〈後編〉

 ジュンヤの家庭教師を始めて半年以上が経ち、その年の冬を迎えた。十二月になると、その浮き立つ雰囲気ムードが僅かながら白いリビングルームにも感じられるようになった。ヒーターから吐き出される温かな空気と共に。クリスマスツリーやリース等のデコレーションで部屋が少し賑やかになったからだ。

 新しい年が明け、初めてジュンヤの家庭教師に向かった時、マンションの少し手前の公園脇にジュンヤの父親の車が停まっているのが見えた。新年の挨拶のためにこうして待っているのかなと初めは思った。でもそれは単なる偶然だったみたいで、仕事の用件で運転手と一緒に誰かを待っていただけだった。取ってつけたように新年の挨拶をされた。気まずいのはこちらの方。ジュンヤの家庭教師に行く時は、たいてい充希に車で送ってもらっていて、その時もそうだったからだ。初めは私だけ車から降りて挨拶し、充希は運転席から会釈した。挨拶の後、ちょっとした世間話。そして父親は言った。


「ところでジュンヤの先生、今はこうして土曜日の午後に来てもらっているんだったね。時間は二時間だけど、場合によっては延長する事もできるのかな?」


 話が長引きそうなのを見て、充希が車から降りて来て挨拶をした。

「君も同じ大学の大学生なの?」

「はい」

「どうだろう? 来週の土曜日は、勉強の代わりに空色タワーの展望台に君達がジュンヤを連れて行ってくれないか? 私が仕事で連れて行ってやれないから。時間が延長した分の料金とガソリン代、三人分の入場料はこちらで払おう」

「え?」

 私達はあっけにとられた。ジュンヤは新しい年に、父親から空色タワーに連れて行ってもらうのを楽しみにしていたのに。

 私達じゃ意味ないよねと私と充希はアイコンタクトをとった。ジュンヤが空色タワーにこだわるのは、父親の"一番高い場所に価値がある"という信念をそのまま信じているからかもしれないのに。

「あの、大学生の俺達でいいんてすか?」と充希。

「ああ。いいんだよ」と父親はあっさりと言う。



 *****



 私達はうっすら雪が積もる翌週の土曜日に、充希の車で、空色タワーに向かう事になった。その日、私とジュンヤは並んで後部座席に腰掛けた。ジュンヤはひさしの付いた大きなハンチング帽のような帽子を被り、相変わらず無表情で感情が見えない。でも車窓から、流れていく風景に目をこらしている横顔はまんざらでもなく見えた。子犬を散歩させている夫婦、立ち並ぶお洒落なお店、老舗のフルーツパーラー……めくるめく風景に眼がかすかにキラッと光る。何かこれから起こる事にワクワクしているような。


 タワーに着くと、まばゆいようなガラスの自動扉を入り、広々とした美術館の受付のようなカウンターで入場チケットを買った。エレベーターで最上階まで行くと、思わず足が止まる。そこは三百六十度ガラス張りになっている展望台だ。少し小雪の舞う、ほのかに白い世界が眼の前に広がり、圧倒された。ジュンヤは迷わず西の方角へ向かい、走った。備え付けの無料望遠鏡鏡で、一生懸命どこかを探している。


「売店のホットレモネード飲まない?」

 そう声をかけても聞こえないくらい夢中で望遠鏡の先を見ている。

 そしてやっとそこを見つけたようだ。

「見つけた!」


 どうやらジュンヤの探していたのは、老舗の有名デパート、高越屋らしい。最近自分達のブランドの店舗も高越屋に入ったとこの間挨拶した時に少年の父親が言っていたっけ。高越屋も変わったと充希の家で話題になったとか。

 やっぱり父親の仕事が絡んであの子はデパートを見たがっているのかな?


「見つけたって何を?」

「お空の公園だよ」


 私も望遠鏡を覗いてみた。望遠鏡から見えるのはデパートの屋上。そこには、青々としたモミジやハナミズキの木が整然と植えられ、ガラスの仕切りで区切られた庭園があった。

 指を指すジュンヤ。「あれ、見たかったんだよ。デパートの上の公園。クラスの友達が言ってたんだ。デパートの屋上に静かな秘密の公園があってとんびがやって来るんだって」

 鬼っ子は微かに笑っている。頬がほんの少し緩んでいる。


「空色タワーでこれを確かめたかったのね! 誰も知らない、隠れ家の公園なのね」私も望遠鏡で確かめた。何だか気が抜けた。ほっとした。少年の絵に描かれた水色の空に浮かんだ林の謎もこれで分かった。

 数人の客と思わしき人達がベンチに腰かけて休んでいる。

「秘密の公園じゃなくね? つまりは屋上庭園、もしくは空中庭園だな、都市緑化のための」と充希か言う。


「ところで、なんで君はとんびが好きなの?」と私。

「幼稚園の時の遠足で海に行った時、サンドイッチ食べてたら、とんびが飛んてきてくちばしでサンドイッチをさらっていかれたんだよ」

「そんな怖い事が?」と私が言うと、充希も「すげえ。トラウマになりそうじゃん」と言う。

「そんな事あったのに、なんでとんびが好きなのー?」

「幼稚園の先生が言ったんだ。とんびは巣で待ってる子どものとんびのために危険だけど、食べ物を見つけて取ってるんだって」 

「それで好きになってよく絵に描くの?」

「うん」

 わぁ、何、この子、頭悪くないよね。しっかりそんなとんびの事情まで想像できてるんだ。そう言えばこの子の母親って出産後の心臓病が原因で数年後亡くなったんだっけ。それも重なってるのかな。


 屋上の庭園では、ベンチの数人の客達が去った後の、砂糖菓子のような薄い雪を被る地面から転がった、小さな食べ物を拾って上昇する一羽のちっぽけで頼りない鳥の姿が。


「その秘密の公園の事、学校の外で話したのって、もしかしてこれが初めて?」


「うん。だって先生、大人だけど変わってるから。分かってくれるかなぁって思って」

 笑いを堪える充希にエアパンチ。


「じゃ、今からあの屋上の庭園に行ってみる?」私は訊いた。

「いや。今度パパや今のママやふー君と行く」

 ふー君は弟。

「そうだね。じゃ、それはいつかまたに、とっときなよ」

「うん」

 今言うと鬼が笑うかもしれないくらい後になるかもしれないけど、また楽しみが増えるし。


「じゃ、近所の小っちゃな公園にでも寄って雪景色、見て帰るかぁ」と充希。

「うん」とジュンヤは素直に答える。

「君の好きな蒲公英タンポボはまだ咲いてないかもしれないけどね」と私。「蒲公英タンポポは春だから、まだまだ早いもん」

 言いながら自分では、春だけじゃないかな、という気がしていた。生命力のあるあの植物は、季節外れの真夏の茹だるような日や冬のさなかでも意外と道端に咲いてて、びっくりさせられるものだから。



〈終わり〉

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年明けこそ鬼笑う/空の公園 秋色 @autumn-hue

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