第8話

絵を描き始めてからは正看になろうという気持ちはいつの間にか無くなっていた。

ケンは毎日の看護婦としての仕事には全神経を注いで働いたが、それでも自分の背中にはいつも“絵を描く”という事が日向のあの温みのようにあって体と心を温め続けている所があった。

東雲先生は以前は弟子をとっていた事があるのかどうか?

ケンには弟子に対するような厳しさは少しも無く、いつも父親か祖父が可愛い我が娘か孫に教えるような優しさがあった。

きっとそれは、ケンが絵師になる為に描くのでは無く、自分の魂の為に仏を描く事を望んでいると思っているからだろう。

ケンにも又大それた気持ちは無かった。

今はただ、夫人に見せて貰ったあの絵に救われ何とも言えず魅せられて、自分の仏を描きたいという一心だった。

先生はいつも、

「ケン、これを見なさい。ケン、これを使いなさい。

次はこうして、その次はああして。」

とヨチヨチ歩きの子供の手を取るようにして教えてくれた。

そして、いつも口癖のように、

「急いではいかん、急ぐ事はない。仏は待っていて下さる。」と言った。

「この御仏はお前を辛抱強く待っておられる。自分の全部を注ぎ込む気持ちで描きなさい。かすかな線もおろそかにしてはならんぞ。

この御仏がこの菩薩様が自分の一生で唯一無二の菩薩様と思う事じゃ。

実際、この世に幾千、幾万の菩薩様がおられようとも、今、ここに現れ、巡り逢われる菩薩様は他にはおられないのだからの。

ケンだけの菩薩様じゃ。

どんな細い線一つ、小さな点一つも祈るように丁寧に描きなさい。

ケン、お前が仏様を見るように、御仏も、お前を見ている事を忘れてはいけないヨ。」

といつも温かく包むように教えて下さるのだった。

ケンは東雲先生の言葉を一つ一つ大事にしながら、急がず焦らず少しずつ観音菩薩を描いて行った。

この希望があったからこそ、ケンは忙しい一日一日を苦労とも思わず不服も感じないで過ごす事が出来た。

戦争が終わって世の中は様変わりしてザワザワしていたが、ケンの心は静かだった。


そんなある日、病院に義妹のカズが訪ねて来た。

何年ぶりかに改めてみる義妹は、前の印象とはかなり違って見えた。

確かにケンより二歳年上だった筈であるが、以前はどこか棘のようなものを感じさせるところがあったが、その棘がとれて優しそうな笑顔になっていた。

「ケンさん、お久しぶりですネ。

母がいつもお世話になりながら会ってお礼を言う事もなくて大変失礼しました。」と言った。

ケンは驚いて何も言えなくて、ただ深々と頭を下げた。

そうしながらも、この人はきっと今幸せなのだ。幸せな人の顔だと思った。


義妹は急に親し気な言葉使いになって、

「母さん、ここに給料を貰いに来ているんですって?ごめんなさいネ。

どうしてああなってしまったのか。昔はあんなでは無かったのヨ。」

そう言ってため息をついてから、

「きっと兄さんの戦死を聞いてからネ。ケンさんは知っているんでしょう?」

と、ケンを上目遣いに見て言った。


ケンは町長から話を聞いた事は伏せて、お母様が何も言って下さらないので私は何も知りません。

ただ、世間の噂話はいろいろ耳に入って来ます。でも、私も圭介さんは生きていると信じています。

いつか必ず帰って来ると思っています。」と答えた。

すると義妹のカズは、

「こういう事をケンさんに話すのは残酷で私も心苦しいんですけど、兄さんは恐らくもうこの世にはいないと思います。

こういう話は私がするべき立場ではない事は解っているけど、でも、母さんがあんな状態ですから、私がケンさんに伝えなければと思って来たんですヨ。

このままでは母さんは一生ケンさんを家に縛り付けておくに決まっています。

兄さんが戦争にとられた悔しい思いを誰かに向けないではいられないんです。

そして、それがケンさんなんです。

私はこの頃、ケンさんが気の毒で仕方がないんです。」と本心から気の毒そうに言った。


「ありがとうございます。

でも、私もお母さんと同じです。

圭介さんはいつかひょっこり帰って来るような気がしています。

まだ待っていたいんです。

少なくとも、お義母さんから出て行きなさいと言われるまでは圭介さんを待っていたいと思います。」

そう言うケンを義妹はまじまじと見つめて帰って行った。




とうとう、ケンの観音菩薩様が描き上がった。

それは信じられない程の出来栄えだった。

静かで穏やかで慈悲に満ちた美しい御仏様が現れたのだった。

描いた当のケンでさえ、これが自分の手によるものだとは思えない程だった。

正しく御仏様がケンの手を少しだけ借りて、この世に現れて来られた思いだった。

東雲先生も貞夫人も喜んでくれた。

そして、その絵を表具屋に頼んで軸にして貰った。

何もかもが東雲先生ご夫妻なしには出来ない事だった。

その事はケンには充分解っていた。


東雲先生はかなりのお年だ。

だから私の為に、ご自分の持っているものを惜し気もなく与えて下さり、御仏様が現れるのを助けて下さったのだ。

ケンはいつの間にか、ご夫妻の自分に対するひとかたならぬ愛情を身に沁みて感じていた。


そんなある日、貞夫人が、

「ケンさん、お家ではまだお姑さんとまだお話していないの?」と聞いた。

もう今ではケンの仕事内容や、家での嫁姑の事情や、とっくに圭介の戦死の知らせがあったのに姑がそれをケンに知らせていない事も夫妻には話してあったのである。

「はい、相変わらずです。

私と顔を合わせるのを避けているようなんです。」と答えると、

「それでもやはり病院に貴女の給料を取りに来るのでしょう?」

「ええ。」と言ってケンは笑った。

「それが、お義母さんの唯一の気の晴らし方なのかも知れません。」

ケンがそう言うと、

「ケンさん、貴女何歳になるの?」と聞いた。

「二十三歳です。」

「じゃあ、もうすぐ二十四歳ネ。あの家にお嫁に来て一週間で圭介さんを戦争に送り出して六年以上経ったという事?」

ケンは夫人に言われて、初めてそんなに経ったのだと思った。

一日、また一日と足元ばかり見て歩いて来た日々だった。


「もう、いいんじゃないかしら?

貴女はまだ諦めていないと言うけれど、海に沈んだ船の中にいては無理だと思うのヨ。」

貞夫人はケンの顔色を見ながら気の毒そうに話した。

「ケンさん、そろそろ新しい道に踏み出しても良い頃だと思いますヨ。

義理の妹さんもそう言ってくれたのでしょ?

あの家を出て、うちにいらっしゃい。」

貞夫人の言葉に驚いてケンは夫人の目を見た。


「昨日、今日思いついた事ではないんですヨ。

ずっとずっと前から、もしかしたら最初に会った時からかしら?

先生も私も貴女の人柄、気持ちがとっても気に入って好きになったの。

何だか他人とは思えないような。

こう言っちゃ、里のお母さんには申し訳ないんですけど、自分達の娘のような気がしていたんですヨ。

ですから、嫁にやった娘が休みになると帰って来るようで、それはそれは貴女の来るのを二人共、首を長くして待っていたんですヨ。

先生はああいう方ですから、女の私のように口に出しては言いませんが、でも気持ちは同じだと思います。

先生も年を取りました。体もとても弱くなりました。

ケンさん、あの家を出てうちにいらっしゃい。部屋は沢山あります。

もう、私達の気心も知れたでしょう?何の遠慮もいりませんヨ。

ここの家に来て、ここからお勤めに出たら良いじゃありませんか。」

ケンは黙っていたが有難くて涙が滲んだ。

いつまでの今の家にいる事になるのか見当もつかない身の上だったが、いつかはそこを出なければならない日が来るだろう。

その時の事を考えない日はなかった。

里には母が待っている。

だが里に帰るのはきっと、追い出されるように、逃げ出すようして帰るかのいずれかだろうと考えていた。

そういう姿で里に帰るのはいかにも侘しい気がした。

そんなケンを夫人は、“うちにいらっしゃい”と言ってくれた。

その言葉は、ケンにとっては喘ぎ苦しむ者に手を差し伸べる菩薩のようなこの上ない安らぎを与えてくれた。


「奥様、ありがとうございます。

ここに初めて来た時から、ずっとずっと助けていただきました。

ここに来る事でどんなに救われたか知りません。

今はまだ義母から許しをいただいておりませんので、あの家を無断を出る事は出来ませんが、先生や奥様が言って下さる事はとても心丈夫です。

いつかはお世話になる日が来ると思います。

その時はお言葉に甘えさせていただきます。

どうぞよろしくお願いします。」


だが、それからもなお、同じような日々は続いて行った。

そして、それから一年程経った頃だった。

義妹のカズが病院に来た。話があるという。


屋上の洗濯物干し場でカズが言う事には、今度の土曜日の午前中に町長さん立ち合いの元に話し合いをしたいのでそのつもりでいて欲しい。

ケンさんをこれ以上、家に縛りつけておくのも申し訳ないし、実は自分達の今いる所が、大きい建物を建てる為、取り壊しになるという。

それで立ち退きを迫られているので、丁度良い機会だから、私達家族が母さんと一緒に住もうと思っている。

だからケンさんは安心してあの家を出て行って欲しい。

そういう話だった。

「お義母さんはこのお話、了解しているんですか?」

「いいえ、話しても簡単に同意しないでしょう。

だから、町長さんにも中に入って貰って話をするんです。

これが自然な事なんです。

私達にも勿論ですが、母さんにとってもケンさんにとっても良い事なんです。

ケンさんは話し合いが終わったら、その後すぐに出て行けるように準備していて下さいネ。それでは土曜日はお休みをとって家に居て下さい。」

義妹のカズはそう言い置いて帰って行った。


とうとう、その時が来たと思った。

あまりにも突然なようで、逆に遅すぎる程だったのかも知れないが、やはりケンの胸は動悸を打った。

土曜日といえば今日を入れて四日間しか無い。

ケンは土曜を休みをいただくのですぐに院長の奥さんに相談した。

奥さんは、

「来る時が来ましたネ。

でも、これが本来の自然な道ですヨ。

妹さんの言う通り皆にとって良い事ですヨ。

あそこを出た後の事なら心配しないで、ケンさんが嫌で無かったら、前に住み込みの人が使っていた部屋がありますから、当分はそこを使って良いんですヨ。」と言ってくれた。

ケンはそこで、東雲夫人から、是非、自分達の所に来るようにと言われている事を話した。

「まあ、そう?良いお話だけど、あそこは遠いわネ。」と言ってから、

「ケンさん、少し時間を頂戴。院長先生とも相談してみますから。」と言った。

奥さんには何か考えがあるようだった。


そしてその日の夕方、

いつものように夕食とお風呂をいただいた後、奥さんはケンにゆっくり話をしましょうと言ってくれた。


私達、ケンさんにはただの看護婦というだけで無く夕食やお風呂の準備をお願いしたりして、とっても助かって来ました。

ケンさんの事は気に入って手離したくないんです。

でもネ、あのお姑さんの事を考えたら、東雲先生宅のお話はとても良いお話だと思うのヨ。

ですからケンさんを手元から離す決心をしました。

ケンさん、どう?これをきっかけに新しい病院へ移る気持ちはない?

院長先生とも話し合って、東雲先生宅の近くに丁度良い病院があって、そこの院長先生とうちの先生は知り合いだから頼んでくれるって。

いろいろ急な話ばかりでケンさんも思い悩むでしょうけれど、ここは一大決心して、何もかも新しい気持ちで出発した方が良いと思うの。

それにここに居れば、あのお義母さんだもの。給料日には来る事も考えられるものネ。

ケンさん、貴女はもう立派な看護婦ですヨ。

どこの病院へ行ったって気後れする事はありませんヨ。

ああ、とは言えねー。いつまでもずっとずっと、ここにいて貰いたかったワ。」

奥さんはどこまでも優しかった。


話は着々と決まって行った。

東雲先生宅にも、今度の土曜日にあの家を出る事になりそうです。

お世話になります。宜しくお願いしますと電話した。

夫人が電話に出た。

とても喜んで下さり、先生と一緒に首を長くして待っていますと言ってくれた。


ケンは一つ一つ決まって行っても、本当にあの家を出る実感が無く、どこかフワフワして足元がおぼつかないような何かが自分を後から引き止めているような感じがあって複雑な気持ちだった。

引っ越しの荷物と言っても、布団の他は風呂敷一つにまとめられる着替えだけ、それと院長の奥さんからいただいた小さな火鉢も思い出に持って行こうと思った。

明日は土曜という前の晩、粗莚などを元の物置に戻し、きれいに拭き掃除を終えて、改めて見渡す四畳の板敷の納戸は、嫁いで間もなくから移り住んだ自分の居場所だった。

この小さな部屋で悩んだり泣いたりした事を思うと、そこは部屋というより一つの心がある何かのように、いつも見守もり包んでくれたような気がする。

唯一の、圭介の座布団を抱きしめてケンは話しかけた。

「圭介さん、私、この家を出ていくのヨ。良いんですか?

ずっとここで貴方を待っていたかったけど、出て行く事になりました。

これで良いんでしょうか?」

そう話し掛けたが、だけどその夜も圭介は夢にも出て来なかった。

本当にもう遠い所に行ってしまったのだろうか?

そう思うと悲しかった。


そして、いよいよ土曜日の朝がやって来た。


部屋にいて待っていると、

義妹のカズが呼びに来て、仏壇のある座敷に出て行った。

そこには既に、義母と町長と義妹の夫が座って待っていた。

ケンは入り口の近くに座って深くお辞儀をした。

胸が苦しい程、緊張していた。

するとカズが、

「ケンさんには今までよく尽くして頂きましたが、今日を限りにこの家を出て行っていただく事になりました。」

そう言ったか言わないうちに、突然、義母のサクが、


「何、言ってんだ!誰が決めたんだい?

本人がそう言ったのかい!」と叫んだ!

凄い剣幕だった。寝耳に水だったのだろう。

久々に見る姑の顔は痩せて十も老けたように見えた。

その険しい目がケンの方に向けられて、


「どうせ逃げ出す事を言い出したのはお前だろう!可愛い顔をして、しおらしくしていたって私は騙されないヨ。

嫁に来ましたと言いながら、本当の夫婦にもならずに圭介を戦地に追い出して、もしも戦死でもしたら、私はきれいなままですと言って別の男と幸せになるつもりなんだろ!

そうは問屋は卸さないヨ。嘘つきのずる賢い女だ!

お前のような女はネ、ここに縛り付けて一生働いて貰うんだ!

幸せになんかさせないヨ!」

サクは鬼のような形相でケンを罵った。

何故こうまで言われなければならないのだと情けなくて悔しい気も起きたが、ケンは黙っていた。

誰が解らなくても圭介さんだけはどこかで見て解ってくれている。

そう念じて我慢したのだ。

するとカズが、

「お母さん!

私が考えて私が言い出した事なのヨ。

ケンさんは一言だって出たいと言った事はないのヨ。

私達、今住んでいる所が取り壊しになるから立ち退きを迫られているのヨ。

だから一人で暮らしているお母さんと一緒に住もうと思ったのヨ。

お母さんも良いし、私達も良いし!」

カズがそう言いかけると、

「何て身勝手な事を私に相談もなく決めるんだ!

誰があんた達をうちに入れると言った!」


だからそれを相談しようと…とカズが話そうとすると、今度は風向きが変わって義妹とその夫に向けられ始めた。

町長が中に割って入ろうとしたが、燃え上がった怒りはどこにぶっつけて良いか解らず、サクは口を開いた者に向かって次々と怒りのつぶてを投げつけるばかりだった。

それはまさしく修羅場だった。

やがて町長が、

「お母さん、

戦死の知らせが入っていながら、それを当の妻に知らせず何年も隠し通して家に縛り付けておくという事が世間的にも許される事ではありません。

ケンさんは今まで十分に嫁の務めを果たしました。

この辺でケンさんを解放してあげましょう。

私への手紙で圭介君はその事をはっきりと書いています。

自分が戦死したら自分の事は早く忘れて幸せになって欲しいと。

お母さんの手紙にも書いてあったんじゃないですか?」といった。

それを聞くと、サクは突然、ワーッと泣き伏した。


「可哀想に、可哀想に。あの子は誰に似たのかあんまり優しすぎるんだ。

自分が戦死した時の事まで考えるなんて馬鹿だ!

大馬鹿だ!

その優しさも解らずにこの嫁は何ていう嫁だ。そんなに出て行きたいなら出て行け!

さっさと出て行け!

その代わり出て行く時はワラくず一本持ち出すんじゃないヨ。

さあ出て行け!出て行け!」

狂ったように叫んだ。

ケンは一言何か別れに言わねばと思ったが、この狂った義母には何を言っても怒りの炎に油を注ぐ事になると解っていた。

深くお辞儀をして立ち上がって出ると、

また、サクのワーッと泣く泣き声が背中にした。

あまりにも悲しく哀れで思わず引き返して、姑の手を取って抱きしめてあげたい衝動に駆られた。

その時、後ろにいたカズが、

「このまま出て行ってお願いだから。その方が母の為にもいいから。」と言った。

この家を出たなら他人になってもう二度と会う事もないだろう義母。

大切な息子を失った母。

大切な夫を失った妻。

同じ気持ちの者同志が何故こうなってしまったのだろう。

せめて最後に一言、ありがとうございましたと言いたかった。

だがそれもせずに、自分の部屋に戻る事になってしまった。

それが心残りで悔やまれた。

少しの荷物はまとめられていた。

カズが、

「ケンさん行く所は決まっているの?」と聞いた。

「ええ、実は。」と言いかけると、カズは、

「言わないで!私も聞かない方がいいから。」

「でも何かあったら?」


「ここを出たらお互い赤の他人になりましょう。その方がケンさんの為にもいいもの。

それにどうしても連絡が必要な時は院長の奥さんに聞くから。」と言う。

ケンが、

「これ圭介さんの座布団です。これだけ頂いていいですか?」と聞くと、

「ケンさん、物が惜しくて言ってるのじゃないのヨ。兄の座布団は兄の部屋に私が戻しておきます。ケンさんは兄の思い出になる物は何も持たないで出ていって下さい。

母の気持ちの中にもそれはきっとある筈。

そう受け取ってやってネ。」

と言われてケンは何も言えなかった。


カズが頼んだのかリヤカーを引いた男が裏口の外で待っていた。

荷物を積み終わっても、すぐにはじゃあと一歩を踏み出せないでいるケンにカズが、

「ケンさん、もしも外でばったり会う事があったら、ニッコリ笑って挨拶しましょうネ。昔のちょっとした知り合いのようにネ。」

と言った。

ケンはいつの間にか両目から涙が溢れていた。

それを見たカズは年上らしく、

「兄さんに見染められたばっかりにえらい辛い思いをさせちゃったわネ。

ごめんなさいネ。

それじゃ私、お母さんの所に行くからここでお別れします。」

そう言って、カズは仏間の方へ戻って行った。


七年間という月日がまるで何もなかったうような呆気ない程の別れだった。

物足りなさと、虚しさと、心残りの湿った気持ちで、ケンはリヤカーの男と一緒に東雲先生ご夫妻の元へ向かった。


東雲邸では文字通り二人が首を長くしてケンが来るのを待っていてくれた。

それだけが今のケンにとって唯一の慰めだった。

顔を見ただけで出て来る時の事情もおおよそ想像したのだろう。

「さあ、ここに来たからには遠慮は無しですヨ。

疲れたでしょう?

ケンさんには廊下づたいの離れの部屋を使って貰おうと思うの。

その方が一人でのんびりしたい時、出来るから。」夫人はそう言ってくれた。


わずかな荷物を部屋に入れると、もう昼もとうに過ぎて三時になろうとしていた。

「今日は早めの夕食を済ませたら、ゆっくりお風呂に入って休みなさい。

明日はお休みですから、お部屋で一日ボーッとしていたって良いんですヨ。

私達の事に気を遣わないでネ。

ケンさんがここの家にいるというだけで私達は嬉しいんですから。」と夫人は言ってくれた。


何から何までケンの気持ちを察してくれて、ケンは泣いてしまいそうだった。

人生、辛い事ばかりも無い。

こうして優しい人達もいる。

この先、自分の道はどうなって行くのだろう。


だが今は何だか疲れた。

ゆっくり休んで元気が出たら、里の母に手紙を書こう。

そう思った。

院長の奥さんが手を尽くして探し出してくれたのだろう。

ケンの勤め先の病院は随分近くにあった。

前以上に通勤距離が短く、しかも近代的で設備の整ったコンクリート四階建ての総合病院という事だった。

病院同士で話し合って決めたのだろう。

新しい病院に勤務するのは一ヶ月後という事になった。

つまりケンは一ヶ月の間、心も体も休めてゆっくりしてから新しい気持ちで努めてほしいという、恐らく前の院長の奥さんの思いやりによると思われた。

ケンにとっては有難かった。

東雲先生の所に来てから、急に張りつめていた気持ちが崩れたというのか、疲れが出たというのか、どうしても元気が出ないのだった。

奥さんは今まで、姑には内緒で給金から引いて積み立てておいた金額に餞別を加えた驚く程大きな額を渡してくれた。

ケンは驚いたが素直に受け取った。

そのお金がある事もあって、ケンはすぐに働かなくてもゆっくり心を休める事が出来るのだったが、体と違って心というものは自分で思う以上にすぐには疲れが取れるという訳にはいかなかった。

いつも心を切り替えて頑張るのだ!

今までの事は思い出にして新しく踏み出すのだ。

こんなに恵まれている私は幸せだ。

そう思わなくっちゃと、そう思いながらも訳もなく泣きたくなるのだった。

ケンは外に出て近くの公園をブラブラ歩いた。

どうして泣けて来るのだろう?

あの家から出る事が出来たのは自分にとっては良い事ではないか。

それに圭介さんの戦死は大分前から知らされて、もう自分の中では諦めが出来ていた事ではないのか。

これからが私の本当の人生だと思えばいい。

東雲先生夫妻にもこんなによくして頂いて、あんなに遠いと思っていた絵の道にも入る事が出来た。

何の不満があろう。私は幸せ者だ。

繰り返し、繰り返しそう自分に言い聞かせた。

母からも安心したという手紙が届いた。

それなのに、何なのかふいに訳もなく涙が出る事があった。

気のゆるみだろうか?

きっと気のゆるみに違いない。

先生夫妻と親子のように一緒に食事をして、貞夫人に手伝って食事の用意をし、和やかに食事をするのは慰めの一つでもあった。

そんな朝の食事の時に、先生の食事があまり進まないので、

夫人が、「どこか具合が悪いのですか?」と聞くと、

先生は「ああ、うん。」と言いながら立ち上がりかけてヨロヨロすると倒れてしまった。

夫人とケンは慌てて布団を敷き先生を寝かし、かかりつけの病院に連絡をした。

そこはケンが近々勤務する予定の病院でもあった。

やがて一人の医師が急いでやって来た。

まだ若いようだが、どこか年を取っているようにも見える背の高い医師だった。

胸に聴診器を当てたり、血圧を測ったりした後、注射を一本打つと先生は安心したのか具合が落ち着いたのか眠ったようだった。

医師は寝ている部屋を閉めると隣に来て、

「落ち着きましたので大丈夫でしょう。

急に命にかかわるという状態ではありません。

正直に言うと高齢ですからネ。

今まで頑張って来られたからだが故障を訴え始めたのです。

それに何か安心して気のゆるむ事でもありましたか?」

そう言って、夫人とケンを見てニッコリ笑った。

ケンはその時、その笑顔を見て初めて会ったとは思えない不思議な懐かしさを感じた。

夫人が、

「ええ、前からずっと待っていたこのケンさんが一緒に住むようになって安心したのでしょう。

先生、ケンさんは看護婦で近いうちに、先生のいらっしゃる病院に勤める事が決まっているんですヨ。」

そう言うと、

「ああ、そうですか。院長から話は聞いています。

どの科になるのかナ。

私は内科の山田です。どうぞ宜しく。」

と言ってまた笑った。

やはりケンは、その目と笑顔にどういう訳か懐かしさを感じた。

それから東雲が伏せっている床に寝ている三日間、山田医師は毎日往診に来てくれた。

床上げをしたけれど、東雲の体は衰えていて、前のようではなかった。

疲れるとすぐに横になった。

また、思い直したように寝床に座り直したり、縁先の椅子に座ったりした。

ケンはまた、仏画を描き始めながら時々、手を止めては東雲の様子を見に行った。

東雲は気遣うケンを嬉しそうに見て、


「儂も年じゃからのー。

ケン、お前は儂の年齢をあれから聞いておるかの?」と言った。

「いいえ。」と答えると、

「儂はナ。八十九じゃ。驚いたじゃろ?

昔から体が丈夫な質で風邪一つひいた事がないのが自慢じゃったが、やはり年には勝てんのー。

あれは儂より十も若いから今は大丈夫じゃが、いつかは年を取る。

ケン、儂は自分が死んだ後のあれの事だけが気がかりだったんじゃヨ。

子供がいないからのー。

誰か気心が知れた者があれの側にいてくれたらとその事ばかり考えておった。

そして、それが叶った。

ケン、お前の事じゃ。

だから、もし儂に何があっても後は安心じゃ。」


「先生、そんな悲しい事おっしゃらないで下さい。」とケンが言うと、

「まだ、今日、明日、死ぬ訳ではないが、その時の事を考えておくのは年寄りの務めだ。

ケン、もしもお前が嫌でなかったら正式に、儂らの養子になってくれんか?

前々から考えていた事なんじゃ。

そうさな、ケンが初めてこの家に来た時からお前の心根を見て、

ああ、こんな娘がうちの娘だったらとあれと話し合ったものじゃ。

なに、無理にとは言わないが、もしも形がそうなっても、里にいる母上をないがしろにはさせないヨ。

淋しい思いもさせない。

ここの家は広いし部屋も充分にある。

ケンの母上を呼んで一緒に暮らす事も出来る。

裏には畑もあるし、母上も退屈はせぬじゃろう。

そうなればあれも安心じゃろうし。

もしも儂がいなくなっても淋しくはないじゃろう。

ケンもいつかここに婿を迎えれば良い。

子供が何人生まれてもすぐ近くに公園があるからここは最高の場所じゃ。

どうだケン、考えてはくれぬか?」と東雲は言ってくれた。

「ありがとうございます。本当に有難いお話です。

里の母にも相談してみます。」

ケンがそう答えると、

「それは当然じゃ母上に相談してみてくれ。

ケンが一緒にいてくれるだけで儂もあれも喜んでいるんじゃ。

ただ、きちんと養子縁組をしておくと儂とあれが死んだ後、いらぬ外からの雑音を気にせずに、ケンがいつまでもここに居られるだろうし。あれも安心すると思ってのー。」

思いがけない話だった。

夢のような話と言って良いだろう。

この町に自分の確固とした居場所が出来るという事は大変有難い事だった。

何もかも夢のように順調に来ている。

東雲先生夫妻が自分の事を娘のような目で見てくれている事を改めて知った。

里の母チセの許しが出たら、養子の件を受けよう。

そしてチセが年老いたらここに呼んで一緒に住もう。

近くには職場が決まっている。

そこに勤める山田医師の人柄を見るにつけ、病院も明るくほのぼのと想像された。

勿論、実際には仕事となれば厳しい事を覚悟しなければならないが、ケンには例えどんな仕事でもやり通す覚悟は出来ている。

何もかも順調だ。

何もかもケンに温かい光を降り注いでくれているようであった。

だが、自分が恵まれれば恵まれる程、ケンの中には後ろめたい気持ちがずきずきと疼いた。

圭介に対する後ろめたさだった。

姑のサクが言ったあの言葉だ。

「すっかり忘れて幸せになろって魂胆だろう?

悪賢いズルい女だ!」

時々、あの言葉が思い出されて幸せになるのが罪悪のような気がした。

だから、こんなに恵まれているのに突然、泣けて来るのだろうか、圭介さんは夢にさえ出て来ない。

あの優しい圭介さんはこうして私の中から消えて行くのだろうか。

そう考えると、また泣けて来た。


ケンはその夜、あんなに会いたかった圭介を夢に見た。

ケンが、

「圭介さん、どうして会いに来てくれなかったの?」と聞くと、

「何度も何度も夢の中で会いに来たサ。

だけどケンはいつも疲れてぐっすり寝ていて僕に気が付かなったじゃないか。」

そう言って笑った。

そしてあの優しい笑顔でニッコリ笑うと、

「幸せになるんだヨ。」

そう言って行こうとする。

ケンが、また来てくださいネ。きっと来てくださいネ。

そう言ったけれど、幸せになるんだヨという声だけが響いて、振り返りはしなかった。

ケンはその後を追いかけて行こうとしたが、いつの間にか姿は消えてしまっていた。

「圭介さーん。」

呼びながら泣いて泣いて目が覚めた。

夢の中でも覚めてからもケンは泣いた。


久しぶりに圭介に会えたが、それはやっぱり生きた圭介ではなかった。

夢の中で会えた事がかえって新たな悲しみを呼び起こした。

辺りは真っ暗だったがケンの頭は冴えていて、今、会ったばかりの圭介の顔を思い出そうとした。

だが思い出そうとすればする程、その面影は曖昧になり、あんまり思い出そうと繰り返すせいで記憶が擦り切れてしまったように、圭介の顔は思い出せなくなってしまった。

ただ、最後の幸せになるんだヨと言った言葉だけが鮮やかに耳の底に焼き付いた。

その事が一層悲しくて、会いたくて、ケンは眠れずにまだ暗い中を布団を抜け出し着替えて外に出た。

どうしても、じっとしてはいられなかったのだ。

家の中にいたなら胸の中に膨らむものが爆発して、大声をあげて泣いてしまうような気がした。

ケンは外に出ると、東の空がほんの少し白々とする中を、公園の中に入って行った。

空気は冷たく寒かったが、この物狂おしい心はどうする事も出来ない程だった。

勿論、辺りに人影はなかった。その時、

何か、かすかな鳴き声を耳にしたが、鳥か猫の鳴き声だろうと思った。

だがその鳴き声は途切れ途切れだが、確かに弱って聞こえた。

どこから聞こえるのだろう?

広い公園の中ほどに来ると、中央の水場の近くからまた聞こえた。

何だろう?動物だろうか?

人気のない場所なので恐ろしくもあったが、ケンはその声に誘われるように近づいて行った。

そこには白っぽい物が置かれていた。

近づいてよく見ると、シーツでグルグルに丸められた物の中からその声は途切れ途切れに聞こえて来る。

ケンは弾かれるように駆け寄ると、看護婦の機転でその中のものを咄嗟に察した!

赤ちゃんだ!中に赤ちゃんがいる!

中を開いてみると、

まだ血にまみれた生まれたばかりの赤子がへその緒がついたままで包まれているではないか!

捨て子だ!

ケンの体も悪寒がするようにブルブル震えた。

まだ人気のない、こんな寒い中に何て事をするのだろう。

怒りが込み上げて来た。

こんな時間に誰が。

陽が昇る頃には誰かが気が付くだろうが、その時までこの子の命が持つかどうか考えなかったのか!

ケンは怒りと寒さでガタガタブルブル震えながら、その子を抱き上げて小さな手に触ってみた。

手が冷たい。

急がなければ!

周りを見回したが誰もいなかった。

この子を捨てた者は大急ぎで逃げたのだ。

ケンは今まで抱いた事のない怒りで歯をギリギリさせたが、まずこの子の命を助けなければならないと思ってケンは家に向かって走った。

そして家に入るなり大声で叫んだ!

「すみません!奥様!

力を貸して下さい!

この子が死んでしまいます!」と叫んだ。

貞夫人が驚いて寝間着姿で起きて来た。


「お湯を沸かして下さい!

赤ちゃんが死んでしまいます!

早くして下さい。

私はこの子を肌で温めます!

お願い!早くして!早くして下さい!}

ケンは叫びながら、自分の着物の胸を開いてその血だらけの赤ん坊を懐に入れて包むと、その上からさすりながら泣いていた。


「頑張るのよ!

死んじゃ駄目ヨ!私がついているから頑張るのヨ!」

可哀想で悲しくていじらしくて、ケンは泣きながら必死でその小さな命をさすった。


最初、自分の肌につけた時は驚く程ひんやり冷たかった小さな体が、必死のケンの思いとマッサージに答えるように少しずつ少しずつ温かくなって来るのがわかった。

それでもまだ元気がなく、クッタリと目を瞑ったままだ。

「奥様、すみません。

この子の体をきれいに洗ってやりたいと思います。

大判のタオル等、お願いします。

それにきれいな綿の糸を少し、へその緒を縛りたいので。」


ケンは大きめのたらいに湯を整えて貰うと、まだ元気のない赤子をきれいにきれいに洗ってやった。

助かるかどうかわからないが、せめてきれいにしてやりたかった。

赤子は男の子だった

元気がないのかもう泣きもしないで、されるままに体を洗わせている。

それがまたいじらしくて可哀想で、

「ホラ、温かいでしょ?

いい気持ちでしょ?

きれいにしてあげますからネ。

元気になるのヨ。

私がついているから頑張るのヨ。」

そう話し掛けながら泣けてくるのだった。


赤子は体は小さいが顔立ちも良く、髪の毛も黒々として十分にお腹の中で育って生まれて来た子だという事がわかった。


ケンと貞夫人が大わらわで何かをしているのが東雲先生には不思議に思ったのだろう。

東雲が、

「何事かナ?」と襖につかまりながら出て来た。

貞夫人が、

「赤ちゃんですヨ。赤ちゃん。ケンさんが拾って来たんですヨ。」

そう言うと、それまで夢中で湯に入れたり体を拭いたり包んだり世話をしていたケンが、いきなり振り向いて、

「いえ奥様、この子は私が生んだんです。この子は今朝、私のお腹から生まれたんです。

どうか、どうかそのようにして下さい。

この子は私の子です。名前も決まっています。

この子は“圭介”です。」と言った。


「今朝、初めて圭介さんが夢に現れて、私それから悲しくて悲しくて家の中にじっとしていられなくて、まだ暗い公園に行ったんです。

そこでこの子に会いました。

この子は圭介さんが私に与えてくださった子供です。

だから私がこの子を育てます。

この子の母親になります。

どうか、どうか私のわがままを許してください。」

二人は呆気にとられて、こんなに感情を露わにしたケンをただ、見つめるばかりだった。

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