第6話

圭介からは二度ハガキがあったと聞いたが、そのハガキも見せて貰った訳でもなく、その後便りがあったのかも解らなかった。

義母のサクに何度も聞いてみたい気持ちになったが、いつもどこか垣根を作って寄せ付けないような雰囲気にケンはいつも諦めてしまうのだった。

出征する前の日、圭介が、

「軍隊という所は手紙は検閲されるから思うような事は書けない。

だから便りが無くっても心配しないように。ケンが心配しすぎて体を壊すような事があったらその方が困るからネ。

まあ、便りのないのは良い便りだと思っていなさい。」

圭介は笑ってそう言っていた。

圭介さんは頭の良い方だ。無謀な事はしないだろう。

必ず帰って来ると言っていた。

ケンは心配で心細くなると、圭介が使っていた座布団を抱きしめた。

やがてあちこちで物不足が囁かれて、食料品が手に入らなくなった上に、ケンの手の中にはほんのわずかしかお金が無いのは心細かった。

せめてこの事で姑とああでもないこうでもないとやりくりの相談が出来たら、お互い愚痴をこぼし合えたらどんなに気晴らし出来たか知れないが、ケンとサクの間には深くて冷たい川が流れているような気がした。

ケンが勤めに出ている間中、姑のサクはどうしているのだろう。

義妹が訪ねて来る事もあるだろうし、昔からの女友達と会う事もあるだろう。

一日中まさかあのように黙している訳ではないだろう。

そんなある日、朝起きてご飯を炊こうとして米びつを開けると、中は空っぽで一握り程の米しか無かった。

ここまで何もかも無くなったのか?

これでは粥を作るしか無い。

粥に入れる芋や大根を探したが、この間大量に収穫したさつまいもの姿も大根の姿も見えなかった。

あれはどうしたのだろう?どこへ行ったのだろう。

あちこち探したが諦めてとにかく乾燥させた大根の葉や干しワカメを見つけて入れて、取りあえず薄い粥を作った。

しかし昼用に持って行く握り飯は作れない。

姑のサクはそれを充分承知の上の筈だ。

そう思うと悲しくなって来た。

だがケンはクヨクヨしない事にした。

お昼を一食ぐらい抜かしたって死にはしない。そう心に決めると勤めに出掛けた。

姑用に作り置いた粥をサクは何と思って食べるだろう。

本当にこの家には他に食材は無いのだろうか。

畑で私が作ったさつまいもは結構な量とれた筈だった。

ケンはまだあれを一口も食べていなかった。

影も形もないさつまいもの事がどうしても気になる。

もしや皆、義妹や友達にやってしまったのだろうか。そうとしか考えられない。

ふと、そう考えてしまう自分をケンは叱った。

そんな浅ましい事を考えるのはよそう。

例え義妹に分けてやったっていいじゃないか。向こうにはまだ幼い子供がいるのだ。

食べる物がない、お腹が空いたと泣きついて来たら母の情として流してやるのは当たり前だ。

ケンは気持ちを切り替えると、さっぱりとした気持ちで病院へ出掛けた。

なるようになるだろう。

きっとどうにかなるようになる。

だが、朝の薄い粥をすすっただけではさすがにお腹が空いて、またお昼休みの休憩中もお茶を飲んだだけでは腹が満たされない。

奥さんはそれを察したのだろう、細いさつまいもを一本持って来てそっと述べてくれた。

「今日はお昼はないのネ。」と言った。

「ええ、おひつが空っぽですから。お粥を作るのが精一杯だったんです。」

ケンはそう言って、親指の太さ程の細いさつまいもとお茶を飲み飲み大事に食べた。

「どこもそうらしいワ。うちだって例外じゃないのヨ。」

そう言いながら奥さんも同じようにさつまいもを食べた。

ケンは有難くて涙が出そうになった。

「すみません、奥さんのお昼私いただいちゃって。」

「いいのよ。困っている時はお互い様。」と奥さんは優しく言ってくれた。

それでも夕方にはいも入りの濃いお粥を作って、丼一つ食べて帰れるのは有難かった。


その日曜の休みの日、ケンが風呂場や厠をきれいに掃除して自分の部屋に戻ろうとすると、姑と義妹の話す声が聞こえて来た。

それはヒソヒソ話ではなくてケンに聞こえても構わないといった調子の話し方だった。

「そうよ、お母さん、今やどこの家だって大事な着物を後生大事に仕舞い込んで取っておく人はいないのヨ。私だってそうヨ。お母さんが作ってくれた着物は全部お米に変えちゃった。それなのに後生大事に抱えている人もいるのネ。」

その時、ケンはピンと来た。

いつも帰って来て部屋に入ると、部屋の様子がどこがどういう訳ではないが、このたった四畳の板の部屋に誰かが入ったのではないかと思う事があった。

入ったってこの通り何もない部屋なのだから気のせいだ。

そう自分に言い聞かせたのだが、もしや姑と義妹は食べ物に変える何かがあるだろうと探していたのかも知れない。

ケンには普段着の藍の着物と肌着類の他には祝言の時来たお婆様が遺したあの晴着があるっきりだった。

もしや無くなっているのでは?

ケンは急いで着物を包んである風呂敷を取り出し開いて見た。

あった!まだあった!売られずにあった。

もしや既に売られてしまったのではないかと思って背筋を冷たいものが走ったが、それはさすがに考え過ぎだった。

私、何だかこの頃、疑り深い嫌な性格になったみたい。

だが、風呂敷の結び方や着物の畳み方は自分と違うのは明らかだった。

やはり二人はケンの留守にこの部屋に入り、ケンの荷物を改めていたのだ。

こんな時代だもの。誰もが食べる為に目の色を変えているのだもの仕方がない。

ケンは尚も聞こえよがしの義妹の声高の声を聞きながら、風呂敷包みをかかえて行く宛てもなく外に出た。

朝に薄い粥を少しすすっただけで、まだ昼前なのにお腹が空いていた。

このままでは今日の昼と夕食なしに過ごさなければならない。

明日の朝だって昼だってそうだろう。

どうにかしなければならない。

こういう状況下では休日は尚更辛い。

姑と義妹のあの元気を見ると、ケンが植えて収穫したさつまいもの事が気になる。

だけど、ケンには今、何も無いのだ。

この着物を食べ物に替える他に道はない。

でも、どうすればこれを食べ物に替えられるだろう。

良い条件で買い取ってくれる当てもつても無いままボンヤリ歩いていると、いつの間にか見知らぬ公園に辿り着いた。

公園といってもこの時期、草木も枯れ果てそれに、昼時とあってか遠くに一人二人見えるきりだった。

ケンはそこにある長椅子に腰掛けてフーッと溜息をついた。

里にいるチセの事を思った。

「お母さん、今、どうしてる?帰りたいナー。

私、食べる為にこの大事な着物、売らなきゃいけなくなったの。売ってもいい?

お婆さんがあんなに大事にしていた物なのに。でも、私の祝言の日に着たのだもの、きっと許してくれるわネ。」

ケンは、心の中でチセに話し掛けながら、風呂敷包みをほどいて着物をもう一度眺めた。

陽の下で見るその着物は思っていた以上に美しい豪華な着物だった。

チセとお婆さんがこれをまとった私の着物姿をあんなに見たがったのに。

私はいつも渋々だった。その事が今悔やまれる。

こうなるんだったら、もっと度々着て二人を喜ばせるんだった。

今頃になって目を細めてケンの姿を見上げていた二人の顔を思い出す。

これを手離さなければならない今になって初めて有難さを思い知っても遅すぎる。

着物は全体に色とりどりの糸で刺繍が施され、帯もそれはそれはまばゆいばかりの丸帯だ。これを今、手離してしまったら二度と取り戻す事は出来ないだろう。

その昔、山長者様として栄えたカネヤマの歴史を証明する物は消えてしまうのだと思った。

「お婆様、ごめんなさいネ。これを食べ物に替えるなんて、呆れてるでしょうネ。」

ケンは、いつまでも膝の上に広げた着物と帯を未練気に撫でさすっていた。

すると、誰か近寄って来る人がいる。


「お嬢さん、どうなされましたかな?」

目を上げてその人を見ると一人の老人だった。

頭はつるりとしているが、頬と顎の髭は真白で、作務衣姿である事もあって、どこかのお寺のお坊様だと思った。

ケンは慌てて涙を拭いながら、

「いいえ、あの、この着物にお別れを言っていた所なんです。

この着物を食料に変えねばなりませんから。」

とケンは正直に答えた。

老人はその様子に同情しながらも、


「おお、これは見事な物ですナ。お嬢さんはどこのお方じゃ?

大層裕福でないとこんな着物は作れんじゃろう。」と言った。

ケンは正直に、昔、お婆様が裕福だった頃に誂えた物だと話した。

祖母は既に亡くなっており、自分がこっちに嫁いできたときに持って来た事も話した。

御主人は?と聞くので、出征しましたと答えて、また悲しくなった。

義母と二人ですがいよいよ家に食べる物が無くなりました。

それでこれを出来るだけ沢山の食べ物に替えたいのだと話した。

老人は、

「うーん、こんなご時世だからナー。」と言った後、

「私について来なさい。」と言いました。

ケンは訳も解らぬままに急いで着物を風呂敷に包むと、その老人の後ろをついて行きました。

老人の家は公園を出てすぐの所にありました。

生け垣をグルリと巡らせて門構えも大層立派なお屋敷でした。

そこをグングン入って行きながら、

「近いじゃろ?だから、手を休めて息抜きする時はよくこの公園に来るんじゃヨ。」

そう言いながら立派な玄関の中に入って行きました。

老人が、オーイと声を掛けると、中から奥さんらしい老女が出て来ました。

そして「あら?お客様ですか?」と言いました。

老人は枯れた木のように細いのに対して、その奥さんはふっくらとした色白の人でした。

その奥さんは優しそうな人でした。

老人は奥さんに、

「お前に見せたい物がある。」と言ってから振り向いてケンに、

「まず上がりなさい。」と言いました。


ケンは広い陽当たりの良い座敷に通されました。

老人はケンの持って来た風呂敷包みを開かせました。

それを見て、

「まあ!何て素晴らしい御衣裳なんでしょう。」

老婦人が歓声を上げたのです。


「こんな手の込んだ物は初めて見ましたワ。」

「そうじゃろう!」

それから、婦人も老人も急にケンに興味を持ちだしたらしく、色々聞いて来た。

しかし、この二人の様子はケンに信用しても良いという気持ちを起こさせたので、

今は病院に勤めている事や、そこの院長先生の奥様によくして貰っている事を話した。

だが、その院長婦人や里の母にも話せなかった事柄を、この二人に聞かれるままに話した。

胸の内に我慢して貯めていた事だった。

母には心配をかけると思い、院長婦人には家が割合近くどうしても用心深くなってしまう所があった。

今年の春に突然、縁談の話があって以来の事を話した。

自分がまるで知らない人が嫁に欲しいと言っている。しかも出征が近いと言う。

驚き、迷い慌ただしく輿入れするのは不安ばかりだったが、お国の為に出征する人のお話を断る事は出来ないと思ったからだった。

幸い、夫となった人はとても気持ちの優しい良い人だった。役場に勤めている人だった。

そして夫が出征した後、町長から紹介されて今の病院に勤め出した事。

やがて義母の提案で、二階の部屋からお勝手の隣の納戸に移り、そこで寝起きしている事。

だが帰りが遅くなるとご飯は仕方がないが、風呂が冷たくなって寒くなって来てからは、火をおこして風呂を炊くのもはばかられて冷たくなった残り湯をかぶって我慢していた事。

それを知った院長婦人が自分も助かるからと夕飯と風呂をいただく代わりに夕食の準備と風呂の準備をする話を持ち掛けてくれた事。

私は二つ返事でその話を受けて、今では夕飯とお風呂をいただいて帰るようになった事。

ただ、この頃は朝ご飯を炊こうにも、いつもの場所には米も殆どなくいろいろかき集めてようやく粥を作ったけれど、今朝はその粥を作る食材も無くなって、白湯を飲んで掃除をしていると他家に嫁いでいる年上の義理妹の声が聞こえて来た事。

その話を聞いて、きっとこの着物を食べ物に替えるようにと言っているのだと思った。

こういう時世でもある事だし、いつまでもこれは祖母の遺した大切な品だと言ってかかえている事も出来なくなってしまった。

心を決めて外に出てはみたものの、どこに持って行ったら良いか、また、果たしてこの着物がどれ程の食料と交換出来るのか公園で途方に暮れていた事を話した。


ケンは思いもよらぬ事に、長い間、誰にも話せないでいた身の周りの事情をいつの間にか聞かれるままに洗いざらい吐き出すように話していた。

そうでもしないと、自分で自分を諭し、あやして押さえ込んでいたものが、もうどうにも限界まで来てどうしようもない気持ちになっていたからだった。

この御夫妻は大分老齢ではあるし、家からもかなり離れていて見ず知らずの人達だ。

自分が愚痴を吐いても許されるだろう。

そういう気持ちが働いて、里を出て来て以来、知らず知らずのうちに重さを増した重荷を背中から降ろすように話してしまっていた。

そうしながらも心のどこかで気になって、

最後にケンは、


「これは愚痴です。実の母にも話せなかった愚痴です。

私の側から感じた愚痴なんです。

姑のお義母さんから見たらもっと私に言いたい事や不満な事が沢山あるのかも知れません。私、今まで、父は若くして死んでおりませんでしたが祖母と母に可愛がられて何の苦労も無しにこの年まで来ましたから…。

もっともっと、苦労している人はいるのでしょうネ。」

そう言った。

話し終えると少し恥ずかしかったのだ。

二人共、暫らくは何も言わなかった。

やがて思いついたように、老婦人が立ち上がって三人分のお茶を持って来た。

三人はしんみりと茶をすすった。

二人は暫らくは何も言わないので、ケンは愚痴を吐き出した手前、恥ずかしくてきまりが悪かったが、それでも後悔はなかった。

いつの間にか心が軽くなっていた。

それに、このお二人は信用できる人だというのが、この静かな空気と沈黙から解るようなきがした。

やがて、

「ネエ、先生。」と老婦人は夫である老人に話し掛けた。


「この方と出逢えたのも何かの縁だと思いませんか?

私、なんだかそういう気がしているの。ケンさんの為に、何が出来るか考えていた所なんですヨ。」

老人もフムフムというように考え込んでいる。

すると夫人がケンに向かって、

「私達には子供がいないんですヨ。

いえ、授かった事は授かったんです。三人、全部男の子でした。

厳密にはそうだと思います。

でも、一人目は三ヶ月で流産して、二人目の時は気を付けて気を付けてお腹の中にいたのですけど早産でした。

生まれて来ても小さくてすぐ亡くなってしまいました。

三人目の時は、それは気を付けて私も主人も一日一日が真剣でした。

ようやく産み月になって無事、男の子が生まれました。

その嬉しかった事。天にも昇るような気持ちとはあの事です。

私は前の二人分の子の分も併せて、それはもう大切に育てました。

それはもう愛らしい子供でした。

でもネ、あんなに気を付けたのに誕生を待たずにお腹をこわしたのかと思ったら、あの子も持って逝かれてしまいました。

あの時のあの悲しみは何十年経ったこの年になっても忘れられるものではありません。

未だに幼い息子が夢に出て来て涙を流して、目が覚める事があるのですヨ。

子供を失うという事は、母親にとってはそういう事です。

でも今となっては、私も先生もこう思うようにしているのです。

一度が二度、三度まで、あんなに気を付け大切にしながらも、この手から飛び立って行った息子達はきっと御仏の何かの御意思によるものなのだろうと。

そう話し合って自分を納得させるより仕方がありません。

そうして戦争が始まってからは、こういう言い方は外に出て話す話ではありませんが、

大きく立派に育て上げた息子さんを戦地にとられて亡くす親御様の気持ちを思うと、思い出が少ない分、私共の方が心の痛みは少ないのだとそう自分を慰めております。

これも甚だ自分勝手な言い分で世間様から叱られますネ。

ですからケンさん、貴女の境遇には大変同情しますが、息子さんを戦地に送り出したお姑さんの心持ちもお察しするのですヨ。

招集令状を受け取ったその時から、やがて嫁を迎えるなら心に決めた人がいると言って、ケンさん、貴女の名前を聞かされた時の母親の気持ち、

迎えた嫁を残して戦地へ行かなければならない息子を思う母の気持ち、

それらを私も想像するだけで、本当の生のやりきれない母親の気持ちは当人でなければ解るものではありません。

また、ケンさんにも解れという方が無理です。

今の世の中、誰もがある意味、やりきれない気持ちをかかえて生きているのかも知れません。

それでもケンさん、貴女にその着物は手離させたくありません。

その着物は、お祖母様から貴方へ、貴女からまた貴女の子供、そのまた孫へ長く受け継がれて行くべき品です。

ネエ、先生、そう思いませんか?」

「ウム。」

「それで私はこう思い付きました。

私共がこの着物をお預かりします。そして、この着物はどこにもやらずに大切に保管します。

大丈夫、安心して下さい。

私達には勝手に来て持って行くような人間はおりません。

やがてこの戦争も終わる日が来るでしょう。そして、また、静かで平和な日がやって来るでしょう。

食糧難の時代も必ず終わります。

それまでここに置いたらいかが?

ネエ、先生。」

「ウム。」

「そして、お姑様や義理の妹さんには着物を食べ物に交換した証拠に何か持っていらっしゃいナ。ネエ、先生。」

夫人は笑顔でそこまで言って、老人の返事を待った。

老人は、

「ウム。その方がいい。全てはお前に任せるが、儂は違う事も考えていた。この娘御とこの着物に出逢ったのも何かの縁、形ある物はいつかは消えて無くなる。

若い娘もいつかは年を取る。お前のようにナ。

そして着物もまたこの先どんな運命を辿るか解らん。

儂はこの着物を描いてみたいと思っている。この着物を着たあんたを描いて残そうと思い立った。」と言った。

「まあ、それは良いお考えですネ、先生。」

と夫人は言って、

「ケンさん、先生は絵描きなんですヨ。日本画を描いているんです。見た事ある?」

「ええ、実家に掛け軸や屏風があります。あれに書かれている絵の事ですか?」

「そうなのヨ。」

ケンは改めて老人を見た。

この方が絵を描く方なのだ。

しかし夫人の話によれば、先生は風景画や花や鳥の絵が多く、今までは人物画を描く事が殆どなかった。

先生が美しい着物を着た若い女性の絵を描くなんて本当に珍しい事だから楽しみだと言った。

それから話は急に決まった。

が、ケンが朝から何も食べていなかった事に気が付くと、婦人は大急ぎで三人分の食事を用意して三人でお昼を食べた。

真白いお米のご飯と焼き魚、美味しい煮物のおかず。

近頃、口に出来なかった美味しいご飯をいただいて、ケンは夢を見ているような心地がした。


食後に夫人に促されて姿見のある部屋で、お婆様のあの豪華な衣装を身に付け、髪も美しく結って貰い、別の部屋に連れて行かれた。

そこは先生と呼ばれる老人の仕事場らしく、整然と片付いてはいたが描きかけの山河の絵が二枚あった。

老人は振り返ってケンを見ると、


「美しい、美しい。だがその美しさもいつかは色褪せるものなんだヨ。

この妻もナー、それはそれは美しい女御だった。」と言った。すると、

「まあ、初めてお褒めいただきました。」

そう言って、老夫人はニッコリ笑った。

ケンは改めて今も色白の上品な夫人を見て、その昔を想像した。

先生と夫人は、あれこれ話し合いながら相談して、ケンが疲れないように椅子に座らせその側に丁度合う机を持って来てそれに肘をつかせた。

先生の名は東雲という有名な画家だった。

ケンは図らずも高名な画家夫妻と知り合う事になって、その上祖母から伝わる着物を纏って絵を描いて貰う事になった。

このまま食べ物に替えられてケンの手から人の物になってしまう筈のお婆様の形見が、絵の中に残される事は有難かった。

東雲先生の奥様も、院長先生の奥さんと同じくケンを気に入って同情を示してくれた。

ケンはこの慣れぬ土地で気心の通じる人たちに逢う事が出来、どんなに心強かった事か。


それから週に一度、病院の休みの日にここ東雲邸に来て、少しの間絵のモデルになり帰りに食料をいただいて帰る事に話がついた。

夫人に連れて行かれた所は納屋というよりも立派な食糧庫と言った方が良く、三方に備え付けの棚やその下にあらゆる物が、米といわず野菜、芋類、豆類、海藻類、干魚等に至るまで、びっしり保管貯蔵されていたのである。

ケンはその物の豊富さに驚いてしまった。

見れば、その食糧庫の前や後ろの方まで畑が作られているようだった。

「運よく庭が広いものですから今は畑にして手伝ってくれる人もいて、いろんな物を作っているの。

それに先生を慕う人が全国にいらっしゃるから、方々から美味しい物を送って下さるのヨ。

それと田舎に別荘があって、その周りに我家の水田があるの。

ホラ、先生は風景画をよく描くから自分の別荘の周りも稲を作って楽しんでるの。

その事が、この御時世ですものネ、私達を助けてくれてるって訳なの。

世間では食料不足が叫ばれてるでしょ?

でもうちはこの通り二人だけですからネ。先生のお弟子さん達の留守宅でも大変な人がいると少しずつお助けしているのヨ。

皆さん戦争にとられたり、いろいろ大変な方ばっかり。

戦争、早く終わると良いわネ。

そしてケンさんの御主人も早く帰って来られるといいわネ。

ケンさん、さあ遠慮なく持ってらっしゃい。

貴女の着物と交換という名目ですから多めに持って行って良いんですヨ。」

夫人はそう言ってくれたがケンは遠慮した。

「それでは奥様、私と義母が食べる一週間分を頂いて宜しいでしょうか。」

そう言ってお米を一升ばかりと、さつまいもを少しと乾燥ワカメ少しと大根一本とじゃがいもを少し頂いた。

「そんな、遠慮しないでもっとお持ちなさい。」と夫人は言った。

「いいえ、これで充分です。一度に多くいただいても結局全部使い切る事になりますから。

実は私、庭の畑でさつまいもを結構収穫したのですが、いつの間にか貯蔵庫の中には一本も無くなっていました。

お義母さんも義理立てする所もあるのでしょうし、少しでも余分があれば人様に流されてしまいます。

それでは先生や奥様に申し訳ありません。

とても厚かましいのですが、また今度来た時に一週間分いただいて宜しいでしょうか。

その代わり私に出来る事は何でもお手伝いさせて下さい。」

ケンはそう言って、着物を包んで行った風呂敷に一週間分の食料を包んで背中に背負うようにして帰って来た。

出掛けに夫人が、

「魚も食べないとネ。」

そう言って、新巻き鮭の切り身を二切れ包んで持たせてくれたのは嬉しかった。

夕方、ケンが家に帰り着くと、辺りはすっかり暗くなっていて義妹の姿もなかった。

姑もケンが帰ったのには気が付いているだろうが勝手口には顔を出さなかった。

案の定、煮炊き出来る食材の姿はどこにも無く、ケンはもしも東雲先生御夫妻に巡り会わなかったら自分は明日の夕方まで、何も食べる物が無かったのかと思い寒い気持ちがした。

だけど今の自分にはこれがあるのだ。

いただいて来た食材を見つめて、やはりこの世には神様仏様はいるのだと思った。

先生御夫妻こそ神様のように思えた。

だが、さて、この食材をどうしたものかと考えた。

自分の着物と替えたからと言って自分の部屋に置くのは隠しているようであんまりにも浅ましいと思う。

だけれどもお勝手おいておくのは、いつものようにあっという間に無くなって明日以降の食べる物に困る事になるのではないかと不安になる。

食べ物でこんな気持ちになるなんて我ながら情けないと思うが、何も食べないでは働く事も出来ない。

実家の母のチセならこんな時どうするだろうかと考えた。

お腹が空いていた。

お昼を御馳走になったが、夕食を食べていないのでさすがに空腹を感じた。

思いきって、これで夕食を炊いて食べようかと思ったが思いとどまった。

その代わり、明日の朝は思いきって白い飯を炊こう。

帰りしなにいただいた塩鮭を焼いてお握りを作ろう。

ケンはよっぽどこらえ切れない時は何粒づつか食べている豆を思い出して、枕の中の豆を一掴み取り出した。

こんな時もあろうかと母チセがせっせと煎ってくれた姿を思い浮かべ、十粒程の煎り豆を時間をかけてゆっくり食べた。

悲しくもないのに、いつの間にか涙が頬を伝っていた。

今日は良い事があった。

これは嬉し涙なのだと思った。


朝起きて、昨日貰って来た食材をお勝手の棚に並べた。

こうして並べると、自分が外に出て働いて得た物のように誇らしかった。

お義母さんは何故?どうして?と思うだろう。

そして私の部屋の棚から着物が無くなっている事を知るだろう。納得もするだろう。

こんなご時世なのだ。

圭介さんがいない間は自分が圭介さんの代わりにお義母さんの食べる物を調達するのは当たり前なのだから。

ケンは自分にそう納得させながら貰って来た米の三分の一程を使って白い飯を炊いた。それから、

塩鮭を焼いた。

大根の葉で味噌汁も作った。

家の中に久々にご飯と焼き魚と味噌汁の匂いが漂った。

出来上がった白いご飯で塩鮭を入れた大きなおむすびを五個作った。

1個は病院でのお昼用に持ち、一個は朝ご飯に食べた。

美味しかった。しみじみ美味しかった。

残りの三個は大きなお皿に乗せ布巾をかけて見える所に置いた。

お義母さんの朝食とお昼と夕飯の分にと考えたからである。

後片付けも済んで、台所を振り返って見るとまだ食材がある。

その安心した気持ち、自分の計算では粥にしたりじゃがいも、さつまいもを使うと一週間は持つ計算になる。だが…と考え、果たしてこれがいつまで持つかなんて考えるのはよそう。

全てはなるようになるのだ。

昨日だって、なったではないか。

ケンは晴れやかな気持ちで家を出た。

その日の病院の仕事もいつも以上にシャキ、シャキ働いた。

これからは自分自身が頼りなのだ。

自分がしっかりしなければならないのだ。


夜、お風呂と夕飯を頂いて帰って来ると、やはり家は暗くなっており、姑は眠ってしまったようだ。

お勝手に行くとお皿に乗せておいたお握り三個は食べたらしく無かった。

良かった!お義母さん食べてくれたんだ!

食材もケンが置いたままになっていた。

ケンはその夜、安心して眠りについた。

生きて行くには食べて行かなければならない。

幼い頃から今まで一度もひもじい思いや明日の食べ物の心配を見たり聞いたりした事のないケンだったが、

今、初めて、その“食べる”事の不安や辛さ喜びを身に沁みて感じた。

世間では食べる為、生きる為に人はもがいているのだとつくづく思ったのだった。


その一週間をどうにか乗り越えて次の休みの日に東雲先生の所に行くと、

御夫妻、特に夫人が「待っていたのヨ。」と言って喜んでケンを迎えてくれた。

ケンは絵のモデルをする前に何かお手伝いをしようとしたが、

「いいから、いいから。先生が貴女の絵を描く準備をして待ってますヨ。」と言ってまた、姿見の間に連れて行かれ、あの着物を着つけてくれた。

ケンにとっては、美しい着物を着て座っているだけのそれは仕事をしているようには思えず、それでいて帰りには一週間分の食料をいただいて帰るのが気が引けて申し訳なく思った。

だが、東雲先生も機嫌が良く夫人も嬉しそうで、ケンが行くのを楽しみにしているようであった。

帰りには必ず珍しい物を追加して持たせてくれるのだった。

そして、それを義母にも分けて食べさせる事をいつか楽しみにして帰るようになった。

義母は朝、ケンが家を出る時は起きていず、夕方も帰りが遅く暗くなってから帰るので、もう床の中だった。

ここずっと義母とは顔を合わせる事のない日が続いていたが、それでも、ケンが朝作っておいておく粥やおかずはきちんと平らげて片付いてあるのが嬉しくなる。

この度も奥様から立派な羊羹を一本帰りにいただいた。

ここ暫らくは甘い物を食べてはいなかったので、ケンは素直に喜びを顔に出した。

「お義母さんと一緒にいただきます。」と言うと、東雲先生も夫人も笑って見送ってくれた。

この時節に甘い羊羹はなかなか手に入らない貴重な物だったからである。

ケンはやはり、

次の朝、真白いご飯を炊き姑の為に握り飯を三個大皿に置き、その脇に羊羹を半分切った物を置いた。

きっと喜んでくれる筈だと心が弾んだ。

残りの半分は病院の院長先生と奥さんと三人で夕食の後にいただこうと袋に入れて持った。

やっぱり甘い物は珍しく奥さんは喜んだ。

院長先生の書斎にも差し入れて、奥さんとケンはお茶を飲みながらいつもより少し長くおしゃべりをした。

どこからいただいたのかもケンは正直に話した。

休みの日に着物を着て絵のモデルをしている事も話した。

東雲先生のお名前を出すと奥さんは驚て、


「とても高名な先生なんですヨ。ケンさん、貴女、運が良かったわネ。」

と喜んでくれた。

それから、

「ところで遅くなるから手短に話しますけど、

ケンさん、准看護婦になるつもりはない?

ケンさんはまだ若いし、一生懸命だし、勉強すればきっと良い准看護婦になれると思うの。

経験年令に達すると試験を受ける資格が持てるのヨ。

今、うちにいる看護婦さん、皆そうヨ。

準看の上は正看となっていて、正看になったら大したものヨ。

お給料もグンと上がるし、その他にも助産婦の資格だって取れるのヨ。

よく考えて見てネ。私達は応援してますからネ。」

院長先生の奥さんにいろいろ話を聞いて、ケンは帰りの道々、いろいろ考えて帰って来た。

こういう事は本来なら夫に相談すべきだろう。

だが、その圭介は今、側にいない。

帰りはいつになるだろう。

まだ先だろうか。

でも今の自分にとって励みになるような目標が欲しい。

勉強していて無駄になる事はない。

とりあえず勉強してみよう。

もしも反対されたらその時、辞めても良いのだから。

ケンは一人、心の中で決めた。

家に帰り着くとやはり暗くなっていたが、お握りも羊羹も食べて片付けられていたが、小さな小皿に蒸かした細いさつまいもが一本の乗せておいてあるのを見つけた。

驚いた!嬉しかった!

今までない事だった。

ケンはホロホロと涙が流れて来た。

自分の心が通じたと思った。

涙をこぼしながら、そのさつまいもを食べた。


そういう日が順調に過ぎて行って、暮れが押し詰まって来た休日の日に、いつものように東雲先生の所に行くと、先生は出来上がった絵を見せてくれた。

それはあの艶やかな着物姿のケンだった。

後姿のと、斜め横向きの二枚だった。

とても美しい絵だった。

これが私?嬉しいような恥ずかしい気持ち。

でもこの着物が人の手に渡らず絵になった事は本当に御夫妻に感謝しなければならない。

すると先生がいたずらそうな顔でもう一枚絵を後から取り出して見せてくれた。

「これをケン、あんたにあげよう。」

それは正面の姿を写したものだった。

とても美しい絵だ。

夫人もニコニコ満足そうな顔で、

「ケンさん、私のようにお婆さんになる前に若い自分を描いて貰って良かったわネ。」と言った。

帰りに、お正月用にといろいろ珍しい物や美味しい物をどっさり持たせてくれた。

そして東雲先生も夫人も玄関まで見送ってくれて、また、新しい年も来なさい。待っているからと言ってくれたのは有難い事だった。


ケンはいただいて来た数々の物で正月らしい形を整える事が出来たのだった。

それまで姑と顔を合わせるのは給金を手渡す時のほんの束の間だったが、暮れの大みそかと元旦だけは力を合わせて掃除をし飾りをつけて、圭介の隠膳を作り新しい年を祝った。

義母は相変わらず何を考えているのかケンに対して言葉少なだったが、元旦のお膳を前にして、

「昨年は御苦労様でした。今年も宜しくお願いします。」

と言ってくれた。

ケンも、

「ふつつかで気が届きませんが精進します。

どうぞ今年も宜しくお願い致します。」と言えた事は嬉しかった。

少しずつ、少しずつ姑との距離が縮まっている。

里のチセからも食べ物と一緒にケンの綿入れ半纏が入れてあった。

母の匂い、ぬくもりを感じたのも有難いし、義母ともうまく行きそうだ。

年が変わって、やがて歴の上では春分という言葉を目にし耳にすると日が早く昇り、春が近くまで来るようでケンは圭介の帰りが待たれた。

そう言えば、元旦に久しぶりにお膳を一緒にした時、

ケンが、

「圭介さん、どうしていらっしゃるかしら?」と言うと、

義母は一瞬遠くを見るような目をして何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。


お義母さんは私よりずっとずっと圭介さんとの日々が長いのだもの。

母の心は海より深いというではないか。

たった一週間足らずの嫁に解ろう筈はないとでも思っているのかも知れない。

いつも心の扉を閉ざしているようで、ケンはいつもその前から淋しく帰るしかなかった。


一月が過ぎ、二月が過ぎ、三月も半ばになると随分日が長くなり春らしくなって気持ちが良くなって来た。

病院の仕事の方も順調で、院長先生の奥さんから貸していただいた看護婦の本をケンは一生懸命勉強する日々が続いた。

東雲先生の所にも休みの日には必ず顔を出した。

あれからもケンは、違う着物を着せられて絵のモデルをして帰って来た。

東雲先生はそれまでは風景画や花鳥の絵ばかりで人物画を描く事がなかったが、ケンと出逢ってからは人物画、特に日本の着物の美しさに改めて魅了されたらしく、様々な着物や帯を用意していて夫人がそれをケンに着せて、時には立った後ろ姿を描いたり、また時には飼っている白黒の猫を抱かせたりして描いた。

それが思いがけなく秘かに評判が良いようであった。

そんなある日、ケンが病院から帰るとまだ辺りは明るさを残していたが、家の中はシンとして、家中、線香の匂いが漂っていた。

何だろう?何年か前に亡くなったというお義父様の命日だろうか?

もしもそうなら私もお線香を上げなければならない。

そう思ってケンは、座敷の隣の姑の部屋に声を掛けた。


「お義母様、

お線香の匂いがしましたが、どなたかの命日でしょうか?」

返事はない。

「お義母様、亡くなったお義父様の命日ですか?私もお線香をあげさせていただきます。」

そう声を掛けると、

「いりません!その必要はありません!」

と、いつにも増して暗く冷たい返事が返って、これ以上声を掛けるナと言わんばかりの冷たさで、ケンはビクッとして黙って自分の部屋に戻った。

何故、あんなに怒るのだろう?

“ありがとう、でもいいんですヨ”と、それぐらいの言葉があっても良いのに。

ケンはさすがに姑のピシャリとした言い分に一瞬腹を立てずにはいられなかった。

折角、少しずつ歩みよれて、これからは近づいて行けそうなそんな気持ちがしていた矢先だった。


人にはいろんな人がいるのだナ。

自分の気持ちの物差しでは計る事が出来ないのだナ。本当に難しい。

人間関係って難しい。

嫁姑は仲が悪いのが当たり前と世間ではよく言うが、これがそういう事なのか?

また、元に戻ってしまったような気がした。


あの日以来、ケンの心も一瞬凍りついたが、それも思い直し、どうにかして仲良くなれないものかと思っていたが、

暖かくなったというのに義母はケンが家の中にいる間はいつも部屋に閉じ籠っていて、顔を合わせようとはしなかった。

ケンの給料日に、帰って来て給料袋を持って行くと、その時だけは障子を少し開けて、ケンの給料袋の中からほんの少し、小遣い程度の物を抜いてよこし一言も何の言葉もなかった。

ケンはあまりの事で、自分がこの姑に何をしたというのか?と考えたり、心の中で怒ったりしたが、人それぞれの性格をどうする事も出来ない。

今日は試験があるのだ。

ケンは思いきって、


「あの、お義母様、今日は試験があって少し入用です。」と言ってみた。

姑はじろりときつい目で睨むと黙ってまた少しの金を障子の外に置き、まるで怒ったように障子を閉めてしまった。

何故だろう?

何が不満なのだろう?

私はこうして一生懸命頑張っている。

お給料も殆ど家に入れているし。

食べ物も運よく東雲先生に出逢えたお陰で、お義母さんにも朝、一日分のお粥を作っておいて行く。

休日の日には家の中や風呂場、厠を掃除してから出掛けている。

嫁としての務めを果たそうと必死で頑張っている。

それなのに、お義母さんは何が不満だというのだろう?

ケンは、お昼休みの時に院長先生の奥さんについポロリと言ってしまった。

「嫁姑って所詮分かり合えないものなんでしょうか?」

奥さんはケンが給料の殆どを家に入れて、ほんの少しの小遣いしか貰っていない事をその時、初めて聞かされた。

「まあ、私はケンさんがお給料を管理して、お義母さんにお小遣いを渡してやりくりをしているものだと思っていましたヨ。」

ケンは苦笑いして、

「ですから試験を受けに行く時の電車賃や受験にかかるお金をやっと勇気を出していただいたんです。」

「そうなの?これで解りましたヨ。ケンさんはいつも着物でしょ?

着物をキリリと着て白いかっぽう着姿も悪くはないんですけどネ。

仕事をする上では着物姿よりも洋服の方がずっと動きいいんですヨ。これからは洋服の人が多くなって行くんじゃないかしら?

ケンさん洋服は?」

「一枚も持っていません。」

「そう?貴女の家の事情では難しいでしょうネ。」

奥さんは着物の時と洋服の時があった。

その洋服は着物をほどいて作ったものだと言って、白いかっぽう着を脱いで見せてくれた。

前が途中まであくようになっていて、スルリと被るようになっている。

こういう物なら作り方を教えてあげると言ってくれたが、ケンは結局着物を洋服にする事はなかった。

その頃には、段々モンペ姿の人が多くなっていたし、母のチセが作ってくれた藍の紬の着物一枚を思いきって上衣とモンペに作りかえた。


戦争は段々厳しさを増しているようだった。

世の中の空気も戦争一色になっていた。

だがもうその頃には日本が勝ち進んでいると喜ぶ者は誰もいなかった。

どこか暗い世の中になって行った。

病院に来る人達が噂し合うヒソヒソ話も暗い話が多かった。

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