第5話
翌日ケンは、教えられた住所と名前と簡単な地図の書かれたその病院へ向かった。
実家では恐らくは毎日のように自分を案じているだろう。母チセの顔を思い出した。
「ケン、何事も最初、楽観しては駄目なのですヨ。世の中というものは大抵は自分が想像していたのよりはるかに大変な事が多いのですからネ。鬼が棲む洞窟に向かうぐらいの気持ちで行くと丁度良いんですヨ。」
母の言った事は本当だと思った。
表立ってにらんだり嫌みを言ったり、始終小言を言われたりするような事は無いけれど、義母サクのいつまで経っても隔たりのある態度や物言いはどこまでも冷たくて寒々しさを感じるものだった。
本当にあの心優しい圭介がこの母から生まれ育ったのかとケンは思った。
圭介さんをあのように育てた方だもの本当は心の温かい方なのだ。
戦争がこの人をこんな風にしてしまったのかも知れない。そう思い返しても見た。
圭介は戦争に行ったのだ。
それなら、これからの自分の毎日は戦争に行くのだと思えばいい。
この先、どんなに苦しく嫌な事があろうと、それをそれこそ自分の戦争だと思えば耐え抜いていけるだろう。
ケンが向かった先の病院というのは、入院病棟もある中規模の個人病院だった。
以前は医者の数も院長を入れて四人だったのだが、若い医者が全部戦争に行って、今は院長だけだと言った。
最初、院長と院長婦人がケンを面接したが、院長はケンを見るとすぐに忙しいらしく席を外した。
院長婦人も病院の医療事務と経理を受け持っているという事であった。
院長は元々、無口な質らしく愛想も無かったが院長婦人はゆったりとした体形の福々しいい人だった。
「病院の仕事というものは大変な仕事ですヨ。健康で体の調子の良い人は来ない所ですから。まあ患者は苦しみを訴えますし、自分の体がままならない人は下の処理もお世話しなければなりません。汚れ仕事です。
この汚れ仕事を看護婦の助手はしなければなりません。貴女そんなお仕事出来ますか?」
微笑みながらその目はまっすぐケンを見た。
ケンは、ここが覚悟する時だと思った。
この広い世の中には多くの病院があって、多くの患者達がいて、そしてその世話は誰かがしているだろう。
誰かがしている事、出来る事を自分が出来ない訳がない。ここは逃げる訳には行かない。
ケンは大きく息を吸い答えた。
「やります、私やってみます。」
看護婦は年配の看護婦ばかり五人で交替で勤務していた。
ケンを加えて六人という所だ。
事務や調剤等は薬剤師でもある奥さんが頑張っているが、いずれ人を入れるつもりだと言った。病院の中やトイレの掃除は専用に二人のお婆さんがいて、入院用のまかないは他にいるという事だった。
ケンは看護婦の中でも一番年配のキビキビした人の下について歩きながら、指示された事を手伝うという所から始めた。
初めての環境で初めての仕事なので、勿論、緊張し通しだったが決して辛くはなかった。
何もかも珍しく、むしろ興味深くて、ついて仕事を見て歩いたり、あれを持って来い、何号室に行ってこうしてああしてと言われるままに走り回った。
そうしていると一日はあっという間に過ぎた。
家の中にいてあれこれ考えるよりは、むしろずっと良いような気がした。
最初についたのはやはり婦長だった。
婦長はケンをジロリと見ると、
「今まで奉公に出た事も、他人のお世話をした事もないのですネ。貴女の事情は聞いています。この仕事は貴女にとって厳しいでしょうが、皆、忙しいのですから手加減はしませんヨ。」とピシリと言われた。
「この仕事は汚い仕事です。具合の悪い人や怪我をした人が来る所です。時にというより毎日のように汚物の世話をしなければなりません。その覚悟は出来ていますか?」
ケンは決意を込めて、「はい。」と答えた。
ここは戦地なのだ。
嫌だと言って逃げる事の出来ない戦地なのだと改めて思った。
その日からケンの戦いが始まった。
祖母の菖蒲が亡くなる前に少しの間、下の世話をした事があった。
それが頭にあって、そういう事に慣れているつもりだったが、そんな事は経験のうちに入らなかった。
ケンは汚物の処理を毎日繰り返しながら、どうしたら手際良く患者をさっぱりと清潔にさせるかを身に付けて行った。
病院では勿論の事、家に帰っても愚痴一つ言える相手もなく、ただひたすらこれは戦争だ、私の戦争だと思って一日一日を過ごして行った。
ただただ夢中だった。
早くいろんなことを身に付けて一人前になりたい。その一心だった。
一ヶ月程経ったある日、
お昼時に休憩中のケンの所にブラリと奥さんが来て隣に座った。
「少しは慣れた?」
「はい、お陰様で。」と答えると、
「大変な仕事なのに、ねも上げずによく頑張っているって婦長が誉めていたワ。」
そう言ってお菓子を一つケンの手に乗せて戻って行った。
ケンはその時、初めて、冷たい世間の中に温かみを感じる事が出来た。
頑張れば見ていてくれる人がいる。
自分の精一杯を出して頑張ってみよう!
手の平の小さなお菓子は自分が認められた証なんだと思った。
仕事を終えて家に帰り着く頃にはクタクタに疲れていた。
帰りが遅い事もあって簡単な夕食のお盆が用意されてあったが、姑は既に床についていた。
ケンは冷たいご飯と冷たい味噌汁を喉に流して風呂場に行く。
湯はとうに冷めて水に近い状態だった。
その冷めたい湯を体にかけて体を洗った。
そしてその後、風呂場を掃除するともうぐったり疲れて布団に入るなり眠りに落ちて行った。
それでも朝は早く起きて、ご飯を炊き朝餉の支度をした。
中に梅干を入れただけの握り飯一つ持って、急いで病院へ向かう。
そういう毎日が続いた。
ケンは負けなかった。
時々無性に切なく泣きたくなる時があった。
それは圭介を思い出す時だった。
実家の母のチセを思い出す時だった。
そんなときは喉元にせり上がって来る嗚咽を押さえ込むように、戦争だ!戦争だ!と自分に言い聞かせるのだった。
そして何故か今は亡きお婆様の事をも思った。
こんな私を見てお婆様は何て言うだろう。
お金持ちのお嬢様として生まれ育ち婿を貰って、死ぬまで一度も家から外に出て世間の中に身を置いた事もなく一生を終わったお婆様。
今の私に何と言うだろう。
「ケン、家の中にいたって世間の中にいたって、苦労はついて回るもんだヨ。
男も女も死ぬまで何かと戦をしているようなものなんだヨ。
時には誰かを相手に戦う事もあるだろうが、最後には自分自身との戦なのさ」。
そんな事を言いそうな気がしたものだ。
ケンの給金はまだ見習いで半人前という事もあって、人一倍動き回っている割に一人前の看護婦とは比べ物にならない少ない額だった。
それでもケンには大きな喜びだった。
自分の力でお金を稼ぐ事が出来たという喜びは大きかった。
初めて給金を頂いた日、いつもより早めに帰れてまだ起きていた姑の部屋に行って、その給料を渡した。
姑はニコリともしないでその袋の中身を確認すると、その中からほんの少しのお金を取り出してケンに渡すと、
「御苦労様、残りは家の食費に回しますから何か必要な物を買いたい時は言って頂戴。」
と言った。
ケンの手に残されたのは驚く程少ない額だった。
これで何が買えるというのだろう?
ケンはただ呆然とした。
一瞬驚いてしまったが、ケンはこう思う事にした。
私は今、圭介さんの代わりに働いているのだ。
この家の食費を稼いでいるのだ。
そう思う事で満足をすることにした。
わずかのお金でケンは女の月々の用意の物と切手を買って母親のチセに手紙を書いた。
チセがどんなに心配しているかは明らかだった。
ケンは、病院に勤めて頑張っている事、初めて給金を貰った事、その殆どを食料を買って貰う為に家に入れた事を書いた。
最後に、健康で頑張っていますから心配しないで下さいと書いた。
そして夏も終わり、秋風が吹いて来た。
病院が休みの日にケンは、自分が作った畑の作物を収穫していた。
さつまいもが思った以上によく出来て、ケンは満足しながら掘り起こしていた。
姑のサクが縁側に来てその様子を見ながら
「ケンさん、この間から考えていた事なんですけど、貴女、お仕事で帰りが遅い日が続くんでしょう?
そうするとこの頃は日が暮れるのが早いから、電気代が勿体なくて私早く眠る事にしているの。
すっかり眠っている所を、ケンさんの階段を昇る音で目が覚めちゃってそれからなかなか眠れないのヨ。
貴女だって音を立てないように気を遣っているのは解っているのヨ。でもネー。
それで考えたんですけど、圭介が帰って来るまでの間だけ、ケンさんが病院へお勤めしている間だけ、お勝手の隣の納戸をケンさんがお使いになったらどうかしら?
あそこ、以前は昔、我が家でお手伝いをしていた婆やさんが使っていたのヨ。
お風呂場も厠も近いし、多少音を立てたって気を遣う事もないし、圭介が留守の間だけなのヨ。」
姑のサクはそう言った。
ケンは一瞬驚いたが、反対する事は出来ないと思った。
この家の中でサクは絶対的であり、それに逆らう事は出来ないのだ。一瞬にして思った。
「はい、解りました。そのようにしたいと思います。」
ケンは無駄な事は一切言わずにそれだけ言うと、二階の自分達の部屋に行った。
圭介の部屋と隣の部屋と二間を夫婦の部屋として使っていたのである。
ケンの荷物はわずかな物であった。
チセが大急ぎで新しく用意してくれた布団一式と、わずかな着替えだけである。
他に持って来ようとしたが、こういう状況であるからして嫁入り仕度等一切不要であり、必要な物は全部揃っていますからと前もってくどく言われたからだった。
ケンは自分の部屋から布団一式と風呂敷包み二つを下に降ろした。
義母サクの言う納戸を開けてみた。
この時の為に掃除して片付けておいたのだろう。何も無いガランとした四畳程の板の間の、そこはいかにも寒々しく今までいた二階の座敷とはあまりに差のある場所だった。
だが確かにここで寝起きし働いていた者はいたのだから自分に出来ない事はない。
自分がここの嫁だと思えば不満に思うが、自分がここの奉公人だと思えば納得できる事だと思った。
圭介さんが帰って来るまでは自分は義母にとっては見ず知らずの奉公人のような者なのだ。
そう思おうとした。これは私の戦なんだから。
戸のついていない剥き出しの押し入れのような何段かの物入れの棚に布団や着替えを入れた後、ケンはもう一度床やあちこちを拭き掃除しながら考えた。
ここの納戸に寝起きする良い点を考えよう。
一番は帰って来て食事をする時も、風呂を使う時も、お義母さんの部屋と離れているので物音を立てるのに神経質にならなくて良い事。
階段の上り下りはどんなに気を付けてもギシギシ音がして自分でも気になっていた。
朝起きて、朝食の準備をするにしても、すぐ側だから便利が良い。
なんだ良い事ばかりじゃないの。
ケンはそう思ってニッコリした。
だけれども、やがてやって来る寒さの事を考えるとこの部屋はいかにも寒々しい。
これは工夫しなければいけないワ。
納戸にあった物は全部外の蔵に入れたらしいが、隣りの物置の入り口にいくつか空の木箱が積まれているのをケンは思い出した。
その木箱を取りに行くと、奥に荒むしろが丸められて積んであった。
ケンが、
「お義母さん、物置にある物を使わせていただいて構いませんか。」と言うと、サクは妙な顔をして、
「いいですヨ。」と一言だけ言った。
ケンは荒むしろの束を全部持って来て広げてみた。
荒むしろは全部で六枚あった。
どれも古い物だが、それでもこれは役に立ちそうな気がした。
少し考えて四枚は重ねて夜寝る時の敷布団の下にしようと思った。つまり畳の代わりである。
ただの板より少しは違うだろう。
後の二枚は二つか三つ折りにして重ねて、これを布で包むと座布団代わりになりそうな気がした。
これで冬が来てもどうにか下からの寒さはしのげるだろう。
かつてここに寝起きしていた婆やさんもきっと工夫した筈だと思うと少しワクワクして来た。
まだ朝夕そんなに寒くはないが、今から用意しておいて早すぎる事は無い。
ケンは二階の部屋に戻ると、圭介の使っていた座布団だけこっそり持って来た。
そうすると何か心強い気がした。
次の休みの日に実家の母チセがやって来た。
祝言の日以来の事だった。
恐らくケンの手紙を受け取ってから冬になる前に、畑で採れた物を土産にしながら様子を見に思い切って出て来たのだろう。
チセが訪ねて来ると、さすがに姑のサクは慌てた。
「まあまあ、ようおいでになりました。」
と今まで見た事もないような取り乱し方で愛想をした。
チセが落ち着き払って、
「こちらに嫁入りして以来どうしているかと思い出さない訳ではなかったのですが、圭介さんのお母様がついていらっしゃるからと安心してご無沙汰してしまい申し訳ありません。
つい先日、ケンから初めて手紙を貰って、それには病院に勤め出して少し慣れた所だから安心してくれという内容でしたので、まあ安心はしたのですけれど、
畑の物もいくらか取れましたし、この先寒くなりますとなかなかこちらにも御挨拶に伺えなくなりますので、こうして重い腰をあげて来た次第です。
圭介さんからお便りはありますか?」と聞いた。
「ええ、二度ばかり。簡単な葉書きですが元気でやっているとありました。」
ケンは心の中で驚いた。
姑からは何の話も聞いてはいない。恐らくその葉書きはサク宛ての名前の物だろう。
だけれども嫁の自分に一言便りがあったと知らせてくれても良いではないか。
一瞬頭の中がカッと熱くなった。
ケンの顔色が変わったのに気が付いたのだろう。
チセが、
「こんな物でお恥ずかしいんですが、うちの畑で採れたものです。持って参りました。」
と豆だの小豆だの長いもやごぼうやどこから手に入れたのか米まで荷物の中から取り出して見せた。
「近頃世間では物が不足していると聞いたものですから。どうぞお笑い下さい。」
と言うと、姑のサクも、
「いいえ、いいえ。とんでもございません。大助かりです。遠慮なく頂戴致します。」
そういう一通りの挨拶が済むと、サクは言いにくそうに、
「お母様は驚かれると思いますけど、ケンさんは今、下で寝起きしております。病院に勤めておりますと毎日のように帰りが遅くなりますので、その方が都合が良いという事になりまして。
ケンさん、お母様をご案内して差し上げて。
私はあいにく約束している用事がありまして出掛けなければなりません。
ちょっと失礼しますが、どうぞごゆっくりなさって今晩は泊まっていらして下さいネ。」
そう言うと、姑のサクはそそくさとどこかに出掛けてしまった。
二人っきりになるとチセが、
「ケン、お前大丈夫なの?うまくやってるの?」
と心配した。
「ええ、お母さん、私なら大丈夫ヨ。お母さんの娘ですからネ。」と笑って納戸に案内した。
チセはそこを見るとびっくりして何も言葉が出ないようだった。
「場所は納戸ですけど、気持ちは楽なのヨ。
ただこれから冬がやって来るから、その時の事を考えてどうにかしなければと思っているの。」とケンは笑って言った。
「私の家も貧乏だったけど、こんな板の間に寝た事はないネ。」
とチセが心配顔で言った。
「ホラ、昔の人が良く言うでしょ?苦労した者は偉くなるって、私も偉くなるかしら?」
ケンが明るく言うと、
チセが、「お婆様がこれを見たら何ておっしゃるだろうネ。少なくとも畳屋を呼んですぐ畳を敷かせるだろうネ。」そう言った後
二人はカラカラ笑い合いました。
「お母さん、私はこう思う事にしているのヨ。
圭介さんは戦争に行った。
私のこの毎日は私の戦争なんだって。そして圭介さんが帰って来た時、しっかりしたお嫁さんになっていようと思うの。」
そういう娘を見てチセは少し安心したが、この健気な娘を見ると目に涙が滲んだ。
「ケン、もしかして圭介さんの便りをお前に見せてないのかい?」
「ええ、さっき聞いて驚いたくらい。」
「意地悪だネ。これが姑の意地悪なんだヨ。」
「でもどうして?私、お母さんが気に入るようにしているのに…。」
「きっと息子を嫁にとられた嫉妬心というものだろうヨ。
頼んで来て貰って感謝すると言いながらも、長い間大事に育てた息子を急に若い娘にとられたという思いがあるんだろうヨ。」
チセの言葉を聞きながらケンは思った。
祝言をあげてから圭介は不安で不慣れな空気からケンを庇うようにいつも一緒にいてくれた。
ケンを連れていろんな所を見せて歩いた。
母親としてはそれを喜ばなければならないのに義母は淋しかったのかも知れない。
戦争に行ったならもう帰って来ないかも知れない息子。
親孝行だったその息子としみじみとした話もしたかったろう。
だが息子の隣には見ず知らずの嫁がぴったりといた。
結局、招集令状が来てから出征するまでにろくに会話もする事なしに、ましてやしんみりとした時間を持てぬままに送り出してしまった。
その思いが恨みになって心の底にあるのかも知れない。
ケンは若くまだそういう母心を理解する事は出来ないけれど、想像する事は出来た。
ケンは気持ちを切り替えるように、チセに
「お母さん、私明日から病院の務めがあるでしょ?
どうする?日中、ここのお義母さんと話が弾みそう?」
と聞くと、チセはいかにも残念そうな顔で、
「私は今日帰りますヨ。お前の顔を見て安心したし、今日中に帰った方が良さそうだしネ。
私もお婆様に仕えて来てどんな人とでも話す自信があったけれど、こちら様にはどこか棘があるネ。
まあこれが嫁姑の間柄っていうものなのかネ。
それにしてもお婆様は一見難しそうな方だったけれど、一本道理という筋が通ってらしたからネ。こっちが真正直にしてさえいれば安心していられたんだが。
ケン、お前はこれからも苦労すると思いますヨ。何か都合をつけて家に帰って来るかい?
理由は何とでもつけれるし、世間に何と言われても構わない。
どうしてもこれ以上は無理だと思ったら我慢する事はないんだから。」
と言った。
その言葉を聞くとケンの心は一気に温まって愉快になって勇気が湧いて来るのだった。
「大丈夫、大丈夫。私だんだん楽しくなって来た所なんだから。」
チセはケンの顔を苦笑いしながら見て、背中に背負って来た風呂敷包みをほどいて広げた。
そこには藍で染めた同じような単衣の着物が四枚畳んであった。
ずっと前からお前にと思って用意してあったものなんだヨ。
この色は色白のお前の顔にはよくうつるし、この戦時下でも派手に見えないからネ。
でもいくら目立たなくても紬だから見る人から見りゃ違いが解る。
お前を立派にも一層美人にも見せてくれるヨ。
ケンは母さんの宝娘だからネ。」と言った
ケンは嬉しくて嬉しくてチセに抱きついた。
母の懐かしい匂いがした。
これで通いの着物の心配はいらないと思った。
四枚の着物はとっかえひっかえ着て大事にしよう。
「この着物はネ、何たってお蚕様から取ったものだからネ。いつも手伝いに行っている所から安く分けて貰っていつかお前にと思って用意していたんだヨ。
この着物は最初は少し硬いけれど、着れば着る程馴染んで長く持つんだヨ。
もしも着ていて日焼けしたりくたびれたナと思ったらほどいて洗い張りをして裏表をひっくり返して仕立て直すと、織り上がりのように新しくなる物なんだヨ。
何たって木綿や麻に比べて暖かいから寒い日にはこれを二枚三枚と重ねて着ると綿入れがいらない程だからネ。
ケン、そのうち綿入れの着物を作って送るから。」というと、
「お母さん、それは大丈夫ヨ。寒くなったらお母さんが持たしてくれた綿入れの夜着があるから。」
「そうかい?毎日きちんと食べてるの?」
「ええ、大丈夫ヨ。今は贅沢出来ない時代だから皆が大変な時なのヨ。」
「それなら甘い物はなかなか食べられないだろうネ。」
「ええそりゃそうヨ。私だけじゃなく皆がそうなんだから。」
するとチセはニヤリと笑って、そう思ってさっきは出さないでおいたんだヨ。」
チセはそう言って、自分の手提げ袋から小さな包みを取り出した。
その一つには干し柿が十個入っていた。
もう一つには干し芋が入っていた。
「まあ、母さんったら。」
ケンは可笑しくて笑ってしまった。
「これ私、圭介さんのお母さんにもあげなくっちゃ。」
「その必要はありませんヨ。あの姑さんの様子を見たら、贅沢しているのが解りますヨ。
きっとお前の目がない所でちゃんと美味しい物を食べている筈ですヨ。
さあ、たくさんお食べ。ここに来て圭介さんがいなくなってから甘い物を食べた事があるの?」
ケンが思い出したが、この家では一度も食べた事がなかった。
たった一度、病院の奥さんが手の平に乗せてくれた小さなおまんじゅうだけだった。
あの時の甘さは涙の出る程美味しかった。
ケンは干し柿を食べた。甘くって美味しい。
「美味しいだろ?たんと食べるんだヨ。」
ケンは久しぶりの甘い干し柿と母の優しさにじんと来て思わず涙が出てしまった。
ケンがこれは嬉し涙なのヨと言って照れたが、チセはそんな娘の涙を痛々しそうに見ていた。
「ホラ、手も荒れているし顔にも何もつけていないんだろう?そう思って採れた小豆を売ったお金でこの間買っておいたんだが、これは何にでも効くからネ。」
チセは大きな平たい缶の蓋を開けてケンの前に差し出した。
馬の油を固めたクリームのような物だった。
「どこの嫁も姑、小姑にいびられて苦労をするものだって聞くからネ。
だがこれがあれば大丈夫。朝、顔を洗ったら顔につけて手にもつけるんですヨ。」
何から何まで考えてくれる母だった。
チセは最後に畳んだ藍の着物の一番下から小さな枕のようなものを取り出した。
はいとケンの目の前に出して、
「これはネ、ひもじい時、小腹が空いた時の味方だヨ。」
「母さん、枕なら私持っているワ。」
「いいや、これは特別の枕なんだヨ。」
チセはその枕にかけられた袋の口の紐を解いてごそごそ取り出したのは、空豆を炒った物だった。
枕の中身はもみがらではなくて、空豆を炒って皮を剥いて食べるばかりにしたのを、油紙の袋に入れてその上を更に布袋で覆っていかにも枕に見せかけてあるのだった。
これはネ、昔私達の実のおっかさんが作ってくれたものなんだヨ。
普通の枕の下にこの空豆の枕を一つずつ私の姉と私に作ってくれたものサ。
私も姉も何か食べたいナー、お腹が空いたナーと思った時に、自分の枕に手を入れてそれを一つ二つと大事に食べたものサ。
私のおっかさんにはそんな優しさがあった。
世間の人は何も知らないで“妲己の花”なんて陰口を言ったけれど、私はどんな立派な人よりもこの世の中で一番心の優しいおっかさんだと思っているヨ。大好きなおっかさんだった。」とチセは思い出しながら言った。
「私もヨ。私のおっかさんはこの世の中で一番頭が良くて、一番心が優しくて、自慢のお母さんだと思っている。」
ケンがそう言うと、チセはこの上ない嬉しそうな顔をして帰って行った。
今から帰ると家に着くのは暗くなっているだろう。
その暗い夜道を帰る母の姿を思った。
だが本当にケンは母が着てくれて元気が湧いたのだ。
自分は自分なりにしっかり考えてやっていけると思っていたが、この度の母親の数々の思いやりが有難くて嬉しくてこれからの勇気が何倍にもなった気がした。
ケンはその日、チセが持って来た食材でいろいろ料理を作り姑のサクを待った。
品数の多い食卓を見てサクは驚いたようであった。
サクは、「お母さんは?」と聞いた。
「ええ、私も明日から勤めですから、こちらのお義母さんに迷惑がかかるといけないって言って帰りました。
お義母さん、これ母が知り合いから頂いた物を置いて行きました。」
と言って、少しの干し柿と干し芋を差し出すと、サクもさすがに考えたのだろう。
「これはケンさんが食べなさい。母親が娘に食べさせたくて持って来たのですから。」と言った。
「それでは、お義母さん、半分ずつ食べましょう。」
ケンはどちらも半分に分けると、その一方を黙ってサクの前に置いて自分の部屋に戻っていった。
それからの数日、勤めから疲れ果てて帰ったケンの体には甘い干し柿と甘い干し芋は美味しかった。大事に少しずつ食べたがいつの間にか無くなる量だった。
母がどこからか手に入れた物を自分では食べずに持って来てくれた事が、涙の出る程有難かった。
やがて日一日と暮れるのが早くなって、吹く風も肌にしみるような季節がやって来た。
ケンは少しずつ病院から貰って帰った新聞紙を板の切れ間に張りすきま風が入って来ないように工夫をした。
寝る時に敷布団を敷く下の畳代わりの四枚重ねの荒むしろは自分の一番古くなった着物をほどいてうまい具合に包んだ。
また三つに折り畳んで六枚重ねの座布団代わりのそれも残りぎれや何やらを剥ぎ足して包むと、ワラの屑も出ず見た目もすっきりした座布団になった。
ケンはこの何もない板張りの粗末な納戸が少しずつ少しずつ変わっていくのが嬉しかった。
最初からきれいに出来上がっている部屋ではなくて誰も見向きもしないような物置のこの納戸が今では誰に遠慮のない、むしろケンに与えられた自由の世界のような気がした。
それでも暗くなる程、仕事をして帰って来ると、火の気がなく暗い電灯一つだけの納戸はいかにも侘しかった。
形ばかりの冷たくなった粗末な夕餉を食べてから風呂場に行くと、風呂の中の湯はすっかり冷えて水になっていた。
もう一度風呂を炊く事も考えたが、そうなれば時間もかかり大事だ。
水を被る覚悟で体を洗ったが、元々冷え切った体に冷たい水を被るのだから、風呂からあがって布団の中に入っても寒さでいつまでも体が温まらず眠りにつけなかった。
そういう時はさすがに里の母の事を思った。
「お母さん、お母さん。」と小さな声で言ってみた。
次に、「戦だ!戦だ!私の戦だ!」と言ってみた。
これで命をとられるという訳ではない。
ただ少し寒いだけなんだ!そう思い込む事で歯の根も合わない程ブルブル震える自分に言い聞かせた。
だが十一月も末になるとさすがに火の気のない納戸は辛くて悲しくなった。
だからと言って二階にある立派な火鉢を自分の納戸に持って来るのは何故か気がひけた。
姑はどう思っているのだろうか。
嫁の自分が夜遅く帰って水風呂を被って、ガタガタ震えているのに全く気が付かないのだろうか?火鉢の事はどう思っているのだろうか?
十一月の給金を貰ってサクに手渡す時、
ケンは、「あのお義母さん私火鉢を買いたいと思うんですけど、それと炭を。」
そう言ってみた。
すると姑は少し考えるようにして、いつもの分よりほんの少しだけ余分に手渡した。
だけどそのお金で火鉢と炭一ヶ月分を買うのはいくら何でも無理な額だった。
それでいて、うちの炭をお使いなさい。火鉢は二階のを持って来て使いなさい等の言葉は一言も無かった。
これが世間でいう嫁姑なのだろうか。
ケンはその時、姑サクの悪意のある心を一瞬感じたが、そんな事を深く考えて恨むのは自分の得にならないと思って払いのけた。
あの圭介さんを生み育てた方だもの悪くとって恨みに思っては駄目だ。
そういう気持ちを持つ事は自分の心が醜くなるだけだ。
全てはこの戦争のせいなのだ。
戦争に息子をとられるまでは恐らくはいつもニコニコ機嫌の良いお母さんだったに違いない。こんな状況の中で慌てて迎えた見ず知らずの嫁だもの、情が湧かないのは当たり前だ。
期待する方が間違っている。
それもこれも全部を覚悟で自分が決心した事ではなかったか。
初めから見ず知らずの家にただ働きで軒先を借りて奉公していると思えばいい。
何もかも自分を鍛えると思えばいいんだ。
誰も解ってくれなくても里の母親だけは解ってくれている。
もしかしたら、天の上からお婆様や母さんの母親のハナ婆さんも見ているかも知れない。みんなみんな私を見守って応援してくれてるに違いない。
ケンは嫌な事はなるべく考えないで優しい母の思いやりや話した事だけを思い出すようにした。
こうも寒くなると、朝早く起きてかまどに火をおこしてご飯の支度をする時は良いが、さすがに帰り道はあの寒々しい部屋や風呂を使う事を思うと気持がくじけた。
ある日、昼に硬くなった小さな麦入りの握り飯をかじっている時、奥さんが熱い番茶を持って来て、
「そこは寒いでしょう。これからはお昼を食べる時はこっちへいらっしゃい。」と言って、自分が仕事をする小部屋に誘ってくれた。
そこは床から背丈より高い所まで書類や薬品棚が所狭しと置かれていて真中の空間は、畳二畳程の狭い所だったが、足元には火鉢も置かれ狭いがポカポカ暖かくて居心地の良い所だった。
奥さんはそこにもう一つ椅子を持って来てくれてケンをその一つに座らせ、自分もいつもの椅子に座った。
「ケンさんがお昼ぐらいのんびり一人でいたいと言うなら別だけど、ここは火鉢も置いてあるし嫌でなかったら今度からここでお休みなさい。」と言ってくれた。
看護婦やまかないのおばさん達が集まる所もあるにはあるが、あまりの活気と賑やかさについて行けなくて誰も来ない更衣室でケンは今までゆっくり昼を食べて来たのだった。
だがそこは火の気がなくて、働いている時は寒いと感じないがこうして一人でいると家に帰ってからのあの寒さを思い侘しくなって来るのだった。
奥さんの好意は嬉しかった。
「はい、それでは遠慮なく。」
ケンは素直に奥さんの後ろの椅子に腰掛けた。
奥さんも何か食べながら、「この頃は陽が暮れるのが早いから帰ってから大変でしょう?」
「えっ?ええ。」
「ごはん出来てるの?」
「はい。」
「そう、それは助かるわネ。私はここが終わってからご飯の支度だから大変。」
奥さんはそう言って笑った。
「お風呂も用意してあるの?」
そう聞かれてケンは嘘も言えず黙った。
「どうしたの?」
優しい声の奥さんは聞き上手だった。
そしてその日の休憩時間のうちに、口数の少ないケンから家の中の様子をすっかり聞き取ってしまった。
「火鉢と炭ネー。
古くて小さな物で良かったら確かあった筈。今はオンボロで誰も使わなくなった小さな火鉢が物置にあるのは頭の隅っこに覚えているワ。でも本当に古くて汚いのヨ。
それでも少しは役に立つと思うの。
それから炭も私がここで使っている崩れたので良ければ安く分けてあげるワ。」
奥さんはそう話しながら思いついたように、
「私、今、ケンさんと話をしていて自分にとっても都合の良い事を考えちゃったんだけど。話していい?」
といたずらっぽく笑った。
奥さんという人は、髪も銀髪で院長と同じぐらいの年配なのに子供がいないせいか話し方が若い娘のような所があった。
だからケンもその雰囲気につい普段の緊張を忘れて自分の事をそのまんま話す事が出来たのだった。
「それじゃ、ケンさんは冷たい冷えきった所に帰って、冷たい夕飯を食べて、冷たくなった風呂の水で体を洗って火の気のない板敷きの納戸で眠るのネ。」
奥さんにあっさり言われ念を押されると、実際その通りなのだがあんまり惨めに思えたし、自分が姑の陰口を言っている悪い嫁のような気がしてケンは慌てた。
「それは私にも都合が良い事なんです。
ぐっすり眠ってらっしゃるお義母さんが階段の昇り降りで目を覚まさないか気を遣わないで済みますから。
それに確かに板の間ですけど、今は工夫して荒むしろを四枚重ねたものを敷いていますから。気分的には今の方がずっと気楽なんです。
決して、お義母さんに命令されたり強制された訳ではありません。」
ケンは必死で弁明した。
「ええ、ええ。解りました。
でも冬を迎えるこれからの時期それでは大変でしょう。
まず火鉢と炭をどうにかしましょう。
それから今。私にも都合がいい話だと言ったでしょう?その事なんですけどね。
ケンさんの方のお仕事が早く片付いたら、私の所の夕飯の支度をお願い出来ないかしら。それとお風呂の準備をネ。ケンさんの帰りはそんなに遅くならないようにしますから。
その代わりうちで夕飯を食べて、うちでお風呂をすましていらっしゃい。
先生はご飯の前にお風呂の人だから、しかもお風呂はあっという間なのヨ。」
“カラスの行水”と言って笑って、
「私も段取りをつけて早めにお風呂をすましますから、その後ケンさんゆっくりお風呂に浸かりなさい。そして体を温めて帰ればいいワ。でも帰り道湯冷めしちゃうかしら?」
ケンが、
「もしもそうしていただけるなら、とても助かります。
あの冷たい水の行水よりはずっといいですから。」
と言うと、
「それじゃ、決まり。今日からというのは無理でしょうから、お家へ帰ったら明日の朝にでもお姑さんにこれからは病院の夕食の支度や風呂の準備も言いつかりました。
そのついでに夕食とお風呂をいただく事になりましたので、お姑さんは私のお夕食と風呂の事を気にしないで下さい。
そうはっきり言うのですヨ。解った?
これで私も助かるし良かったワ。
それじゃ早速、物置の火鉢見てみましょうか。あんまり古くてがっかりするわヨ。」
奥さんについて物置に行くと、奥さんは物の間をまたいで奥の方へ入って行って、奥の方から小さい黒い物を持って来た。
植木鉢より少し大きめな四角い火鉢だ。
その証拠に底には水抜きの穴がなかった。それは見るからに長年の汚れですっかり黒くなった金属製の火鉢だった。
どんなに汚れて小さくても火鉢は火鉢だ。
それにきれいに磨くと、模様が浮かび上がって来るかも知れない。
ケンは嬉しくて、
本当にいただいてもいいんですかと喜んだ。
これなら風呂敷に包んで持って帰れる。
思えばケンの里の蔵には立派で大きな火鉢がいくつもあった。
だがそれをわざわざ持って来るとなると、姑の間に角が立つ事にもなるし容易な事ではない。
奥さんは中に入れる灰と炭も少し持たせてくれた。
そして近いうちに炭を一袋安く分けてくれると約束してくれた。
奥さんが言った通り、奥さんの仕事場の炭は細かく砕けた物が多かった。
その日の帰り、ケンは重いのも気にならない程喜び勇んで家に火鉢を持って帰った。
早速黒い火鉢を濡らした布で拭いてみたが、長い年月の汚れは簡単に取れはしなかった。
だがあんなに欲しかった火鉢が手に入ったのだ。貰って来た灰を入れ、そこに貰った炭を置いて火をつけてみた。
炭のかけらは、火のつきも良くてあっという間に火鉢は温かくなった。
その何とも言えない気持ち、部屋全体が急に温まる程ではないが、この四畳の部屋の中に火の気があると思うと嬉しくて、ケンはとっても幸せな気持ちになれた。
冷たいご飯もまた、寒い風呂場で水をかぶった後も、ケンの小さな部屋の中には暖かい火鉢が待っていてくれる。
それだけで飛び上がりたい程の幸せな気持ちになるのだった。
ケンはその夜、久々に心も体も温まって布団に入るとすぐに眠りの世界に入って行った。
翌朝、朝食の支度を終えて小さな握り飯を一つ作ると、義母の御膳を用意してギリギリまで待ったが、姑はどうしたのか起きる気配も音も全くしない。
ケンは義母の寝間の所に行って、障子越しに話しをした。
「お義母さん、朝早くに申し訳ありません。
私、昨日、病院の奥様から新しい仕事を仰せつかりました。
夕餉の用意と風呂の準備をするようにという事です。その代わり夕飯とお風呂をいただいて帰る事が出来るという事です。
私、そのようにしたいと思います。ですから、今日から夕食とお風呂は私の事を考えなくて良いです。向こうで済まして来ますから。」
そう言ったが、姑の部屋からは何の返事もなかった。
ケンは姑が聞いていると思って話したが急に不安になって、
「お義母様、大丈夫ですか?もしや具合が悪いのではないでしょうか?」と声を掛けた。
すると、
「いいえ、大丈夫です。相解りました。」
という返事が返って来た。
ケンは安心して、
「それでは行って参ります。」と言って立ち上がり家を出た。
道々、姑はこの話を聞いてどう思ったろうと考えた。
だが、姑にとっても悪い話ではない。
嫁の夕食や風呂の事は考えなくて良いのだものと思い直した。
その日からケンは、いつも以上に手際よく仕事を片付けた。
汚れ仕事も雑務もいつの間にか慣れて、汚物処理も最初の頃よりずっと段取りよく出来た。
夕方には中の方を手伝う事が、他の看護婦達に伝えているらしく、時間になるとケンは、
それでは私、向こうの仕事に移りますと誰かに声を掛けて、渡り廊下続きの先生達の家に行った。
時間を計りながら風呂の準備を整え、夕ご飯の支度を整える事は嫌ではなかった。
院長先生は五時になると、余程の事がない限りぴったりと仕事を終えて奥に帰って来て風呂に入る事にしている。
その準備と同時に風呂から上がった時の夕食をすぐに食べれるように、ご飯と味噌汁、香の物と他二種類、奥さんが言いつけた品数を揃えておくのだ。
ご飯も味噌汁も作っておきさえすれば、自分でよそうから良いと言われている。
後は、お風呂の湯加減の事だ。
院長先生は熱すぎる風呂は体に毒だと考えているから、くれぐれも熱すぎないようにと言われた。
最初は緊張の連続だったが、いつの間にかそれにも慣れた。
ケンはご飯の支度をする時、遠慮なく自分の分も作った。
院長先生の入浴時間は本当にあっという間だった。
その頃合いを見て奥さんが仕事を切り上げて、奥の方へ戻って来た。
そしてすぐにお風呂に入った。
出るとすぐに、
「ケンさんもどうぞ。」と言ってくれる。
ケンはそう言われるとまだ十分に熱い湯に久しぶりにゆっくり浸かる事が出来た。
ゆっくり体と髪を洗い風呂から上がると、院長先生は自分の書斎に入られたらしく食卓にはいなかった。
ケンは奥さんと一緒に久しぶりに温かい夕飯を食べる事が出来た。
ケンがまだゆっくりお茶を飲んでいる奥さんに、私、先にお風呂場を片付けて来ます。
それからお台所を洗いますと言うと、
「いいのよ、ここは私はしますから。お風呂場お願いネ。」と言ってくれた。
そしてそれから自然にその流れで習慣が出来て行った。
奥さんはよくケンに気を遣ってくれる。
「ここですっかり髪を乾かしてお帰りなさいネ。風邪でもひかれたら私が困りますから。」
そう言って笑った。
ケンは思いがけなく暖かいご飯と風呂と奥さんの心に触れて家に帰った。
それでも今までとさほど変わらない時刻には帰る事が出来た。
きっと院長先生も奥さんもケンの帰りが遅くならないように、いつもより大急ぎで風呂も食事も済ませたのかも知れない。
そう思ったりした。
だがケンにとっては、この調子だと家に帰って自分の部屋で少し温まって早く体を休める事が出来るのは間違いないと思った。
ケンが院長先生の奥さんに可愛がられているのと朝から晩まで陰日向なくクルクル一生懸命働くのを周りの看護婦達も認めてくれるようになった。
いちいち誉められる事はないが、ちょっとした物言いや返事の仕方でそれは解る事だった。
これはケンにとっては世間に対する見方を大いに変えた。
以前は世間とは厳しい所だ、鬼のような人達が多くいる所だ。
そう心構えをしていたのだけれど、病院の中はそうではなくなった。
それは一重に、ケンが心がおおような奥さんに出会えた事、それが第一の幸運だったのかも知れない。
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