LOST・DIVA

二条橋終咲

歓声と喝采の陰で

 青い空から暖かな日差しが降り注ぐ昼間のこと。


 人々が織りなす喧騒の届かない静かな森の中。


 そこへ溶け込むようにして佇むハースレスト城。


 まだ、建城から三年の月日も経っていない綺麗な城に併設されたコンサートホールの中は、今、一人の歌姫が奏でる美しい音色に満たされていた。


「〜♪」


 まるで小鳥のさえずりのような。


 まるで川のせせらぎのような。


 まるで母親の子守唄のような。


「〜♪」


 今にでも安らかに寝入ってしまいそうになるほどの、繊細で心地の良い歌声が歌姫の名を聞きここへ足を運んだ人々の、期待で膨らんだ心へしっとりと溶け込んでいく。


 空いた席の一つもない会場は、ステージに立つ美麗なオーシャンブルーのドレスに身を包んだ麗人が奏でる歌声に満ちている。




 この天国が悠久に続いていけばいいのに。




 と、誰もが思っただろう。


 だが、この世界に終わりのないものは存在しない。


 ステージに立った儚い銀髪の少女が、今日のためにと幾度となく口にしてきた歌を紡ぎ終えると、会場は一瞬にして静寂に満たされる。


 が、次の瞬間、静寂はものの見事に引き裂かれ、会場には称賛を込めた拍手が溢れんばかりに響き渡った。


 それを聞き届け、歌姫と呼ばれる銀髪の少女は流麗に恭しく一礼する。


 今回も、歌姫セイランの公演は、見事な成功を収めたのだった。



 ❇︎



 ステージ裏に設けられた、演者用の控室にて。


 扉の紋様から椅子の脚一本一本、さらにはカーテンのフリルにまで丁重な装飾が施されたこの部屋に、なんとも痛々しい音が響いていた。


「げほっ、げほっ……。がはぁっ!」


 午前の公演をなんとか乗り切りここへ戻ってきたセイランだったが、病に蝕まれ続けてきた彼女の体はもうすでに満身創痍。とてもではないがこの状態から、先程のような繊細で清らかな音色を奏でられるとは思えない。


「姉ちゃん!」


 そんな彼女の元へ、白銀に輝く短髪が特徴的な少年が大慌てで現れる。


「大丈夫っ⁉︎ セイラン姉ちゃん⁉︎」


「エリウス……。う、うん……。私は、大丈げほっ、げほっ……」


 微笑みながら気丈に答えようとするも、歌姫セイランの体はもう歌どころか言葉すらも紡ぎ出せないような酷い有様だった。


「お願い……。無理しないで姉ちゃん……」


 やつれた姉の姿を目にし、耐えかねた弟が彼女の病的なまでに白い手を握りしめ、切なく消え入るような声で告げる。


「え、エリウス……」


「姉ちゃんは長く持たないんだから……。だから、せめて……」


 するとそこへ、下卑た顔に強欲な笑顔を張り付けた壮年の男と女が、目障りなほど豪奢な衣服を纏って姿を現した。


「にしても、今回も大成功だったなぁ」


「ええ、そうねあなた」


 粘着くような耳障り極まりない声で、壮年の男女が言葉を交わす。


 会話に興じるばかりで、二人は今にも倒れてしまいそうな銀髪の少女を見ていなかった。


「お前……っ!」


 エリウスが声を荒げ、贅沢で下品な装衣に身を包んだ壮年の男へと突っかかっていく。


「姉ちゃんは……。あんたの娘はもう限界なんだよっ! なのになんでいつまでもこんなことさせてんだよっ!」


 白銀色の短髪を有した少年が荒々しく叫ぶと、視線は一挙に彼の元へと収束する。


「いつまでって……。壊れて使えなくなるまでに決まってるだろう?」


「はぁ? お前何言って……」


「子供は基本、親の物だ、道具だ。それを利用してなにが悪い?」


 娘を死ぬまで歌わせ、死ぬまで金儲けの道具として酷使する。


 それを真の正義と彼は思っているらしい。


「ごほっ、ごほっ……。っげほっ!」


「姉ちゃんっ!」


 すかさず彼女の痩せ細った体を抱き上げるエリウス。その表情は不安と心配、それに加えて憤怒と憎悪がぐちゃぐちゃに入り混じっており、彼の心がいかに痛めつけられているのかを如実に表していた。


「まぁ、まだ死ななそうだな。じゃあ午後の部も成功させろよな」


「お客さんいっぱいいるから、今回もちゃんとやりなさい。いい? わかった?」


 両親が、子供へと命令を下す。


「あ、それとだな……」


 父親らしき醜い男がエリウスの方を睨む。


「お前、最近、夜になるとどこかへ出掛けているそうだな。勝手に死ぬ分には構わんが、面倒ごとは呼び込んでくるなよ」


「うるさい……。お前には関係な……」


 反抗的な息子の態度が気に食わなかったのか、父親らしきその男は少しの躊躇ためらいもなく彼の左頬へ握り拳を殴り込んだ。


「ぐあっ……」


 言葉半ばにしてエリウスは殴られるままに遠くへと飛ばされ、控室の硬い床にその身を痛々しく叩きつけられる。


「エリウスっ! げほっ、げほっ……」


 その光景を目にし、反射的に弟の名を呼んだ姉だったが、彼女の体は声の負担に耐えきれずに悲鳴をあげる。


「まぁ、せいぜい長く生きてくれよ」


 床に伏した息子と、酷く咳き込む娘。


 二人にはロクに目もくれないまま、豪華で醜い装飾の施された二人の男女は堂々とした横暴な足取りで控室を去っていった。


 部屋の中には、凶悪な病魔に取り憑かれた歌姫の美しくない咳の音だけが響いている。



 ❇︎



 その日の夜。


 人々から歌姫と称される少女が、ハースレスト城内に設けられた自室で一人眠りにつこうとした時、扉が小さく鳴らされ来客の報を告げる。


「どうぞ〜?」


 こんな夜遅くの客人を不思議に思いながら入室を促すと、扉が静かに開かれ、その奥からは見慣れた弟の姿が現れた。


「セイラン姉ちゃん、大丈夫……?」


「うん、大丈夫」


 控室にいた時よりは幾許か良好になった声音で答えるセイラン。


 彼女の視線は、弟の左頬へと向けられる。


「エリウスも、大丈夫? もう痛くないの?」


「あれくらい別にどうってことないし」


 と、気丈な口調で言うものの、彼の頬はまだ微かに赤みの伴った腫れが残っていた。


 今すぐにでも手当てしてあげたい。優しく治してあげたい。


 そんな強く切ない気持ちに駆られるも、今の彼女には人の心配をできるほどの余裕はなかった。


 ならばせめてと、姉は弟の瞳を見つめる。


「ありがとう、エリウス……。私のこと心配してくれて」


「い、いや、別に……」


 今の自分の思いを言葉に乗せて伝える歌姫。


 目線を逸らして言葉を詰まらせる弟に向けて、続け様に姉は優しく微笑みながら想いを伝えた。


「そういうエリウスの優しいところ、私好きだよ」


 なんの躊躇いもなく告げられたその一言を聞き届け、先ほどまで深刻な面持ちだった白銀色の髪をした少年は一瞬にして慌て出す。


「ばっ……! す、好きとか言ってんじゃねぇ! ベっ、ベっ、別に俺はセイラン姉ちゃんのことなんて好きじゃねぇし! 来たのだってセイラン姉ちゃんに何かあったらよくないと思って来ただけだし! へ、変な勘違いすんなよなっ!」


 病人の寝室で発するには失礼なまでにうるさすぎる声を出すエリウス。


 だが、それを見てセイランが機嫌を損ねることはなかった。


「ふふっ。ほんと、エリウスは食べちゃいたいくらい可愛いね」


「た、食べ……? いや、きっと食べても美味しくない、よ……?」


 上機嫌な十八歳の姉から発せられた冗談も、まだ十二歳の弟にはうまく伝わらない。


「そういうエリウスだって、最近、夜に出掛けてるらしいじゃん? 今まではそんなことなかったのに」


「いや、それは……」


 すると、姉に咎められた弟は、気まずそうに視線を逸らしながら頭の後ろを右手で撫で始めた。返答がすぐに来ないことを不審がったセイランだったが、それもエリウスの焦燥感と不安感にかき消されてしまう。


「そんな俺のことはどうだっていいんだよ。姉ちゃん……。お願いだから……」


 敬愛なる姉が世界から消滅するなんて考えられない。


 親愛なる姉が自分に別れを告げるなんて考えたくない。


 だから、彼は願う。


「もうちょっと、自分を大切にしてよ……」


 簡素なベッドの上で力なく横たわる姉の手を握りしめ、弟は涙まじりの震える声で強く願う。


「でも……。私には、歌うことしかできないから……。私の価値は歌えるってことだけだから……。この命があるうちにたくさんの人に私の歌を届けたいんだ……」


「それがあいつらを喜ばせることになっても?」


「うん。だって……」


 握ってくれていた暖かなものから手を退け、気丈に微笑みながら彼女は悲しげに呟いた。




「子供は基本、親の物で、道具だからね」




 あまりにも醜い言葉が、あまりにも綺麗すぎる声で放たれる。


 それは張り裂けそうになっていた弟の胸にグサリと突き刺さり、声も涙も出ないほどに彼から感情を奪い去った。


「私の体だって、もう治らない……。なら、生きてるうちに、たくさんの人に私の歌をいっぱい聴いてもらわなくちゃ」


 あの無数の視線が集まる大舞台では一度たりとも見せたことのない笑顔で、なんとも健気に気丈に振る舞いながら十八歳の少女は宣言する。


 その笑顔は、これからもっと溢れるはずだった。


 辛いこと悲しいこともきっとあるが、それ以上に、楽しいことや嬉しいことで満たされた色鮮やかな人生を歩んでいくはずだった。


 けれど、この歌姫に悲劇以外は許されない。


 現実はいつだって非情である。


「……姉ちゃんはさ」


 少年の小さな声が響く。


「もしその病気が治るとしたらさ、治したい?」


「えっ? そりゃあ、治るなら治ったほうがいいよ。その方がもっとエリウスと一緒にいられるし……」


「……」


「でも、どのお医者さんに診てもらってもダメだったから……」


「わかった」


 そこまで聞き終えると、十分だ、と言わんばかりに自信と力強さに溢れた声音でエリウスは言った。


「え? ちょ、ちょっと……?」


 困惑する姉に構うことなく、弟はその場に立ち上がると、徐にその両手を姉とベッドの間に滑り込ませ、めいいっぱい全身に力を入れた。


「きゃっ」


 突如、弟に抱き抱えられ、いつもは静謐な雰囲気漂う冷静沈着な姉の口から、なんとも少女らしい声が突いて出た。


「なっ……。ど、どうしたの……?」


「姉ちゃんがあいつらの道具だって言うんなら、俺はあいつらから姉ちゃんを奪ってやる……」


「えっ?」


「姉ちゃんは歌姫でも見せ物でも道具でもない……。俺の姉ちゃんだ……っ!」


 まるで、自分を叱咤するかのようにして小声で強く叫ぶエリウス。


 それでも未だに困惑が抜けきらず不安げな表情を見せるセイランに向けて彼は言う。


「もう何人かの医者には話をつけてある。中には俺たちを匿ってくれるっていう人もいたから、今からそこに向かう」


「……っ⁉︎ まさか、最近、夜に出掛けてたのは……」


 驚いた声音でセイランがそう言うものの、エリウスはなにも答えない。


「で、でも、もしそれでも治らなかったら……?」


「俺が治す」


 一切の迷いも躊躇いもなく、彼はそう言ってのける。


 その情熱と確信と力強さにあてられたのか、先刻までどこか晴れない表情をしていたセイランは、そっと静かに微笑んだ。


「もし嫌なら、今すぐにでも下ろすけど……」


「ううん。嫌じゃない」


 弟の腕の中で、姉は銀髪を揺らしながら首を振った。


「私を、連れて行って……。エリウス……」


「うん、任せて。セイラン姉ちゃん……」


 互いに覚悟と思いを聞き届け、二人は今まで自分達を捕らえていた城という名の鳥籠からの脱出を決める。


 その先に待つ、光明満ちる二人の未来へと向かって。

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