第7話

ケンは圭介が今、どこにいて戦争しているのか何も知らされてはいなかった。

義母にも聞けるような状況ではなかった。

患者らの話に耳をそばだてていると、南方に向かった船が沈没しただの、玉砕しただのという話が耳に入って来て、ケンは暗い気持ちになった。

お義母さんは何か知っているのだ。

知っているから心配してあんな険しい顔をし、話し方をしているのだ。

ケンは一人そう思い、朝に夕に圭介の座布団に向かってひたすら無事を願った。

そのうち、“戦死”という言葉を多く耳にするようになった。

その度に耳をそばだてて聞きながら、ケンの胸はズキンと痛んだ。

足を失っただの、片腕を失って帰って来た人の話も聞いた。

大怪我なら嫌だけれど治る怪我なら圭介さんが病院に収容されて帰って来ないだろうか。

それでもいい、今なら自分は看病してあげられる自信がある。

どんな姿でもいい。圭介さんが無事に帰って来ますように。

今では家の中の空気が妙に重い。

世の中全体がそうだったが、あの日以来、義母がケンに対する態度にあからさまな悪意が感じられた。

それが日を追うごとに露骨さを増して来るようだった。


ある日給料をもらって来て義母の部屋に持って行くと、それを手に取り中身を確かめると御苦労様の一言もなく、ケンをねめつけるように見て、

「勤めて大分経つのに未だにこんなお給金なの?」と言われケンは驚いてしまった。

そういう事を言う人だったかと思う気持ちが一瞬、顔に現れたのかも知れない。

義母はその中のわずかなお金を障子の外に置くと、ピシャリと戸を閉めてしまった。

心臓が止まるかと思う程の衝撃だった。

圭介さんの親だからこうして耐えているが、それで無かったらここにいる意味はないと思った。

圭介が今、戦地で命をかけて戦っているから私も精一杯戦っているのだ。

義母は以前から、ケンに対しては余り口を開く事のない人だった。

ケンにとっては物足りない人だった。

だがそれはギリギリ良識を保っているふしがあった。

だが今日のこれは、どうしたというのだろう?

人が変わったようにきつい目でケンを睨んだ。

若いケンにとっては恐ろしいものだった。

里に帰ろうかナ?

ケンは一瞬そう思った。

だがやはり今帰る訳にはいかない。

圭介さんが戦地で御苦労しているのだもの。

留守の間に辛抱できなく帰ったと知ったらどんなにがっかりするだろう。

お義母さんは心配のあまり気がおかしくなっているのだ。

今は自分のする事だけを淡々としていよう。

いつかは、お義母さんにも解ってもらえる。

そう覚悟を決めた。

そして毎週。東雲先生宅に通い、食料を調達して来ては姑に食べさせ、給金を渡し続けた。


そういう中にも嬉しい事があった。

一生懸命勉強したせいか院長先生の奥さんの助力のせいか。思いがけなく早く準看の資格を取る事が出来た。

奥さんがいろいろ骨を折ってくれたようだった。

ケンの合格を喜びながら、お給料もネ大分上がるのヨ。と言って奥さんはニッコリ笑った。

ケンはそう聞いても両手を上げて喜ぶ事は出来なかった。

増えた給料を持って行っても、どうせ姑は喜んでくれない事が解っていたからだ。

いつものように子供の小遣い程度のものを障子の外に出してよこして、障子を閉めるのは明らかなように思えた。

これでは下着の替え一枚買えないと思った。

「あの恥ずかしいんですけど、少し前借り出来ますでしょうか。」と聞いた。

奥さんはケンの事情を知っているので、

「いいですヨ。いくら?」と言って気持ち良く少し貸してくれた。

ケンはそのお金で久々に自分の肌着を何枚か買う事が出来た。

何日かしてその日は給料日だった。

ケンが患者の病室を回っていると、同じ準看の一人が走って来て、奥さんが呼んでいるという。

そう言いながらも早足で隠れるように事務室の裏手の方へケンを連れて行った。

そこでは奥さんが待っていた。


「ケンさん、大変なのヨ。お姑さんだという人が来ているのヨ。」


「えっ?どうして?どこか具合でも悪くて?」

ケンが慌てて聞くと、


「そうじゃないの。貴女のお給料を取りに来たんですって。」


「えっ?あの方、話し方は普通に見えるけれど、話せば話す程、常軌を逸しているという感じ。お家ではどうなの?」と聞いた。


「夕方帰った時はもう寝ていますし、朝出て来る時も起きて来ないので、食事を作っておいて来ます。

ですから、お給料を渡す時だけ顔を見る事になります。会話は殆どないんです。」

ケンがそう答えると、

「そう。それなら気が付かないのも無理はないわネ。

どうする?ケンさんのお給料の事。」

「お義母さんは何ておっしゃってるんですか?長い事病院で働いていても一向に給料の額が上がらない。それは嫁が封筒から金を抜いて、これだけだと嘘をついているからだ。

私はもう騙されない。だから、こうして直々に嫁の給料を受け取りに来た。

そう言っているんですヨ。」

ケンはあまりにも情けなくて、奥さんに対しても恥ずかしかった。

奥さんは、

「あの方は最初からああだったんですか。」と聞いた。

「さあ?そういう人だとは考えた事がありませんでした。

でも私に対しては口数が本当に少なくて、何を考えているのか全然解らないんです。」

そう言って、線香の匂いのした日の事を奥さんに話した。

「あの日、凄い剣幕で怒られてからは恐くって声を掛けられなくなりました。

殆ど会話らしい会話はしていません。」

奥さんは、「フーッ。」と溜息をついた。

「ケンさんも随分苦労しているのネ。

いいワ、私に任せてちょうだい。どっちにしても毎月お姑さんにお給料を渡しているのネ。それじゃここで渡さない訳にはいかないでしょう。

渡していい?」

「はい、宜しくお願いします。」

「向こうから話があるまでは、ケンさん貴女は知らなった事にしていなさい。」

そう言って、奥さんは事務室に入って行った。

ケンはまた病室の仕事に戻りながらも、体から力が抜けるような脱力感を覚えた。

どう気を取り直そうとしても、その時ばかりは情けなくて元気が出て来そうも無かった。

直、お昼の休憩時間になったけれど、ケンは姑がまだいるかも知れない奥さんの事務室に行くのが恐ろしくて屋上にある洗濯の干し場に行ってボンヤリしていた。

これが苦労というものなんだろうか。

これが世間でいう嫁の苦労というものなら、私じゃなく多くの人がしている苦労なんだろう。

自分に耐えられない事はない。

でも悲しい、虚しくて悲しい。

自分の働いて得た給金をそのまま渡して、ほんの僅かばかりの小遣いを貰うだけの今までだって本当は言いようのない気持ちを押さえつけて我慢していたのに、その不満をなだめて、ここまで頑張って来たのに。

それを嘘をついて給料を抜き取っていたと疑われて、嫁が働いた給料をまるで当然のように病院まで取りに来るなんて絶対おかしい!

あの人はおかしくなっているんだ!

つくづく嫌になってしまった。

何もかも放り出して里に帰りたい。

母の優しい顔が浮かんだ。

知らず知らずのうちに涙が溢れていた。


「あっ!やっぱり、ここに居たのネ。」

そう言いながら奥さんがケンを迎えに来た。


「お給料は渡したけれど、あの姑さんはこれからもここに受け取りに来るでしょうネ。

だから私の一存でケンさんに良いようにしたから安心して。

こう言ったのヨ。

ケンさんには今まで結構な金額を前渡ししています。それは当然でしょう。

お給料を全部渡しても姑さんからは、ほんの少しの小遣いしか貰っていない。

だから最低必要な下着も買えないし、電車賃もない。

それは、おかあさん本当の事ですネ。」

それを言うとお姑さんは口をモゴモゴさせるばかり。

それで私は言ってやったんです。

これは私が前貸しした分を差し引いた全額です。

これが全部です。

それで、おかあさんはこの中からケンさんにいかほどの小遣いを渡しているんですか。」

そう言うと、お姑さんはほんの少しだけよけました。

たったこれだけですか?それじゃケンさんが私から前借りするのも無理ありませんネ。」

そう言われて渋々もう少しよけました。

しかし、これ以上はびた一文渡せないというような顔をして、しっかり給料袋を胸にかかえました。自分の働いたお金でも無いのにネ。

この人はまともじゃないナとと思いましたから。


おかあさん、それじゃこの少しのお金は私からケンに渡しておきます。

でも、たったのこれだけではまた足りなくなって前借りする事になるでしょう。

そうして、また、次の給料から差し引く事になりますが宜しいですか?

そう言ってお姑さんを帰しましたが、それで良かったですか?」

と奥さんは言った。

「はい、いろいろお世話をかけて申し訳ありませんでした。」

「それにしてもケンさんがいつもニコニコ一生懸命働いて下さるからそんな御苦労をしているとは思わなかったワ。」

そう言って、前の給料高から前借り分を多めに引いた分の差額と姑さんが渋々置いて行ったお金とを合わせた金額をケンに渡してくれた。

それは思いがけない金額だった。

「これは準看で昇給した分も入っています。

ケンさん、これからどうしますか?お金が無いという事は心細いものですヨ。

良かったらこれから私の方で昇給した分を貯金してあげましょうか?

そして足りなくなったら前借りしなさい。その分を引いた金額をお姑さんに渡せばよい訳ですからネ。」と言ってくれた。

ケンは正直、何も持たない自分が心細かったのだ。

里の母が急に具合が悪くなっても汽車賃でさえ手元にないような心もとない身の上だからだ。

ケンは奥さんと相談して昇給した分を毎月貯金して貰う事にした。

そして前借りしなくても、大体一定額を姑が来た時に差し引いて、更にその中からケンの小遣いを抜いた分を渡す事に話が決まった。

「ケンさんの話では朝の食事の面倒は貴女が賄っていると言ったわネ。

それじゃあのお姑さんは貴女のお給料を何に使っているのかしら?

大丈夫、安心なさい。あんまりひどい扱いをされたら、ここで寝起きすれば良いんだから。部屋ならどうにかなるから。」

奥さんは頼もしく受け合ってくれた。

まさか、そこまでは世間体もあって出来ないがそれでもケンはとても心強く思った。

自分の後ろにいつも理解してくれる人がついていてくれると思うだけで勇気が湧くものだ。

結局、あれから姑と顔を合わせる事は全く無くなってしまった。

姑は気がおかしくなっていると院長の奥さんは見ているが、たとえ月に一度とはいえ給料を受け取る時にケンの顔を見るのが嫌だったのではないかと考えたりもした。

今となってはケンの心の安らぎは、職場での奥さんや同僚、患者さん達との温かい会話や休日に東雲先生宅でのご夫妻と過ごす楽しいひと時だった。

相変わらず好意に甘えて食材をいただいて帰り、朝には自分と姑の分の粥を作った。

姑には朝昼夕の三食分を考えて多めに作っておいておくと、その粥はきれいに平らげてあった。

姑はもしかしたらこの食材を前借りしたお金で買っていると思い、当然のように食べつくしているのかも知れなかった。

ケンはそれについて今更あれこれ説明しようとも思わなかったし、こんな淋しい状況になれば東雲先生宅は姑に知られていない秘密の避難基地ようなものだった。

今は何を言い、どう歩み寄っても良い結果は得られないような気がする。

ただ自分の出来る事を淡々として圭介さんの帰りを待っていよう。

世の中は戦争の話ばかりだった。

寄ると触ると不安な話ばかりで、不安で聞きたくないケンの耳にも否応なく入って来るのだった。

このままで良いのかと思い、どこかに駆け出して行きそうな切迫感を感じた。

だが実際には起きては食事の支度をして、仕事に出掛ける事の繰り返しだった。

しかも家の中では話す相手もなく励みもない。

そういう中で頑張り通すのは時に虚しくなる。

別に感謝されたり誉めて貰おうという訳ではないが温かい言葉が欲しかった。

義母も同じ気持ちなら言葉を掛けてお互い慰め合い励まし合いたかった。

母チセには、義母はふさぎ込んでいるのでくれぐれもこっちに訪ねて来ないようにと書いてやっている。

ケンは義母との間の事だけでなく、圭介の事を心配し正直疲れていた。

休日の日に東雲先生宅で過ごす時間が唯一楽しみで慰められる所があったけれど、それでも何もかも自分の母に話すようには腹の底から吐き出す訳にも行かず、さりとて、心配をかけると思うと母チセにも泣き言を言えないケンだった。

行き場のない不満や不安が少しずつ少しずつ体に積もって行くようであった。

そんなある日、病院に町長がケンを訪ねて来た。

大事な話があるという。

町長とは圭介との祝言の時に仲人になっていただいた時と務めに出るとき以来の事だった。

院長の奥さんが気をきかせて二人だけにしてくれた。

ケンは何か不吉な予感がした。

奥さんが去ると、町長は急に沈鬱な表情で話し始めた。


「もっと早くに話さねばならないと思いながら今日になってしまい本当に申し訳ない。」

とまず謝られた。

何を私に謝る事があるというのだろう。

ケンは一層不安に感じて身構えた。


「この話は圭介君のお義母さんの強い意志でケンさんにも世間にも絶対に知らせるナと言われて、私も自分から話をするのは今まで控えてきたが、いつも悩んでおりました。

世間にはともかく、ケンさんに黙っている事は罪だと思ったのです。

ケンさん、心をしっかりして聞いて下さい。

圭介君はもう大分以前に、戦死の知らせが入っているんです。」

町長は尚も話を続けたが、ケンの耳はもう半分以上は聞いていなかった。

もしや、もしやと恐れていた事が現実になったのだ。

しかもそれは、もう一年近くも前に解っていたというではないか。

なのに夫婦である私には何も知らせずにいた。

ケンの体からは急に力が抜け、町長の前で倒れずに聞いているのが精一杯だった。


「南方の方へ向かう途中で乗った船が空襲を受け、沈没したそうです。

沖合の近くに島もない海の上の事で一人も助からなかったろうと思います。

従って遺骨もありません。

私も、もしや一人二人生存者がいるのではないかと調べて貰いましたが、圭介君の所属する連隊は間違いなくその船に乗って海に沈んだという報告がありました。

従って遺骨は帰ってきません。

石ころ一つ入った箱をお届けした時、お母さんは信じようとしませんでした。

こんな物で圭介が死んだなんて信じられるか。今に必ず必ず笑顔で帰って来ると言って聞きません。

母親の気持ちはそうでしょう。到底、簡単に納得できるものではないでしょう。

世間に公になれば本当の事になってしまうようで悔しくてそうしたくない事も解ります。

だが、圭介君の嫁さんにまで、秘密にするのはいけないと私は言ったのです。

あのお母さんは、

「ケンには絶対知らせるナ。

知らせてはならぬ。知らせたら町長を一生、恨みますぞ!」と狂ったようにわめきました。

私も動転してしまい帰って来た訳です。

あのお母さんも、やがて落ち着くだろ、落ち着いたらケンさんにも知らせるでしょう。

そう思っておりましたが、嫁入った圭介君の妹さんに聞いてみたら、何も聞いていないとびっくりしておりました。

やはり未だに誰にも恐らくケンさんにも話はしていないのだナと思いました。


お母さんもいつかは解る事です。

ケンさんもまだ若い。

これからの身の振り方もあるでしょう。

現に出征前にもしもの事があった時、開いて読むようにと手紙を託して行ったのですが、その手紙の中に、自分がもしも死ぬような事があったら、すぐにケンを自由にしてやって下さいと書いてありました。

お母さん宛ての手紙にもきっと同じ事が書いてあったでしょう。

圭介君は私への手紙の中で、わがままを言って嫁に来て貰ったケンさんに対して、せめて誠意を示したい。

私が無事、戦争から帰った時には本当の夫婦になろう。

だが、もしも戦死するような事があったら、ケンさんには清いままの体で、他の誰かに嫁いで幸せになって貰いたい。

そう書いてありました。

だからお母さんに、圭介君はケンさんの幸せを一番に考えています。

籍を抜いて自由にしてやって下さい。

私がそう言うと、狂ったように泣きわめいて、あのお母さんが私に飛びかかって来ました。

あの時は驚きました。

あの圭介君の母御の、あの品の良い人がですヨ。

まるで鬼女になったように泣きわめくんです。

「だからサ、だからあの嫁を自由になどしないんだヨ。

圭介の嫁になりながら、本当の夫婦にもならないでよく戦地へ送り出したもんだ。

圭介がどんな優しい事を言っても、ここの嫁として務めを果たすのが当然なんだ。

私はネ、圭介が戦地へ出た後、もしや、あの嫁のお腹に圭介の子供が宿ってはしないか。それを楽しみにしていたんだ。

それが何て事だ。

あの嫁は子供が出来る筈はなかったんだ。

本当の夫婦になったような、本当の嫁になったような顔をして私をだましていたんだからネ。

何ていう女だ!

いつまでも純な小娘のような顔をして、おかしいと思ったんだヨ。

あんな女は簡単に許さないヨ。

簡単に自由になどしてたまるか!

圭介の嫁としてまだまだ働いて貰うんだ。

死ぬまでここに縛り付けてやるんだ!」

と言ったという。

「町長も、この事をケンに話したら、話した事が解ったら、その時は容赦しないからネ。

どんな手を使ったって、あんたを今の立場から引きずりおろしてやる!

私には古い知り合いが多いんだからネ。

解ったかい?

もう二度と圭介が戦死したなんてデタラメな知らせを持って来るんじゃないヨ!

圭介は生きているんだ!

どこかの島に辿り着いて必ず生きている。

そして必ず必ず帰って来る。

圭介は生きているんだ!」

町長はその様子を話して聞かせながら、改めて油汗を拭きながら、

「私は、お恥ずかしい話だが、あんなに腰を抜かした事はありませんでした。

あの剣幕の恐ろしさに逃げ帰ってから考えない日はありませんでした。

いろいろです。

人間はあのように変われるものなのか。

あのお母さんは今まで化けの皮を被っていて、本性がもともとああいう姿なのか。

それとも、子供を失った母親はあんなにまで変わってしまうものなのか?とね。

でも日を追うごとに、ケンさんの事が心配になりました。

あのお母さんと一緒にいて、どんな思いで暮らしているだろう。

どんなに辛くあたられているだろう。

いつかケンさんに知らせなければといつも考えていました。

そして、今に至ってしまいました。

あれから一年近くも経ってしまいました。

本当に申し訳なく思っています。」

町長の話を聞きながら、ケンは泣いていた。

激しく泣いていた。

こんな話聞きたくなかった。知りたくなかった。

あの優しい圭介が海の中に沈んでしまって、もう帰って来ないなんて。

お義母さんでなくたって信じたくない。

ケンはただただ泣くばかりだった。


町長の話を聞いて何もかも合点がいった。

姑のサクは全ての怒りをケンに向けているのだ。

何も傷つかずにこの家を出たら、新しい出発が出来る娘のままのケンを激しく憎んでいるのだ。

また、町長が話し出した。

「圭介君は町長の私とお母さんに手紙を残しましたが、ケンさんにはあえて書かないとありました。

下手に手紙等を残すと新しい悲しみを呼ぶ事になるからだと…。」

ケンはまた激しく泣いた。

泣いて、泣いて、泣く以外すべがなかった。

泣き疲れる程泣いた。

席を立って帰ろうとする町長に、ケンは言った。

「本当にいろいろとありがとうございました。

お義母さんがおかしいのはなぜなのかと思って解りませんでしたが、今、初めて合点がいきました。

でも、お母さんが望む通り、私は何も聞かなかった事にします。

今まで通り、お義母さんのお傍にいます。

町長さんはここに来て、私に何も話しませんでした。

従って私は何も知らず今まで通りに圭介さんの事を待ち続けます。

それが、お義母さんのお望みならそうしていようと思います。

私がそうしたいんです。」


ケンは町長が帰った後、奥さんに全ての事を正直に話しをした。

奥さんは驚いて、今日は帰りなさいと言ってくれたが、ケンは、

「明日は休みです。

申し訳ないのですけど、お義母さんに体調を崩してここの病院に二日ばかり入院しているけれど心配ないからと伝えて頂けませんか?

私、疲れました。

一度、里に帰って母に会って来ます。

くれぐれも体調を崩したという事にして下さい。」

そう頼むと、ケンはその足で病院を出て、電車に乗り、里に向かった。

それは春の日の事だったが、汽車の中でも、ケンは圭介の事を思い出し、その人が今はもういないのだと思うと泣き通しだった。

懐かしい故郷、来ようと思えばすぐにも帰れる故郷なのに、ケンはもう何年帰っていなかったろう。

夢にまで見た母のいる家の前に立った。

陽はまだ沈まずに西の空からケンを暖かく照らしていたが、それさえ虚しかった。

戸をガラリと開けてケンが入って行くと、チセは突然の娘の姿に驚いて呆然と見た。

そしてすぐに何かあったと察したようだった。

ケンは幼い子供のようにチセの胸に飛び込んで泣いた。

オイオイ声を出して泣いた。

あんなに泣き通したのに、なおも涙は後から後からとめどなく溢れて出るのだった。


その夜は遅くまでチセに心に溜まったものを打ち明けた。

チセは嫁の苦労を予感していたのだろう。少しも驚きはしなかった。

ケンはチセが自分の母親である事をつくづく有難く思われた。

お母さんは何でも解ってくれる。

私の悲しい事は私以上に悲しく、私の嬉しい事は私以上に嬉しく思ってくれる。

その夜、枕を並べて、あの着物の件が縁で東雲先生御夫妻と知り合いになれた事も話した。その夜は母の傍で安心した気持ちで眠った。

疲れが出て眠りはすぐにやって来たが、時々、目を覚まして圭介の事を思い出しては泣き、また眠った。

そういう事を何度か繰り返したような気がする。

だが最後には深く眠ったのだろう。

はっきり目覚めた時はかなり陽が昇ってからだった。

こんなにゆっくり遅くまで眠った事は嫁いでから無い事だった。

チセは台所で何か作っているようだった。

何を作っているの?

「ケン、お前は町長に何も聞かなかった事にすると言ったんだネ。

それじゃ、この先も今まで通りの生活を続けるつもりなのかい?」

「ええ、お母さん。あのおかしくなったお義母さんを放り出して私一人だけ里に帰って幸せになる訳にはいかないワ。

圭介さんはこんな時の為に私を大事にしてくれたような気がするの。

それなら尚更、私はお返しをしなければいけないんです。

お母さん、大丈夫ヨ。

お母さんの顔を見て、お母さんに全部聞いて貰って、今まで胸に溜まっていたものが本当に全部降ろせたような気がするの。

お母さん、心配しないで。本当に大丈夫だから。院長先生の奥様も東雲先生御夫妻もとても良い方達なのヨ。

それに何よりも私にはお母さんがいる。

私、頑張ってみるワ。

嫁いだ時、これが自分の戦争なんだと心に決めたんですもの。

本当に元気が出たみたい。

私、帰ります。

お母さん、一週間分の食材何かいただいていっていい?」とケンが言うと、

チセは笑って、

「そう思って用意していたんですヨ。」と言った。

母親が作ってくれた美味しい食事をお腹いっぱい食べて、背中には食料を背負って、ケンは気持ちを新たに帰って来た。


これからが本当の自分の戦争なのだ。

もう圭介さんは帰って来ないけれど、いつまで続くかも知れない戦だけれど、自分にはまだ命がある。

圭介さんは私達を守る為に犠牲になったのだ。

それなら守って貰ったこの命を大切に。

あのお義母さんに今まで通りしてあげよう。

圭介さんはきっと見ていてくれる。

きっと見ていて応援していてくれる。

圭介の死を知って消えてしまいそうだった圭介の存在が、逆に何故か自分の身近に感じれたのは不思議だった。


ケンが帰り着いたのは遅かった。

家の中はシンとしていた。

この暗い家の中で義母が何を思い時を過ごしていたのかと思うと、恐れよりも憐れみを感じ駆け寄って一緒に泣きたい衝動に駆られた。

だがケンは、姑のいる部屋の近くまで行って声をかけた。


「お義母さん、昨日はすみませんでした。

もう元気になりましたので大丈夫です。

お腹空きませんでしたか?」

何も返事はなかった。

だが義母は中で息を潜めて聞いている筈だ。

ケンは母が持たせてくれた干し柿を二つだけ紙に包んだ物を障子の外に置いた。

そして、その場を離れた。


圭介は最後の最後までケンの幸せを思ってくれただろう。

それなら、これから自分は生き生きと生きて行かなければならない。

いつまでもメソメソ泣いてばかりはいられない。

第一メソメソしていたら御母さんに悟られるに決まっている。

ケンは次の日から以前と同じような生活をしようと心掛けた。

表面には悲しみや涙を見せないように、だが帰って来て、夜一人の部屋に戻るとガランとした薄暗い部屋で吐き出すように泣かないではいられなかった。

圭介の座布団を抱きしめて思いっきり泣いた。

泣けるだけ泣いた後は必ず、何か考えなければならないと自分に言い聞かせた。


次の休みの日、

久しぶりに東雲邸を訪れた。

ご夫妻は、先週顔を出さなかった事を非常に心配してくれていた。

ケンは正直に全部話した。

圭介が一年程前から戦死の知らせを受けていたのに自分には何も知らされていなかった事。かなり前から姑が急に人が変わったようになった事に訳が解らず不安に思っていたが、今思えばあの時、戦死の知らせがあったのだと思う。

その時以来、義母は悲しみと怒りを私に向けているのだと思う。

私の事を信用できないと言って、今では私の給料を病院に取りに来ている事。

町長にはお義母さんの望むように、圭介さんの戦死を聞かなかった事にすると伝えた事。

「いつになるかは解らないけれど、お義母さんの悲しみや怒りがやわらぐまではこのままでいようと思います。」

そう話した。

ご夫妻はケンの状況がそこまでとは知らなかったので、大変驚いて同情してくれた。

暫らくすると、夫人が、こちらにいらっしゃいと言ってケンを仏間に連れて行ってくれた。

「これを御覧なさい。

これは先生が私の為に描いてくれたんですヨ。

仏壇の隣にかけられた掛け軸には大変美しい観音様が描かれていた。

一目見るなり心がやわらぐような絵だった。

観音様の足元には愛らしい三人の童が幸せそうに戯れている。


「私がネ、子供を三人も亡くしてあんまり嘆き悲しむものだから、先生がこれを描いて私に下すったのヨ。

私はこの絵を見て随分救われました。

人間は弱いものです。

悲しい事があるとすぐに壊れてしまう脆いものです。

お義母さんも壊れてしまったのです。

悲しくて苦しくて、苦しくて悔しくて、そんなやり場のない気持ちが全部ケンさんに向かったのでしょうネ。

この悲しみはなかなか癒えるものではありませんヨ。

困りましたネ。

ケンさんも辛くて大変でしょうが、私達がいますヨ。

里のお母さんもいらっしゃいます。

病院の奥様もついています。

頑張って下さいネ。」

夫人はそう言って慰め元気づけてくれた。

ケンはいつものように一週間分の食材を貰って帰って来た。

家に着いて部屋に一人になってからも、あの掛け軸の観音様の穏やかなお姿、お顔が目の奥について離れなかった。

あの絵を思い出す事で、前のように圭介を思って泣く事からほんの少しだけ距離を置く事が出来るようになった気がする。

ケンは淋しくなると務めてあの絵を思い出すようにした。

そして東雲先生は凄いお方なのだと今更ながら思った。

景色の絵は何枚も見たし、ケンの着物姿をいろいろ描いた絵も何枚も見た。

いずれも素晴らしく偉い先生だと思っていたが、奥様が見せて下さったあの観音様の掛け軸はいつまでもケンの頭の中から離れなかった。

あの絵は悲しみに打ちのめされた人の心を救う絵だ。

私もあんな絵が欲しい、というよりも描いてみたい。

突然、そういう思いが閃いた。

そして、その思いはグングン強くなって来た。

ケンは自分がしたい事を見つけたと思った。

病気の人のお世話をする今の看護婦という仕事もやりがいのある仕事だが、それは生活を支えてくれるが他にケンの心を支えてくれる何かをずっと求めていたような気がする。

今、それを見つけた!という思いだった。

いつかはああいう絵を描く人になりたい。

なれるだろうか?

いや、たった一枚でもいい。

ああいう絵を描いてみたい。

その思いは狂おしい程ケンを包んだ。




そして、その後間もなく戦争が終わった。

圭介を奪って、戦争は終わった。

ケンは戦争が終わったからと言って、特別変わる事なく病院と家を通う毎日だった。

もしも姑のサクと顔を合わせたら、その事について何かを言わなければならなかったろうが、終戦を知っている筈の義母はケンを避けているのか相変わらず顔を合わせようとはしなかった。

戦争が終わったのだもの。

義妹が日中に来て、何やかやと母子で話をしているだろうに。

ケンが家に帰る時刻には義妹の姿も無かったので、二人の間で何が話されているのかも想像する事も出来なかったし、想像しても仕方のない事だった。

ケンは暗くなる事を考えないようにし、今はただ、あの観音様の絵を教わる事は出来ないかその事だけを考えていた。

絵を習うなんて、ケンにとっては夢のまた夢だった。

まず今の生活を支えていく為には一生懸命勉強して、更に資格を取り少しでも収入をあげなければならないが、正看の資格を取るには並大抵の事ではないと想像される事。

時間も勉強も準看の時のような訳には行かないだろうと思う。

女学校も一年で辞めてしまったケンに、果たしてそれが出来るだろうかと自信がもてない。それに、

圭介さんが帰って来ないと解った今、義母から、いつ出て行くように言われても仕方の無い身の上なのだ。

その時の為に強くなっていなければいけない。

人は誰もが、夫が戦死し子供のないケンを自由になった方が良いと言うかも知れないが、義母に冷たくされながらも、板の間の納戸で暮らしながらも、嫁いでから今まで、何年も過ごして来たこの家はやはりケンの拠り所になっているのだった。

今はこの家に縛られているが、それかといってこの家を出たなら急に根の無い草のように、少しの風にも飛ばされるような心細さを感じる。

今までは時には不幸にも感じていた、この嫁の状況を、いざここを離れた時の事を考えると、たった四畳のこの板の間の納戸でさえ間違いない自分の居場所だったと思う。

それでも、私はどこにでも行ける、仕事を辞める気になれば母の待つ所にも帰れる。

そう思いながらも、さいごには、やはりケンは哀れな義母の事を思った。

姑が頼りにする息子を失った気持ちを思った。

それを認めたくない気持ちが、ケンを憎む事、怒りをぶつける事で、ぶつける相手のケンがいる事でかろうじて生きているのかも知れないと思い至った。

今はお義母さんの為にこのままでいよう。

それがやがてはまだまだ気持ちがくじけそうになる、自分の為にもなるような気がした。


あれからも毎月、義母のサクは相変わらずケンの給料日の日に、病院に来て奥さんからケンの給料を持って行った。

その度に奥さんは苦笑しながら、

「お義母さんに貴女の給料を渡しましたヨ。」

そう言ってケンに明細と差額の分を渡してくれた。

それでもケンが受け取る額は以前よりも、かなり大きな額だった。


「あの、正看になるには余程大変なのでしょうか?」

「ええ、準看の経験年数も何年も必要ですが、それは大変難しい試験ですヨ。

ですから、うちの病院でも準看から正看になった人はいないんです。

婦長は正看です。

あの方は女学校を卒業してから専門の看護学校を出ていますからネ。

ケンさん覚悟がありますか?」

「はい、私、収入を増やしたいんです。」

奥さんはニッコリ笑って、

「貴女がそういう覚悟なら婦長に聞いてあげましょう。」

そう言ってくれた。

収入を増やすのは夢の為だった。

今はすぐには無理かも知れないが、少しずつ少しずつ今から努力して行けばいつかはあんな絵が描けるかも知れない。

ケンの中ではそれが夢となっていた。

その為にはまず収入を増やし、絵を描く材料を揃えたい。

きっと紙や絵の具や筆もとなれば、かなりのお金が必要だろう。

それに一番に重要なのは東雲先生のような偉い先生に教えて下さいとは、あまりにも恐れ多くて頼めそうもない。

今まではひょんな事から絵のモデルとして親しくさせて頂いて来たが、絵を教えてくれるとは別物だと思う。


休日に東雲先生のお宅へ顔を出すのはケンにとっては唯一の息抜きであり楽しみでもあった。

一方、ご夫妻もいつもケンの事をまるで娘を迎えるように笑顔で迎えてくれるのは有難かった。

東雲先生の手による、あの観音様の絵は、あんなに悲しみと絶望に暮れていたケンの心を救ってくれた。

急に洗われるように心が楽になれた事へも何か因縁のような深いものを感じた。

あの絵に近づきたい。

少しでも何かをして近づきたい。

だけれども、今の自分には状況的にも金銭的にも何も準備が出来ていない。

そう思うとケンは自分の思いを東雲先生に話す事が躊躇われた。


次に東雲邸を訪れた時、ケンは先生のモデルをしながら恐る恐る聞いてみた。

「先生、私、この前、奥様から観音様の掛け軸を見せていただきました。」

「そうか、見たか。」

「私、あの絵を見て救われるような気持ちが致しました。

あれから悲しくなるとあの観音様の絵を思い出して心を慰めております。

あの絵には不思議な力があるような気が致します。」

「そうか、そうか、そりゃ良かった。」

「私あれから、私もあのような絵が描きたいと思うようになりました。」

ケンがそう言うと、

それまで画板に向かって絵を描いていた東雲の手が止まり、

「絵を描きたい?」と聞いた。

「はい、先生には笑われるとは思いましたが、あの絵を見て以来、ずっと考え続けています。」

東雲はしげしげとケンの顔を見て、

「それじゃ、描きなさい。

描きたいという気持ちが大事だからナ。

その気持ちは誰にも止める事は出来ないものじゃ。うん、描きなさい。」

そう言うと、また、絵筆を動かし始めた。

ケンは言ってしまった事を後悔しなかった。

言葉に出した事で何か一歩を踏み出せた、そんな気がした。

それから、いつものように無言のうちに時間が過ぎて、そしてお昼になるといつものように夫妻と一緒にお昼を頂いた。

いつもはお昼を頂いた後は夫人を手伝って家の中や外回りの手伝いをしながら、他愛ないおしゃべりをしたり、また、先生が疲れていなければ絵のモデルをしたりして過ごしていたが、その日はケンにお昼の後片付けを頼むと、東雲先生は貞夫人を呼んで、隣りの部屋で何かを話していたようだった。

すると夫人がニコニコしながら、何冊かの書物と画帖を持ってケンの所にやって来て、

「お昼からの時間はケンさんの好きなように、これを見てのんびりなさい。」

そう言って、抱えて来た物をケンの前に置いた。

「ケンさんは、あの掛け軸を見て描きたいと思ったんですって?

絵を描くという事はとっても素敵な事ですヨ。何事においても最初から師匠になった人はいません。

少しずつ、少しずつ、特に御仏様を写すという事は、御仏様に少しずつ、少しずつ近づく気持ちで、祈る気持ちで、唱える気持ち、拝む気持ちで一筆一筆を書き入れると良いでしょうね。

ほら、仏像を彫る仏師という方々がいるでしょう?

あの方々も一彫り一彫り祈るつもりで彫り進むんですって。

すると一本の木の中から御仏様が少しずつ、少しずつお姿を現すんだそうですヨ。

何事においても気持ちが大切ですが、特に御仏様に関しては祈る気持ちが大切だそうですよ。」と夫人が言った。

すると側から、

「ケンさんはもう、とうに、そういう事は解っておるヨ。その気持ちがあるから仏を描きたいと思ったんじゃろ。」

東雲先生の声がした。

貞夫人は首をすくめてニッコリ笑った。


「これを見て描きたい仏様を見つけたら、この画帖に描いてみなさいって。

この画帖は先生がケンさんに差し上げますって。」

夫人が温かく笑っている。


本当に思いもよらない事だった。

ケンはその日から、お昼の後、夫人の手伝いをしないで休日の半分を自分の絵の勉強をして過ごす事になった。

ケンは画帖だけは持ち帰って、平日には仕事が終わって自分の部屋に帰って来てからも描いてみた。

東雲は、何度も描いて自分が描きたいものの形が定まったら見てあげようと言った。

ケンは画帖に書くのは勿体無いので、安いワラ半紙を買ったり病院で廃棄する紙の裏に書いたりして練習した。

ようやく。どうにか拙い、までも、それらしい形が出来て、次の日に画帖に写したものを持って行って見ていただいた。

先生はそれをじっと見て、

「なかなか最初にしては筋がいい。どこかで、絵を描いていたのかネ。」

とおっしゃった。

「子供の頃、家でお婆様の傍でいつも絵を描くのが好きでした。それだけです。」

すると、「これでも充分だが、少し手を入れても良いか?」とおっしゃった。

「はい、お願いします。」

東雲先生はケンの描いた体の線をほんの少し線を細めに直してくれた。

すると、ずっとしなやかな美しい姿になった。

「どうかナ?」

「ええ、ずっとしなやかで美しくなりました。」

「それなら、これを写して次の段階に進んでみよう。」と言った。


その日は、先生のお持ちの黒い紙を中に挟んで上質な和紙の上にケンの描いた仏を写すやり方を教えてくれた。

上の二枚を取り除くと、下の和紙には紛れもない夢のような菩薩様が姿を現した。

ケンは夢を見るようであった。

先生が、

「これまでの過程をよーく覚えておきなさい。

この後は、この下絵の線を胡粉の白に、ほんの少し墨を混ぜた薄いねずみ色を作って細い面相筆でなぞるんじゃ。

その線を描くのは慣れぬと難しい。

別の紙に簡単なものを描いて練習しなさい。焦る事はないぞ。

相手は仏様じゃ。待っていて下さるからナ。

じっくり練習して丁寧に線を引くんじゃ。」


さっきの下絵を画帖に三枚写して、ケンは細い筆と作ったねずみ色の絵の具を頂いて家に帰って来た。

胸がドキドキした。

この道の先は何里も何千里もある遠い道かも知れないが、その一歩が二歩、三歩と進んだような気がした。

ケンはずっと、絵を描くには画材を揃えなければならず、従って始めるのはずっとずっと先の事だと考えていたのに。

東雲ご夫妻の好意で思いがけなく、その道に一歩二歩と足を踏み出す事が出来たのが嬉しくて夢のようだった。

それからのケンの生活は家と病院との単調な暮らしの中に希望というものが加わっただけで、急に明るく照らされた気持ちになった。

実際には準看になった事で覚える事も多く、仕事も厳しくなって家に帰り着くと疲れがどっと出て、本来なら暗く重苦しい空気の中で息を潜めて生きていたのが、ほんの少しの時間でも絵に向かう時は疲れも忘れてしまうのだった。

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