当に良かったネ。

お前は人一倍、気が付いて、人に気を遣ってしまう所は私の母親のハナに似ているから苦労しそうで随分心配したんだヨ。

亡くなった圭介さんの家では随分苦労をしたんだろう?

心配をかけまいとして私にはそんな所見せないようにしていたけど、あの姑さんを見て想像していたんだヨ。

人というのはネ、自分の努力でいくらでも幸せになれるというけれど、自分ではどうする事も出来ない事があるものなんだヨ。

私はネ、年をとったのか。

この頃、やけに自分の母親の事を思い出すんだヨ。私はおっかさんが大好きだったんだヨ。だが、それを言ってやれなかった。

それを言う間もなく逝っちゃったからネ。

だからいつかあの世へ行った時、私はネ、おっかさんにぴったりくっついて、


おっかさんよく頑張ったネ。

私はネ、おっかさんがどんなに頑張ったか知ってるヨ。

私はおっかさんが大好きだヨって、そう言ってやろうと思うんだヨ。」

チセは空を見上げながら話をした。

ケンはそういう小さな母に思いっきり抱きついた。

「私だって負けないくらい母さんが大好きなんだヨ。母さんが里で一人ぽっちで私の事を心配しているのがよーくわかっていた。

だから頑張れたんだヨ。

母さんは世界で一番の私の自慢のお母さんだヨ。

母さん、長生きしてネ。

ずっとずっと百まで長生きしてネ。

そして、死ぬ時は一緒に死のうネ。」

ケンは抱きついた腕を離さないでそう言った。

「何を言ってんだい。馬鹿だネ、この子は。」

チセはそう言いながらも幸せそうだった。


そういうチセはケンが五十になるまで生きていた。

まだまだ惜しい年だったが、風邪をひいたのかと思ったら呆気なく安らかにあの世に旅立ってしまった。

今頃は大好きな母親の側で楽しくしているだろう。

若死にしたケンの父親の石麻呂にも会えただろうとケンは想像した。






その頃には二人の子供は大人になっていて、息子の圭は医者にはならなかった。

ケンが絵を描く姿を見て育ったせいか、絵の道に進み、大学を出た後暫らくして外国に行きたいと言い出し旅立って行った。

そして二年程して帰ってからも、まだ絵が売れる所までいってないらしく、外国から帰ってからも学生時代に知り合った女性と一緒に暮らして絵を描いている。

たまにその女性と二人で顔を出す事がある。

あっけらかんとして明るい顔をしている。

そんな息子が帰った後、父親の涼が、

「あの楽天的な性格はやっぱり俺に似たらしいナ。」と言った。

ケンも笑うしかなかった。でも大丈夫だろう。

あの二人はいずれこの屋敷に帰って来るだろうし、一緒の女性もしっかりして見えたから…。

娘の桃子も無事嫁いだ。

相手は医師だ。

涼が仕事ぶりや性格を見込んだ相手だもの。心配はないだろう。

ケンはそう思う事で自分を安心させた。



この頃、安心したせいか、胃の辺りが時々チクッとする事がある。

気のせいかなと思ったが、消化の良いものを食べるようにしているのにどうもおかしい。

年のせいかナ?それともあの例の遺伝では?と思い気になる。

ケンはこの頃、自分だけお粥を作って食べ始めた。

その様子を見て夫の涼がすぐにケンを病院に連れて行った。

そして娘婿と一緒に開発されたばかりの胃カメラというものを口から入れて胃の中を検査した。

結果はやはり腫瘍が出来ていた。

瘤のように大きくはなかったが、それでもその事を正直に知らされた時ケンは、

やっぱり、私にもあのおぞましい古池の血が流れている事を実感して恐ろしくなった。

しかしすぐに気を取り直して、


「祖父や父は二十代で亡くなっているんです。

それなのに女の私は五十過ぎまで生き延びれました。

もう充分幸せに生きました。私は満足して逝きますヨ。」

と夫に精一杯の笑顔を向けて言った。

「ケン、君は死なないヨ。

その為に俺達がいるんだ。」と夫が言うと、

「そうですヨ。お義母さん、僕が手術をします。

そして必ずお義母さんをお助けします。」と娘婿が力強く受け合ってくれた。


その後、

胃を切除する手術を行った。

腫瘍は小さく初期だったが再発するのを恐れて、ケンの胃は大きく切り取られた。

退院してからも昔のようには食べられないけれど、流動食にして一日に何回かにして分けて食べるようにした。


そして今日も一人、御仏様の絵を描きながらケンは思う。

あのまま放置していたら、胃の中の腫瘍はやがて大きな瘤のようになり、七転八倒する苦しみを招いただろう。

だが医療が進歩した今、そして身内に医師が二人もいてケンの命は危ない所で拾われたのだと思った。

この遺伝は男の子にだけ伝わるものではなかったのだ。

女にもやはり伝わるものだったのだ。

体の造りや何かで涼は女性の何とかが影響するのかも知れないと難しい事を言っていたが、女性は男の人よりも若干遅く症状が出るだけで、やはりその何かは体に持っているのかも知れない。

桃子にもしっかり話しておこう。

昔のように呪い等という事を話せば笑われる時代になった。

だが確かに桃子の体にも潜んでいる筈だもの。

いや、私が言って桃子を恐がらせないでも、既に夫の涼が桃子の夫に話しているだろう。

ケンは退院し自宅療養をし、体力が回復すると、夫の涼に都に行ってみたいと言い出した。

それから大事をとって更に二ヶ月後、大丈夫と判断した涼と二人で生まれて初めて二人で旅らしい旅をした。


数ある寺の仏像を見るという目的もあったが、ケンが一番に行きたかったのは、お婆様から聞いて覚えていた神社だった。

最初に車を降りたそこは由緒正しい立派な神社だった。

名前も間違いなくお婆様に聞いた通りだった。

ここが祖父の武麻呂が生まれ育った所なのか?と改めて見上げた。

ケンは普通の参拝客のように神社の鳥居をくぐり参道を行き、お賽銭を入れて拝んでから、社務所の方に行き、中にいる若い男の人に、

「もしや、こちらの神主さんは苗字を古池さんとおっしゃいますか?」と聞いてみた。

すると、「いいえ、違います。」という返事が返って来た。

もう一度、「古池さんという方がこちらの神主さんだと伺って来ました」と尋ねると、

困ったような顔をして、

「ああ、それならここを少し行った所に昔から商っているダンゴ屋さんがありますから、そこのお年寄りなら知っているかも知れません。」と言う。

ケンはお土産屋さんが立ち並ぶ通りを見て歩きながら、物知りのかなり老齢の人を紹介して貰った。

やはりダンゴ屋の店の奥からもう百歳に手が届きそうな小さなお爺さんが現れた。

ケンが、

「遠い昔に亡くなった私の祖父がここの出だと聞いています。

こちらに来たついでに寄ってみました。

“古池”という苗字に心当たりはありませんか?」

と聞くと、頭はしっかりしているらしく、

「ええ、ええ。知っておりますヨ。

ここの神社は由緒正しい神社で、元はお公家さんだった古池さんが代々引き継いで来ましたが、あそこは何故か男のお子さんが育たないというか長生き出来ないという噂がありましてナ。女の子が生まれると婿を取って受け継いで来たんですワ。

ところが、そうじゃナー、何十年前になりますか娘さんに婿さんを取りましたんですが、生まれて来たのが男のお子さんでした。

また、次も男のお子さんで、昔から事情を知るこの界隈ではその事が話題になった事がありました。

結局、女の子は生まれませんで、そしてやっぱり男のお子さんはお二人共、若くして亡くなられました。親御さんはそりゃ肩を落としておられました。

それからですワ、外から人を入れるようになったんですワ。

ええ、古池さんは神主さんも奥さんもとうに亡くなって今は途絶えました。

不思議ですナー、あの後、あの由緒ある苗字を何故か誰も継ごうとしないのですから。

勿体無いと思いながらも、世間ではこう言っているんですワ。

由緒があるという事はそれ相当の歴史があるという事で、その歴史の中には何か禍々しい事があったのではないかなんて、私のまだ若い頃に噂を聞いた事があります。

それにしても、貴女の亡くなられたお爺さんという方は本当にここの出なんですか?

私も長生きしてますけど、そんな話、聞いた事もありませんが、

名前は何ておっしゃる方でしたか。

お祖父さんという方はどこにお住まいでしょうか。」等と老人はいろいろ聞いてもっと話をしたいようだったが、

ケンは話を濁して、お礼を言った。

お土産にダンゴを買って参りますと言って話を切った。

夫の涼はケンの気持ちを察して何も口出しをしなかった。

帰り道、淋しい気持ちになった。

恐らく古池の家では、祖父の武麻呂が遠い土地に婿入りした事を公にはしなかったのだろう。

ケンは心の中でお婆様に話し掛けた。

「お婆様、お祖父さんの里はもうなくなりました。もう古池の人間はこの世から消えてしまいましたヨ。

古池の家は途絶えてしまったのですヨ。」

と話し掛けた。

きっとあのお婆様が一番この神社を見てみたかったに違いないと思ったからだ。


もう夕暮れになっていた。

その夕暮れがまた一層、ケンの心を侘しくさせた。

「私のお祖父さんの里は途絶えてしまったのネ。」

と背中を守るようについて来る夫にケンは、ポツンと言った。

「もう何も無くなってしまったのネ。」と…。

だが夫は、

「途絶えてはいないヨ。ケン、君がいるじゃないか。

桃子もいる。苗字こそ違うが血は途絶えちゃいないんだヨ。」

そう言って笑っている。

ケンも夫の顔を見て思い直した。


そうなんだ。


お婆様は自分のせいで家が没落したって後悔したけれど、

祖父の武麻呂が希望を持ってあの古池の家を出て菖蒲の婿に入ったお陰で、ケンの父の石麻呂が生まれ、石麻呂も古池の家の血の犠牲になったけれど、私が生まれて、私は今まだこうして生きている。

そして私から桃子が生まれた。

桃子も子供を生むだろう。

これからは男だから女だからと恐れずに沢山子供を生めばいい。

そして、体に気を付けて生活をすればいい。

これからの医療はどんどん進歩するだろう。

この病が遺伝なら、その遺伝をどうにか出来る時代も来るだろう。

もう恐れる事はないのだ。

桃子にもその事を伝えておこう。


ケンは旅行から戻ってからも自分の体を労わりながら、日々、御仏の絵を描いている。

絵を描きながらいろいろな事を思う。

今まで若くして命を失った人すべてに手を合わせながら、一筆一筆描く。

その中にはお祖父さんもいる、ケンの父もいるそして、戦死した圭介もいる。

また、今もなお、血を吐くように生きている人に少しでも光あれと願いながら描く。

最後に

自分の寿命はあとどれ程かはわからないが、今日も一日この世に生かされている事に深く感謝しながら、

ケンは一筆、一筆を丁寧に丁寧に仏が現れるのを待つように描いて行く。


お祖父さんありがとう。

お婆様ありがとう。

お二人の出会いのお陰で私は今、こうして御仏様と向き合っています。

ケンは心からしみじみと二人の出逢いに感謝するのだった。


おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

昔話 絢(ケン) やまの かなた @genno-tei70

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ