老爺と夢にさすらえば

@aiba_todome

老爺と夢にさすらえば

「おじいさん、起きて」


 テレサはベッドをゆする。頑丈な木製の寝台は、きしみの一つもあげずに揺れを受け止めていた。

 寝ているのは老人だった。深く刻まれたしわは、荒れた年月を経てきたことを刻銘に伝える。反対に骨太な身体は、若々しささえ感じる分厚い筋肉で覆われていた。

 横になってはいるが、眠っているのではない。うっすらと開けた目は、天井の先の遥かな宇宙、あるいは自分自身の中心を眺めていた。


「おじいさん!ベッドから出て!急いで!」


 聞いているのかいないのか。両方だろう。彼の脳は今、全ての矛盾が両立し得る状態にあった。

 足音が聞こえる。靴音だ。ここは土足が許される家ではなかった。


「こっちでいいのか?」


「どっかで徘徊してないんならな。調査はちゃんとやってるさ。ほらいた」


 ドアが開かれ、廊下の光が暗い部屋を刺す。人影は五人分。全員覆面をかぶり、腰には拳銃を下げていた。


「なんの用だ」


 老人が口を開いた。たちまち侵入者に動揺が走る。


「おい、ボケてんじゃないのかよ」


「ビビるな。自分が何言ってるのかも分かっちゃいねえよ」


 言葉通り、一番前の覆面男が手を振ってみるが、老人はそれを目で追うことさえしない。男は鼻で笑うと、老人に語りかけた。


「なあヒットさん。うちの組織がね、別んとこと仲良くすることになったんだ。だけど向こうがさあ、さんざん仲間を殺してくれたアンタの首を手土産にしろってうるさいんだよこれが。で、まあ俺たちにお鉢が回ってね。でもさ、殺し屋やってこんだけ長生きしたんだ。十分だろ?恨まないでくれよ。心臓狙うからさ」


「おじいさん!」


 テレサが叫ぶが、老人は天井から目を離さない。重度の認知症で、妻とテレサの介護を受けるようになってから数年がたつ。その中で、まともに現実を認識したことは一度もなかった。


 テレサが激しくベッドをゆする。一番前の男が拳銃を抜いた。サイレンサーののっぺりした口が、老爺の胸へと向く。


「おじいさん!起きて!あいつらを撃って!」


「うるせえな。あいつから撃てよ」


「馬鹿言え、まずターゲットからだ」


 面倒そうな男たちの声。テレサはひたすらに呼びかける。


「おじいさん!おばあさんが殺されたのよ!」




 すうっ、と、老人が上体を起こす。その手にはいつの間にかリボルバー拳銃が握られていた。


「おっ」


 前の男が先に撃った。ぷしゅ、と炭酸が抜けるような銃声と共に、枕の横、老人の胸があったあたりに穴が開く。

 ばぎん、と、今度は老人の銃が火を噴き、前の男の頭が殴られたようにのけぞった。


「お、おい!起きたぞ!」


「撃て!撃て!」


 侵入者が次々に銃を構えるが、老人はすでにベッドから転がり降りていた。布団が爆発したように千切れ、詰めていた羽毛が舞う。その間を、マグナムの火線が抜けていった。

 一撃一殺。銃声が止むと、あっという間に頭を撃ちぬかれた覆面たちが、ペットボトルのように廊下に転がっていく。


 老人はそのまま棒立ちになった。銃だけは自然体に、しっかりとした手つきで右手に収めている。恐らく、いまおこなった大量殺人さえ覚えていないだろう。


「おじいさん、おじいさん、動いて―」


 テレサは彼を動かそうと押したり引いたりするが、床に埋め込んだマネキンのように動かない。

 そこでテレサは工夫することにした。


「おじいさん、ごはんですよー。あさごはんです。起きてー」


「……メシ」


 いつものように告げると、案の定動き出す。彼はいつも茫洋としているが、その分素直でおとなしく、テレサとおばあさんの二人でも世話ができた。

 キッチンに向かおうとした老人だが、死体につまづく。テレサはあわてて彼を支えた。


「なんだあいつ。ろくに掃除もしねえで……」


 ぶつくさ言いながら脚で障害物をどかし、そんなこともすぐに忘れて食事に向かう。

 

 キッチンでは味噌汁が沸騰し、魚が炭になっているところだった。コンロの下で、老婆が倒れている。のどのあたりを撃ち抜かれていた。即死だった。

 焦げた臭いをかいだ瞬間、老人の瞳の焦点が合う。炎の気配が、老人の本能を刺激したのだ。


「何があった。おい!」


 肩を軽くたたくが、すでに死後硬直が始まっていた。老人のしわが、危険な鋭さを帯びる。


「誰がやった」


 ここぞとばかりにテレサが叫ぶ。


「組織よ。組織の奴らがやったの!おじいさんを殺そうとしてたわ。他の組織に引き渡すために!」


「先代は冷酷だったが、用心深かった。俺を使うのは最後の手段だった。今になってからだ。自分の威勢を示すために適当に殺しやがって。嫌になって辞めたんだ。トシだったしな。それをあの野郎。今になってイモ引きやがって!」


 老人は、自分の考えをそのまま口に出す。テレサの言葉を聞いてはいない。その声は彼の表層意識まで上ってこないのだ。

 だが耳から入った情報は、確かに脳に蓄えられる。彼は独り言をつぶやきながら、流し台の下から出刃包丁を引き出した。


「服、服はどこだ」


 テレサは急いで床下を開いた。半地下に保存されていたのは、かつての彼の仕事着と商売道具。

 まるで録画再生のように、老人は手早く着替え始める。身体が記憶に沿って動いていた。


 大きめの山高帽に、丈の長いコート。内側には拳銃や刃物をはじめとして、様々な武器が隠されている。

 老人はその全てを確かめると、コンロに向かった。


「メシ……」


「ちがうわおじいさん!敵よ!敵を倒すのよ!おばあさんが殺されたのよ!」


 老人は下を見た。老婆が転がっている。


「誰が……」


「組織よ!組織の奴らがおばあさんを殺した!おじいさんを狙ってる!ボスを倒さなきゃいけないのよ!おじいさんにしかできない!」


 老人は、ふらふらと動き出した。


「あいつだ……。今の組長。元から仁義の無いクソ野郎だった……」


 胸の銃をなでると、途端に足運びにリズムが生まれる。老人は久しぶりに一人で靴を履くと、外へ歩き出した。

 好転した。だがすぐに彼の記憶にはもやがかかるだろう。テレサは決意する。


 わたしがおじいさんを連れていくのだ。おじいさんに呼びかけ続けて。おじいさんを導き、おばあさんのかたきを討つ。




 車は数年のブランクを気にした様子もなく、機嫌よくエンジンを回した。老人は一切手元を見ない。外を気にしているかも怪しかった。

 それでも車は迷うことなく進んでいた。信号では止まる。ウインカーもきちんと出す。安全運転の手本のような操作だ。


「おじいさん、組織の本部に行くのよ。ボスを倒すの。おばあさんのかたきを討つのよ」


「俺はリスクの高い仕事が嫌いだ。今の代の奴は俺を殺したがってた。少なくとも死んでいいって面だった。先代に免じて生かしておいてやったんだ。あんな野郎さっさとドタマぶち抜いていりゃあ……」


 かみ合っているようでそうでもない会話が延々と続いていた。話を止めることはできない。

 運転に集中させてはいけないのだ。もし車の方に意識が向けば、記憶は千々に乱れ、アクセルとブレーキの場所も分からなくなるだろう。肉体の勝手にさせておくのが最適解だった。

 順調に進んでいるように見えるが、実際のところ同じ場所を周回していたり、その場で興味を持った場所に向かおうとしたりと、ほとんどが無意味な行程になっている。


 果たして目的地にたどり着けるのだろうか、とテレサは今更ながら不安になる。彼女は無論、アジトの場所など知らない。

 だがその心配は杞憂のようだった。黒塗りの車が不自然に近づいてくる。おじいさんの車と並ぶと、スモークガラスが開いていき、中から銃口がのぞいた。

 仕損じた標的が目立つ動きをしているなら、追手がかからないはずもない。後ろからも続々と敵の車が湧いてくる。


 サブマシンガンが連射され、おじいさんの車の防弾ガラスが一瞬で雪景色になる。そう長くはもたない。


「おじいさん!あいつらが敵よ!おばあさんを殺した!捕まえて!組織のアジトへ案内させるの!」


 おじいさんは急ブレーキを踏んだ。敵の車が一気に前へ流れる。しかし相手も素早く反応し、減速を始めた。

 おじいさんは車体を寄せて、車を走らせながらドアを開ける。ちょうど相手の死角になる、斜め後ろの位置だ。


「ハンドル」


「はい!」


 テレサに操縦を任せ、おじいさんは滑り落ちるように外に出る。減速についてくる黒塗りのトランクの上に、そのまま飛び移った。

 後続車の兵隊が慌てて撃ってくるが、おじいさんはもう車内に手を突っ込んでいた。助手席の男の手首を切り裂いて、窓の開閉ボタンを押すと、するりと滑り入る。


「あ、おい、来ん、でえ!!」


 運転手がハンドルから手を放す前に、出刃包丁が右手をハンドルに縫い付け、左手は万力のような握力で接着されていた。後ろの乗員は反応できないまま、後ろ手で撃ち込まれた弾丸にばすばす貫かれる。


「あいつはどこだ?」


「あい、ででで!ああ!?何言ってんだクソ!ギャ!」


 運転手の手に指が食い込む。そのまま手の甲を桃のように割りそうだった。


「ゴキブリみてえに隠れているはずだ。度胸も何もない、見栄っ張りだけの野郎だ。仁義の欠片もねえクソ野郎だった。メシはまだなのか?お前の買い物に付き添うなんていつぶりだろうな……」


「いい、え、へえ?」


 痛みにうめく同乗者をよそに、加速度的に思考が現実から離れていく。

 記憶の無い者には過去が無く、過去が無ければそこから導かれる未来もない。老人は不確かな現在を、酔っ払ったような足取りでさまよっていた。


「おじいさん!そいつは敵の手下よ!本拠地に案内させるの!おばあさんの仇を討つのよ!」


 殺し屋の目がぎょろりと動く。同時に車のドアを蹴り開け、後ろから近づいてきたテレサの手を取ると、片手でその体を釣り上げた。

 穴だらけになったおじいさんの車は、操縦者を失って後退していき、途中でスピンすると車列に突っ込んだ。


「あいつの所へ行け」


 後ろで爆炎が上がるが、老人は見向きもしない。ただひどく緩慢に、しかし確実に敵の方へと近づいていた。



 敵の本拠地は拍子抜けするほど近くにあった。そもそも、おじいさんは都市圏にほど近いこの街で長らく暮らしていたのだから、その上司も近くにいるのは当たり前ではあるが。

 街に根付いた暴力集団だった組織は、おじいさんと先代の活躍で大きく勢力を伸ばし、成金趣味な豪邸を建てられるまでになっていた。


 だがその栄華の代償は、恐るべき勢いで報われつつあった。

 ばきん、と撃鉄が落ちるたびに、一人の頭が弾ける。もはや狙いと言うより、老人の銃口に不可思議な引力が働いているようだった。


 番兵はほぼ射殺され、賢いものは既に逃げ去っている。組織の長である組長だけが、未練がましく散弾銃を抱えて逃げ回っていた。


「クソっクソっ!クソったれの老いぼれが!さっさと死にやがれ!」


 廊下の角から銃口を突きだすが、ほぼ同時に跳ね上がったおじいさんの拳銃が吠える。左手の指が幾本か飛んだ。


「があっ!っ畜生が!」


 組長はどんどん奥へ逃げていく。おじいさんはそれを追ううちに、何をしていたのだったか忘れてしまうが、そのたびにテレサの叫びが螢雪のように記憶を照らす。


「おじいさん、もう少しよ!おばあさんのかたきよ!撃って!倒して!」


 老人は進む。進むうちに昔の事を思い出し始めた。この悪趣味な屋敷には、記憶を刺激するものがたくさんあった。

 そして奥の奥へ、最も厳重に囲まれた執務室に行き当たる。


 おじいさんは軽く目をつむると、ドアの周辺に罠や伏兵が隠れていないことを確かめた。油断なく銃を構え、ドアを蹴破る。

 執務室の重厚な机、背もたれのの高い椅子には、おじいさんと同じか、それ以上に年老いた男が座っていた。

 おじいさんは気が抜けたように銃をしまった。


「おじいさん!?駄目よ!あれは違うわ!」


「組長、死にぞこないだっていうのに元気そうだな」


 まるで親友がいたことを今思い出したかのように話しかける。その後ろから男が飛び出した。


「おじいさん!」


 テレサの悲鳴は、連続する銃声が塗りつぶした。


「馬鹿がよ!こいつを片付けるのは苦労したぜ!ホルマリンに漬けた甲斐があった!」


 組長が高笑いする。至近距離からの散弾の連射は、物質を透過しない限り避けようがない。


「大きなゴミ処理はこれで終いだな。ったく。逃げた奴らは後で沈めとかにゃあ……」


 がたり、と重いものが落ちる音。組長は目を見開く。そんなはずはない。鉄でできているのでもなければ、防げるはずがないのだ。

 老人は立ち上がった。その膝下には、無惨にも粉々になったテレサの残骸がある。


「し、死に損ないがあああああ!」


 男は往生際悪くまた銃を向けるが、今度は右手の指が砕かれた。


「ひ、ひいいいいいい!」


 たまらず逃げ出す。執務室の奥にはさらに奥、逃げ道が隠されていた。

 滑り台のような通路を滑降しながら、組長は独りごちる。


「大丈夫だ。大丈夫。どうせボケた爺だ。逃げてしまえばこっちのもんだ。」


 しかし、途中で焼けるような痛みが脚を貫いた。本来なら分厚いはずの壁を貫通した銃弾が、組長の脛を破壊する。



「が、あああああ!くっそボケが!手抜き工事じゃねえか!クソクソクソ!ぜってぶっころ」


 老人が立っていた。中央広間。その陰にある裏口から逃げられるはずだった。

 老人は銃と包丁を持って立っている。





 刑事は痛む頭を砂糖まみれのコーヒーで誤魔化して、盛大にため息をつく。まれに見る惨状だった。


「極道の一家が丸ごと皆殺しかよ。勘弁してくれ」


「あれほんとにあの爺さん一人でやったんですかね」


 後輩が尋ねる。刑事はガリガリと頭をかいて、ぱらぱら落ちる髪の毛を見てやめる。


「二人か三人でやったってんなら余計に困るだろ。それに全部おなじ刃物と銃の傷だ」



「じゃあ起訴は無理っすかねえ。見るからに心神喪失っぽいですし」


「だろうな」


 老人は血にまみれながらも、奥歯で何かを噛むように考え込んていた。あまり近づきたくもないので、そのままになっていいる。


「しっかしどうやってここまで来たんだか。重度の認知症なんすよね。やっぱ協力者くらいいたんじゃあ」


「無理だな。今朝こいつの家に襲撃が来て、昼にはこれだぞ?誰が手伝うんだよ?」


「孫は……」


 周りの捜査員全員が飛び上がった。老人は刑事を見ている。


「お、おい、あんた」


「孫はどこだ?ここに一緒に来たはずなんだが」


 刑事はわずかな希望を抱いて会話を試みたが、すぐに失望した。


「おい、あんた、孫娘を知らんかね」


「あー、もちろん知ってるよ。調べはついてる。あんたのお孫さんはね、あんたの息子夫婦とヨーロッパに旅行中だよ。あんたが金を出したんだろ?まったく悪党ってのは身内に甘いもんだね」


 老人はふと押し黙ったが、そのせいで何を訪ねたかも忘れて再び流離さすらいだした。

 刑事は興味も失せて、再び後輩と話し合う。


「そういや奥の部屋にいた奴は何か関係あるのか?あれがあいつをここまで案内したとか」


「まさか。テレサシリーズは中古の介護ロボットですよ?家事手伝いと歩行補助に、あとは自動運転車で近所を回るくらいしかできませんよ。ちょっと頭のいいカーナビみたいなもんです」


「じゃあなんでまたこんなところに。ボケて連れてきたのかねえ?」



 豪華な部屋の中で横たわるプラスチックと鉄の塊は、すべての仕事を終えて、絵筆で描かれた顔で微笑んでいた。



 


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